第4話

暗闇のなかにあきらは立っている。

 どこに向かえばいいのか、どこにいるのかはわからないほどの深い闇に囲まれている。

 あきらはパジャマ姿だった。裸足のまま無闇にあるきだす。その足取りはよたついている。

 どこまで進んでも暗闇が切れることはなく、進んでいるという実感すらない。

 ふと、足がとまった。一度、嗅いだことのあるにおいが鼻を過ぎったのだ。

 それだけで全身の毛穴という毛穴が広がるのがわかった。

 そのにおいは魚がくさったような、糞尿をおもわせるようなどぎつい臭気。

 あきらは身をかがめる。胃の腑が暴れ、酸っぱいものが口いっぱいに広がる。

 戻しそうになるのをなんとかこらえたが、涙がにじんで視界がかすんだ。

 と、目の前でなにかが揺れているのがわかり、おそるおそる顔をあげた。

 距離感は掴めない。十メートル以上離れていると言えば離れているかもしれないが、すぐ間近にあるとおもえばそういう気もしなくもない。

 風をあびてカーテンが棚引いているような動きだ。しかし風は感じなかった。

 ただし、ゆらめくなにかはたしかにそこにある。膝をついた恰好のまま目をこらす。

 やがてゆらめくものが輪郭線をもつ。

 闇のなかから滲んでくるのは白いもや。それは細長い。

(人……?)

 もっとまぢまぢとみれば、思わず息を呑んだ。

(な、永田さん……)

 永田朋香。その名前が頭に浮かんだ瞬間、血の気が引く。

 白いもやは急速に肉をそなえはじめたのだ。まるであきらに認識されるのをまっていたかのように。だが、目の前にあらわれる朋香は、生前のものではなかった。

 身体のあちこちは変色して腐食し、ぐぢゃぐぢゃにされた頭に申しわけていどにのこった髪は剥がれ落ちた皮膚に絡みついている。目鼻がわからないくらい変形した顔がたしかに自分をみているのがわかった。

 紫がかった赤黒い筋肉組織のなかにみえかくれする骨,締まることなくぽっかりとひらきつづけている口から糸引く茶褐色の体液。すべてが生理的嫌悪に充ち満ちている。

 ずりり、ずり、り。なにかをひきずるように朋香は近づいてくる。

 それにつれて胃の腑を炙られるような臭気がつよくなった。いや、それはにおいというよりも、形をもっているかのようにあきらの身体にまとわりついてくるようなきがした。

 何度もえづきがおそわい、涙がとめどなく溢れる。

 肌が粟立ち、身体が震え、歯の根があわなくなる。

 あきらは動けなかった。いや。本人も気づかぬうちに尻もちをついていた。

 うめくような声が聞こえる。涙をぬぐうと、目の前いっぱいに朋香の顔が迫っていた。

 首をしめられる。急速に気道が圧迫された。顔が熱くなる。

 え……う……ぁ……。

 きれぎれに口からはうめきが漏れ出る。ますます首にかけられた手に力がこもる。

 反射的に手首に手をかけるが、ズルリッと肉片が剥がれおちるだけだった。

(な、がた……さ、ん……)

 おぞましいほどの腐臭が鼻腔にどっとなだれこんできた直後。

 コキリ――。いやなおとがひびいた。


 あきらは飛び起きた。額や脇、背中に妙にねばりつくような嫌な汗をかき、鼓動も早かった。

 反射的に首をさする。室内を見回したが、そこはいつもとかわらぬ寮の自室だった。

(あんな夢をみるなんて……っ)

 あの永田朋香の姿は遺体写真のものと寸分かわらず、あのにおいは事故現場で嗅いだもの。

 まるで今もまだ夢のなかにいるような感覚があった。ベッドからおりたつ動きもどこかこわごわとしたものになってしまう。

 鏡で顔をみると、心なしやつれているように見えた。

(たった一度、写真をみて、片づいた現場にいっただけなのに)

 たしかに現場は凄惨だった。しかし、あきらはそれを直接、みたわけではないのにこのざまでは今後、思いやられる。

 共同の洗面所で何度も激しく顔を水で洗った。手探りでタオルをつかもうとすると、「はい」という声と一緒にタオルを渡された。タオルで顔を拭いつつ顔をあげる。

「……おはよ」

 鮎美は顔をのぞきこんでくる。

「大丈夫? 顔色、悪いわよ」

「平気……だと思う」

「そうは見えないけど。……ねえ、あきらの新しい上司の人の情報、私なりに集めてみたんだけどさ」

「どうしたの。……もしかしてやばい人?

 鮎美らしからぬ反応に柳眉をひそめた。

「やばいっていうか、私は面白いって思ったけど」

 鮎美は初対面でも十分くらい話せばあっという間に友人になってしまうという、人見知りするあきらからすると超能力みたいな力で、卒配半年にしてとんでもない情報通になっている。

「つまり変人……ってわけね」

 まあねと言うように鮎美は肩をすくめた。

 鮎美には悪いが、すでに幽人が変人だということは初日にしてよく分かってしまっている。

「霊感があるんでしょ」

「なーんだ。もう知ってたの」

「たしかに変わってるかもしれないけど、まじめな人、だと思う」

「でもあんまり好かれてないっていうか、胡散臭いみたい。なんでもかんでも幽霊とかそういうものに結びつけて。でも事件はしっかり解決するから、腫れ物をさわる……っていうか、危うきに力寄らず、っていう感じ」

 鮎美は噂話だけでも目をきらきらと輝かせる。可能なら自分がその警部の下で働きたいと言わんばかりだ。

「もしなにか面白いことがあったら教えてね」

「あのね。言っておくけど、今、私たちが捜査してるのは殺人なの。そんな面白がるものじゃないんだから」

 鮎美がなにかを言う前に、あきらはぴしゃりと言って部屋へ戻っていった。寝起きの憂鬱な気持ちは多少だが、薄まっていた。

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