第2話異変からの
俺はビクリとしてボウガンを持ちあげ、椅子に座ったまま振り返る。
視線の先には犬が一匹いるばかりだった。
白い毛で、薄い茶色が混ざっている、毛色のよくないシーズー。
家で飼っていた中の一匹、最後まで残ったオスのブン太だった。
親父とお袋は犬が好きで、シーズーを六匹にも増やしてしまっていた。
病気になる前はお袋が世話をしていたが、シーズーは長生きする。
お袋がリュウマチで動けなくなると、すべての世話は俺の仕事になっていた。
お袋も死んだので、俺は世話が面倒くさくなり、犬どもを外へ解き放ったのだった。
みんな喜んで広い世界へ旅立っていった。
ブン太一匹だけとはいえ、戻ってくるとは思わなかった。
自分の飼っていた犬なら、撃つ気にも食う気にもなれない。
ブン太は勢いよくしっぽを振って、俺を見つめていた。
俺も見つめ返す。
突然、ブン太の口の端がつりあがり、ニタリと笑った。
犬にはありえない笑い方で。
俺はゾッとして、身動きできなくなる。
だが、それも一瞬のことだった。
ブン太の顔は普通の犬に戻っている。
今の邪悪な微笑は、薬を飲んでいないことによる幻覚だったのかもしれない。
いつか限界がくる。
それがこないことを祈ってはいたが。
俺は気を取り直してブン太を見つめた。
ブン太が近づいてくる。
ドッグフードはまだ残っていた。
戻ってきたなら餌を恵んでやろう。
俺は家へ入り、ドッグフードを持ってくるとブン太に与えてやった。
ブン太は餌を食うと、また気楽な調子でどこかへ去っていった。
俺も自分の食事を終えて一息つく。
今日も米はうまく炊けた。
満足できた食事だった。
三十分ほど経って、口の中が粘ついてくると歯磨きをする。
今や、虫歯になっても歯医者はいない。
歯磨きも重要な日課の一つだった。
口を濯ぐのもペットボトルの水を使う。
食べ物はだいぶ余裕あったものだが、水のほうが先になくなるだろう。
それに重くかさばるので、運ぶのも大変だった。
そんな水をトイレに使うわけにはいかない。
大便小便は庭に穴を掘り、そこで済ませていた。
少し離れた場所には川もあったので、水が飲めなくて死ぬことはないだろう。
しかしもっと面倒がない、いいアイデアはないだろうか。
自分の浅学さが恨めしい。
腹はいっぱいになったが、電気が使えないとなると、家にいてもやることは少ない。
ホームセンターから発電機を二台運んできていたし、燃料も豊富だったが、音があまりにうるさいので、あくまで非常用だった。
この先、寒さが厳しくなったら使う。
俺の新たな日常は、日用品を漁ってくるか、読書をするか、街を散策するかしかなかった。
今日は天気もいいし、散歩に出かけよう。
残った米でおにぎりを三個作り、梅干しを詰めてリュックに入れる。
リュックには飲み物のペットボトルも加えた。
何が起こるかわからないので、武装もしていく。
暴発が怖いので、ボウガンから矢を外す。
その矢は肩からかけるベルトに収める。
ベルトには全部で十本の矢が差し込まれていた。
それから大振りな鉈を腰にぶら下げた。
これで準備は整った。
ボウガンを両手で持って、門から外へ出る。
街はいつも通り静かだった。
風が近くの神社の樹々をざわめかせている。
どこかで雉が甲高い鳴き声をあげていた。
俺は足を踏み出し、車も人もいない道路の真ん中をゆったりと歩いた。
死の世界は、まったく居心地がいい。
少し前まで、俺は自分の病気と親の介護、貧困によって世界から置き去りにされていた。
それが今じゃ世界の王だった。
人の営みには置き去りにされてしまっていたが、世界そのものが目の前に残されていた。
空気に満ちる薄い腐敗臭は、このさい甘受しよう。
海辺にいるのと変わらない。
俺は落ちついた気分で、自分の領地を眺めながら歩いた。
どこかには俺のような生き残りもいるのだろうが、目に入る範囲には存在しなかった。それでよかった。
コンビニの廃墟へ向かう下り坂を降りかけたとき、視野の隅に動くものがあった。
反射的にそちらを見る。
坂の始まり、安っぽいアパートの前にある駐車スペースで、赤い軽自動車が揺れていた。
中でカップルがレスリングをしているかのように、ギシギシと。
もちろん誰も乗っていない。
身体の一部さえも見えなかった。
俺は慌ててボウガンに矢をつがえた。
いつでも撃てるように構えて、様子を見守る。
車は動力源もなく揺れていた。
ただそれだけだった、今は。
俺の領地で何かが起こっているなら、それを見過ごすことはできない。
見ていても埒が明かなかった。
俺はボウガンを構えたまま、ゆっくり慎重に近づいていく。
数歩進んだとき、さらなる異変が起こった。
車の輪郭に沿って、藍色と金色の二重になった煌きが広がる。
それに包まれると、揺れる軽自動車は端から溶けるように消えていった。
残った藍色と金色の煌きは、空中を漂い、駐車スペースのコンクリートに垂れた。
薄汚れたコンクリートが、可塑性プラスチックのように、ぐにゃりと歪んでいく。
駐車スペースの大半を溶かして変形させたあと、煌きも消えた。
人間、信じられないような光景を目にすると、まずは好奇心に支配される。
俺は数メートルの距離で立ち止まったまま、歪んだコンクリートをじっくりと観察した。
音も匂いも動きもない。
溶けたコンクリートに向かって、ボウガンの引き金を引き絞る。
矢が飛び出し、硬い音を立てて跳ね返った。
コンクリートの地面は、確固とした実体を持っているようだった。
俺はすぐそばまで歩いていって、さらにしばらく眺めた。
おずおずとつま先を伸ばして触れる。硬い。
それからバンバンと足で踏みつけてみた。
古びたコンクリートの感触がする。
最初からこんな、溶けてうねった形をしていたのかもしれない。そんな気までしてくる。
しかし、赤い軽自動車は跡形もなく消滅していた。
この世界からこぼれ落ちてしまったように。
俺は頭を捻った。
空は晴れ渡り、風がそよぎ、鳥の鳴き声が聞える。
左手を伸ばして、車のあった空間を探ってみた。
何も異常はない。
俺はできるだけ論理的でありたいと、考えを巡らせてみた。
そもそも、ここに車があったことは確かだろうか。
俺のような人間は、まずそこから考え始めなければならない。
記憶を探る。
動かないものだったから、特に注意を払っていなかった。
だが、車は確かに存在していた。
何週間もずっと、動かずに。
手で触れたことはないのが、今になってみると悔やまれた。
そうだ、俺は車を目にしていたが、金属のボディの感触を確かめてはいない。
あの車は俺の脳が作り出した幻影だったのだろうか。
ゼロじゃないとはいえ、その可能性は低かった。
幻覚というものは不規則で、気まぐれなものだった。
統合失調症が悪化し、初めて陽性症状が燃えあがったときも、視覚に訴えるよう幻覚はほとんどなかった。
ときおり人の口が不自然に動いて見えることならあった。
その口が俺のことを謗り罵る。
人の口が偶然動いたときに幻聴が乗ったのか、口の動きそのものが幻覚だったのか、今となってはわからない。
だが、視覚的な幻覚は、あったとしてもそれくらいのものだった。
はるか過去、最も悪化していた時期でさえそんなものだった。
自動車みたいな大きいものが、何週間も存在し続けるような幻覚が見られると思えない。
それならばやはり。
車が世界から消えたのだった。
少なくとも、俺の世界からは。
俺が持てる精一杯の論理ではそうなる。
さらにしばらく、その場に留まって周囲を観察した。
納得のいく答えなど得られない。
ヒントもなかった。
俺は諦めて、歩くのを再開した。
他の場所で同様の異変がないか、見て回るべきだった。
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