峭峻記

雪乃凛

雪辱乱舞編

序章

その炎は、龍火を描く


 火が、踊っている。


 幼い少女は、ただ見つめていた。


 その大きな火がけたたましく舞う様を。




 幼い少女は、侍女に抱かれ少ない手兵と共に追っ手から逃げていた。

 丘を登り、彼らは森を目指していた。


 少女の瞳には、燃え盛る大屋敷が見えている。ゴウゴウといななきき燃え盛る大火は荒々しく、空までだいだいにする。月夜が照らす地上に落ちた魂炎が、天に帰ろうともがいている。



 その火はすべてを黒く染めていく。


 人も、家も、少女の心も……。

 きっと世界さえも。


 少女の視界には、赤い炎の海が広がる。

 その海の中で、雄叫びを上げて激しくうごめく影が顔を出す。

 うねりを上げて立ち昇る火柱はまさしく龍。 荒れ狂う龍の如く獰猛で非情なそれが少女の脳裏に焼き付いた。


 それは地獄龍そのものだった。



(笑っている……たくさんの人を焼いて)


(あの龍は笑っている)


 なんとおぞましいのだろう。



(……さま)

 少女は泣き叫んで母の名を呼んだ。

 燃え盛る屋敷に向かって、小さな手を伸ばす。



 ――シュンレイ、死んではならぬ!



 少女の耳にその声が木霊こだましていた。


(嫌だ……さまぁ)


 少女は焼け崩れていく屋敷を見た。


(嫌だ! 母姫さまー)


 そして、その屋敷は黒い大煙と大火に包まれ無惨に崩れ落ちた。

 その龍の炎は少女の大切なものたちを一瞬で奪っていった。

 彼女が愛したかけがえのないすべてを。



 少女には自分の中の何かがひび割れていく音が聞こえた。

 涙で視界が歪んでいた。

 胸が潰れるくらい苦しかった。



 なぜ?

 どうして?

 この無情を、なんと形容したらいい。

 わからない。

 もう、わからない。



 少女は暗闇の中にいた。

 何も見えなかった。

 いや、違う。見ようとしなかった。



 一人、また一人と倒れていく。

 黒い影が、少女を目指して忍び寄ってくる。


 断末魔の叫びと鈍い残鉄の声が遠くで聞こえる。だんだんとその声が近づいてくる。




「シュンレイ様、大丈夫……大丈夫」

 優しくて穏やかな、少女をなだめるその声は少し震えていた。

 少女はずっと手に握りしめている小さな約束を眺めた。

 闇の中でそれは不思議と温かな輝きを放つ。

 温かくてしわくちゃな手が、少女の手を優しく包みこんだ。

 大丈夫。大丈夫。

 そう諭すように語りかける。

 けれど刹那に優しく柔らかな声は、ゴトリと鈍い音を立て、少女の足元に転がり落ちた。

 少女の足元には、見慣れた老婆の顔がある。

 開かれたその目は、少女を見ている。

 けれどもう、その目に少女は見えていない。

 何故か、老婆の顔は死んだ目をして微笑んでいた。


 そうして、気づく。

 少女はどろりとした生ぬるい水を頭からかぶっている。髪から滴るその水は、生臭くて鉄の香りに似ている。濡れた髪が首筋にべっとりとへばりついて煩わしく、衣服にまで染み付くその生ぬるい水の匂いが、酷く鼻に付いて堪らなかった。




 真っ暗だった。

 悲しいはずだった。

 恐らくは、そうだった。

 けれど、涙はもう流れなかった。

 泣き叫ぶことも、哀しむことも方法がわからなかった。悲しいのかどうかさえもよくわからなくなっていた。

 ただ、呆然とそこにいた。

 きっと、砕け散ったのだ。

 少女のために散っていった命とともに、少女の心も、感情も、思考も……。

 きっと、そうなのだ。

 少女は、そう思った。


 きっと、という是か非か不確かな事象でしか捉えることができない。

 少女の前に広がる現実は、それだけあまりに空虚で掴みきれない対象だった。

 そして間もなく少女自身も散るのだと皮肉にも、それだけははっきり理解していた。





 気がつけば目の前に人影があった。

 黒い闇そのものに見えた。


「まったく、つまらないね。もっと楽しませてくれるかと思ったけど呆気ない」

 若い男の声だった。

 兇手の男は、少女に歩みより、少女の顔を掴み眺めた。



「綺麗だね。お姫様。血で染まった可憐な花を僕はどうやって生けたらいいかな」


 品定めするように、その男は少女を見て、冷笑する。


 少女は殺されるのだとわかっていた

 けれど、恐れはなかった。

 恐怖すら忘れてしまっていた。


「恐れも悲しみもない····か。いいね。」

 その男は冷たく、どこか楽しそうに言った。

 一拍置いて、男は剣の柄を握り直す。


「さようなら。お姫様。」


男の眼が狂気を帯び赤く光った。

殺意を振るう瞬間。




「貴方は、·······のですね」


 その言葉に男の動きが止まった。剣の切っ先が少女の喉元で止まる。

 そうして続けて語られた言葉に男はにやりと笑った。


「ふふっ。君、面白いね。だったら」


 ――君は、どうやって僕を楽しませてくれるのかな?

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