第5話
あきらはその日、言われたとおり、パンツスーツで出勤した。
顔色の悪さを隠すためにいつもよりファンデーションも厚くした。
これまでは署の更衣室で制服に着替えていたが、今日からはこのスーツが自分のユニフォームになることを思うと、なんだか夢のようだった。
午前七時三十分。警視庁本部庁舎内を緊張しながら進み、組織犯罪対策部の課員たちの視線を意識しつつ廊下の奥にある部屋へ入った
一時間もはやく出勤したというのに、うずたかく積み上げられた書類の山のむこうに幽人はいた。いつもとかわらぬニット帽に、襟のよれたワイシャツ、ジーンズという恰好。
「おはようございます。もう来ていらっしゃたんですね」
幽人はうなずきつつ、かりんとうを囓りながら書類に目を通していた。そのかりんとうはいわゆる普通のものとは違い、茶色だけでなく赤や緑色、星形や丸いもの、渦巻き状のものと様々でどちらかといえば砂糖菓子に近い。
「かりんとう、好きか?」
ふと顔をあげた幽人は、かりんとうを見ていたあきらに気づいて袋をずいっと押し出す。
「あ、いただきます」
丸い、緑色のかんりんとうを食べると、口のなかですっと溶けると同時に、濃厚なお茶の風味が鼻を通り抜ける。
「ん? これ、お茶……」
「抹茶味だ。めずらしいだろ? なにか飲むか? とりあえずジュースならあるぞ。自分のグラスを用意すれば、ここにあるものは自由に飲んでも構わん。とりあえず今日は使い捨ての」
幽人は床に置かれたミニ冷蔵庫と、その上にのった使い捨てのカップを示す。
「あ、いただきます」
冷蔵庫のなかは間仕切りが取り払われ、500ミリリットルのペットボトルのコカコーラが入るかぎりギッシリと埋まっている。
「いただきます」
注がれたコーラを飲む。喉でシュワシュワと炭酸の弾ける感触と、甘い後味が口に残る。
炭酸を飲むのは久しぶりだと口にしてから思った。ここ数年、口にするのはコーヒーくらいで、ジュース系は高校生のときくらいだ。
「今日は交友関係に焦点をあてる。被害者の友人に話しを聞きにいく」
幽人は紙をみせる。あきらは紙コップのコーラをがぶりと一気飲みして、紙を見る。
「それが、リストですか」
「ようやく捜査本部から届いた」
怒鳴りこんできた管理官の顔は思いだすだけでぶるりと震えてしまうくらい恐ろしい。
「……よく捜査本部の人たちが許しましたね」
「どれだけ文句を言われようと、うちに捜査する権限があるという事実はかわらない。それに、うちにこれが回ってきたってことは特になにも得られなかったということだ」
「それを、別の視点……からやりなおすわけですね」
「そうだ。話しを聞きだし、被害者の人となりを知る」
あきらたちは霞ヶ関から幽人の車で、朋香の通っている目黒区の大学へ足をはこんだ。
午前九時半。構内にはそこそこ学生の姿がみられた。聞くともなしに聞こえてくるのは今日の授業のことであったり週末の予定であったり。
高校卒業してすぐに警察学校に入ったあきらとしては大学の自由な雰囲気がうらやましくもあった。警察学校は寮生活で、休日があるとはいえ自由は多いとはいえない。みずから望んだ進路とはいえ、いわゆるキャンパスライフというものへの憧れがないといえばうそになる。
「やっぱり大学生っていいですよね。高校生のときよりもずっとやれることが多くなるし。なんか憧れちゃいます」
「そうか?」
あきらはちらりと幽人の横顔を盗み見る。
「警部は真面目な大学生だったんですよね。飲み会に参加するよりも図書館にいそうな感じが」
「飲み会くらいでるぞ」
「えっ!」
「なんだ。そんなに驚くことか」
「いや、まあ……」
「よく飲み会の人数合わせによばれたよ」
「人数合わせてって、それって、女の子がいるような飲み会ですか」
「勉強する時間のためにも効率の良いバイトは必要だからな」
「お金とってたんですか!?」
「でたくないものにでるんだ。当然だろ」
おもわず幽人の姿を爪先から天辺までなめるようにみてしまう。
「なんだ」
「い、いえ。あの……行きましょう」
建物のなかにはいったあきらたちは学生課に事情を話す。
薄汚れた幽人の姿に警備員にとめらるというハプニングはあったがバッヂを見せてなんとか理解してもらえると、朋香の友人として名前があがっている生徒をよびだしてもらえることになった。学生課によると何人かは今の時間、授業をとっているはずだからおそらく敷地内にはいるだろうとのことだ。
聞き取りには就職課面談室を借りた。
被害者・永田朋香の友人、白川梓はどこかふてくされたような顔であきらたちの目の前にいる。彼女は学生課から緊急の用件があると聞かされているだけだっただけに、だまされたという気持ちはあるのだろうが、それ以上にまた警察かとうんざりした思いが強そうだった。
肩にかかるくらいの明るい茶に染められた髪はふんわりして毛先がゆるく巻かれている。化粧は念入りで、もしかしたら今日は合コンでもあるのかもしれない。
類は友を呼ぶではないが、朋香同様、かなりの美人だ。ただ梓のほうが化粧はもちろん、雰囲気が派手だ。
「はじめまして、白川さん。私は刑事の熊虎あきら。こちらが上司の樋向幽人です。あなたの友人である永田朋香さんの事件について調べています」
相手が女性ということもあって、事前にあきらが中心で、必要があればその都度、幽人が尋ねると打ち合わせしていた。
取り調べの経験はないからと最初は遠慮したが、捜査畑の刑事では意識しなくてもさも被疑者に対するような詰問口調になることもあるらしい。ここで相手に警戒されては意味がない。
「まえにも別の刑事さんにさんざん言いましたけど、クスリとかぜんぜん知りませんから」
梓はしきりに髪をいじりながら肉感的で色っぽい唇をとがらせる。
「クスリ?」
「クスリやってないかとか買ったことないかってそればーっか。まるであたしがやってるみたいに……もちろん、朋香だってそんなことをする子じゃないし」
「落ち着いて。私たちが聞きたいのはそういうことじゃなくて朋香さんの人となりなの」
梓は不信感をにじませた視線で、あきらと幽人を見やった。
「朋香はすごく面白い子よ。明るくて性格もいいし」
「リーダータイプってこと」
「うん。いつでも輪の中心にいるカンジ」
「親しい男性はいなかった?」
「カレシ?」
「でなくても、いい感じの子とか」
「前の刑事さんたちはカレシがクスリを誘ったんじゃないかとか疑ってるみたいだけどそんな人、いなかったよ。カレシができたら言うだろうし、仮にカレシがいてもクスリに手をだすようなバカを好きになるはずないよ」
「そっか。普段はどこで遊んだりするの。このあたり?」
「ううん、渋谷とか新宿とか……。もちろん女同士でね」
「朋香さんって写真でみたかぎりだと目立たないけどすごくおしゃれなアクセサリーしてるよね。ネックレスとかイヤリングとか」
梓はふて腐れたような表情を一変させた。息を吹き返したように目がキラキラする。
「そう! 朋香ってああいうの見つけてくるのうまいんだぁ。店員さんとかとすぐに仲良くなって、次のバーゲンがいつだとかこっそり教えてもらう仲になったり」
「そのアクセサリーかわいい。それ、朋香さんにえらんでもらったの?」
「そ。いーでしょー」
金色のそれはハートをかたどったものがついたネックレスだ。シンプルなデザインだが、目に留まると思わず見せて欲しいと思わせるものだ。こういうものをえらぶセンスがあるなら、同性からことあるごとに頼られたりするかもしれない。
このおかげで部屋の空気は目に見えてやわらかくなる。梓も心なし前のめりになる。
「バイトはしてた?」
「輸入雑貨をとりあつかってるお店。ストレンジランドっていうところ」
「前にも聞かれたと思うけど場所はわかる」
「うろおぼえだけど」
梓は渋谷区の住所を言った。あきらはそれを書き留める。
「ありがとう。ね、朋香さんとはクラブにいったりする? 渋谷とか新宿とかってけっこう大きなハコがあったりするんでしょ?」
「週末に何度かね。他の大学の子に誘われてね。あ、いっておくけど」
「わかってる。クスリとは無関係、でしょ?」
「そー。警察ってクラブっていえばクスリ、みたいにすぐつなげようとするでしょ」
「クラブとかいったことないんだけど、ナンパとかはひどいんじゃない?」
「場所によるけど、たぶんどこでも週末はひどいよ。平日だと常連とか店員さんが目を光らせてるからそこまでひどくないらしいけど。でもいっておくけど、ほんとにそういう連中にひっかかったりはしてないからね」
「うん、信じるわ」
「ね、朋香ってどういう風に殺されたの……その変なこととかされたり……」
「それは」
あきらは幽人を見た。これは捜査情報のひとつで、機密にされるべきものだ。
「すくなくとも乱暴はされていない。これ以上のことは教えられないが」
幽人が言うと、梓はとほっとしたようだった。
「……教えてくれありがとうございます。刑事さんたち、自分たちばっか一方的に質問してこっちがなに聞いても捜査上の秘密としか言わなかったから」
「――事件がおきる前後、朋香さんにおかしいところはあったか。薬とかそういうのとは関係なく、だ。なんでもいい。思いつくものを上げてくれ」
「……連絡がとれなかったから変だなとは思いました。電話にメール、ラインにも無反応で」
「様子を見にいったりはした?」
「しました。友だち、何人かと。でもチャイムならしてもぜんぜんでなくて。オートロックだから……。直接、よびかけるわけにもいかないし。まさか、こんなことになってるとは思って、なくて……」
梓は少し声をつまらせる。
あきらがハンカチをさしだすと、梓は目元におしあてるようにした。
「わざわざすまなかった」
「もう、いいんですか」
「十分すぎるくらい協力してもらった、ありがとう」
幽人の言葉を合図に、梓ははあがった。あきらもたちあがった。そこではじめてあきらの背がかなり高いことにきづいたように梓は口元をすこしほころばせた。
「刑事さんって背が高くてかっこいいね」
「え? あ、ありがと」
「ぜったいに、犯人つかまえてください。朋香のためにも。お願いします」
「最善を尽くすわ」
これならいいですかと、幽人を見る。彼は小さく顎を引いた。
梓につづく子たちも、あきらたちが警察であることを知ると、やっぱり顔をひそめてクスリのことはなにも知らないし、クスリをあつかっている知人もいない、何度も言ったはずだと不快感を隠さなかった。
そのたびにあきらたちは純粋に朋香のことについて知りたい旨をまず説明しなければならなかった。
呼び出しに応じてくれた生徒たちとの面談が終わったころにはすでにお昼近かった。
「警部、どうしますか。まだリスト全員と話せていませんが」
「その必要はない。十分、被害者の人となりについてはわかった」
「……バイト先を尋ねてみましょうか」
「そうだな」
バイト先の輸入雑貨店をたずねたが、えられるものはなにもなかった。
事件の前後は週三日のシフトを無断で欠勤。
店長をつとめる五十がらみの男性は携帯に連絡したが通じず、マンションを訪ねたが応答がない、店主も朋香は無断欠勤をする子ではないとも思ったが、所詮は学生……と深刻に考えてはいなかったようだ。
本来であれば安心して住まうためのオートロックのセキュリティが、かえって事件の発覚を伸ばしたという皮肉な結果になってしまったわけだ。
「警部。そっちは駐車場じゃ」
「あそこで少しやすんいこう」
幽人は昔からやっているような喫茶店をゆびさし歩き出す。
あきらはおいかける。
二人の影が長く尾を引く。ごみごみした街中が夕陽に照らされて赤々と輝いている。
チェーンの喫茶店の店内は空いていた。
店員がくると、幽人はバナナパフェと、メロンソーダを注文する。
「私は、コーヒーを」
室内はクーラーがほどよくきいて寒くはない。汗がすっと引いていくのが心地よかった。
「悪かったな」
「え」
緊張したさなか、いきなり謝られ、あきらは間の抜けた声をもらしてしまう。
「刑事に必要なこととはいえ一年目のお前にすこし無理を強いたようだ」
「そんなことは……。朋香さんがどういう子だったか分かりましたし。結構、大きな前進だと思います」
「違う。昨日の事件現場の話だ。――気が乱れている」
「そんなものまでみえるんですか」
昨夜の夢のことを思いだし、声に勢いがなくなる。
「見えるというか感じる、というか……。虎熊の場合、溌剌とした気が翳っているからな、わかりやすかった」
「なんか脳天気っていわれてるみたいですね」
心配かけまいと笑おうとしたが、苦笑めいたものになってしまう。
「お前がいやならやめてもかまわないぞ。もちろん、元通り、前の部署に戻るようなんとか手をつくそう。まだ正式な辞令がおりたわけではないからな」
「どうしてですか、私、やれます」
ぞわりと鳥肌がたってしまう。
「無理をさせて、お前の将来をめちゃくちゃにしたくない」
「私は……」
勢いこんで反駁しようとするあきらを、幽人は目顔で制する。
「人には適正がある。どれだけ正義感にあふれても、血がどうしても無理だという人間がいるし、被害者にたいして何の感情ももたなくとも機械的な捜査で高い検挙率のやつもいる。俺もそのあたりのことを失念していた」
「……あたしには、刑事の適正がないっていうことですか」
声に露骨に険が滲んでしまう。
「そうはいってない。適正がつくられる適切な時期が存在するということだ。一年目のお前には少々、経験がたりなかったかもしれない、そういうことだ。お前の人事はあたりまえだが異例そのものだ。一年目の交番勤務がいきなり刑事なんだからな。誰もお前に捜査官失格の烙印をおさないし、なにもできなくとも当然とおもうだろう。実力があっても早すぎるために潰れてしまう芽もある」
店員がパフェとソーダを運んでくる。パフェとメロンソーダをあきらのほうへ寄せてくるが、「あ、いえ」と上司のほうを示すと、店員は慌てたように申し訳ありませんと幽人の前へ置く。
背の高い透明な器にアイスと生クリームがもられ、チェリーやパイナップル、バナナでデコレートされたものがぎっしりとつまっている。メロンソーダは鮮やかな緑のソーダに、バニラアイスがまるっとした形で浮かべられ、チェリーがトッピングされている。
幽人は店員が遠ざかるのをみはからったように口をひらく。
「気、だとか、霊だとかバカらしいと思うか?」
「い、いえ……。そんなことは」
「じゃあどう思う」
直球すぎる質問に、しばらく頭を巡らせ、あきらは口をひらく。
「正直、よくわかりません……。そういうもので事件がほんとうに解決できる、なんて」
「俺はできると信じている」
幽人は澄み切った目で言った。決して気負っているという風ではなく、言葉どおり、信じている、そんな風に聞こえた。
「科学捜査も霊感も、この仕事において亡くなられた御遺体の無念な気持ちをくみとるということについて同じだと思っている。ただ両者の大きな違いは、科学捜査は誰もが納得できるだけの理論の裏づけがあるが、霊感はそういうものが一切ない、ただ、当人がそう言っているだけ、という点だ。まあ、これが実際には天と地の差くらい大きいが」
幽人はパフェのアイスをスプーンですくいあげ食べると、メロンソーダのアイスをソーダにつけて溶かしつつ飲んでいる。
会話はそれきりで、あきらは黙々とスプーンを動かす幽人を見守った。
水をがぶりと飲んで口のなかにのこるブラックの苦みを押し流す。
「警部、私、やります。御遺体の無念な気持ちを、くみとる役に立ちたいんです。もし、警部が足手まといになると判断されましたら指示に従いますが」
「俺がそもそもお前を呼んだんだ。そんな判断はしない」
「でしたら、続けさせてください」
「わかった。しかし今日はこのまま帰って、休め」
「……わかりました」
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