第一章  その紫花は闇夜に紅く閃く

第1話



 盈月えいげつを過ぎて幾望きぼうは天高く、その光は暗紺の空に白く輝いている。静かに夜を照らす清澄な月は、地上の闇を一層際立たせる。

「さて、時間ね。」

 空の月に厚い雲が差し掛かり、辺りが暗く陰り始める。空が闇黒に染まる時。

「今が咲き時。」


 宿屋 天万楼てんまろう 楼主本邸

楼主 蘭 万寿ラン バンジュ。この宿屋の主人だ。

 楼主は、数人の女婢たちを連れ部屋に入る。部屋には顔を隠した数人の男が待っていた。

「旦那様。私たちは何故…」

 ひとりの女が怯えた声で恐る恐る主人に尋ねた。楼主は小さく笑う。

「お前たちは、ろくな稼ぎもできぬ𧏚潰しよ。客の一人も満足に取れぬようでは、ここに置いてもおけぬ。だからそなたらを解雇することにした。故郷くにへ帰れ。」

 主人の言葉に女たちは動揺する。雇い主を失うことは女婢にとって死を意味する。この奏国に、奴婢の身分で帰る故郷など存在しない。

「どうかお許しを。私たちをここに置いてください。行くところなど無いのです。お願いです。旦那様、どうか。」

 女婢たちは、楼主に懇願した。必死に。

 だが、楼主は蔑む眼差しで女婢たちを見て鼻で笑う。

「ここにお前たちの居場所はもうないのだ。…さぁ彼らと行きなさい。」

 女婢たちは主人の示す先に待つ男を見た。仮面で顔を隠した黒ずくめの男たちから異様な恐怖を感じた。

「旦那様、ここでは働けないのですか?」

「時間だ。」

 仮面の男が刺すようにそう言うと、女たちを連行しようとする。

「嫌です。お放しを。お願いです、旦那様。お助けをっ…!!」

「騒ぐな。」

 男は女の口に布を押し込み黙らせようとする。だが次の瞬間、男の肩に突然激痛が走る。

「…くっ…。」

 見れば、肩に長針が突き刺さっている。

「これは殺法針。」

 男が針に手をかけたその時、小さく灯された部屋の灯りが音もなくかき消される。途端、男たちは背後から斬りつけられた。

「……ぐあっ!」

 次々と男たちは斬られ、床に倒れた。

「何事だ!?」

 楼主は、闇に包まれた部屋の中で必死に目を凝らす。だが、辺りは暗く、何も見えない。楼主はだんだんと近づく姿なき凶手の気配に怖気づいた。

「今晩は。お楽しみのところ申し訳ありません。楼主様。」


 楼主のすぐ背後でその声は聞こえた。姿なき声に驚き、楼主は怖気り声を上げた。

「だだっだ誰だ!」

 楼主は腰が抜けて倒れこみ、声がした方を振り返る。

 

  雲に包まれた月が、顔を出し始める。暗がりの部屋に僅かな光が差し込む。楼主の前に暗闇から姿を現したのは若い青年だった。深紅の衣装を着た、至極艶麗な面立ちの美青年だった。

 楼主は一瞬、言葉を失った。

 月夜の明かりが差し込む暗がりの中に佇むその青年はまさに闇夜に咲く月下美人。楼主は、青年の美しさに圧倒され身動きが出来なくなった。

「(うっ…美しい。)一体、何者だ。何故ここに。」

 楼主は恐る恐る聞いた。

「大した用ではありません。すぐ済みます。」

 その青年は、優雅な足取りで楼主に歩み寄ってくる。楼主は青年の顔をじっと見つめた。青年の瞳は妙に透き通っていて玉のように美しい。

 その瞳は、紫。

楼主は、ゾクッと背筋が凍った。

紫の瞳は真っ直ぐ楼主を見ている。褪めきった双眸はどこか妖しく吸い込むように人を惹き付け心を惑わす。それは魔性。


 まさしくあやかしの瞳。


「天万楼の楼主殿ですね。…私がここに来た理由はもうお判りでしょう。」

青年は、楼主を見て微笑する。楼主はごくりと唾を飲んだ。

「買い占めた女婢をどこにやったのです。」

「わしが買った女たちですと。買ったのだからどこに置こうとわしの…っ」

青年は楼主の首に刃を突きつける。

「ふっ、ご自分の状況がお分かりでないのか?奴婢を横流しして得た大金で遊女との甘美な一夜を過ごすのが、あなたの日課だとか。楽しい豪遊が今宵限り出来なくなっても良いのですか。…奴婢を買うよう指示した闇取引の相手は誰です。」

「う…わっわしは、何も知らぬ。奴婢は買ったが、私は何も知らん。」

「お答えを。」

 青年は、小さく笑った。楼主は答えなかった。

「話す気はないと?肩を持ったところで奴らはあなたを助けはしません。捨て駒だ。知っていること話すのが身のためですよ。私にあっさり切られるより、言えば首をとったりはしません。」

青年は突きつけた刃を楼主の喉元に押し当てる。

「助けてくれるのか?うっわわわかった。奴らは女たちを実験に使うと。だからわしに奴婢をよこせと。」

「実験とは、何のだ。」

「それ以上はわしも知らん。知っていることは話した。お願いだ。見逃してくれ。」

 青年は、懇願する楼主に冷たく笑う。

「申し遅れました。お初に御目にかかります。わたくしは蘇芳すおうと申します。ああ···別に覚えてくださらなくて結構ですよ。どうせ今夜限りの逢瀬ですから。」

 楼主は蘇芳という名を聞いて震撼し血の気が引いていく。

「まっまさか···お前は··冷月っ」

 楼主が言い終わらないうちに、その首は切り裂かれた。

 電光石火の如く凄まじい速さで楼主に斬りかかり、空を舞うようにその人物は邸主の前から飛び抜けていった。楼主は血が噴き出す首を押さえたが、次の瞬間全身から血しぶきを上げてその場に倒れた。


「教えた代わりと言っては難ですが、わたくしが貴方を 極楽にしてい か せ て あげますよ。」

 青年は、そう婀娜あだやかに言うと口元だけでニコリと微笑んだ。楼主は、その妖しく美麗なの瞳から目を離すことが出来ない。

 不思議な青年だ。いや、青年…か?

 長い髪を一つに結び男装をしている、一見青年のようだが…。自分の勘が正しければ···。

 ドクドクと鮮血が流れ、自らの血で全身真っ赤に染まっていく。見れば自分を斬った蘇芳という人物は、少し離れた場所に背を向け立っている。蘇芳は、刀から滴る血を振り払うと、振り返り倒れた楼主を見た。

 楼主はビクリと体を強縮させ、痙攣と反射を繰り返す。激しい痛みに苛まれながら、もがき叫ぶことも呻き這うことすら出来ないでいる。

 事切れるのは時間の問題だ。

 楼主は薄れゆく意識の中で、その青年の姿をした暗殺人を見ていた。


·····あれが、噂に聞いた暗殺刺客。

冷月れいげつ紅天女こうてんにょ


 標的になったら最期、確実に死ぬという伝説の剣士。

 蘇芳という名の·刺客。




「富貴なる者は人を送るに財を以てし仁人じんじんは人を送るにげんを以てす···ならばわたくしは貴方を送るに死を以て差し上げましょう。」

 蘇芳はそう言って笑った。

 

 楼主の瞳に最期に映ったのは、妖しく微笑む麗しき天女の、その冷たく光る紫の双膀だった。




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