遺残の犬

進常椀富

第1話終末に至り

 俺は寝室のドアを開けた。

 強烈な悪臭が吹き寄せてくる。

 この臭いは家全体に充満しているものの、寝室のは一層強烈だった。

 この部屋が臭いの発生源なのだからしかたない。

 

 ベッドの上に目をやる。

 お袋が順当に腐っていた。黒く萎んで腐臭を放っている。

 もう生き返ることはなさそうだった。

 

 俺をこの世にひり出した女は、死んで腐っている。

 この数年はリュウマチが悪化して、立つこともできなかった。

 刺激がテレビぐらいしかなかったので、頭のほうもだいぶ鈍り、耳まで遠くなっていた。

 俺は日々、その世話に追われていたが、正直持て余していたところだった。

 金がなければろくなサポートも受けられない。

 親子ともども疲弊し、擦り切れるようにして死んでいくのが目に見えていた。


 だが、お袋は俺を残し、伝染病で死んだ。

 世界全部が道連れだ。

 最後は数日苦しんだかもしれないが、まあまあマシな死に様だっただろう。

 地獄の釜が溢れかえり、寂しいどころじゃないはずだ。

 

 夏場じゃないのが救いだが、この冬は暖かかった。

 窓を開け放していても、腐敗が止まるほどの寒さはない。

 そろそろ俺はよその家へ移りたいと考えていた。

 

 無人の空き家は、今やいくらでもある。

 ただ、そこに腐乱死体がないとも限らない。

 お袋の死体が間近にありながら、俺が引っ越さない理由はそのせいだった。

 どうせ腐った臭いを嗅ぐはめになるなら、赤の他人の腐臭よりは身内のほうがマシだ。


 街はまったくの静けさに包まれていた。

 無駄なあがきで逃げたにしろ、死んでいるにしろ、生きた人間はいない。


 生きた人間がいたとしたら、それは間違いなく精神病患者だった。

 しかも、おそらく薬が切れている状態の。

 少なくとも、こっちの助けにはならない相手だ。

 俺のように平静さを保っていたとしても、そんなタイプは他人と関わりたがらないだろう。

 俺とて同じこと。

 街は甘い死の静寂に包まれていた。

 鳥の鳴き声と犬の吠え声ぐらいしか聞こえてこない。


 世を呪って四十年、親の世話に追われて仕事も金もなく、死の息吹に耳がくすぐられ始めた矢先に、世界は驚くべき早さで楽園に変わった。


 俺はこの街に一人きりの生き残りだった。


 ウバンギ放屁熱。それが福音の名前だ。

 潜伏期間、最長四週間。

 発症した場合の致死率九十九パーセント。

 アフリカ発祥の、この空気感染する熱病が世界を席巻した。

 発症者は平均四十度の発熱をし、嘔吐と下痢、そして放屁を繰り返しながら多臓器不全に陥って死に至る。


 世界は死にゆく者のガスで満たされた。


 俺には感染しない。

 

 理由があった。

 

 俺と同じ薬を同じ量ぐらい飲んでいた人間は生き残っているはずだった。

 俺は統合失調症で、抗精神病薬と睡眠導入剤、二種類の薬を二十年ほど服用していた。

 これらの薬は脳内物質のバランスを調整して、病状を改善するためのものだったが、長年服用していると、副作用もあった。

 これらの薬によって、脳内物質を恣意的にコントロールしていると、通常には存在しない脳内物質が生成された。

 その新しい脳内物質が、新たなホルモンの分泌を促す。

 そのホルモンが身体に流れていれば、ウバンギウィルスは感染することができなかった。

 どこまで本当か知らないが、テレビではそんなことを言っていた。

 終末の寸前に。

 

 世界がその秘密へたどりついたときには、もう遅かった。

 抗精神病薬も睡眠導入剤も、もともと風邪薬のように万人が使うものじゃない。

 生産も覚束ないような状況で、在庫は瞬時になくなった。

 長年の服用をしなければウバンギウィルスに対する耐性は得られないはずだが、果たしてどれほどの人間が生き残ったものか。

 すでにメディアも息絶えていて、俺には知りようもなかった。

 政府の対応はすぐにパンクし、自宅で病禍が過ぎるのを待て、というお達しだった。


 店も開いてないので、俺は引きこもった。

 お袋と一緒に二週間ほど侘しい食生活を送ったあと、とうとう食べるものがなくなって外へ出たとき、人の姿は消えていた。

 親父もずっと帰ってこない。

 すぐにテレビとラジオの放送がなくなり、電話もネットも使えなくなった。

 今は電気も通ってないし、水道も出なくなっている。


 幸いなことに、近所のスーパーは略奪されきっていなかった。

 冷蔵設備が働かないので、生鮮食料は全部ダメになっていたが、日持ちのする食料はいくらでも残っていた。

 人々が飢える間もなく死んでいったという証だった。

 死者は食わない。だが生きていれば、そうもいかない。


 腐臭の漂う家にいても、慣れていれば腹も減る。

 食事の準備をしよう。

 そう思って部屋からボウガンを取り出し、俺は玄関から外へ出た。

 電気が使えないのは不便だったが、俺もガキじゃない。

 使える物を集めてきていた。


 家の庭、雑草の混ざる芝生の上には、プロパンガスのボンベが一本とガスコンロ、それにガス炊飯器を設置していた。

 大型のガス炊飯器は、近所のファミレスから奪ってきたものだった。

 他には、張り出した屋根の下にテーブルセットも置いてある。

 この場所なら雨も関係ない。

 電気が使えないので、家の中にいても寒い。

 いざとなれば焚き火のできる外で食事したほうがよかった。


 俺はテーブルの上にボウガンを置き、食事の準備を始めた。

 とはいえ、やることは少ない。

 釜にペットボトルの水と米を入れて火をつける。それで終わりだった。

 おかずは鯖の水煮缶にする。

 あとは米が炊けるのを待つだけなので、テーブルセットの椅子に腰をおろす。


 目の前のボウガンは弦が引かれ、矢がつがえてある。いつでも射つことができた。

 匂いにつられて犬猫が現れれば撃って肉にし、人間が現れれば、それも撃って……、撃って……、そのあとどうしたもんか……?


 ときおり思考の糸がもつれて、頭の中に鮮やかな色彩が広がったかと思うと、ピタリと動きを止めてしまう。

 おそらく病気のせいだ。

 俺はもう一ヶ月も抗精神病薬を飲んでいない。

 どこの薬局も派手に略奪されていた。

 ウバンギウィルスを防ぐ要因の一つと断定されたため、俺の薬は一錠さえ残っていなかった。

 病状はずっとよく、寛解状態だったが、それでも低量の継続的な服薬が必要な病気だった。

 ストレスとなる人間関係はないし、思考のもつれ程度の悪化で済む可能性もある。 

 俺としてはそれに賭けるしかない。


 俺は人のいない世界で、ボウガンを準備し、屋外に置いたテーブルセットに座り、庭で蒸気を吹き出すガス炊飯器を見つめながら、物思いにふけった。

 人が現れたら、どうして撃たなければならないんだろう。

 普通に接し、食い物を分けてやればいい。

 食料は軽く数年もつ程の量があったし、これですべてというわけでもない。

 土地はいくらでもあった。

 これから食べ物を作ることもできる。

 今から始めるとしたら芋だろうか……、わからない、それは図書館にでも行って調べなければ。


 そこまで思考が泳いだとき、ふと気がついた。

 生き残りを殺さなければならない理由を思い出す。

 生き残りがいたとしたら、そいつは俺と同じ、統合失調症なのだった。

 俺はまだ冷静に落ちついていられるが、相手もそうとは限らない。

 または友好的なフリをしておいて、不意に襲ってくるかもしれない。

 だから先手を打たなければならないのだった。

 もしかしたら、相手も俺のように病状がいいかもしれない。

 俺のように筋道を立てた論理的思考ができている可能性もある。

 その場合はどうするか……。


 答えはやっぱり同じだ。

 相手が冷静に考えられるなら、俺と同じことを考えるだろう。

 つまり、俺が信用できる相手じゃないと考える。

 どのみち先手を打つしかなかった。

 願わくば、相手が飛び道具を持っていないことを祈るばかりだ。


 そのとき背後で、芝生を踏む小さな足音がした。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る