第16話
春日千鶴の証言とおそらく合致するであろうマンションは渋谷区の富ヶ谷や代々木にいくつかあった。
そのひとつひとつをたずね、集合ポストの名前を確認していくという作業をした。
管理人のいる場合は警察と名乗り、俊太郎の父、『有賀啓介』の名前を出した。しかしお目当ての物件はなかなか見つからなかった。
春日千鶴の証言がどこまで信憑性があるのか不安に思うことはあったが、そのたびに、
(私たちが信じないで、誰が信じるのよ)
あきらは自分に言い聞かせる。疑うことはたしかに捜査官として当然かもしれないが、それと同じくらい信じることも大切だ。
八つほどマンションを回りおえると、午後七時を回った。夏場といえどさすがにこの時刻ともなると日は暮れ、空には星が姿をみせはじめる。しかし蒸した空気は相変わらずで、陽射しがなくなったことも手伝って不快なジメジメ感が強くなった。
九つ目に訪れたのは、富ヶ谷にある八階建てのマンション。
管理人が常駐しているようだった。
集合郵便受けには『有賀』の名前をみつけた。
幽人が管理人室の扉をたたくと、五十代ほどの固太りした男性が顔をだした。
「なにか……?」
スーツ姿のあきらはまだしも、あきらかに幽人のくずれた雰囲気に眉をひそめる。
宗教の勧誘か訪問販売か、すくなくともまともな訪問理由ではないという疑念がその老眼鏡ごし、すこし大きくなった目にやどっていた。あきらたちは警察バッジをみせる。
「ここには有賀啓介さんのお宅がありますよね。名義は啓介さんですが、息子さんの俊太郎さんが住まわれているはずですが」
「え、ええ……」
幽人があきらの言葉を引きつぐように言う。
「有賀さんのご両親より相談がありました」
幽人はさらりと嘘を口にする。
「わ、わかりました」
管理人は鍵の束をもって管理人室から出てきた。
幽人たちはエレベーターにのりこんだ。操作盤でランプがついているのは八階。
「数日前に有賀くんのお母さんがいらしたんですが、そのときはインターフォンごしの電話で会えなかったようで……。そうとうに心配されていたようですから」
「お父様のほうがこなかったんですか?」
「お忙しい方ですから」
「彼……俊太郎さんの異変にはいつから気づいておられたんですか」
あきらが訪ねると、エレベーターの操作盤にはりつくようにいた管理人のなで肩が強張る。
「い、異変というほどではないんです……。ただ、ここ二週間ほど、あまり姿を見かけないな、と思った程度で」
「彼を訪ねてくる子は?」
「綺麗な女性の方が……。だいたい、二ヶ月くらい前でしょうか。つれだってマンションに入るのを何度か。それまでは落ちこんだり、挨拶してもかえしてくれなかったり、落ちこんだ姿をみたりもしていたんで、いやあ、若者の大きな悩みはいつだって恋ですよねえ。新しい彼女ができたみたいで良かったと思っていたんですが」
管理人は自分の青春時代を思いだしているようにしみじみと言った。
「その女性はこの子ですか」
あきらは、俊太郎と交際していたらしいと言われている春日千鶴の写真をみせる。
「いえいえ。もっと落ち着いた印象の子ですよ」
「……それじゃ、この子でしょうか」
あきらは身元不明人として警察にデータとしてのこされていた施設で保護された当時の自称・春日千鶴の姿をプリントアウトしたものをみせた。
「そうですっ。この子ですよっ」
「間違いありませんか。よくみてください」
「ええええ……。間違いありませんよ。ふたりともすごく仲がよさそうで。見ているこっちのほうが恥ずかしくなるくらいで」
「それじゃ、こっちの子はまったく?」
「見たことありません」管理人は力強くうなずいた。
あきらと幽人は視線を交わす。
確信に迫りつつあるということに、かすかに鼓動が早まる。同時にこれから向かう部屋になにがまっているのかという不安もまたこみあげる。
エレベーターがひらくと、管理人を先頭に歩き出した。
管理人は廊下のつきあたり『805号室』の前に立つ。
幽人はチャイムを押した。反応はない。
もう一度、鳴らしてしばらく待ったが、やっぱり何の反応もかえってはこなかった。
幽人は管理人に話しかけてもらうように頼む。管理人は扉をノックし、「俊太郎くん。管理人の田尻です。ちょっと伝えたいことがあるんだけど」と声をだすが、反応はない。
しばらく待って再びノック。それでもうんともすんともしなかった。
幽人はうなずきかけると、管理人は鍵を差した。ガチャンと音がたって解錠される。
幽人がドアノブに手をかけ、ゆっくりと扉をあけるとチェーンはされていなかった。
留守なのかそれとも今も居留守をつかいつづけているのか。
管理人を部屋の外で待たせ、幽人のあとにあきらがつづいた。
「有賀くん。警察です。有賀くん、いますか?」
玄関でもう一度あきらは呼びかけてみるがやっぱりだめだった。
「……警部、どうかされたんですか?」
その場にたちつくして、表情を強張らせている上司の様子に眉をよせる。
「……歪みだ。今までにない強い歪みだ」
苦しそうに声をはきだした。額には汗が浮いて、息遣いが苦しげだ。
「警部、もし辛ければ外に」
「いや。平気だ」
玄関からは十メートルくらいの廊下が伸びている。幅はぎりぎり大人二人が並べる程度。 左右にいくつかの部屋がある。玄関から近い順に、トイレ、脱衣所と浴室、寝室、そして書斎だった。書斎にはたしかに有賀俊太郎がここから大学に通っていたであろう生活の痕跡を認めることができた。
大学の教科書、パソコン、本棚……。本棚には部屋の主の人間性があらわれるという。
本の多くはオカルトものやホラーに関する本が大部分を占めている。本のタイトルにおおくある魂の文字が、彼の頭のなかを物語るようだった。
「そうとう、勉強熱心のようだな」
手袋をはめた幽人はパソコンを起動させ、履歴やお気に入りの一覧を眺めて呟く。そこには以前にも見た都市伝説サイトはもちろん、オカルトに関係するサイトが閲覧しているようだ。
「ん?」
「どうしました」
「見ろ」
幽人はデスクトップにあるメモ帳のアイコンを指さす。そこには『このパソコンを見る人へ』というタイトルがあった。
この文章を見る人へ。これは僕が僕であるうちにすこしでも言葉を残しておきたいと思って書いた。これを誰がみているのかわからない。両親か、警察か。僕はいくつもの罪をおかした。こんなことになるなんて考えもしなかった。ただ、好きな人のため、だった。でもなにかを決定的に間違えてしまった。そして僕のなかに誰かが一人、また一人と住むようになっていった。彼らはひどく残忍で、僕に絶えず囁いてくる。あの子を殺せ、あの子を殺せ、と。あなたは僕をおかしくなったと思うだろう。分かっている。僕も自分が自分でおかしくなっていると思っている。こうしている間にも声は絶えず、聞こえる。こんなものを誰かがみて信じるわけがない。頭がおかしくなったと思われるだけだ。僕はすでにいくつもの命を殺めている。僕はすでに頭がおかしくなっているのだ。あの、ドラッグの売人を殺したときから。でも、まだ僕は僕だ。それは分かっている。けど僕の時間はなくなってきている。もう何週間も前から記憶が途切れ途切れになることが多い。気づくと知らないところにいる。まるで酔っ払いだ。記憶をなくして大学にいたはずなのに気づくと見知らぬ路地にいる。そうかと思えば家にいる。その間、僕が何をしたのかまったく記憶にない。今、僕の家に女性がいる。知らない子だ。彼女は誰かに殴られたみたいに顔に痣をつくって、手足を縛られている。僕を見ると、彼女は取り乱して声をあげる。でも猿轡をされているから喋れないでいる。声が聞こえる。連中は彼女を殺す気だ。連中はいつも殺すことで頭が一杯だ。警察はもう動いている。僕のことを知っているかもしれない。もう嫌だ。誰も殺したくない。彼女を逃がしてあげたい。でも僕は殺してしまうだろう。僕はまだ捕まりたくない。僕が一番欲しいものが手に入ってないからだ。やっぱり僕は頭がおかしいんだ。狂ってる。助けて欲しいのに自分の気持ちを諦められない。本当に狂うのが先か。それとも連中に僕の全てが食べられてしまうのが先なのか死ね死ね死ね死ね死ね死ねみんな死ねしんんじゃえええええええええええええええええええええええええええええええええええええええええええええええええええええええええええええええええええええええええええええええええええええええええええ
あきらは息を呑んだ。内容は支離滅裂だ。それでも文字の一つ一つに怖気を震わずにはいられない生々しいなにかがひそんでいるように思えてならなかった。
幽人はマウスを右クリックしてメモ帳のデータの詳細を調べる。最新の更新日時は二日前だ。
「警部、これは自供、なんでしょうか」
「そう見えるな。しかしパソコンの文章だ。証拠能力としては乏しいだろう。――ただ、彼が連れて来たという女が、見つかれば別の話だ」
幽人はパソコンをシャットアウトして部屋を出、廊下のつきあたりは磨りガラスの扉。
あきらはしきりに服の上から腕をさすった。寒くはないはずなのに肌が粟立っていた。
幽人は玄関から入る時よりもずっと慎重にノブをひねる。
扉が開けられると同時に、かすかな空気の流れにのって生ゴミが発酵しているような饐えた臭気が鼻腔を刺激する。思わず眉間に皺を刻んだ。
「ひどい、歪みだ」幽人がひとりごちる。
あきらはなにも感じないが、幽人をみれば、彼が今、どれだけのものを一身に受けとめているのかが分かった。
リビングダイニングは二十畳はあるだろうか。一人暮らしには広すぎるくらいだ。
ソファーセット、そして大型テレビがおかれている。あきらは
キッチンのほうを見たが、人影らしきものはどこにもなかった。
「留守……ですかね」
冷蔵庫をあけた瞬間、すぐに閉じた。少し開いただけで、生臭いにおいがまるで形をもって顔にぶつかるようだった。俊太郎はかなり、長く家を開けていることだけは確かだ。
さらにキッチンのほうを探ると不自然に大きなクーラーボックスを見つけた。手をかけ、クーラーボックスのなかを見るや、あきらは口元を抑え、顔を背ける。それでも濃厚な血の臭いばかりはどうしようもない。
「どうしたっ」
ベランダのチェックを終えた幽人が、あきらの異変に気づいて駆け寄ってくる。
あきらは何も言えず、場所を譲った。呼吸が乱れていた。
幽人の目が細まった。
全裸の女性が仰向けの恰好で押しこまれていた。その身体には無数の青痣と裂傷があり、喉がぱっくりと裂かれていた。見開かれた眼、開かれた口元、そして喉の傷。
彼女の遺体は大量の保冷剤と流れ出た血液になかば浸かっていた。
春日千鶴、ではなかった。しかし、あきらも幽人も、それが誰なのか知っていた。
北野舞――。
「捜査本部に連絡をいれる」
幽人は言った。あきらは背を向けたまま動けなかった。
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