別れ

 妙義榛名は闇の者との戦いを見てしまった太田裕宇を悲しそうに見つめる。裕宇は榛名が瞬きもせずに自分を見ているので顔が火照って来た。

「み、妙義さん、一体何があったの? 体育館の裏で起こった事と黒保根は何か関係があるの?」

 裕宇は何も根拠がないのだが、思いつく事を羅列しながら榛名に尋ねた。榛名は裕宇に近づきながら、

「全部見てしまったの、太田君?」

 その声に裕宇は怯えた。可愛い顔を髪の毛で隠している榛名に惚れてしまったはずなのに膝が震える。

(妙義さんは何者? 妙義さんが投げた紙から現れた化け物みたいなのは、何だったのさ?)

 彼には榛名の使役する式神しきがみ禍津まがつだけは見えていた。

「み、見たって、あの化け物みたいな奴の事? 何かのトリックなんでしょ? そうだよね、妙義さん?」

 裕宇は泣きそうだ。自分より身体が小さい女子にビビッている自分が情けなかったが、榛名が放つ異様な雰囲気は例え大人でも冷静ではいられないだろう。

「見てしまったのね。仕方ない」

 榛名は裕宇の目の前まで来て立ち止まり、彼を見上げた。

「……」

 裕宇はさっき怯えた自分を忘れてしまったかのように榛名の瞳に顔を赤らめた。すると榛名はすっと両手で顔にかかった髪を掻き揚げて耳にかけた。彼女の整った輪郭がその全貌を現し、裕宇の鼓動が高鳴る。

(やっぱり可愛い、妙義さん……)

 裕宇は思わず榛名に見とれた。

「この顔が好きなの、太田君?」

 榛名が奇妙な事を尋ねた。

「は?」

 裕宇はキョトンとしてしまった。まるで自分の顔ではないような口ぶりだからだ。

「う、うん……」

 吸い込まれそうな榛名の瞳に見つめられ、裕宇は俯いて応えた。

「そう。それを聞いたら、この顔の持ち主も喜ぶ」

 榛名は更に謎めいた事を口にする。裕宇は彼女が自分をからかっているのかと思ったが、榛名の表情からは真相は読み取れない。

「でも、私が力を使うのを見られた以上、このままにしておく訳にはいかない」

 その言葉に裕宇はビクッとし、一歩退いた。

「な、何?」

 裕宇は叫びたくなる衝動を何とかこらえ、榛名を見る。

「貴方には私を忘れてもらう」

 榛名は凍てつくような声で通告した。裕宇の顔が引きつった。

「君を忘れる?」

「そう。全部忘れてもらう」

 榛名は髪を元に戻し、顔の半分を隠しながら言う。

「どうして? 俺、誰にも言わないよ! ホントだよ! だから……」

 裕宇は榛名を忘れるのがえられず、叫んだ。しかし榛名は、

「貴方が私を覚えていると、命を狙われる。私に関わりがある人間は皆闇に殺されるの」

 抑揚のない声で理由を説明する。裕宇は目を見開いた。

「じゃあ、桐生達も?」

 裕宇は体育館の裏で倒れていたクラス委員の桐生美緒茄や松井田梓達の事を思い出していた。

「桐生さん達は闇の者の正体を知らないから、命は狙われない。だから、体育館裏での出来事だけ忘れてもらった」

 榛名は事も無げに応えた。裕宇はホッとしながらも、また自分の現状に思い至る。

「闇の者って、もしかして黒保根?」

 裕宇は地面に倒れたままのクラスメートである黒保根玲貴を見た。

「黒保根君は取り憑かれていただけ。闇の者は私の式神が始末した」

 榛名は人型の紙を入れたセーラー服のポケットをチラッと見た。

「しきがみ……」

 裕宇は禍津の姿を思い出し、唾を飲み込んだ。

「黒保根君は闇の者に取り憑かれていた間の記憶は全くないから、何も問題はない。後遺症が出るほど長期間でもないし、取り憑いていた闇の者も下っ端だったから身体に悪い影響もない」

 榛名も黒保根を見下ろして言った。

「だ、だったら、俺も闇の者を見た記憶だけ消してよ。妙義さんを全部忘れちゃうなんて、嫌だよ!」

 裕宇は榛名にすがりついて懇願した。だが、榛名の意志は変わらない。

「ありがとう、太田君。そんな風に言われて、きっと春菜かのじょも喜んでいる。彼女は貴方に惹かれていたから」

 榛名はまるで他人事ひとごとような口ぶりで告げた。

「は? 何言ってるんだよ、妙義さん! 俺が忘れたくないのは、君だよ!」

 裕宇は榛名が話をはぐらかそうとしていると思って、更に思い切った。言ってしまってから、急速に恥ずかしさが込み上げて来て、彼は俯いた。

「貴方には桐生さんがいる。彼女はいい子よ」

 榛名はぎこちない笑みを浮かべると、スッと裕宇に顔を近づけた。

「え?」

 裕宇は一瞬何が起こったのかわからなかった。榛名は裕宇の首に両腕を回して顔を引き寄せると、口づけをしたのだ。それは挨拶程度のものではなく、恋人同士がするくらい長いものだった。

「妙義……さん……」

 裕宇は夢うつつの顔で榛名を見た。榛名はキスを終えた直後とは思えないくらいの無表情な顔で、

「これは春菜の思い。そして、貴方は私を完全に忘れる」

 裕宇はその途端身体中の力が抜けてしまい、地面に倒れてしまった。

「ごめんなさい、太田君。これでお別れ。必ず桐生さんは貴方の思いに応えてくれる。さようなら」

 榛名はそう呟くと、空き地を去って行った。


「あいつつ……」

 榛名が去ってから数分後、玲貴が目を覚まし、何故か痛みがある顔を撫でながら起き上がった。

「何でこんな所で寝てたんだ、俺?」

 玲貴は首を傾げながら立ち上がり、少し離れたところに倒れている裕宇に気づいた。

「あれ、太田?」

 玲貴は恐る恐る裕宇に近づき、

「おい、大丈夫か?」

と裕宇の身体を揺すった。

「わ!」

 裕宇はビクッと身体をよじじらせて跳ね起きた。

「あ、黒保根……。どこだ、ここ?」

 裕宇は周囲を見回しながら呟く。玲貴は立ち上がって、

「気味が悪いんだよなあ。ここ、全然通った事がない道だぜ。何だろうな、一体?」

 裕宇もゆっくりと立ち上がり、

「ああ。俺の家、こっちじゃないし……。しかもどうしてお前と一緒にここにいたのかもわからない」

「俺もさ」

 玲貴は再び首を傾げたが、自分のシャツが血に染まっているのに気づき、

「げ、何だよ、これ?」

「黒保根、お前喧嘩して倒れてたのか? 鼻血の痕が着いてるぞ」

 裕宇も玲貴の顔が血塗れなのに気づいた。

「喧嘩なんかするかよ。進学に差し支えるだろ?」

 玲貴はムッとした顔で裕宇を睨んだ。裕宇は苦笑いして、

「じゃあ、お前が振った女子に殴られたとか?」

「女子を振った事なんかないよ!」

 玲貴はポケットの中からハンカチを取り出し、顔を拭った。

「畜生、何だってんだよ……」

 彼は放り出されている自分の鞄を見つけ、その中からポケットティッシュを取り出した。

「あれ?」

 裕宇はもう一人誰かがここにいたような気がした。

「誰だっけ?」

 いくら考えても、彼は榛名の事に思い当たらなかった。今の裕宇にとって、榛名は存在しない人間なのだ。


 榛名は路地を抜け、大通りに出た。そこには黒塗りのセダンが駐車しており、その脇に黒いスーツを着て黒いネクタイを締め、サングラスをかけた長身の男性が立っていた。

「終わったようだな」

 その男性は榛名を見て言った。榛名は微かに頷き、

「はい、父上」

 男性は助手席のドアを開き、

「乗れ」

 榛名を一瞥して命令口調で言った。榛名は黙ったまま乗り込む。男性はそれを見届けるとドアを閉じ、運転席に回って乗り込んだ。

「奴の配下だったか?」

 男性は後方を確認しながらセダンをスタートさせると、榛名に尋ねた。

「はい。ですが、下っ端でした。奴の臭いはしましたが、それほど深い繋がりではなかったです」

 榛名は前を見据えたままで応じた。男性は頷き、

「学校の手続きはさっきすませておいた。次の場所に向かうぞ」

「はい、父上」

 榛名は男性を見上げて言った。

「春菜の気が漂っているが、何があった?」

 男性はウィンカーを出してハンドルを切りながら尋ねた。

「彼女がある男子に惹かれたのです。だからです」

 榛名はまた前を見たままで応えた。男性はハンドルを戻しながら、

「そうか。それで?」

「力を使うところを見られたので、私の存在を彼の記憶から全部消しました」

 榛名は男性を見て言った。男性はフッと笑い、

「あいつに似ていたのか?」

「顔は似ていませんが、雰囲気は似ていました。そのせいで彼女がいつもより出て来たのだと思います」

 榛名は窓の外の流れていく風景を見ながら続けた。

「闇の力を封じるごとにお前は人に近づき、やがては春菜と一体になる。もう少しという事だな」

 男性はサングラスを指で上げた。

「はい、父上」

 榛名は無表情な顔で応じた。


 そして翌日。空き地での不可解な出来事を不安に思いながらも、裕宇は学校に行った。

「おはよう、太田君」

 美緒茄が微笑んで挨拶したので、裕宇は嬉しかったのだが、

「お、おはよ」

 つい顔を背けてしまう。でも、鈍感な美緒茄にはそれがわからない。

「そう言えば、急だったよね、妙義さん。もう転校だなんて」

 美緒茄が寂しそうに言う。

「は? みょうぎさん? 誰それ?」

 裕宇が尋ねる。美緒茄はさすがにそれにはムッとした。

「酷い事言うのね、太田君て。いくら一日しかいなかったからって、そんな言い方ないでしょ!」

 美緒茄は穏やかな性格なのがポイントが高いと思っている裕宇は、いつもと違う彼女の反応に驚いていた。原因は裕宇が榛名を完全に忘れてしまっている事にあるのだが。

「え?」

 どうして美緒茄に非難されるのかわからない裕宇はショックを受けた。

(ダメだ、俺。桐生に嫌われたみたい……)

 その時、彼に誰かが呼びかけた気がした。

『そんな事ない。桐生さんは貴方の思いに必ず応えてくれる。勇気を出して、太田君』

 知らない女子の声だった。だが、不思議な事に非常に元気づけられた。

「お前しか見てないからだよ」

 裕宇は近くにクラスメートがいないのを確認して言った。

「え?」

 美緒茄がドキッとした顔で裕宇を見た。

『太田君は桐生さんが心配だったんだよ。彼が好きなのは桐生さんだよ』

 彼女は体育館の裏で榛名に言われた事を思い出していた。

(太田君が私の事を好き?)

 途端に顔が火照って来てしまう。

「入学式の日から、ずっと好きだったんだ。悪いか?」

 そんな言い方をしてしまう自分を情けなく思う裕宇だが、精一杯頑張ったんだともう一人の自分に言い訳する。

「わ、悪くないよ。ありがとう、太田君。嬉しい」

 美緒茄は顔を真っ赤にして微笑み、裕宇の決死の告白に応えた。

「私って、ボケボケだけど、いいの?」

 美緒茄は小声で裕宇に尋ねた。彼女の可愛い顔が最接近したので、裕宇はそのまま卒倒しそうだ。

「そこがいいんだよ」

 それだけ言うと、自分の席に走った。美緒茄はそんな裕宇を嬉しそうに見つめている。

「おはよう」

 そこへ玲貴が入って来た。しかし、昨日までのように女子達がざわつかない。

「黒保根君てさ、カッコいいと思った時あったけど、そんなでもないね」

 梓達は囁き合っていた。玲貴がクラスの女子を虜にしていたのは、闇の力のお陰だったようだ。

「太田ってさ、結構イケメンだよね」

 彼女達の次のターゲットが裕宇に向けられたのを裕宇本人も美緒茄も知らない。

「何だよ、お前、楽しそうに桐生さんと何話してたんだよ?」

 クラスの男子達が裕宇に絡む。裕宇は火照りそうになる顔を俯かせて、

「な、何でもいいだろ……」

 言葉を濁した。

「け、面白くねえ!」

 彼らはふざけて裕宇の頭を軽く叩いた。全員美緒茄派だったのだ。

「いってえな!」

 そう言いながらも、顔が緩んでいる裕宇である。

「いつまで騒いでるんだ、席に着け」

 クラス担任の川場が入って来た。

「起立」

 美緒茄が号令をかけながら裕宇を見る。裕宇も美緒茄を見る。

「礼」

 川場とお辞儀をかわしてから、

「着席」

 席に戻りながら、また二人は目を合わせた。

『太田君、良かったね。思いが通じたね』

 またさっきの女子の声が裕宇の頭の中で聞こえた。

(誰なんだろう? 何故か知っているような気がするんだけど……)

 裕宇は首をひねって考えるが、どうしてもわからない。

『やっと気づいたね、桐生さん。太田君と仲良くね』

 美緒茄は頭の中で榛名の声がしたので驚いてしまった。

(妙義さん?)

 美緒茄も榛名が力を使ったのは記憶から消されているので、何故声が聞こえるのかはわからない。

「空耳?」

 美緒茄は首を傾げて裕宇を見た。すると裕宇も不思議そうな顔をしてこちらを見ていたので苦笑いし合った。

(何だったんだろう、今の声?)

 裕宇と美緒茄は教科書を出しながら思った。


「ずっと仲良くね」

 榛名はセダンの助手席でそう呟いた。

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