第2話


 極楽は余暇、地獄は予兆。

 この街には、どちらも溢れかえっている。


「極楽に酔う、それは地獄の予兆」

 男は隣で艶かしく微笑む妓女の言葉に、書き綴る筆を止めた。視線だけ妓女に向ける。

「そう言うお前は何に酔ったのかな?」

「まぁ、いつになく野暮なことをお聞きになる。」

 妓女は、杯の酒を飲んだ。ゆっくりと杯を膳に戻すと、妓女は男の顔を見た。

「地獄と知って泣くとわかっていても、わたくしは貴方様にもっと酔いたい。」

 妓女は男にすり寄り、その背に寄り添い身を委ねる。

らん様......」

 妓女は、甘い声で男の名を囁く。

 そうして、その白い手が男の股間へ伸びた時、男はすいと立ち上がる。

「悪いね、仕事が待っているんだ。極楽は余暇、地獄は世帳。ともに現実地獄に戻るとしよう。」




 ―時は、奏珂王そうかおうの御代にあった。


 ここは、奏国王都貴晏きあん

 長きに渡る戦争が終わりを告げてから8年の歳月が経ち、国は平常を取り戻していた。

 大国奏国で、一際華やかで昼も夜も人で賑わう眠らない街がある。それがこの貴晏花街きあんかがい。奏国龍州、王都貴晏きあんにある奏国随一の花街である。


 蘇芳は、空を仰いだ。

 星を読もう。そんな気持ちに駈られても、夜空には月が悲しくあるだけで、あるはずの星は地上の明るさにかき消され、ほとんど闇に埋もれている。空を眺めながら、ふと幼い頃の記憶が蘇った。あの日も、こんな風に空を見ていた.....。

 .................それにしても。

「いつもいつも、騒がしい街だ。」

 毒づきながら、道行く人を見る。酔っ払いと商人と妓女の山でごった返している。

「ここにある星は、キラキラしてても所詮......。」

 揃いも揃ってどこもかしこも作り笑い。蘇芳は、溜め息をついた。

「…ふっ。その顔の心中は、紛い物ばかりでいけ好かない...そんなところか?峻麗シュンレイ?」

 不意に名を呼ばれて蘇芳は声の主へ視線を移した。そこに立っていたのは、蒼銀の長髪に暗紅色の瞳をした美男だった。

「いけ好かないですね。...その無駄に綺麗な顔も。」

 蘇芳はそう言うと、花街の奥へと歩き出す。

 蘇芳は、氏をリュウ、名を峻麗シュンレイという。名の一文字に【麗】を付けて呼ぶのは奏国で美人に対して使われる呼び名である。そして今、蘇芳の横を歩く長身美形のこの男は氏を、名を雪梛セツナという。花街の大宿香舜楼の大主であり蘇芳の後見人保護者である。

梓大主シたいしゅ、ご命令通り目標は仕留めました。大主様はどちらに行ってたんですか?」

 蘇芳は褪めた視線で男を見た。大主の着物から女の香りが漂う。おおかた、贔屓の妓女のところに行ってきた帰りだろう。

「仕留めた?有益な情報だけ持ち帰るように頼んだはずなんだけどね?命まで取ってきたのかい、困っただねぇ...」

 雪梛はどこか人を見下すような口調で言った。

「女たちの行方は掴めませんでしたが、実験材料だと楼主が吐きました。」

「それでは何も判らぬこととそう変わらない。」

 雪梛は冷たく言った。

「あちらも何も知らなかったので、殺しました。要は済んだんで。」

 蘇芳はこれっぽっちの情けすらないような口振りで言った。雪梛は溜め息をついた。


 夜になり、花街の見世みせに明かりが灯されると、そこは夜花夜蝶よかよちょうが舞い咲き乱れ常世とこよの春を謳いだす。

 夜こそ一層賑わうこの街は、どの店から賑やかな笑い声が聞こえ、外でも見物人の愉快な話し声や客引きの声が飛び交う。

 歌を唄う歌人に楽を奏でる楽士、曲芸を披露する芸師、歌舞を舞う女芸妓に男芸者、春を売る女娼妓に男娼人、種々の芸に秀でた者たちが色とりどりの華を咲かせる極彩色の夢の国。

 貴晏花街は正門である龍大門りゅうだいもん(通称、大門おおもん)をくぐると表通りと呼ばれる大通りが広がる。表通りを進むと中央で十字に分かれ、北には黒北門、南には赤南門がある。三つの門の全てから花街に入ることが出来るが、外へ出ることができるのは大門のみである。


「まったく、また朱雅に怒られても知らないからね。大体蘇芳はいつも、」

 言いかけて、雪梛は立ち止まった。視線を背後に向ける。そして蘇芳の腕を掴むと足早に歩き出す。

「ちょっ。何です。」

「蘇芳、先を急ごう。」

 そう言うと、雪梛は蘇芳を急かした。

 大門から花街に入り中央十字路をまっすぐ突き進んだ一角には、花街のなかでも特に上客向けの高級料亭や商店、豪華絢爛な高級妓楼が建ち並ぶ。袋小路の通りの最端部には一際壮麗な造りの大妓楼がある。緑の大柱と朱塗りの壁には精巧で匠な彫刻が刻まれていて、細部まで意趣を凝らした建築美を誇り、その優美な外観と堂々たる佇まいは、見る人を圧巻させる。

 その妓楼の名は、香舜楼こうしゅんろう

 貴族や高官、大店を構える大商人など豪族、いわゆる金は捨てるほどあるというような富裕層が通い詰める、この花街一の妓楼として名高い。

 雪梛は、この妓楼で楼主を務めている。蘇芳と雪梛は妓楼へ入ると正面の大階段を上がり、昇降機に乗り込んだ。扉を閉めようとした時、少年が駆け寄ってきた。

「大主さまーお待ちを!私も乗りッ」

 少年が昇降機の扉に触れるより早く、雪梛の指が上階へ登るレバーを上げた。

「あっ、」

 昇降機の扉は少年を残し、無情に閉じた。

 なるほど、と蘇芳は納得した。

「相変わらず、貴方にべったりなのね。あの子。ほんと好かれていらっしゃる。」

 蘇芳はそう言うと雪那を見た。

「馬鹿の話はどうでもいいよ。蘇芳、仕事だよ。」

「はい、はい。」

 蘇芳は、小さく溜め息を吐いた。

 昇降機が最上階へ到着する。外から門番が蘇芳と雪梛を確認すると、扉を開けた。

 そういえばあの少年の名前は、なんだったか。思い出せない。雪梛の側付きだったと思うが……。まぁいいか。

 極楽は余暇、地獄は予兆。

 極楽なんて常の場にありはしない、地獄は常の先にある。香舜楼の最奥。ここがまさに地獄の巣窟。

 暗殺刺客組織『琥蓮これん』の牙城である。

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