港湾都市:ガザ

1

「ねえ、人魚がいるって本当なの?」


 クシュ地区を出て少し開けた街に出た。そこで捕まえた南へ向かう乗合馬車の中で、拾い聞きした噂をテオにこっそり訪ねてみると、悩むような間の後にきちんと答えが返ってきた。――クシュ地区の騒動の後、二人の間に流れる空気は和やかなものになっている。


「……書で読んだことはある。…が、見たことはない」

「行きしなも南を通ったんでしょう?人魚種ローレライってぷかぷか海に浮いてるものだと思ってたけど、案外そうでもなかったのね」

「昔はそうだったらしいがな。……人間の人魚狩りが行われてからめっきり姿を見せなくなったと聞いた」

「へえ……」


 人魚狩り。

耳慣れない言葉だった。


(人魚って、歌うイメージしか覚えてないけれど…)


狩りにあう理由が思いつかない。

昔は船を転覆させる気性の荒いものもいたと聞くが、霞のかかった記憶の中に、人魚に関する悪印象は見つけられなかった。


不思議そうにはめ殺し窓を見上げるシュネーに気づいたのか、ちらりと辺りをうかがうそぶりを見せた後でテオがそっと耳打ちしてきた。


「…いつもの人間の迷信だ。人魚の肉を食べれば不死になるとかなんとか言って」

「肉を…っ!?」


思わず叫びかけるシュネーの口を問答無用でテオがふさぐ。


「阿呆、いくら人間の乗っていない馬車とはいえ人前で大声出すな。目立つだろ」

「ごめんなさい。で、肉って?」


ため息を吐いてシュネーのフードを深く引っ張りなおすテオ。

暴れたことでちょっと集まった視線がすべて離れたのを確認してから、ようやく小声で話し出した。


「その確証もない迷信が流行った結果、密猟者が大量発生したんだよ。言ったよな、昔はもっと人魚が目に見える範囲にいたって。たちまち餌食になった彼女らは、海の深くに身を隠した、らしい」

「抵抗しなかったの?」

「人魚種は魔女一族と違って戦うすべを持たない。100年前の魔女狩りの時みたいに大きな戦争にはならなかったそうだ」

「…戦争?」

「本当、なんにも覚えてないんだな。通称【花紋戦争】、魔女じゃなくても誰もが知ってる」


ひとつ鼓動がはねた。

不吉で、狂おしく胸が締め上げられるような、悲しい音の響き「花紋戦争」。懐にしまっている魔女の骨が微かに熱を持った気がした。


「ちょうど陸種八種統治直後の話だよ。人間の軍勢と魔女一族が戦った戦争。花紋狩りが行われたのに対抗するような戦争だったってうちの古株が言ってた」

「経験者がいるの?」

「100年前だからな。長生きするのはするんだよ。とはいえこないだ死んだけど」

「100年も生きていたんだものね…寿命で?」

「いや―――厄災だ。鎮圧の途中で戦死した。狼種は戦士の一族だから、どんなじいさんでも戦いに出たがるんだよ」

「そう……」


悪いことを聞いてしまったと気まずい空気に沈黙が流れる。しばらくごとごとと車輪の揺れに身を任せていると、ふと車内の様子に目がいった。

やや埃をかぶった木の箱からは色鮮やかな錦がはみだし、それに寄りかかるようにして眠る人がいる。その隣にはせこせこと金の袋を確認する者。その前に座っている騎士らしき身なりの男は、金を数える男を軽蔑した眼差しで眺めていた。

―――騎士らしい男の持つ長剣に目が留まる。

装飾らしい装飾はないが、適度に精緻な模様が刻まれた年代物だ。手入れはこまめにしているのか、ぱっと見たところ錆は見当たらない。


(あの人も、たしか―――)


鈍く光を照り返す長剣を眺めやりながら心の片隅で考える。

あの血と汗を吸いこんだ光の輝きに見覚えがある気がしてならなかった。


(長剣が得意だった。変身したほうが強かろうに、これで皆を守るんだって―――)

(……でも、【あの人】って誰だったかしら。思い出せないけれど、懐かしくて…)

(懐かしくて――楽しくて、面白くて、それで―――……)


なんだっけ?


(まあいいや)


シュネーは無意識にそこで思考を打ち切った。なんとなく、それ以上考えたくなかったのかもしれない。隣で座りこむテオは、気まずい空気をとっくの昔に払拭したようでうとうとと舟をこぎ始めていた。


(私も眠ろうか)


一旦そう思って目をつむったシュネーだったが、ややあって元のようにはめ殺し窓から景色を眺めはじめた。

座ったまま眠れないわけでも、揺れが気持ち悪いわけでもない。

ただ、今眠ってしまうと、あまりよくない夢を見る気がした、―――それだけだ。

途中さしはさまれる御者の案内によれば、目的地のガザまではあと小一時間ほどあるらしい。あのザフ村で目覚めてから約四日の間、怒涛の展開のあまり落ち着いて空を見ることもなかったのだ。今ここでじっくり眺めておくことにしよう。


背中の力を抜いて見上げた空は、高く透き通った快晴だった。

***


ごとごとと心地よい馬車の揺れで、テオはふと目を覚ました。

「―――……」

隣をちらりと伺い見ると、疲れたのかシュネーがこちらに頭を持たせかけて眠りこけている。寝まい寝まいとうんうん言っていたが、結局寝てしまったらしい。フードの下から白髪が一房こぼれ落ちているのを目ざとく見つけたテオは、起こさないようにそっとフードの中に入れなおしてやった。

(白い髪に、青い瞳)

ザフ村の教会で初めて会った時、真っ先に飛び込んできた色彩だった。

雪原の中にぽっかりと湖が浮かんでいるような、幻想的な色彩を持つ少女。言い伝えの魔女の生き残り。

(あんたの言ってた魔女の長ってのも、こんなかんじだったのか?じいさん)

今は亡き狼の姿を脳裏に思い浮かべる。暗い影を宿した理知的な瞳は、絶えず誰かを探し求めているようにも見えた。そんな彼が死ぬまでずっと語り続けていた「気高い魔女の族長」の話。

美しく、誇りたかく、優しい魔女だったと言っていた。

100年前の花紋戦争で最後の最後に死んでしまったその魔女も、目の覚めるような蒼穹の色を持っていたという。


蒼穹ブロイエの魔女、か)


止まない厄災。人間の侵攻、重税。これ以上仲間が傷つけられるのは見たくない、まっぴらごめんだ。この隣にいる、偶然手に入れた魔女は、自分たちの救いになるだろうか。―――救いになって、くれるだろうか。


*** 


乗合馬車から降ろされたのは、ちょうど日が中天にさしかかったころだった。

「あちぃ……」

正直南の気候をなめていた。

ぎらぎらと容赦なく照り付ける真昼の日差しが肌を焼く。北用の衣服を着こんだ乗合馬車の元乗客たちは、ガザの街に降り立って数分もしないうちから青ざめた顔で口元を押さえていた。

―――特にテオ。

温暖な東の住人は、よほどノルデンベルクを恐れていたと見える。

着こんでいる服は全て裏起毛。さらには襟巻、手袋、温石と、北国対策はばっちりだ。しかし残念ながら今となっては無用の長物。極寒の森で彼の身を大いに守った防寒具たちは、この南国の地において最大の脅威へと変貌をとげていた。


「おええ…」


先程からとてもえげつない顔色で口を押えているくせに、いまだ吐く気配がないのは強靭な精神力の賜物だろうか。

みているこっちが代わりに吐いてやりたくなるくらい、テオの我慢強さといったら悲しいものだった。


「ちょっと……厠探して吐いてきなさいよ」

「薄手の服を買う方が先決だ…うっぷ……でないと死ぬ」


南国の厠がどれだけ熱気のこもる場所か知らんだろうと恨みがましそうな目を向けられる。彼としてはその暑苦しい服を一刻も早く脱ぎたくて仕方がないらしい。

むせかえるような人いきれの青空市を手ごろな服屋を探して二人はきょろきょろしながら歩き続けた。

しかし、しばらく歩いたところでついにテオが限界を迎える。


「おい…あの店がいい値で売ってる、から…」

「わかった!買ってくればいいのね?ちょっと待ってなさい、すぐ戻るから!」

「たのんだぞ…」


震える手から財布を受け取り、シュネーは慌てて屋台の中に駆け込む。

こんなところで彼を熱中症で殺すわけにはいかない。色鮮やかな衣を焦りながら検分していると、はたと困ったことに思い当たった。


(しまった……お金の相場も忘れてる……)


言葉も地理も覚えているのにどうしてこんな肝心なことが記憶からすっぽり抜け落ちているのやら。迂闊な自分をののしりつつ、財布の紙幣と値札の文字を見比べる。


(どの硬貨が50なの?これ?いや…こっち?)


「何かお困りかな、お嬢さん」

「へっ?」


あからさまにばたばたと財布をあさっていたせいか、ふと隣に立った若者がシュネーの手元を覗き込んで首をかしげていた。


(ど、どうする!?)


冷や汗が出た。金の使い方がわからないなんて口が裂けても言えようか。

まさかこの図体で「お金に触るのが初めてで」、なんて言いわけが難なく通用するとも思えない。万事休すかと息をのんだとき、ふっと若者が微笑をこぼした。


「へえ、珍しいな。狼種の金貨か」

「え……っ?」

「君、狼種なの?女の子の狼は初めて見るなあ」

「いや、ちがっ……や、そうですそうです。こっちの相場がわからなくて」

「ああ道理で。もしかしてお金の使い方わからないのかなあって思ってたんだ」


(図星!)


思わず顔が引きつりかけ、とっさに笑ってごまかした。

森を出てきた狼種がどれだけ世の中にいるのか知らないが、とりあえずうまい言い訳と信じて使っておこう。


(っていうか、換金ぐらいしてなさいよね、テオ!)


人のよさそうな若者の顔をすばやく観察する。

品よく整えられた前髪と、南国の暑さにも耐えられる薄手の、しかも上等な服。

どこぞの坊ちゃんという雰囲気の――おそらく人間。

一匙分の警戒を加えつつも、シュネーは眉尻を下げて若者を見上げた。


「あのう…これって、どうやって換金すればいいんでしょう?」

「共通通貨にってこと?換金所遠いからどうせなら僕のと変えない?硬貨集めが趣味なんだよね」

「そんな、御迷惑になりませんか?ご厚意に甘えたいのはやまやまなんですけれど」

「いいよいいよ。甘えてもらって。どれ買うの?」


気さくに笑って衣に目を走らせる彼に一抹の不安を抱きつつも、適当に見繕ったものをさししめした。薄紅のワンピースと男物の地味な上衣と下衣。

それを見て若者がちらりと笑った。


「男連れか、失敗したなあ」

「あー…これは、兄の分です。今ちょっと用を足しに出ていますが」

「迷わず選んでるところを見ると気心知れた仲だなって思ったんだけど、そっか、お兄さんだったのか。いいね、仲が良くって」


言われてみて気づいたが、即断だった。

(冬物見てたし、勘で選んじゃったけれど……ま、いっか)


 代金を払う若者を待ちながら通りの雑踏に目を走らせる。

並び立つ天幕に、汗のにおいのする土埃。香ばしいにおいを振りまく燻製肉があちこちにつるされ、さまざまな装いの老若男女がひっきりなしに行きかっている。叩き売りの声や甲高い女子供の笑い声。喧騒のよく似あう街だ。


「お待たせ、買えたよ」


勘定をすませてにこりと微笑む若者から荷を受け取り、シュネーはやや気まずい思いをしながら礼を言って頭を下げた。


「お嬢さんはこれからどこに?」

「え…っと、まだ決めていません。ひとまず市を見ていこうと思います」


先程もそうだが、我ながらよくぺらぺらとでまかせが出てくるものだ。

偽ることが日常の一部であるように、すらすら次の言葉が口をつく。

ひょっとして記憶を失う前の自分は詐欺師だったのではなかろうか。


(いや、魔女か)


そうこうしているうちに若者は己の荷を担ぎなおすと狼種の硬貨をもてあそびながら、じゃ、と手を振って歩き去っていった。

シュネーの買い物と合わせて自分用の手巾を買ったらしく、背負った荷に洒落っぽくくくりつけている。

――ふと、その荷にくくりつけられたもう一つの何かに目が吸い寄せられた。


ちりん、と鈍い音を奏でる、小ぶりの鈴―――それから、印章らしい、何か。


どくん、とひとつ鼓動がはねた気がした。

前にも、あんなものをどこかで見たことがなかっただろうか―――?


ゆらゆらと揺れる使い込まれた痕跡の見える茶色の印章をぼんやりと目で追っていると、ふっと何か別の光景が今の景色に重なるような錯覚が訪れる。


印章がゆらりと炎を映す。

ぱちぱちと爆ぜる火の粉をあびて複数の―――


しかし、深く考えないでシュネーは踵を返した。

元来た通りを駆け戻り、路地の影でへたり込む人影の前にしゃがみこむ。


「テオ」


ゆっくりと顔を上げた少年が、ああ、と呻くような声をもらした。


「案外早かったじゃないか…買えたのか」

「換金くらいしておきなさいよ。ほら」


ぐいと手渡すと、思ったよりしっかりした力でテオは布包を受け取った。

ぱたぱたと顔を仰ぐ様子を見ていると、きちんと焦点が定まっている。先ほどは車酔いもしていたのだろうか、多少ましになったようで安心する。

包みをほどいてちらりと中身を確認して、ちょっと目を瞠る。


「どうかした?」

「いや……」


そのまま何も言わないでごそごそと服を取り出すと、ふらつき気味の足取りで彼は建物の影へと姿を消した。衣擦れの音にふと思い立って、シュネーは服をくるんでいた布を彼の方へ放り投げた。


「なんだこれ」

「汗かいてるでしょう。ふかなきゃ風邪ひくわよ」


しばし沈黙が流れ、微かに笑うような吐息が聞こえた。


「何」

「いや、慣れてんなあと。記憶にないだろうけど、きっと姉貴分だったんだろ」

「……そうかしら」

「そうだろうよ。さて」


着替えを終えたらしい彼と入れ替わってシュネーもいそいそと衣類を変える。

薄紅のひらひらとした衣は少し動いただけで軽やかに舞い上がる可憐な縫製となっていた。

細い紐でぎゅっと腰回りを締め上げ、仕上げに麻の日よけを被いて完了。

脱いだ冬服をテオの物とひっくるめてまとめ、そっと物陰から出た。


「行くか」

「ええ。―――……どこに?」

「旅に必要な準備をそろえる。その前に、個人的には水と塩がほしい」

「ああ……買い物ね。了解」


するりと物陰から抜け出し再びの表通り。

戻ってきた喧騒は相変わらずだが、やはり風通しのいい衣服は過ごしやすい。

隣で「生き返る―」とテオが空を仰いでいた。

高い青空に、生成りの天幕布がばさりとはためく。



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