峭峻記
雪乃凛
雪辱乱舞編
序章
その炎は、龍火を描く
火が、踊っている。
幼い少女は、ただ見つめていた。
その大きな火がけたたましく舞う様を。
幼い少女は、侍女に抱かれ少ない手兵と共に追っ手から逃げていた。
丘を登り、彼らは森を目指していた。
少女の瞳には、燃え盛る大屋敷が見えている。ゴウゴウと
その火はすべてを黒く染めていく。
人も、家も、少女の心も……。
きっと世界さえも。
少女の視界には、赤い炎の海が広がる。
その海の中で、雄叫びを上げて激しく
うねりを上げて立ち昇る火柱はまさしく龍。 荒れ狂う龍の如く獰猛で非情なそれが少女の脳裏に焼き付いた。
それは地獄龍そのものだった。
(笑っている……たくさんの人を焼いて)
(あの龍は笑っている)
なんとおぞましいのだろう。
(……さま)
少女は泣き叫んで母の名を呼んだ。
燃え盛る屋敷に向かって、小さな手を伸ばす。
――シュンレイ、死んではならぬ!
少女の耳にその声が
(嫌だ……さまぁ)
少女は焼け崩れていく屋敷を見た。
(嫌だ! 母姫さまー)
そして、その屋敷は黒い大煙と大火に包まれ無惨に崩れ落ちた。
その龍の炎は少女の大切なものたちを一瞬で奪っていった。
彼女が愛したかけがえのないすべてを。
少女には自分の中の何かがひび割れていく音が聞こえた。
涙で視界が歪んでいた。
胸が潰れるくらい苦しかった。
なぜ?
どうして?
この無情を、なんと形容したらいい。
わからない。
もう、わからない。
少女は暗闇の中にいた。
何も見えなかった。
いや、違う。見ようとしなかった。
一人、また一人と倒れていく。
黒い影が、少女を目指して忍び寄ってくる。
断末魔の叫びと鈍い残鉄の声が遠くで聞こえる。だんだんとその声が近づいてくる。
「シュンレイ様、大丈夫……大丈夫」
優しくて穏やかな、少女をなだめるその声は少し震えていた。
少女はずっと手に握りしめている小さな約束を眺めた。
闇の中でそれは不思議と温かな輝きを放つ。
温かくてしわくちゃな手が、少女の手を優しく包みこんだ。
大丈夫。大丈夫。
そう諭すように語りかける。
けれど刹那に優しく柔らかな声は、ゴトリと鈍い音を立て、少女の足元に転がり落ちた。
少女の足元には、見慣れた老婆の顔がある。
開かれたその目は、少女を見ている。
けれどもう、その目に少女は見えていない。
何故か、老婆の顔は死んだ目をして微笑んでいた。
そうして、気づく。
少女はどろりとした生ぬるい水を頭からかぶっている。髪から滴るその水は、生臭くて鉄の香りに似ている。濡れた髪が首筋にべっとりとへばりついて煩わしく、衣服にまで染み付くその生ぬるい水の匂いが、酷く鼻に付いて堪らなかった。
真っ暗だった。
悲しいはずだった。
恐らくは、そうだった。
けれど、涙はもう流れなかった。
泣き叫ぶことも、哀しむことも方法がわからなかった。悲しいのかどうかさえもよくわからなくなっていた。
ただ、呆然とそこにいた。
きっと、砕け散ったのだ。
少女のために散っていった命とともに、少女の心も、感情も、思考も……。
きっと、そうなのだ。
少女は、そう思った。
きっと、という是か非か不確かな事象でしか捉えることができない。
少女の前に広がる現実は、それだけあまりに空虚で掴みきれない対象だった。
そして間もなく少女自身も散るのだと皮肉にも、それだけははっきり理解していた。
気がつけば目の前に人影があった。
黒い闇そのものに見えた。
「まったく、つまらないね。もっと楽しませてくれるかと思ったけど呆気ない」
若い男の声だった。
兇手の男は、少女に歩みより、少女の顔を掴み眺めた。
「綺麗だね。お姫様。血で染まった可憐な花を僕はどうやって生けたらいいかな」
品定めするように、その男は少女を見て、冷笑する。
少女は殺されるのだとわかっていた
けれど、恐れはなかった。
恐怖すら忘れてしまっていた。
「恐れも悲しみもない····か。いいね。」
その男は冷たく、どこか楽しそうに言った。
一拍置いて、男は剣の柄を握り直す。
「さようなら。お姫様。」
男の眼が狂気を帯び赤く光った。
殺意を振るう瞬間。
「貴方は、·······のですね」
その言葉に男の動きが止まった。剣の切っ先が少女の喉元で止まる。
そうして続けて語られた言葉に男はにやりと笑った。
「ふふっ。君、面白いね。だったら」
――君は、どうやって僕を楽しませてくれるのかな?
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