3

 わずかばかりの距離の先で不穏な動きがあるとも知らず、シュネーとテオは買い出しに精を出す。向こう一か月分ほどの備蓄と鞄、それから今後のことも考えて衣服も少々調達した。


それからシュネーの鬘。

人目をひく白は大体がフードで隠れるとはいえ、ずっとかぶりっぱなしというのも怪しまれる。ここはいっそ鬘でごまかしてしまえという結論をテオは出したらしい。……ただ、購入の際に、若い娘が鬘を道楽で入手するのはおかしいといって、シュネーが鬱ではげたという設定をわざわざ作って店主に説明する必要はなかったかと思う。「まだ若いのに」と同情しきった壮年の店主のまなざしがなんとなく屈辱だった。


「まったく…」


 早々に購入した鬘を頭に押し込みながら、シュネーはため息を吐く。

吸い込まれそうな射干玉の黒髪の鬘は想像以上にごわついていて重かった。興味津々といった体のテオが、「俺たちも頭皮だけを取り出したらこんな感じなんだろうな」なんて言うものだから、先入観がこびりついてこの鬘とはあまり仲良くなれそうにない。


 ただ、暑苦しいフードを脱ぐことができたのはよかった。反して日焼けはしそうだが、もう日も暮れようとしている。明日にはガザを立つというので目立つほど焼ける心配はないだろう。


「ところで今日も野宿?それとも宿をとるの?」

「普通の娘なら野宿って聞いただけで卒倒しそうなものなのに、平気なおまえってすごいよな。さすがに潮風に一晩中さらされるのはごめんこうむりたいから適当に安宿でも探してそこに泊まる」

「お風呂もある?」

「……あるんじゃないか?」


 ぽつぽつと灯のともり始めた天幕市は、次第にその客層を変貌させてゆく。昼間の活気に満ち溢れる快活な雰囲気は跡形もなく消え去り、艶やかな服装が目立つ夜の街へと姿を変える。どこからともなくしめやかに流れだす胡弓の音色と酒場のどんちゃん騒ぎ、鈴の音。

 宿を探すテオの背中を追いかけつつも、シュネーは変容した街の光景に目を奪われていた。どきどきと心臓がはねる。それは警鐘を伴う嫌なものでは決してなく、高揚とでもいうべき感覚だった。

―――外の世界。

ふいにそんな言葉が脳裏をかすめた。暗い森に囲まれた禁欲的なとは真逆の、華やかで活気ある、どこか箍の外れた世界。


 耳に潮騒が届く。藍色の夜空にぽっかりと開いた黄金の月。

「海」に映る月の光はどれほど綺麗だろうか。きっと、夜空をそのまま切り取ったかのように幻想的だろう――――


「きゃあああああああああっ!!」


 その刹那、暖かな闇を切り裂くように甲高い悲鳴がつんざいた。

はっとテオが顔を上げ、周囲の目から隠れるように手近にあった路地裏に身を隠す。天幕でがやがやと雑談をかわしあっていた男女も、きょとんとして悲鳴の方角に首を向けていた。


「な…なに?」


女の声だ。しかも若い、シュネーと同じ年の頃の少女の声音。

わずかに顔を出して様子をうかがっていたテオが、あるものを認めて鋭く息をのんだ。


「おい、なんでこんなところに都の船が来てるんだ!」

「都の船?」

「王立騎士団の連中か?……いや、違うな」


 うわの空で天幕市の奥をじっと凝視した彼は、何かを見つけたのか盛大に顔をゆがめて舌打ちをする。


「中央協会か!」

「ずっと気になってたんだけど中央協会って何?グランネーヴェは多神教のはずでしょう?」

「お前それも忘れてるのか?お前ら異端者いたんものの天敵で、100年前の花紋狩りで創設された宗教組織で都人の国教教団、花紋狩りは中央協会が魔女を異端だと声高に叫んだからはじまったってもっぱらの通説だ」


テオは「見てみろ」と遠くを指さす。

天幕市の行燈の先、ちょうど浜辺のあたりに三隻ほどの船舶が係留されている。いまにもぱちぱちと音が聞こえてきそうなほど派手にたかれた松明の日に照らされて、マストに描かれた何らかの絵柄が浮かびあがってきた。


 抽象的に描かれた女の横顔、夜闇に溶け込むほど濃く染められた藍色の背景に黄金の蔦、下部には真っ赤な……罌粟の花。


「―――……っ!!」


 本能的な恐怖が足元から這い上がった。氷が腹の中に落とされたように全身から冷や汗が噴き出す。がくがくと足元が震え出し、周囲の景色が水面の奥にあるかのようにぐらりと歪む。


「あの女の絵は女神リーツィエを現してるらしく……っておい、大丈夫か」


説明していたテオが浅い呼吸を繰り返すシュネーに気づいて目を見開く。眼光を揺らして震えるシュネーの様子は尋常ではないだろう、唇は強くかまれて血が滲み、血の気が引いてただでさえ白い肌が真っ青になっていた。


 シュネーは無意識にゆるゆると顔をテオに向けた。


「女神……リーツィエ?」


それはあのザフ村の聖判のとき、教会に安置されていた神像の名前と同じ。

慈愛に満ちた表情で信者席を見下ろし、全てを抱擁するように腕を広げて微笑んでいた。―――あの時は何も感じなかった。しかし、あのマストに描かれた絵には明確な嫌悪の感情が噴き出してくる。

ぐらぐらと揺れる思考の合間で、燃え盛る村を見た気がした。


『赤々と燃え上がる炎に森が爆ぜる。

あちこちで木霊する女の悲鳴、時折赤子の狂ったような鳴き声が鋭く胸を刺す。

物見の塔があえなく崩れ、すぐさまのびあがった紅蓮に飲み込まれた。

(――どうして、こんな)

今にも焼け落ちようとする集落を前に呆然と立ち尽くす―――』


場面が切り替わる。


『丘の稜線には青空が広がり、吹き抜ける風が芝の緑と遠くの雲をゆっくりと押し流していく。のどかな陽の光と小鳥のさえずり――』


しかし、瞬時にその景色が真っ黒な靄に包まれる。その中で、のけぞるように哄笑する灰色の美しい女―――

地に伏し、どくどくと流れ出る命の音を聞きながら、その女の顔を凝視した。


『――…――……!!』


 ”シュネー”は力を振り絞って吐血しながら言葉を吐き出した。

ぎょっとしたように女が笑いやめてこちらを見る。忌々しげに歪むその顔を、燃え盛る怒りの炎を以て迎え撃った。


『呪ってやる!!』


ひどく自分の声に酷似したそれが脳裏に響き渡った瞬間、幻影が弾けた。頭を覆いつくしていた靄が晴れ、飛躍的に視界が広がる。天幕市の行燈行列を駆け抜け、浜辺に停泊する船のすぐ真下まで意識が広がり、そこでシュネーは悲鳴を上げる娘の姿をとらえた。全ては一瞬の出来事、即座に我に返ったシュネーは、怪訝そうにこちらを見つめるテオを無視して勢いよく立ち上がる。


「おい、出るな!」


背後から追ってくる慌てた彼の言葉は耳に入っても心に届かなかった。

外套をひっかぶり、夜闇に紛れるようにして通りを駆け抜ける。

自分はこんなに早く走れただろうか。

風が程よく吹き付け背中を押す。急こう配を走っているように体が軽い。


ああ、馬鹿なことをしているなと思った。

目立つなと言われたばかりなのに、きっとあの悲鳴のもとに駆け付けたなら、そしてもし何か動こうものなら、だれよりも目立ってしまうにきまっている。

ザフ村で見た村長や村の人々の視線を思い出す。

彼らやテオの言う王立騎士や中央協会の誰かに正体を見表されれば、自分のほうが悲鳴を上げる立場にだってなるだろう。

本当に馬鹿なことをしている。まったくもって冷静じゃない。

テオだって巻き込むことになるのはわかっているのに、彼の一族の手助けをしてやらねばならないのに、こんな些細なことで感情的になって動いてしまう私は本当に―――昔から救いがたい愚か者。


(でも)


「黙って見過ごすのは性に合わないの!」



とんとんと軽やかに位置を通り抜けたシュネーは、やはりそこで追い詰められ抵抗する娘を見た。

ばしゃん、ばしゃんと水を打つ音と人間の男のいらだった怒鳴り声。

本能的に堤防から身を躍らせたシュネーは、迫ってきていた海水に腕を突っ込んだ。

冷たさに交じって、海の気配が流れ込む。クシュ地区の時を思い出しつつ、それと自分の波長を合わせた瞬間、瑠璃色の花紋が腕を起点に伸びあがった。

腕を水につけたまま思い切り振りかぶり、勢いよく男たちに向かって薙ぎ払う。


 花紋が鞭のようにしなり、藍色をした海水が大波となって男たちの顔面を直撃。しかし甘い。顔に水がかかったくらいでは何の攻撃にもならない。

驚愕した表情で襲われていた少女がこちらを振り返った。

シュネーは少女の前に転がり出る。もう一度海水に腕を突っ込んで、ぐっとこぶしを握り締めた。

海水を収斂させる。先ほどの波が、ようは固くなればいいのだ。

『開放詞華!!』

波がふくれあがってシュネーと少女を取り巻く。もうなるようになれ、だ。そもそも花紋の使い方すらよくわかっていないのに、甘いも硬いもあったものじゃない。

予想だが、花紋の力というのは、木や石といったものと自分の気を通わせ、花紋を媒介にそれらを借り受けられる、そんなところではなかろうか。


クシュを思い出す。口をついて出てきたあの「鍵」の言葉を思いきり叫んだ。


蒼穹ブロイエ吹雪シュネーシュトゥルム!!』


波うて、伸びあがれと念じる。

渦を巻いて、大気を裂いて、領巾のごとくに叩きのめせ。


花紋が禍々しく輝いた。

腕を振り抜く。

背後から圧倒的質量の何かが押し寄せ、シュネーたちを飛び越えて、男たちに叩き付けられた。

暗い色をした水が男たちの上に落下、それにとどまらず体にまとわりついて力強く締め上げた。


ばき、ぼき、とは何の音か。

背後で少女が引きつった声を上げ、ふと男たちの様子を見とがめたシュネーは慌てて海水を戻す。

低く呻いてて対れ伏す男たちの手足は、変な方向へ曲がっていた。ところどころに紫のあざがにじみ、数人は乾いた息と一緒に吐血する。

血の気が引いたのは一瞬で、シュネーは彼らの「種」を見極めようとした。

―――メンシュだ。トランスフォーム能力を持たない、脆弱な人間。


(ああ…よかった)


無意識に胸中で呟いて、そんな自分をなんとなく訝しく思った。


「こ…の、野郎!!」


はっと振り返った先で、仕留めそこなったらしい男が流木を振りかぶってシュネーの前に躍り出た。腕を構える暇もない、まずった、そう思った時、耳元を風切り音がかすめた。


ばしっ、と顔面を強烈に殴打され、男は即座に意識を飛ばして倒れこむ。

瞠目してシュネーが振り返ると、先ほどの少女が地面に手をついて、足を振り上げる体制で固まっていた。いや、それは足ではなく――


人魚ローレライ?」


鮮やかな薄桃色の尾ひれが月光をはじいて煌く。

金色の艶やかな髪を潮風にさらし、少女は眉尻を下げて困ったように微笑んだ。


軽やかな足音がする。

振り返ると息を切らしたテオが堤防の上に見えた。


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