第19話

 あきらと幽人は事件現場にもなったマンション前にたっていた。

 しばらくするとタクシーがやってくる。施設で保護された自称・春日千鶴、そして施設の男性職員の丸山が出てきた。

「ご足労いただき、ありがとうございます」

 あきらは頭をさげた。

 午後三時。当初、職員側は先日のこともあって精神的ショックの大きさを心配していたようだが、千鶴本人がいきたいと言ったため、丸山が同行し、その判断でいつでも終わらせるということを条件に、協力の許可がおりたのだった。

「千鶴ちゃん。あんまり無理はしないように」

 男性職員は気遣わしげ。

「はい……。でも、丸山さん、大丈夫ですから」

「春日さん。電話でも言ったけど、これから思いだすことはなあたにとって決していいことではない、かもしれない……」

 その点は電話でも何度も確認していることだった。事件は解決したい。でも彼女を傷つけたくないとあきらはしつこいほどに言ったのだ。

「それでも私は知りたいんです。今はたしかに、丸山さんや他の職員の方々のおかげで生活ができています。でもそれは私じゃない誰か、っていう気がしているんです。本当の私は息の詰まるような暗闇のなかにいるんじゃないかって……。だから」

 これほどまでの決意をみせられてはもう、彼女をとめることはできない。

 幽人の行こう、という呼びかけに、千鶴はうなずき、マンションへと入っていく。あきらと丸山は慌ててあとをおう。

 最上階に到着するまでのエレベーターのなかで、千鶴は期待と不安とがまざりあって、落ち着かない様子だった。

 エレベーターを出た先、一番奥の部屋へ幽人に促されるように進む。

 あきらは横目で、丸山のそばで表情を硬くしている千鶴の顔を窺った。

 夢のようなはかない記憶しかなく、自分の記憶であるはずなのに、あるところまでいくと、恐慌に襲われて、自分はいったいだれなのかを知ることができない。

 その苦しみは、想像などできないくらいのものだろう。しかしそれを思いだすことでも苦痛を伴う――彼女にとってはなにも思いださない、今のままのほうがいいのかもしれない。

 それでも彼女は向かい合おうとしている。それはとてつもなく勇気が要ることだ。

「ここがそうだ」

 幽人は、あきらの心の揺れを見抜いたようにちらりと視線をくれ、それから千鶴を見た。

 部屋の前にはひとりの、二十代くらいの制服警官がたっている。

「なにか感じるか」

 千鶴は首を横に振った。

 幽人は警察バッジをみせ、あきら、千鶴が、丸山――の順で入っていく。

 室内はしんと静まりかえっている。廊下進んで行く。歩みは千鶴にあわせてゆっくりだ。

 彼女はほうぼうに視線をやっている。

 幽人はひとつひとつの部屋を丁寧に説明していき、千鶴はどんなことも聞き逃すまいと真剣な顔で聞き入っていた。

 彼女は落ち着きはらって、すくなくとも動揺の色をみつけだすことはできない。

 リビングに入る。大きくとられた窓からは陽射しがそそいで、窓向こうに代々木公園の緑が艶々と輝いている。喧騒とはほど遠い。

 千鶴が早足で窓へ走り寄る。丸山がそれにつづこうとするのを、幽人が引きとめた。

 一瞬、丸山はむっとしたが、幽人の眼光になにも言えずにうつむく。

 あきらたちはただ彼女の背中を見守る。

「……見たこと、あるかもしれません……」千鶴は言葉にしようと口をひらきかけ、小さくかぶりを振った。「ごめんなさい。わかりません」

「いいんだよ、千鶴ちゃん。謝ることはないよ」

 丸山が励ますように声をかける。

「ここで、人が殺された」

 弾かれるように千鶴は顔をあげた。幽人がぽつりと行ったのだ。

「おそらくひとりやふたりではないはずだ」

「ちょっと刑事さんっ!」

 丸山が声をあげたが、それも幽人の一睨みに丸山は黙った。

「きみはその犯人と、おそらく長い間、一緒に住んでいたはずだ。きみのいう、彼氏というのはその犯人である可能性が高い。そして先日みせた写真を覚えているか?」

 心なし顔を青ざめさせた千鶴は小刻みに震えるようにうなずく。

「これだ」

 裏にされたA4版のものをみせる。有賀俊太郎の顔写真を拡大したものを出力したものだ。

「ちょっと!」

「丸山さんっ」

 力ずくでやめさせようと迫る丸山を、あきらは咄嗟に引き留めていた。丸山の目にはお前もあいつの味方をするのかと怒りの火があった。

「もし、思いだしたいなら、見るんだ」

 幽人は彼女をダイニングのソファーに座らせ、自分は片膝をついて写真を差し出す。

 彼女の眼差しは揺れていた。顔面は白くなっていた。

「千鶴ちゃんだめだ。きみはそれを見たせいでこの前もおかしくなってしまったんだぞ!」

 丸山は声をあげた。それでも彼女は差し出された写真を拒絶しなかった。

 しばし自分の手のなかにあるそれを見下ろしていた彼女は、自分の意思で表に返した。

「――――」

 彼女の目がたちまち怯えと困惑に染まるのが分かった。震える吐息が漏れ出る。

「千鶴ちゃんっ!」

 あきらを押しのけ、丸山は駆け寄ろうとするが、その足は止まった。千鶴が来ないでというかのように手を向けたのだ。

「……丸山さん。私、大丈夫、ですから」

 息は荒くなり、小刻みに身体が震えていた。それでも千鶴はこの間のように我を忘れるように取り乱すような真似はせず、有賀俊太郎の姿を見つめる。

 幽人がそっと寄り添うさまに、丸山が顔をかすかに歪めるのをあきらは認めた。

 幽人は肩を抱き、彼女の耳元に口をちかづける。

「俺の声に意識を集中しろ。息をしっかりと吐くんだ。そして、吸う。もう一度、吐いて、吸う……」

 ぶっきらぼうさは相変わらずだったが優しい声だ、とあきらは思った。

 まるで心のひだをやさしくなでつけるようだった。気づくと、あきらもまた彼の声に合わせて呼吸をしていた。

 無論、千鶴もそのとおりした。幽人のペースにあわせて、息を吸い、吐き、また吸った。

「きみは強い。辛いとわかっていながらそれと向き合おうとしている。誰もができることじゃない。でもきみはそれをしようとしている。大丈夫。きみはひとりではない。俺たちがついている」

 それでも呼吸が乱れ始めると、幽人は彼女の肩を抱く力を、声をかける大きさを強めた。

 二人だけの世界があった。二人と同じ空間にいながら、幽人と千鶴は互いしか存在していない別の次元にいってしまっている。この部屋の時間が凍りつく。

 自分はただ見守ることしかできない。そんな気がした。

 どれほどの時間、二人の背中を見つめていただろう。

 彼女の頬に血の気がもどっていく。それまで幽人のリードされていた息遣いも、自然なものになっていた。そして。

「……しゅん、くん」

 千鶴はぽつりと言った。その言葉が、この部屋の時間を動かす。

「一緒に、ここで、暮らしていました……」

 幽人は千鶴からゆっくりと距離をとる。

 千鶴は頭のなかにながく沈んでいた記憶を懸命にひっぱりあげようとするようにゆっくりと話しはじめる。

「……友だちに誘われた渋谷のクラブで、会いました。彼も、友だちと一緒にきてて。それで遺書に飲んだり、踊ったりしたんです。私、はじめてのクラブで緊張してることもあってそれで飲み過ぎたせいで気持ち悪くなって、彼に快方されて……。気づいたら二人きりでした。友だちはどっかにいっちゃってて。ただただ辛くてどこかで休みたいって彼に、伝えたんだと思います」

 虚空へ視線を向ける。

「そして、気づいたら、ここにいました」

 千鶴はたちあがる。

「このソファーに寝かされて。そして彼は……俊くんは、ここにいて。私のことをじっと見ていました。私は手錠を両手首と両足首にされていたんです……」

 あきらは息を呑んだ。まぎれもない監禁の証言だ。

「殺されるかもしれないって思いました。私は怖くて、なにもしゃべれませんでした。呼吸がうまくできなくて、心臓が壊れてしまいそうなくらい大きく震えました。――俊くん……彼は部屋を暗くして。ロウソクに火を付けました¥」

 すこしでも記憶の残滓をかきあつめようというかのように千鶴はリビングやダイニングを舐めるように見回した。そして自分がみた風景との違いがないかを入念に調べるように歩き回った。

「……それから、春日千鶴という人のことをずっと聞かされました。起きているときはずっと」

 千鶴は自分の長い髪に指をとおす。

「髪も染められました。私の髪はもともと明るい茶色だったんです……。それもすべて春日千鶴という人がそうだったから。ときには寝てるときもいきなり起こされて、くりかえしくりかえし、同じことを聞かされました。今が昼なのか夜なのかわからなくなりました」

「……ドラッグも吸わされた?」

 幽人がそっと言うと、「何度か」と千鶴はつぶやく。

「でも、私、気持ち悪くなってすぐに戻しました。彼は黙々とその始末をして……。終わると、また千鶴という人のことを話しました。そして私にどれだけ覚えているかを何度もきいてきました。まるで授業の復習、みたいでした……。間違えるとまた最初からやり直すように、ロウソクに火がともされて、延々と話しをされました。……ドラッグも、量は少なかったけれど、飲むように言われました。身体が宙に浮いているような、気持ちよさのなかで、彼の言葉が響いていました」

 殺害された永田朋香の部屋、遺体の状況が浮かびあがる。彼女もまた春日千鶴の魂を呼ぶために、同じことをされてていたのだ。

「千鶴っていう人は彼の恋人で。あんまり家庭に恵まれなかったって言っていました。物心ついたときにはもうお父さんはいなくて、お母さんと一緒に古いアパートで暮らしていて。お母さんはほとんど家事をしなくて。千鶴さんはお母さんが素面でいるところをほとんど知らなかったそうです……。お母さんはときどき、千鶴さんのほうが年が近い男を家につれてきて、そういうとき千鶴さんは家を出て、ぶらぶらしてたそうです。……彼は話しながら怒っていました。同時に、でも、もういい。その女のことはもう心配する必要はない。僕がなんとかしたからって、泣き笑いみたいな顔をしていました。あるとき、わかったんです。千鶴っていう人はもういないんだって。俊くんは私をその子にしたいんだって――それを彼に話したら、そうだって言いました」

 千鶴は口元を綻ばせた。彼女の表情にあるのはまるで我が子を慈しむような女の顔だった。

「春日千鶴さんとはクラブで知り合ったってそうです。一目ぼれだって恥ずかしそうに言ってました。女性にはじめて話しかけたって。彼女は興味なさそうだったけれど拒絶もなかったっていってました。すぐにここで同棲するようになって……。でも彼女は夜な夜なここを抜けだしていったそうです。あるとき、心配になってこっそりあとをついていくと、男から脱法ドラッグを買っていたそうです。彼はなにも言えなかったそうです」

「どうして?」

 あきらが聞くと、「指摘したらいなくなってしまうんだろうって思ったそうです」と千鶴は言った。

「――僕には彼女が必要だったけれど、彼女に僕は必要なかっただろうからって。彼、寂しそうに笑ってました。でも彼女はドラッグのやりすぎて死んでしまった。彼が大学から帰ってくると、このリビングでまるで赤ん坊のように身体を丸めて。彼女の肌は冷たくて、まるで石みたいに硬くなっていたそうです……。彼は怒って、彼女の持ち物を調べて売人を突き止め、連絡をとって、ドラッグが欲しいともちかけたそうです……。そしてその男を殺したって言っていました」

(その売人が、片桐敦ってことなのね)

「きみは、それで怖くなって逃げ出したのか?」

 まるで幽人が冗談を言ったとでも思ったように、千鶴はそれを否定した。

「変に聞こえるかもしれませんが、すべてを話してくれた彼を可愛いと思ったんです」

「きみを拉致し、怖がらせたのに?」

「はい。そこまで望むなら、彼が望む子に、なってあげたいって思ったんです。ほんとうに、こうして思いだしても変だと思います。相手は犯罪者なのに……。でもあのときは、そうは思わなかった……」

「有賀俊太郎はどうしてきみを狙った? クラブできみが無防備だったからか?」

「最初はそう思いました。でも彼は、私が似ているからと言いました。顔形じゃない、色がって。意味はよくわかりませんでしたけど」

 それはまるで片桐敦がターゲットにする獲物を物色するかのようだった。彼もまた常人には理解できない基準をもっていた。

「しばらくして、私は自由に歩いたり、彼と一緒に外に出られるようになりました。その前から家のなかでは普通に生活することもできていました」

 千鶴は記憶を反芻して懐かしむようにかすかに目を細めた。

 これは被害者と加害者の間で信頼関係が芽ばえてしまうというストックホルム症候群というものなのか。それとも本物の関係ができたのか。

「逃げようとは思わなかったの?」

 あきらは話しに連りこまれ、刑事という立場も忘れて聞いた。

 千鶴はまるで当時の自分に対してなげかけるように苦笑する。

「思いもつきまもしませんでした。私は彼の恋人の、春日千鶴になる、近づけてるって……このマンションが私の居場所なんだって、本当にそう思って。私が千鶴さんの記憶を間違えないでいると、彼はまるで子どものようにはしゃいだんです……。でも」

 千鶴の表情は突然、かき曇った。

「それからしばらくして彼がときどきおかしくなるようになったんです。独り言をつぶやいたかと思ったら、誰かと喧嘩してるみたいに大声をあげたり。すごく暴力的になることもありました。何度か、殴られました。でも、そのあとにはまたすぐ泣いて謝るんです。そのときはいつもの俊くんでした。彼はすごく怖がって、戸惑って、どうしたらいいって何度もいってました。どうしたのって聞いても、彼は頑なに話してはくれませんでした。――でも、次第に、暴力をふるう時間が多くなってきたんです。俊くんは、まるで別人のようなすごくこわい、冷たい目をするようになって。独り言も多くなって、私にひどいことをぶつけてくることも増えていました。寝てる私を冷たい目でみおろしていることもあって。一緒に食事をしているときも、彼は私の食事にドラッグをいれて。頭と視界がぐるぐる回って気持ち悪くなっている姿を笑いながら見ていたときもありました。それがすごく怖くて――私はお昼のあと、彼が買い物にでている間に逃げ出しました。その日の食事にも、たくさんのドラッグが盛られていて、頭がぐちゃぐちゃになりました。何度も吐き気に襲われて……それでも今、逃げ出さないと、殺される、あの目に、殺されるって思ったん、です」

 きっと、ドラッグの作用と恐怖とによって均衡を崩しそうになった心が、彼女の記憶に鍵をかけることになったのだろう。

「千鶴さんって、呼んだほうが」

 あきらが話しかけると、千鶴は少し恥ずかしそうにはにかんだ。そして力なくソファーに腰を落とした。

「……私、まだ自分が誰なのか、思い出せないんです」

「きみは以前、我々と話しをしたとき、お姉ちゃんが来て、ということを言っていた。覚えているか?」

 千鶴はうなずき、でもそれは違っていました、と言った。

「俊くんのなかに、女の人の顔がダブって見えことがあったんです……。俊くんが残酷になったのはその人のせいかもしれない……直感的にそう思ったんです。暴力の頻度があがっていくと同時にその女の人が濃くなっていくようで――ごめんなさい、こんな話し。たぶん、薬でラリってたせいで変な幻をみたんだと思います」

「――ありがとう。十分すぎるほど参考になった。丸山さんもご協力ありがとうございました」

「い、いえ……」

 千鶴の告白にしばし放心状態だった丸山は力なくかぶりを振った。

 マンションを出て、井の頭通りでタクシーを捕まえるところまで見送る。

「刑事さんっ」

 丸山はタクシーにのりこみぎわ、千鶴を車内に残して、かけよってきた。

「彼女は……昔、虐待をうけていたようなんです。これは俺が直接みたわけじゃなくて仕事仲間が気づいたんですけど……。タバコをおしつけられたあととか、古傷というか……だいぶ昔……子どものころだって、お医者様が判断していて。言う必要はないとおもったんですが、もしかしたらそれが、今度のこととなにか関係があると思って……」

 丸山はそれだけ言うと頭を下げ、タクシーにのりこんだ。

 遠ざかっていく車中で丸山とこちらに何度も頭をさげていた。

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