第14話

 あきらたちが警視庁に戻ると、時刻はすでに0時を回っていた。

 コーラとかりんとうを一緒に食べると、お腹の奥でたまっていたモヤモヤをはき出した。

 思っていた以上に精神的に圧迫されていたのかもしれないな、とあきらは一人苦笑する。

「よしっ」

 あきらは軽く両頬をパチンと手で叩いて気合いをいれると、さっそくばかりに春日家で手にいれたアドレスをうちこんで検索にかけた。

 あらわれた画面を前にして、あきらは思わず顔をしかめてしまう。

 それはネット上の怪談・都市伝説をまとめているサイトだ。


 死んだ人の魂をよびだす方法


 あきらはそのおどろおどろうしい表題に、ごくりとつばをのみこんでしまう。


・死んだ人と同じ性別の人、ロウソクを用意します

・部屋を暗くしてロウソクに火を灯します

・用意した人にその火をみつめてもらいます

・あなたは死んだ人の情報(名前・生年月日・性格・エピソード…など)を語ってください。それをくりかえし、相手に聞かせください

・もしうまくいけば、相手がトランス状態になります。少しずつ、その人の意識が死んだ人とまざりあっていくでしょう。

 ただし、一度うまくいったからといって油断しないでください。一度や二度の成功程度では魂は定着しません。最低、一週間はつづけてください

・以上の方法で死んだ人の魂をよみがえらせることができます(できれば、死後一年以内におこなってください)。なにより必要なのは、ほんとうにその人をよみがえらせたいというあなたの思いです

 また、これは決してあなたひとりだけで行わないでください。あなたが取り憑かれて、最悪、のっとられてしまう可能性があります

 注意・上記の方法を実践したことによって生じた責任は当サイトは一切、負いません。自己責任でおこなってください


 不愉快さに眉間の皺が深くなった。

 ロウソクに火をともす――。

 頭のなかでは永田朋香の部屋、春日聡子の部屋でみつけたロウソクの痕跡がかけめぐる。

 幽人が感じたという歪み。

 そして拘束された春日聡子とおぼしき遺体。

 三つの類似点。

 これを偶然の一致として片付けてもいいものだろうか。

「――これがれいのサイトか」

「ひゃっ!?」

「なんだ」

「あ、いえ……」

 吐息が感じ合えてしまう距離に幽人の顔があって心臓がバクバクいっている。あきらは慌ててパソコンと向き合う。

「……そ、そうです。あの、こんなこと、可能なんでしょうか」

「昔からみずからの身体に霊や神をおろすシャーマン……日本でいえば、いたこが存在してはいるが……それだって生き返らせるわけじゃないし、呼び出したとしてもそれはごく短い間、らしい。降霊術だけでいえば、スクウェアというのはあるが」

「スクウェア……?」

「雪山で遭難した五人のグループがいたが遭難し、グループのひとりが死んた。彼らは命からがら無人の山小屋に避難した。ただ室内には暖炉もなにもなく、そこでじっとしていては睡魔に襲われる。彼らは朝まで起きていられる方法をと智恵を絞り、身体を動かすことに決めた。それぞれが小屋の四つ角に立ち、最初の一人が次の角に立っている仲間に触れる。触れられた相手は次の角にたっている仲間のもとにはしり、同じように触れる。これをくりかえすことで眠らないようにする。

 こうして無事、四人は生きて朝をむかえることができた――が、おかしいんだ」

「な、なにがですか……?」

「四人でこれを実践した場合、最後の一人がむかう角には誰も立っていない。五人いてはじめて成立するからだ。さて、この四人にまぎれこんだもうひとりが一体なにものなのか」

 幽人としてはただ説明しているだけなのだろうが、彼のたんたんとした口調だとまるであきらを怖がらせようとしているように思えてしかたがなかった。あきらは思わず手を硬く握ってしまう。

「降霊術、なんですか」

「魂をおろしたいかどうかの意思はともかくとして、そういう話しがあるということだ。真偽のほどは知らんがな。しかし、この降霊術を試したと考えれば、あの歪みの理由も納得できなくはないな」

 あきらは薄気味の悪さに、肌が粟立つのを感じた。

 しかし納得がいくのはあくまで幽人だけであって、世間一般でこれは降霊術をおこなった痕跡なんですといっても誰も首を縦にふってはくれないだろう。たわごとと一蹴されるだろう。

「……永田朋香の体内から発見されたドラッグは、なんなんでしょう」

 幽人はしばし虚空をみつめ、考えにふける。そしてこれは推測の域を超えないが、と前置きをしてから言う。

「犯人がある程度、この手のものに知識をつけたせいかもしれないな。遺体の状態を考えれば春日聡子の次に、永田朋香ということになる。ロウソクをみさせるのは意識をそこに集中させ、できうるかぎりものを考えさせないようにするためだろう。――死者と交信するもののなかにはある種の麻薬をつかって、トランス状態にみずからなるものもいるようだから、魂を容れる器としてよりふさわしくするために。他のアドレスも開いてみてくれ」

「あ、はい」

 他のアドレスも内容はにたりよったり。というより、インターネットの特性上、どこで発生したかわからないが、同じ方法をコピーアンドペーストしただけだ。

 あきらはうんざりして不愉快きわまりないサイトを消し、机の背もたれによりかかる。

「どうして犯人は二人を殺したんでしょうか。だって、警部が感じたように降霊術はうまくいったということなんですよね。だったら、ふたりを殺す必要はなかったはずじゃないですかっ」

「さすがにそこまではまだわからない」

「あ、す、すみません……っ」

 あきらはまるで幽人を責めるような口調になってしまうことに反省した。

 それを考えるのがあきらの職務だ。まるで八つ当たりのように上司に迫ったことにただただ恥じ入るほかない。

 と、間の抜けた腹の虫がないた。

 はっとしてお腹をおさえ、耳がむずがゆいほど顔が熱くなる。

「す、すみません……」

「カップ麺ならあるが、どうする」

「あるんですか!?」

「なにを驚いてるんだ」

「……お菓子しかないものと」

「まあ、菓子を食って生きていければというのが子どもの時分からの願いだが、残念ながら人間はそういう風にできていない。で、どうだ」

「い、いただきます。あ、お湯、わかしてきますっ」

 あきらは席を立った。

 

 あきらははっとして起き上がった。どうやら知らぬ間に眠ってしまったらしい。白々とした朝の陽射しがブラインドからさしこみ、舞いあがった埃をきらきらと輝いている。

 警察署で一夜を過ごすことははじめてのことだ。

 デスクに突っ伏すような恰好で寝たせいで身体がばきばきだった。周りの書類の山に注意しながら軽く身体を動かして、強張った筋肉をほぐす。

 つけっぱなしになったパソコンの画面に目を細める。

 夜食を食べ、それからサイトを詳しく見直し、降霊術について検索したりしていたのだ。

 あきらは自分の身体にスーツがかけられていることに気づく。

「……起きたか」

 あきらはたちあがった。あまりに勢いよくたちあがったせいかイスが音をたてて倒れる。

「あの、スーツ、ありがとうございました。……もしかして、あたしのせいで、警部は家に」

「前にもいったろ。この部屋のほうが落ち着く。それだけだ。ほら」

 おそらく自分用にいれてきたであろうコーヒーの入ったカップをさしだされた。もちろんベトナム風だ。しばし迷う。

「どうした?」

「いえ、いただきます」

 おそるおそるベトナムコーヒーを飲む。口のなかにこれまでコーヒーでは体験したことのないどろりとした触感が口に流れてくる。

 しかしその過剰なほどの甘さは妙に身体が染み入った。毎回は飲めないが、ときどきは飲みたくなるような、そんなクセになりそうな感じがあった。

 時計を見る。午前七時。

 と、扉が開いた。あきらと幽人は一緒になってふりかえる。

 飯塚警視が山をなす書類を前に露骨に顔をしかめてやってきた。

 また苦情だろうか。あきらは身構える。

「ほう、二人とも残業か?」

 飯塚警視の声や、表情には怒りの色らしいものはなかった。実際、こめかみの血管も大人しくしている。初対面にこの状態であったならあきらの、飯塚警視への印象はもっと良かっただろう。

「またなにか連絡がいきましたか」

 飯塚警視は顔をしかめたが、激昂する様子はなかった。

「きたが、そんなことはどうでもいい。ようやくこっちのほうも進展があったからな」

「ほんとうですか!?」

「ついさっき春日千鶴を重要参考人として指名手配した」

 飯塚警視はどこあ勝ち誇ったように言った。

「……なぜ、彼女を」

 幽人は眉をひそめた。

「それはおまえがわかってるはずじゃないか。わざわざ拘置所で騒ぎを起こしてまで得た情報だろ?」

「わかっているからこそ驚いているんです」

 幽人は微塵も表情をかえないまま言った。ただ、その目には不可解な色が浮いてみえる。

「言っておくが、こっちはおまえらのあとをかぎまわったんじゃないぞ。あのドラッグを調べていてたどりついた結論だ」

「ドラッグの売人と関係があった、それ以上の事実がでてきたということでしょうか」

「おまえらにそこまで詳しく説明する必要はない、といいたいところだが……。売人と関係があって保管場所も把握していた。それで事件に密接な役回りを果たしているのはあきらかじゃないか。春日千鶴が直接、手をくだしていなかったとしても、その関係者であることは間違いないさ」

「それにしても指名手配というのは、いそぎすぎではありませんか」

「そうは思わん」

 幽人の言葉を負け犬の遠吠えとでも思ったのか、冷えた眼差しを向けてくる。

 同じ警察官に向けているとは思えないもので、飯塚警視はこれで用は済んだといわんばかりに部屋をでていこうとする。

「王子の捜査本部にとられるまえに急いだわけじゃないんですね」

「当然だっ」と飯塚警視は幽人の言葉に、鼻を鳴らして出て行った。

「熊虎」

「はいっ!」

「代々木署の知り合いに、捜査本部の連中が動いたらおしえてもらうよう頼める相手はいるか」

「あ、はい……。同期が交番勤務に。彼女、顔が広いんで

「じゃあ、頼む」

「わかりました」

 あきらは鮎美のケータイに連絡をいれる。

「……もしもし?」

「鮎美? 今、大丈夫?」

「うん、今、巡回中だけど、どうしたの」

「捜査本部になにか動きがあったら、教えてくれる?」

「……それ、警部の依頼?」

 鮎美の鋭さに驚かされつつ、「う、うん」とうなずくと、二つ返事で引き受けてくれた。

 そんな同期から着信が入ったのはそれから二時間後のこと。

 あきらたちは渋谷警察署に連絡をし、片桐殺害の捜査の一環でおこなわれた片桐宅の家宅捜索の資料をもらうよう頼んでいたところだった。

 とくになにか目当てのものがあったわけではなかったが、春日千鶴の行方を知る手がかりをすこしでもみつけだせればと思ってのことだ。

「警部っ」

 鮎美がいうには捜査本部に今から三十分前、杉並区にある救護施設から連絡が入り、十代の女性で、春日千鶴という名前に該当する女性が入所者にいるとのことだった。

「いくぞ」

 あきらたちがくだんの救護施設に到着したときには、施設の門前にはすでに覆面パトカーがとまっていた。

「熊虎、おちつけ」

「は、はいっ……」

 とはいえ急いた心は簡単には静まってはくれない

 あれほど探していた千鶴が数百メートル先の施設内にいるかもしれないのだ。

 それも捜査本部の人間たちがついているということは自分たちが接するチャンスはここぐらいしかない。

 と、そのとき施設からスーツ姿の一団が出てきた。

 でてきた男たちはまるで黒猫にでもでくわしたように嫌な顔をした。

「なんで、お前らがここにいるんだ」

「我々も捜査官ですから。で、春日千鶴はどこです」

 幽人が言う。刑事たちのそばに女性の姿はなかった。

「残念だが、外れだよ。ただの同姓同名の別人だ」

 刑事たちは「人騒がせな……」とぶつくさいいながら施設をでていった。

「……どうしましょうか」

「いちおう、あってみよう」

 あきらたちがロビーに入ると、男性がかけよってくる。

「なにか御用でしょうか」

「我々も警察のものです」

 幽人は警察バッジを示した。

「こちらに春日千鶴さんがいるとか」

「――と、思ったのですが。人違いだったようで……」

 さっきの刑事たちになにかいわれたのか、男性は弱り切った顔をする。

「もし可能であれば会いたいのだが」

「あ、はい、どうぞ。こちらです」

 丸山と名乗る男性職員の案内を受け、施設の奧へ向かう。施設内はクリーム色のおちついた色調で統一されている。

「春日千鶴さんはどういう経緯でここにこられたんでしょうか」

 あきらが聞く。

「だいたい一ヶ月くらい前のことでしょうか。原宿警察署のかたから身元不明の女性を保護したという電話がありまして。協議の結果、うちで一時的に保護するということになったんです」

「こちらの施設に保護の要請があったということは身許を確認するものをもっていなかったんですよね。名前はどうやってわかったんでしょうか」

「本人がそう言っているんです。……ただ」

「どうかされましたか?」

 表情をくもらせた男性の様子に、あきらは小首をかしげた。

「これはさきほどの刑事さんたちには言えなかったことなんですが」

「大丈夫です。私たちはちがう部署なので」

「そうですか……。まあ、普段は自分のことをちゃんと春日千鶴とわかっているんですが、ときどき、自分のことをまったく別人であると思いこむ、というんですか……。パニック状態になりまして」

「記憶障害、ということか」

 幽人がつぶやく。

「はい。日常的なことに関してまで影響はないようなんですが、こと自分のこととなると……。もちろんいつもそういう状態というわけではないんです」

「そういう患者さん……施設入所者の方は多いんですか」

「認知症の高齢者の方もいますから。でも、これはなんというか、接してみた感想にすぎないんですが。そういうのとはちょっと違うような……。記憶障害と片付けてしまっていいのか、よくわからないんです。医師の判断も受けているんで、実際はそうなんでしょうが」

 しばらくすすむと、開け放たれた扉がみえてくる。

 施設の裏手にあたる場所で、扉の向こうには芝のある猫の額ほどの庭が窺える。

「あの子です」

 すこし距離をおいた状態で、男はゆびを差した。

 裏庭にはベンチが一つ置かれ、肩にかかったセミロングの女性が座っている。

「……どうでしょうか」

 あきらは写真をとりだして見比べる。髪の長さや色こそほとんど変わらない。

「彼女とは話せますか?」

「かまいませんが、あまり刺激はしないでください」

「さっきの刑事たちはなにか話しましたか?」

「はい。……といっても、二言三言です。すぐに別人だと判断されたようで」

 あきらたちはベンチへと慎重にちかづく。

 施設をかこんでいる灰色の塀のせいか、安らぎの空間というよりもどこか殺風景な印象はぬぐえない。青々とした芝を踏む音にきづいたのか、女性がつと顔を上げる。

 読みさしの本を裏に返して膝の上におくと、あきらたちにものといたげな視線を送る。その目はどこかぼんやりしている。

「千鶴さん、この方々がすこし聞きたいことがあるんだけど、大丈夫かい」

 男性はやわらかな口調で語りかける。

「はい」

 男性はどうぞとあきらたちに場所をゆずる。

「春日千鶴さん?」

 女性はうなずく。

 やっぱり別人だとこうして間近に見るとわかる。腰までとどくくらい長い黒髪という点こそ似てはいるがそれだけだ。

「私たちは警視庁からきました。いくつか質問をしますが、大丈夫ですか」

 幽人の目に促され、あきらが聞き役を務める。

「はい」

「隣、大丈夫?」

「どうぞ」

 ベンチに座る。

 午前中だというのに、夏の陽射しはあいかわらず強い。気温も今日一日がまだうだるような日になることを予感させる。

「……あの、なにかわかったんでしょうか。警察の人が、私を知っている人がじきにみつかるって言ってたんですけど」

「ごめんなさい。まだわかっていないの」

「……そう、ですか」

 あきらは膝にのせられた本の表紙を見やる。

 それは映画の原作にもなった恋愛小説だった。

 書店で、映画公開の帯が巻かれて山積みにされていたのをみたことがある。

 内容は、高校生同士の恋愛を描いたものだ。横恋慕とか、すさまじい逆境などがあるわけではない、今時めずらしいくらいの純真な恋愛をえがいたものらしい。

 あきらは恋愛ものは映画、小説、ドラマ万事にわたって昔から苦手だ。

 みているだけで、なぜだか無性にこっぱずかしくなってきてしまう。

「その本、映画化されるのよね。おもしろい?」

「はい」

 千鶴は目をやわらかくゆるめる。

「……彼氏がいるんです」

 その声はどこかふんわりとした風合いをおび、心なし瞳がうるむ。

「そうなの?」

 女性は恥ずかしそうにもじつき、うなずく。

「すごく優しい人で。笑顔がとっても可愛くて」

「彼氏の名前は覚えてる」

 千鶴の口がかすかに震え、そして動く。しかし声にはならなかった。

 たちまちそれまでの幸せそうなぬくもりをおびていた表情は翳り、目が伏せられてしまう。

「ごめんなさい。変なこと訊いちゃった?」

「いえ。いいんです……。覚えてるはずなんです。けど……おもいだせないんです。こんなの、変、ですよね」

「そんなことない。今、あなたすごくいい顔してたもん。彼氏との時間をあなたの心はしっかりと覚えているって証拠よ。細かいことはいい。大まかなことでもいいの。背の高さとか、口ぐせとか……」

 千鶴はあきらに励まされるように懸命に思いだそうとしたが、結局、だめだったらしい。

「でも、彼氏はいるんことはほんとうなんです。だって、彼のことを考えると、胸がすごくどきどきしてきて……!」

 彼女は昂奮のあまりたちあがる。膝にのせていた本が落ちた。

「千鶴ちゃんっ」

 男性がかけより落ち着かせるように肩をさする。

 荒くなった千鶴の息遣いがゆっくりとおさまっていく。

「――すみませんが。そろそろ……」

 男があきらに言うが、「大丈夫です」と千鶴は施設の職員の男性を制する。

「でも」

「大丈夫です。すみません、ご心配かけて。でもすこしでもはやく、私を知っている人にあいたいんです。こうしてしゃべっていると、思い出せそうな、気がするんです」

 千鶴はあきらに力ない笑顔をみせる。あきらも受けとめ、笑みをかえした。

「それじゃあ、今、あなたの頭にはなにが見えてる?」

 無理に思いださせる必要はない。どんな些細なことでもそれが手がかりになるかもしれない。

「建物……クリーム色のマンション……です」

「ご両親と一緒?」

「いいえ。一人、です……。窓からたくさんの緑がみえて。春や夏には天気がいい日にはその緑が太陽をあびてきらきらと輝いてすごくきれいなんです」

「彼氏も遊びにくる?」

「遊びに、くる、というか……」

 女性は少しもじつき、唇を少し舐めた。

「もしかして同棲?」

 女性は小さくうなずいた。

「いつもどんなことをしてるの。あなたの部屋では」

「話しを、します」

「どんなこと?」

「いろんなこと……」

「そう。あなたもしゃべる?」

「私は、ほとんど聞いてるだけなんです。彼が話しをしてくれるのを聞いてるんです。ベッドに座りながら。彼、とてもおしゃべり……そう、すごくおしゃべりなんです」

 彼女の言葉は弾んだ。

 これまでこういう反応は余りみなかったのだろう。男性職員も、おや、という反応を示した。

「お姉ちゃんも、ときどき、きて」

「お姉ちゃん? あなた、お姉ちゃんがいるの?」

 千鶴は曖昧にかぶりを振った。どちらの姉なのかわからないのだろう。

「た、たくさん、お姉ちゃんが、いて……彼と話していると、ときどき、ですけど、邪魔するんです」

「邪魔? ひやかすとかじゃなくて?」

「え、っと……」

 千鶴の目が不意に落ちつきをなくしたように揺れる。

「ひやかす、というのか……なんと、いう、のか……」

 声にかすれがまざる。

「春日さん、少し休みましょう」

「いえ、大丈夫……です」

「熊虎、有賀くんの写真を」

「え、あ……はい。春日さん、ちょっと見て欲しい人の写真があるんだけど、いい?」

「あ、はい」

 あきらはスマフォを操作し、画像データを呼び出す。

「この男の子なんだけど」

 千鶴はじっと視線を注いだ。と、みるみるうちにその顔から血の気が引いていく。スマフォをもつ手にも力がこもるのがわかった。

「この人、知ってるの」

 呼びかけるが、声が届いていないように反応はかえってこない。

 千鶴の身体が、手から腕、肩、全身へと小刻みに震え、下唇をきつく噛みしめていた。

 とめきれないという風に息遣いがふたたび荒くなっていく。

「千鶴ちゃん!」

 再び職員が声をかけるが、今度は彼女が我に返ることはなかった。

 身体の揺れはますます大きくなっていく。

「……え?」

 ぶつぶつとなにかを口のなかでつぶやいている。

 違う違う違う違う違う違う違う違う違う違う違う違う違う違う違う違う違う――。

 彼女は舌をもつれさせながら、口角につばのあわをみせながらくり返す。

「い、いやあ、いや、いやあっ」

 とつぜん恐慌をきたした千鶴はスマフォを投げ捨てた。

「春日さんっ」

「いやああああああああああああああああああああああああああああああああああああああ!!」

 千鶴は頭をかかえるように、はげしくかぶりをふる。

 その間中、「いやいやいやっ!」と叫びつづける。

 騒ぎを聞きつけ、他の職員たちがかけつけてきた。

 口々になにかをいいあい、暴れ、もがく千鶴をとりおさえ、中庭からひきずっていく。

「す、すみませんっ」

 あきらは頭をさげた。

「……いえ。彼女はなにかを思いだしかけたのかもしれません。それに、家のこととか、お姉さんがいたこととか、はじめて聞けたことばかりでした……。もしかしたら、記憶が戻りかけているのかもしれません」

 あきらは芝生に落ちた本をひろいあげ、表紙についてしまった土の汚れを払い、職員の男性に渡した。

「さきほどの男の子の写真は……」

「あれは我々の警察官の慰労会の写真です。彼女になんらかの刺激というか、そういうものを与えれば記憶をもっとひきおこせるかと思いまして。すいません、やぶ蛇だったようで」

 幽人の謝罪に、男性職員のほうがあたふたとしてしまう。殺人事件の関与をにおわせるのは得策ではないと思ったのだろう。

 あきらたちは施設のなかに戻る。

「すみません。ここで髪は染めたりは」

 幽人は少し前をいく男性職員にあきらは尋ねる。

「定期的に美容院の方にきてもらっています。でも髪を染めたりは、白髪染めくらいですよ。おしゃれのために染めることまではしませんよ」

「なにか気づいたのか?」

「……というわけではないんですが、妙に雑に染められてたなと思って。まだらな部分もあったし」

「自分で染めたんじゃないのか?」

「あの年頃の子がですか? うちの親は白髪染めは自分でやってましたけど、ふつう、誰かにやってもらうと思います。それに、彼女の場合、茶髪をわざわざ黒に染めてるんですよ。逆ならわかりますけど」

「気分をかえったとかじゃないか?」

「まあ、そうかもしれませんけど」

 職員に連れられ、あきらたちは食堂に場所をうつした。

 時刻は午前九時で、食堂は閑散としている。

 ウォーターサーバーからとった水を手に、片隅の席に座った。

「……彼女の身許について問い合わせはないんですか」

「警察を通じていくつかは。しかし別人だったようで」

 男性が悲しそうに表情を曇らせる。

「彼女は不安定だと仰っていましたが、さっきみたいなことですか」

「はい。なにが引き金になるのか私どももまだわかりかねているんですが……。ああして彼女自身について聞いているときだけではないんです。ちょっとした世間話をしていて、彼女がしばらくしゃべっていたかと思うと、ふっ黙る瞬間がありまして。そうしたらさきほど御覧になられたように『違う』と言って……」

「なにが違うのか聞いたことは」

「あります。でもなにを聞いても違うの一点張りで」

「彼女……春日さんは大丈夫なんですか」

「鎮静剤を打ちましたから問題はないと思います」

「ありがとうございます。では我々はひとまずこれで」

 あきらたちは男性職員と別れ、施設を出た。

「……警部、もしかしてなにか感じたんですか」

 あきらは幽人に声をかける。なんとはなしに難しい顔をしているのが気になったのだ。

「彼女には歪みがからみついている」

「歪みがからみつく……?」

「彼女が保護される前にいた場所がいわゆる不吉な場所であった可能性がある」

「彼女は有賀俊太郎の写真を見て取り乱しましたよね。春日千鶴ではない、にもかかわらず」

 さっきの反応は尋常ではない。

 男性職員が彼女に接しているということや、幽人を前にしても取り乱さなかったことを考えれば、男性全般に対して恐怖心を抱いているというわけではないはずだ。

 となれば、彼女を刺激したのは有賀俊太郎の画像と思って間違いない。

 しかし彼女については時間をあけるほかない。ただでさえ不安定な彼女をさらに追いつめることになりかねない。

 となれば、有賀俊太郎と会うほかない。問題はどこで会うかだ。前回の訪問の件でかなり警戒されているはずだ。今度は家にはあげてもらえないだろう。

 大学に関しても下手に学生と接しようものなら抗議が入るだろうし、いくら捜査でもいつまでも幽人を野放しにさせることはないだろう。

「張りこめばいい」

「でも大学側だって神経を尖らせてるんじゃないんですか。もし有賀くんを見つけられても、とりあってくれるか……」

「どれだけ大学側が言ったところで人の口に戸は立てられんさ」

 幽人にはなにか考えがあるらしかった。

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