第6話
翌日、あきらはひとり、特命捜査課の部屋にいた。
幽人の姿は彼女が登庁したときからいなかった。
ホワイトボードには『昼間まで待機』と書いてあるだけ。
ただデスクにはファイルがおかれていた。
あきらは握力トレーニングしつつファイルをひらく。
危険ドラッグを販売していた売人が路地で殺害されたという事件に関するものだった。
被害者は片桐敦。二十一歳。
事件は半年前の一月のおわり。渋谷の路地でめった刺しされているところを通行人によって発見された。傷は臓器にまで達していたという。
片桐は身長百七十センチ。短い髪を金に近い茶に染め、顎ヒゲをはやした、骨と皮だけの男で強面ではない。ほんとうに渋谷の人混みにまぎれれば顔さえ覚えられなさそうなどこにでもいそうな若者だ。
片桐は危険ドラッグの売人だった。
事件後、片桐の自宅を捜索したところパソコン上で仲間とのやりとりがつづられているメールが発見され、それをきっかけに危険ドラッグのグループ摘発につながった。
製造されているドラッグにはまだ薬物指定をうけていないものもあったが――指定されていない危険ドラッグそのものの所持、使用、購入、譲り受けすることをとりしまることはできない――、すでに指定されているものもあった。
ドラッグの原材料は中国から堂々と輸入され、いわゆる闇サイト上で薬剤師などの人員を募集し、埼玉県にて製造されていた。
あきらは押収された薬物リストに目をやると、そこには今回、永田朋香の体内から発見された危険ドラッグとおなじものがあった。
売人は片桐をはじめ数名いて、これもまた闇サイトの求人であつめた。売人のなかでも片桐はかなり優秀なほうだったらしく、売人のリーダー格をつとめていた。それも指定を受けていないものを堂々ともちあるいて平然としているという肝の太いところもあったらしかった。
(つまり、この事件の犯人が今回の件にかかわっている可能性が……?)
あきらのファイルをめくる手がにわかに汗ばんできた。
捜査線上に一番最初にうかんだのは、商売敵である覚醒剤、大麻の売人であり、もっといえば暴力団だ。表向き、売人と暴力団の間に関係はない。
その間にはいくつもの人間を噛ませているし、売人にえらばれるのはだいたい本人が薬物の使用者であることが多い。薬物の安価な提供とひきかえに売人になるケースが多いのだ。
彼らにしてみれば危険ドラッグを大手をふって売り歩く片桐の存在は目障りであったはずだ。
しかし渋谷界隈を縄張りにしている組に捜査員が接触してもかんばしい成果をえることはできなかった。
片桐はたしかに捜査員に目をつけられてはいたが、手広く商売をしていたわけではない。
警察からにらまれる危険を犯してまで実力行使にでるほどではないし、なにより遺体を路上に放っておくような自分たちに疑いの目がいくようなことをするはずはないということで、捜査の方針は片桐の客にむいた。
常に携帯していたらしい駅のロッカーの鍵がみつからなかったことからドラッグの取引上のトラブルがあったのではないかと考えられた。
遺留物のなかにある携帯やパソコンに登録されているアドレスをひとつずつあたった。
しかし連絡がとれたかぎり、アドレスの主は誰もが事件当日はアリバイがあったり、そうでなくとも事件になんらかの形で関わっている確証がえられないということで見送られた。
そして『渋谷区危険ドラッグ売人殺害事件捜査本部』は容疑者を特定できないまま規模が縮小され、現在にいたる。
ファイルを読み終え、目をもんだ。
あのドラッグの売人は複数人いた。
朋香が警戒心が強かったことを考えると、売人に声をかけられても引っかかるとはおもえない。とすればドラッグを購入した客が朋香と関わり合いがあったのか。
しかし梓の言葉を信用するならそれらしい男の存在はなかったはずなのだ。
あきらはタメ息をついた。捜査のその字も知らない未熟な脳味噌ではここいらが限界だった。
正午になったころ来訪者があった。
スーツ姿の男性が顔をだしたのに気づいて、あきらはたちあがった。どこにも一分の隙もなく、ぴしっとスーツを着こなした男性はまるで二枚目の若手俳優のような甘いマスクだ。
目があうとどきりとして、目をそらしてしまう。
「なにか御用でしょうか」
「ん?」
「あ、警部に御用ですか。お待ちになられますか? 多分、間もなく戻ってくると思いますので。えーっと……」
あきらは言ってから後悔した。この部屋のどこに待たせられる場所があるというのか。目につく空きスペースといえば、あきらのデスクくらいだ。まさかそちらにおかけくださいとデスクに座るよう促すわけにもいかない。
「外で、お待ちになられますか……?」
「熊虎。なにいってるんだ」
「どうしてあたしのこと……。えっと、すみません、どこかでお会いしましたで、しょーか?」
どれだけ頭のなかを探ってみても目の前の男性を思いだせなかった。
ますます相手の表情がかき曇った。
「俺だ。樋向だ」
「へ?」
爪先から頭のてっぺんを舐めるように見、
「えええええええっ!」
あきらは廊下にも反響しかねない大声をあげてしまう。
「なんだ、その声は。失礼なやつだな」
幽人は眉間を縦皺を刻んだ。
「す、すみません。つい……。あの、それでどうしてそんな恰好を」
さすがに毎日、あんな見ようによってはちんぴらめいた恰好はまずいと思ったのか。
(どうせなら昨日、そういう恰好をしてくれればよかったのに)
「人に会っていたからな」
幽人にいうと、事情聞きにいくことは人に会う、ことにはならないのか。
「人、ですか。ああ、それで……。事件の関係者ですか」
「刑事部長だ」
「け、刑事部長……」あきらの声は上擦った。
そのひとのおかげで、今、この部署は存在している。いわば俺の保護者だ。その人に呼ばれた」
「な、なにかいわれたんですか。もしかして捜査をやめろとか……」
捜査本部の管理官の怒声を思いだす。
「大したことじゃない。行動は理解するが、現場とぶつかるのもほどほどにしておけといわれただけだ」
いわれただけ、というが、それは十分すぎるほどの注意ではないかと思ったが、はあとうなずくにとどめた。
「――ファイルは見たか」
「はい。あの売人……いえ、被害者の体内からみつかったのと同じ成分を含有するドラッグを販売していたんですよね」
あきらはたとえ被害者といえども犯罪に手を染めた人間のことを被害者と呼ぶことにかすかな違和感を覚えた。
「……警部は、あの事件が今度の事件となにかしらのつながりがあるとお考えなんですね」
「確証はない。だが、二つの事件が同じドラックで結ばれる」
「縁は奇なるもの、ですか」
「そういうことだ」
一瞬、幽人の目元が心なしゆるんだように見えた。
「その事件を、お前はどう見る」
あきらは少し虚空へ目を向けてしばらく考える。
「ドラッグが目的じゃはないんですか」
「お前がドラッグが目的なら、あそこまでするか」
あそこまで、というのはめった刺しにしたということだろうか。
「そんなこといわれても……」
「想像力をはたらかせろ」
「……あそこまではしないと、思います」
「そう。俺もそうだ。刺すなら一刺し二刺しで十分だ。加害者はあきらかに明確な殺意を抱いて犯行に及んでいる。憎しみ、といっても過言ではない」
「……もしそうだとしたら二つ目の共通点になりますね。どちらも加害者は、被害者に対してどす黒いほどの殺意をもっています」
幽人はうなずいた。
「だから、この事件の被害者、片桐について調べる」
「わかりました。でも、彼はもう亡くなっていますし、あの報告書には片桐のことは」
「だから東京拘置所へ行くぞ。片桐の仲間が捕まって、現在、公判中だ。そいつらが今のところ片桐をもっとも知っている連中だ」
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