第3話

現場のマンションへは幽人の車で向かう。

 あきらは助手席だ。運転は自分がと言ったのだが、幽人が「運転手を雇った覚えはない」と譲らず、結局、今の位置に落ち着いている。

 グラブボックスはあいていて、そのなかには金平糖の袋がいれられている。

 幽人は片手でハンドルを握りつつ、もう片方の手で器用にとって口に放り込んでいる。

 幽人は目顔でお前もどうだ、と示したが、これから事件現場にむかうこともあって遠慮しておいた。

 車内には砂糖の甘いにおいが漂う。

「……被害者の永田さんのご両親に連絡はいったんですか」

「ああ。彼女は宮城出身でな。捜査本部から連絡が入ってすぐに引き取りにこられたそうだ」

 朋香はひとり娘だったようだ。まさか自分の娘が、東京でこんな凄惨な事件に巻きこまれるとは夢にも思っていなかったはずだ。

「遺体は、御覧になったん……ですよね」

「そうだろうな」

 それきり現場に到着するまで会話はなくなった。

 おこがましいこととは承知しながら朋香の両親の心を考えれば、冷静でいなければならないことは頭ではわかっているが怒りで震える。

 パーキングに車を止め、マンションへ向かう。

 こぎれいなエントランスをくぐると、ここで幽人を逮捕したという事実がまざまざよみがえり、なんとなくばつの悪さを覚えてしまう。

「警部、お、お身体のほうは……どうでしょうか。どこか痛めた、とかはありませんか? 結構、つよく押し倒しちゃって」

「別になんともない。第一、犯人を制圧するのに手加減もなにもないのは理解できる」

 あきらはふと顔をあげ、玄関のエントランスをうつす監視カメラに気づいた。

「怪しい人物なんかはうつっていなかったんでしょうか」

「解析はすでにすんでいる。それにも怪しい人物の出入りはなかったようだ。そんなやつがいればすでに捜査本部が動いているだろ」

「……ですよね」

 幽人は自動扉の前に設置されている機器を操作して管理人を呼び出す。

 五十代くらいとおぼしきマンションの管理人の女性は、幽人の顔をみるなり、すこし困ったような顔をした。

 あきらが部屋の鍵をお願いしますと言うと、ますますその顔が渋くなる。

「いや、でも。ね……。あのあと、刑事さんたちに、不用意に鍵をあけないようにって言われちゃってねえ」

「ご心配なく。我々は正式な捜査活動の一環としておこなっているんです。それによってあなたがなんらかの罪にとわれることはありません」

「いや、でもねえ」

 そうとう刑事たちからきつく言われたのか、なかなか首を縦にはふらなかった。

 それでもあきらたちが粘ると、タメ息をひとつつきつつ、ようやく鍵を手に部屋をでてきてくれた。ただ、遺体を発見したということもあるのか部屋にはぜったい近づきたくないと、鍵の束をおしつけてくる。

「あのぉ、犯人はまだつかまらないんでしょうか。うちの住人さんも怖がってしまって、もう何人も引っ越ししているんですよぉ。五階なんてもう誰もいなくなって……私も、できるならさっさとでていきたいんだけど、費用もばかにならないでしょう……」

 管理人は弱り切っていた。

「ご安心ください。犯人は私たちがかならず逮捕しますので」

「ええ、お願いしますよ」

 エレベーターにのりこみ、事件現場である五階フロアへ向かう。

 現場は角部屋のワンルームだ。

 幽人を先頭に室内へ入る。

 はじめての事件現場。鼓動がすこし早まり、身体が小刻みに震えた。

 現場写真の様子が頭のなかにまざまざとよみがえってくるようで下唇をきつく噛む。

「虎熊」

「あ、はいっ」

「あんなことは二度と言うなよ」

 幽人の顔は心なし険しかった。

「あんなこと……?」

「犯人は絶対に逮捕する、ということだ」

「どうしてですか。だって、それがあたしたちの仕事じゃないですか」

「当たり前だ。だがな、これは現実の事件で筋書きが決まったドラマの世界でおこっていることじゃない。たしかに殺人に時効はなくなったが、いつまでも全力体制で捜査がおこなわれるわけじゃない。新証拠がでないかぎり再捜査されない事件がそこらじゅうにある。さっきのは管理人だからまだ良かったが、遺族あいてに必ず逮捕しますといったその口で、自分たちの力のいたらなさで別の部署に引きつがれることになった、なんてそんなことを言えるのか。言えるとしたらお前はそもそも警察官としての適正に問題がある。いいか。二度と、そんな無責任なことは口にするな」

「…………」

「わかったのか、どうなんだ」

「……すみません、軽率でした」

 幽人の言葉がわからないわけではなかったが、やはり釈然としないものはある。それではまるで自分たちの失敗への予防線を張っているようではないか。

 たしかに警察官は万能じゃない。未解決事件もたくさんある。それでも心のどこかで解決できないかもしれない、そう思っていてはすでに心で負けてしまっているようではないか。

 あきらはかぶりを振った。

 いけない。今は事件現場の観察に集中しなければ――。

 間取りは1K。広さは十畳ほど。

 事件発生から一週間、部屋にはまだ血のにおいと糞尿にも似た排泄物の臭気、かすかな腐臭が残っていた。胃をつきあげられるような感覚があって、唇を噛んだ。

「戻すなよ」

 あきらは唇の色が白くなるくらい強くかみしめ、小刻みにうなずく。

 遺体の凄惨さばかりに目がいっていたが、写真はにおいまで伝えはくれない。

 生ゴミというのか、排泄物というのか。とにかく悪臭という言葉が生やさしく思えるほどの臭気が染みついていた。

 おそらく鑑識が証拠物件としてもちさったのだろう、部屋はがらんとしている。残されているのは木製の丸形テーブル、布団一式のはぎとられたパイプベッド、細々とした小物類。

 それでも壁や床に飛び散った血痕、そして被害者がすわりこんでいた床の黒ずみはここがたしかに現場であることを訴えかけていた。

 あきらはしばらく我慢していたが、ついに耐えきれなくなってベランダにとびだし、新鮮な空気を求めて口をぱくぱくさせる。涙がにじんでくる。

「……け、警部はあの夜、なにをされていたんですか」

 ベランダの手すりにやや身体をもたれかけさせ、室内にいる幽人に声をかける。

「残留している気を感じていたんだ。被害者、加害者……。ぜったいになにかが引っかかる……そういう現場が存在する。ここがまさにそうだった」

 幽人は顔色ひとつ変えず、けろりとしている。やせ我慢をしているようにも見えない。

「……気、ですか」

 第六感うんぬんといわれても、あきらにしてみれば半信半疑なままだった。

「被害者、加害者……そしてあといくつもの微弱な気……おそらく生きているものではないもの――そこに事件の手がかりはあるんだ」

「……警部には本当に、そういうものが見えるんですか。霊能力者みたいに?」

「さあな。霊能力者といわれる連中に知り合いがいないからわからない」

「気ってどんな風に、見えて……感じて? いるんですか」

 幽人はしばらく考えるように腕をくんだ。

「たとえばさっきいた部屋だ。お前は慎重に進んでいたな。どうしてだ」

「それは、そうしないと、書類の山が崩れそうだったんで」

「そうだ。あの書類の山を、この部屋の雰囲気と考えろ。いつも俺たちがなにげなく暮らしている日常にある雰囲気。乱暴に動けば書類の山が崩れてしまうと同じように、霊体が通ったあとにもそういうことがおきる。ただし、特定のなにかが壊れたり、場所を移動したりするわけじゃない。あくまで空気感としてそういう歪みが生まれる。ただ、幽霊が通っただけじゃそういうことは起きない。長く居座ったり、その場所に対してなにかしらの思いをもっていなければそこまでにはならない」

 わかったような、わからないような。

「それじゃ、警部には、この部屋の空気が、崩れて見えるってことですか」

「そうだ」

「被害者の幽霊っていう可能性はないん、ですか」

 あきらは言いつつも、なにを言っているのだろうと思ってしまう。

 とくに心霊やオカルトのたぐいが苦手とか嫌いではない。エンターテインメントの範疇としては心霊写真やら怪談はたのしめるタイプだ。しかしこれは正真正銘の殺人事件なのだ。そこに幽霊という存在がはいりこむとさすがに違和感はぬぐえない。

「霊体そのものの区別は俺にはできん。しかし複数の霊体がここにいたことはたしかだ。でなければ、こんな崩れ方はこれまでの経験上、ありえない。この間、管理会社から聞き出したが、このマンションで自殺や自然死といったことはないようだし、このマンションの土地についても別段、問題はなかった。仮に土地そのものになにかがあればマンションに近づいただけで崩れに気づいているだろうからな。――理解しろとは言わない。どうせ、お前には感じないんだからな。感じるのは俺の役目だ。それより気分は楽になったのか」

「あ、はい、だいぶ」

 あきらが室内に戻ると、

「なにをしているっ!」

 玄関のほうから怒声が轟きわたった。その暴力的な声に、あきらは首をすくめてしまう。

 スーツ姿の男が部屋に入ってくる。

 オールバックになでつけられたヘアスタイルに、鷲鼻が目を引く面長な男だ。

「捜査活動ですが」

「現場に勝手に出入りするなと言ったはずだ!」

 つめよろうとする男をあきらが制止しようとすると、「邪魔だ」と思いっきりつきとばされ、尻もちをついてしまう。

「管理官。あいては女性です。あつかいには気をつけていただきたい」

「女?」

 鷲鼻の男が鋭い眼光があきらを射る。

「あ、はい……あのっ、私、巡査の……」

 あきらなどどうでもいいとばかりに、男は幽人につめよった。

「制服警官までだまくらかしてなんのつもりだ」

「彼女は僕の部下です」

「部下だと。そんなのは初耳だな」

「正式な辞令はまだです」

「貴様、警察組織をなんだと思っているっ! どうして上がお前みたいなやつを優遇するのか理解できん。これまでの解決もまぐれ当たりにすぎんだろうに」

「これまでの捜査は別の視点から見ることでしか解決にこぎつけることが――」

「黙れ。とにかく即刻ここからでていけ。これはうちの山だ。貴様のようなやつにひっかきまわされてたまるかッ」

 男は今にも血管の束が切れそうなくらい顔を真っ赤にし、文字通り口角泡を飛ばした。

「管理官、我々の活動は正式なもので……」

「黙れといっているのが聞こえなかったか。いいか。次にこの現場……いや、このマンションにすこしでも近づいてみろ。ただではすまさんからな。捜査妨害で逮捕してやる。貴様みたいな捜査のその字もまともに理解していないひよっこにひっかきまわされてこっちは迷惑してるんだ。いいな、即刻、消えろっ!」

 男は言うや、さっさときびすを返す。玄関には部下らしい男が、もしここにとどまるようなら実力行使も辞さないという構えで、あきらたちを睨めつけている。

「大丈夫か」

「あ、ありがとうございます、平気です……」

 自然と差し出された手をあきらは握り、おこされた。

 部屋を出ると、開いた扉の影にちぢこまるように管理人の女性の姿。

「あの人……管理官って」

 マンションから出たあと、あきらは口をひらいた。

「今回の事件の捜査本部の現場責任者、飯塚正幸警視だ」

「け、警視……」

 今年任官したあきらにとって、その存在はまさに雲の上の人、いや、ドラマの世界の役職といっていい。

「こんなペーペー警部にひっかきまわされたくはないんだろう。その気持ちは理解できる」

「それじゃ捜査はやめるんですか!?」

「まさか。熊虎、現場もみたことだから、今日は直帰しろ。捜査はまた明日からだ。それから明日はスーツで来い。制服だと目立つし、一般人が萎縮しかねないからな」

「わかりました」

 幽人とマンション前で別れた。

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