第8話

「ひゃっ! ちょ、ちょっと、なにするのよ」

 あきらはいきなり足を揉まれ、素っ頓狂な声をあげて鮎美を睨んだ。

「そんなに足、張ってないみたいね。もしかして交番勤務よりも体力を持て余してる? 刑事は足、じゃないの?

「移動は車がほとんどなの」

「ふうん、そっか……。で、警部はなにかした?」

 午後十一時。寮のあきらの部屋に押しかけてきた鮎美は水を入れて重量を調節できるプラスチック製のダンベルを押しのけつつ、部屋の真ん中にでんと居座った。あきらはベッドの上で仰向けに寝そべりながら「あんたね……」と唸る。

「期待してるみたいなことはぜんぜんなかったから。……ただ」

「なになに?」

 あきらは思わず遠い目をしてしまう。

 途中まではよかった。問題が起こったのは警視庁に戻ってからだ。

 代々木署に開設された永田朋香事件の捜査本部の管理官、飯塚正幸警視が青筋をたててつめよられたのだ。

 ただし、つめよられたのはあきらで、幽人は柳に風とばかりに平然としたものだ。

 ――でかぶつが部下に入ったともっぱらの噂だからなっ!

 以前、マンションでつきとばしたことはすっかり忘れているらしい。

 どうやら拘置所から警視庁に電話がいき、そこから紆余曲折あって代々木署の捜査本部へ流れていった、といういきさつをきくまでに肌がむずむずするほどツバをはきかけられるほど怒鳴られた。

 さすがに被告人を激昂させ、ひと騒動おこしたのだから、クレームといわないまでもある種の報告はいって当然かもしれないが。

 ――警視、彼女は私の指示にしたがってまでです。

 幽人が言うと、一瞬、飯塚警視は怪訝な顔つきになり、それからはじめて目の前のスーツ姿の優男が幽人であることに気づいたようで目を瞠った。

 もちろん唖然としていたのはわずかなことで、すぐに鉾先は幽人に向けられた。

 ――貴様ら、どういうつもりだ。あれほど勝手なことをするなといったはずだ。

 ――私どももはっきり言ったはずです。正当な権限があると。

 ――なにが捜査だ。被告人を暴れさせただけじゃないか。いいか。こっちは検察官からいらぬ説教を食らわされたんだぞっ。なぜ、関係ない俺がそんなことをいわれなきゃならんっ!

 ――証拠が固まっている以上、どんなことがあろうと、有罪が揺らぐことはありませんよ。 ――そういうことを言ってるんじゃない! 俺たちは刑事はな、日々、靴底をすりへらして犯人逮捕のために身を削っている。それが、大した場数も踏んでない貴様らに荒らされてはたまらんと言っているんだっ!

 ――我々とて気持ちは同じです。事件を解決したい。その一身なんです。気持ちは、警視たちと同じなのです。

 ――貴様、意地でも謝らないつもりか。

 飯塚警視は顔がひっつかんばかりに顔を近づけてくる。その表情には謝ればすこしはこっちの気持ちはやわらぐものを、と言いたげな色がうかんでいる。

 幽人はまるで仮面でもつけたみたいに飯塚警視をじっと見すえつづけた。

 ――謝るようなことは一切、していませんから。

 ――刑事部長がバックにいるからって調子にのるのもいい加減にしろ。いいか。いつまでもこんな勝手がまかり通るとおもったら大間違いだぞ!?

 ――私がいつ笠に着たとおっしゃられるんですか。

 飯塚警視は顔を茹で蛸のように真っ赤に――赤くなった顔に、静脈が映えて迫力が二割、三割は増しだ――肩を怒らせて去って行った。

 ――あ、あの、警部、よろしいんですか。

 ――なにがだ。

 ――管理官に、あんなこと言ってしまって。あとで問題に……。

 ――警察の仕事は事件の捜査だ。上の階級の人間におべっかをつかうことじゃあない。いくぞ。

 組対部の人間たちから冷ややかな視線をうけ、あきらは身を小さくして、廊下を小走りに部屋へ戻ったことをはっきりと覚えている。

「……そういうわけでいろいろと大変だったわけ」

「捜査一課の人たち、犯人につながる証拠がなくてかなりぴりついてるみたいだからねぇ。うちの刑事組対課の人たちなんて相変わらず人使いが荒いってすっごくぼやいてるみたいだし。――がんばって。同期の期待の星として応援してるよ。警視庁の鼻をあかしてよ、霊感でもなんでもいいからさ。それで、もし機会があったらさ、私のこと話しておいて。あなたに興味がありそうな後輩がいるんですけど、って」

「……はいはい」

 そのあとはお互いに軽く他愛のない話をして、あきらは寝た。


「おはようございますっ」

「おはよう」

 幽人はいつも通り、ニット帽にシャツ、ジーンズ姿だった

 あきらは少しがっかりしてしまう。昨日の今日であるから余計に。

(って、あたしは事件を解決するためにきてるんだから、変なことは考えるな。警部がどんな恰好だろうが関係ないじゃないっ!)

「おい」

「あ、はいっ!」

 あきらははっとして顔をあげ、背筋を伸ばす。

「なに百面相してるんだ」

「い、いえ、なんでも……。警部。昨日の恰好ですが、あちらのほうが、捜査上、便利じゃないんでしょうか。スーツ姿で、怪しまれるような……あの、今の恰好が、変質者とかそういうことではなくてですねっ!」

「こっちのほうがいろいろなところに馴染めると思ってのことなんだがな」

「あ、それもあるかとは思いますが、その……一般の方たちはやっぱり、昨日のほうが受け容れやすいと、思わなくも、ありません……と、ぐ、愚考し、します」

「意見のひとつとして聞いておこう」

「はい。えっと、それで今日はチトセという人の捜索ですか」

「そうだ」

「……また、片桐の関係者と会うんですか」

 昨日の今日だ。どう頼んでも昨日のような特別な措置をとってはもらえないだろう。

「いや。直津以上のことを他の連中が知っているとも思えないからな」

「それでは」

「片桐は売人だ。その関係で親しくなったとも考えられる。とりあえず、クラブに探りを入れる。今日は週末だからな。タイミングとしてはまたとないだろ」

「く、クラブ……」

 あきらはその言葉の響きに気おくれをしてしまう。

「熊虎。お前は一度寮にかえって、ラフな服にきがえてこい。それから、クラブのイベントは夜九時以降からだ。それまでは待機していろ」

「わ、わかりましたっ」


(……どうしよう)

 クローゼットをあけ、あきらはタメ息をついた。

 あきらがもっている私服はといえばだいたい、ティーシャツにパンツというアクティブなものがほとんど。

 動きやすい機能性にかけては一級品だ。今回は捜査で向かうのだからそれでいいだろう。

 しかし仕事とはいえクラブデビューなのだ。

 胸がときめかないわけはない。

 せめて、もうちょっと女らしい恰好がしたい。

 あきらの目はクローゼットのなかにあって、異質な服に向かう。

 鮎美に言われるがまま購入した黒のシックなマキシワンピースだ。

 ワンピースなんてデカ女には似合わないといったが、なにかのときに絶対こういう服があったほうがいいからと言われて購入したものの、結局、クローゼットのこやしになっている。 

 というより、いくらセンスのいい鮎美がえらんでくれた服といっても、こんなデカ女ではとうてい似合うはずもないと、そういう服を着る機会から遠ざかっていた。

(でも今日なら……!)

 ワンピースに手をのばしかけたが、直前で手をとめた。

(やっぱ無理!)

 デカ女がスカートなんてなにかの仮装だ、と嫌な妄想が頭に浮かんでしまったのだ。

 そしていつものシャツにジーンズといういつものセットを手にするに至った。それに季節が季節とはいえ、半袖では腕のたくましさ具合が目立ってしまうため安定の七分丈を選択。

 別にクラブへは遊びにいくわけじゃない――。

 色気のない、予定のない非番の日と同じ服装である自分を慰めるように言い聞かせる。

 いくら、いきたくてもなかなか勇気がでなくてぼんやりとした憧れをもっていたといっても、これはれっきとした捜査だ。

 あたりまえだが、どんな事態に対しても即応できるようアクティブな恰好をしておくのは刑事として基本のキ、だ。いざというところでスカートを気にしては職務に支障が出る。

(職務に支障がでるからね。うん……職務にっ)

 自分にそう言い聞かせ、いそいそとスーツを脱ぎはじめた。

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