第4章『ミーディールの帰還 4』

 幼少期というものを過ぎて、世の中や身の回りのことがなんとなくわかり始めてきた頃。月面都市の屋敷で暮らしていたその少年の日々は退屈なものではあったが、たった一つだけあるささやかな楽しみがあった。


 其処そこは、敷地内の隅にある小さな白い建物。

 其処へは、大人の目を盗んで行かなければならない。

 其処へ行くことは、誰にも話してはならない。

 其処に行ったことがバレたら、後で母にこっ酷く叱られてしまう。


 もちろん、親の言いつけを破っている事に対して悪いと思う気持ちは少なからずある。だがそれ以上に、自分はにとって必要な存在だという自覚が勝った、というだけのことである。

 内側からドアを開けてもらうことはできない仕様になっているので、あらかじめ母の部屋から持ち出した鍵を使って玄関のドアを開ける。ただそこにいる少女に会いたい一心で、少年は今日もその場所を訪れた。


『やっほー。また来たよ』


 外観と同じ、壁も床も天井も真っ白な部屋。そこに統一感のない多種多様な玩具だけが散らばっていて、その空間自体が巨大なおもちゃ箱となっているかのようだった。しかし、部屋の中心にいる小さな少女はそのいずれにも興味を示さず、ただじっと人形のように座っている。突然の来訪者である自分に対して向ける眼もひどく虚ろで、まるでこの世のあらゆるものに対して興味を失くしているような、そんな退廃的な色を宿していた。


『ミド。こんなところに来てたら、また怒られるよ』

『大丈夫だって、ママは俺に甘いところがあるし。そんなことよりもさ、もっと楽しくなる話をしようぜ!』


 楽しい話と前置きをしたものの、その内容は特別凄いものでもなければ、面白い冗談のような類のものでもない。ただその日にあった出来事や見たり感じたことなどを、少年は何一つ誇張することなく話した。

 表情の変化に乏しく、普段は滅多に笑顔を見せない少女も、少年の話には親身になって耳を傾けてくれるし、たまに微笑みを溢すことだってある。に出ることを禁じられている彼女にとって、どうやら在り来たりな日常の話は何よりも刺激になるらしい。だからこそ、これといって取り柄のない自分でも話をすることができたし、それを熱心に聞いてもらえることが、ただ純粋に嬉しかった。


『何でミドは、私なんかにいつも会いに来てくれるの?』


 ある時、少女は不思議そうな顔をしながらそんなことを尋ねてきた。

 本当のことを言うのは何となく気恥ずかしい気がしたので、少年は少し言葉を選んでからその問いに応える。


『だって、ずっと家にいるから心配になるだろ。それに、俺が行かないと何もなくて退屈するだろうし』

『そっか、ミドは優しいね』

『べっ、べつに……優しくなんてねえよ!』

『? 顔赤いよ? それに何だか熱っぽい』

『そんなことねぇし……! ちゃんと平熱だし……!』


 異性の額に何の抵抗もなく触れようとしてくる少女の手を必死に拒みながら、少年は顔を隠すようにそっぽを向く。やがて少女はようやく諦めると、床に置いてあった一冊の本を大事そうに抱きかかえた。


『私にもなれるかな。この本の王子様みたいな、優しい人に……』


 それは、無差別に買い与えられた玩具の中で少女が唯一大切にしていた絵本だった。少年も何度か一緒に読んだことがある。

 題名は“幸福な王子”。ある町に建つ自我を持った王子の像が、貧しく不幸な人々を救うために自分の身からサファイアの両眼や金箔の肌を剥がしては分け与え、最後にはみすぼらしい姿となって人々に捨てられてしまうという、そんな自己犠牲の精神をうたった──あるいは、皮肉ったような悲しいお話だ。

 少なくとも普通の少女が憧れるような夢に満ちたシンデレラストーリーではなかったが、どうやら彼女はその王子の在り方に強く惹かれたらしい。


 実を言うと、少年はあまりこの王子に対して賛成的ではなかった。いくら他人が幸福になったところで、自分が不幸になってしまったら意味なんてない。

 ましてや、もしそれに同情して悲しむ人が出てきてしまったら、それこそ本末転倒じゃないか。


(それは、本当に“優しい”って言えるのか? 優しい生き方は、本当に人を幸せにするのか……?)


 子供心ながらそう思っていたその時、不意に部屋のドアが開け放たれた。見やると、駆けつけてきた母親が目くじらを立ててこちらを睨んでいる。


 ああ、今日も終了時間ここまでか。

 少年は軽くため息を付くと、少女に『また明日』と短く耳打ちをしてから、母親と共に部屋を後にした。

 明日もまた会える。そう淡い希望を抱いて。


 少女が別の男に引き取られて月を離れたという報せを聞いたのは、それから三日後の朝のことだった。






 反クーデター派に属する一部のU3F兵達とインデペンデンス・ステイトの同盟軍が、決戦の地たる月へと向かうべく火星を出発したのとほぼ同刻。キョウマからの呼び出しを受けていたミドは、単身『LOCAS.T.C.』本社ビル内にある彼のラボラトリーを訪れていた。

 ドアを潜ると、それまでデスクに向かって何やらデータを打ち込んでいたキョウマがこちらに気付き、一旦作業を止めて部屋へと迎え入れる。


「やあ、待っていたよ。ささっ、とりあえず適当なイスに座ってくれたまえ。飲み物はコーヒーと紅茶とジュースがあるがどれがいい? ちなみに私のオススメはドク……」

「何でもいい……てか、何でわざわざ俺を呼んだんだよ。話をするだけならボイスチャットで十分だろうに」

「まあそういうなよ。大事なことだ、腰を据えて話をしようじゃないか」


 手近なデスクチェアへ腰掛けるなりさっそく悪態を吐き始めたミドに苦笑しつつも、キョウマは炭酸飲料を並々と注いだ紙コップを彼に差し出す。飲み物を一口だけ飲んでデスクに置くと、含みのある笑みをミドへと向けた。


「まず初めに、私は君に対して謝らなければならないことがある」

「何だよ、いきなり」

「君がなぜコスモフリートの連中と手を切ったのか、そもそも何故ツェッペリン家の子息であるはずの君が『ミスト・ガーデン』などという辺境のコロニーに住んでいたのかずっと疑問でね。悪いが君の経歴について少々調べさせてもらった」

「ああ、そのことか……」


 話を聞いてミドはバツの悪そうな顔を浮かべつつも、特にキョウマを責め立てるようなことまではしなかった。それを見てキョウマはどこか味を占めたような微笑みを浮かべると、先ほどよりもさらに砕けた調子で語り始める。


「十年前、君の身柄は外交手段として、当時険悪だった『LOCAS.T.C.』と『J.E.T.S.ジェトス』の関係を取り持つ為に利用された。もっとも、一族の重荷を背負わせる必要がなくなると言って、意外にも君の母親──ラピュタ=シャウネルはその判断に賛成的だったようだがね」

「ああ、マ……俺の母は確かにそういう、権力争いなんて物騒な言葉とは程遠い人だったよ。いつも俺に『普通のことを幸せと思えるような、優しい人に育って欲しい』って言い聞かせてくれていたことは、今でもよく覚えてる」

「ほう……? しかしその話だと、君がコスモフリートの連中を陥れたことと矛盾しているな。彼らからすれば、信頼を踏み躙った君は立派な裏切り者だ」

「……俺はただ、仲間を救いたかった」


 喉奥から絞り出すように、苦い表情でミドは言う。


「具体的に、君の言う“仲間”の定義とは何だい?」

「俺と同じ、『ミスト・ガーデン』から避難した友人達だ。あいつらならきっと、俺に着いて来てくれると思ってた。でも、もはや俺とあいつらの中では“仲間”の認識が決定的に食い違っていたんだ……」


 サングラスの奥にあるミドの瞳に、失望しきった顔のミランダやテオドアが、そして哀れみの表情を向けるエリーの幻影が映る。あの時ミドは彼女たちを裏切ってしまい……そしてミドもまた、彼女たちに


「後悔しているのかい?」

「間違ったことをしたとは思ってない。俺の判断は正しかった。……でも、それはあいつらにとっての“正解”じゃなかった。ただ、それだけだ……」

「……“何かを一つ守ろうとするたびに、一つ何かを失ってゆく”」


 ふとキョウマがその言葉を口にした瞬間、ミドはまるで世界がほんの一瞬だけ静止したような感覚に陥った。目を丸くしたまま言葉を失っているミドに対し、キョウマは構うことなく続ける。


「ある人物の受け売りだがね。だが見方によっては、この世の真実にもっとも迫る言葉であるとも言える。たとえ何かに代えてまで、本当に守りたいもの……果たして今の君にはそれが見えているかね?」

「よく、わからない……」

「なら、まずはそれをよく見定めることから始めたまえ。……例えば、君と一緒に居たというあの少女……はて、名前は何といったかな」


 ミドは瞬時にキョウマを睨みつける。その反応すらも楽しむように、キョウマは確信めいた笑みを浮かべながら話を続けた。


「おやおや、図星かい!? ハッハッハァ……まあそれもそうだろうねぇ、だって彼女と君は古くからの知り合い……言ってしまえばという間柄なのだから」

「そこまで知ってるのか……恐ろしいな、あんた」

「君のことは隈なく調べさせてもらったと言ったろう。君は13年前、まだの彼女と出逢っている……そういう君こそ、どうやら彼女についてはある程度情報を掴んでいるようだね。自分で調べたのかい? どれくらいのことまで知ってる?」


 まるで試すようにキョウマは問いかける。きっとキョウマとしてはゲーム感覚でこちらに探りをかけているようだが、彼から情報を引き出したいと考えていたミドにとってはむしろ好都合でもあった。


「13年前に母に連れてこられ、“彼女”と初めて出会った実験場。今まで俺はそこがどういう施設で、何の為の実験を行っているかも知らなかった……けど、偶然にもコスモフリートが入港したコロニーで、いくつかわかったことがある」


 キョウマにじっと見据えられるなか、ミドは導き出した結論を述べる。


「俺が一度だけ母の視察に付いていったことのあるそこは……『ダーク・ガーデン』、かつてゲノメノン社の実験施設がある場所だったんだ。そして、あのコロニーでは9年前にコスモフリートの襲撃を受けて壊滅するまで、モルモットチルドレンを用いた人体実験が繰り返し行われていたことも知っている」

「正解だ。確かにラピュタ=シャウネルは当時、ゲノメノン社のとあるプロジェクトチームに参加していた。そして君は母親からこうも言われていたんじゃあないか? 『引き取ったとは深く関わってはいけない』とね」

「そこまで言うのなら教えてくれッ! 俺の母は一体何の仕事をしていたのか、何でゲノメノンなんかとつるんでいたのか、本当にあの人は優しかったのか……“彼女”は、一体何者なのか……!?」


 あたかも全てを知った上で勿体ぶっているようなキョウマの態度に我慢ならず、ミドは怒鳴り散らすように問い詰める。

 いや……訊ねはしたものの、頭の中で既にある程度の答えは組み上がっていた。ただ一言、キョウマの口からそれを否定する言葉が欲しかったのだ。

 が、ミドの意に反してキョウマは何かを思いついたようにポンと手を叩いて椅子から立ち上がると、背もたれにかけていた白衣を掴んで袖に通す。両手をポケットに突っ込んで身を翻すと、流麗な顎をクイッと上げてミドにも席を立つよう促した。


「付いて来たまえ。君に、どうしようもない世界の真実というものを教えてあげよう」





「そっか……今日は父さんの誕生日か」


 アレックスが呟くと、隣に立つエリーは小さく頷いた。

 インデペンデンス・ステイトの旗艦“エンデュミオン”。その艦内にある展望室で、二人は並んで星を眺めながら話していた。

 他に人は誰もいない。二人きりの空間で、彼らは義理の父親だったウォーレン=モーティマーのことを懐かしむ。


「父さん、今日で何歳になるんだっけ」

「44歳。……誕生日、皆でお祝いしたかったね」


 口にはしないものの、彼らの交わす言葉には『生きていれば』という前口上が付く。寂しそうに顔を俯かせるエリーを横目に一瞥して、アレックスは少しでも場の雰囲気を明るくしようと話題を変える。


「人の誕生日とか歳とか、エリーはちゃんと覚えてて凄いな。僕なんてスグ忘れちゃうから、なかなか覚えられなくてさ」

「凄くなんかないよ。父さんと一番付き合いの長いのが私ってだけだし」

「そっか、確かエリーは僕やテオよりも前に施設に引き取られてたよね。僕とミリアが入所したのが7年前だから……それよりも3年くらい先だっけ?」

「うん。それにしても、もうそんなに経つんだね……あの頃のアレックスったら、やんちゃで喧嘩っ早かったなぁ。ふふ、今思えばちょっと可愛かったかも」

「あんまり揶揄わないでくれよ……そういうエリーこそ、今よりもっと物静かで大人しめだったじゃないか。お人好しなのは相変わらずだけど」


 アレックスの目の前にいる少女の姿と、記憶にあるまだ小さい頃の彼女の姿が重なる。

 少女趣味の洋服を着せられたお人形のようだ。というのが、モーティマーに連れてこられた児童養護施設で彼女と始めて出会った時の第一印象だった。纏っている儚げな雰囲気に反して、入所したばかりの不慣れなアレックスにそれこそ少し気味が悪いくらいに優しく接してくれたのをよく覚えている。もっとも、年齢を重ねるにつれてそういった“不自然さ”も徐々に削がれていき、今ではすっかり皆から慕われる優しい女の子に成長していったわけではあるが。


「アレックス?」


 と、すぐ目の前で成熟した少女が心配そうにこちらの顔を覗き込んでいることに気付き、アレックスはつい慌てふためく。彼の知らない、柔らかい不思議な匂いが鼻腔をくすぐり、何だかこそばゆい気持ちになった。


「大丈夫? 少しボーッとしてたけど……」

「えっ!? あ、いや……ほら、エリーも凄く大きくなったなぁ……って。その、色々と……」


 数年前に比べてぐっと女性らしくなった体から目をそらしつつ、アレックスは上擦った声で言う。実際、彼女は同年代の女子と比べてもかなり大人っぽい身体つきをしているように見えた。そして、そう見えてしまうようになったのはつい最近からとはいえ、これまで家族同然だったエリーをそのような目で見ている自分に対し、少しばかり罪悪感を抱いてしまう。


「本当? 私、昔より大人っぽくなった?」

「えっ。う、うん……綺麗になったと思う」


 てっきり怒られるかと身構えていたアレックスだったが、意外にもエリーは照れくさそうに顔を俯かせるだけで、それ以上何も言うことはなかった。


「め、珍しいね……? アレックスが褒めてくれるなんて……」

「そんなに驚かなくても……そっちだって、いつもより反応が女の子らしいというか……しおらしいというか」

「えへへ……そ、そうかな……?」


 チラリと表情を覗き込もうとすると、今度は彼女の方が耐えきれずに目を逸らした。お互いにどうしていいのかわからない様子だった。

 微妙な沈黙が続き、少しばかり居心地も悪い。それなのに、こんなにも彼女のことが愛おしく感じられるのは何故だろう。


「……エリーっ」

「ふぇっ!?」


 たまらなくなって、アレックスは彼女を抱きしめた。

 突然のことにエリーは肩をビクっとさせるものの、やがて身を委ねるように両手を背中に回す。もう二度と離したくないと、二人はお互いの身体にしがみついた。

 しばらくして体を引き離すと、ぼうっとした顔のエリーがこちらを見つめていた。頬や耳は紅潮し、目も少し涙ぐんだようにうるっとしている。

 もっとこんな表情を引き出したい。自分の知らない、色んなエリーを見てみたい。

 そんな激情に駆られ、アレックスは今まで口にしたこともないような提案を思い切ってしてみる。


「キス……してもいいかな」

「えっ……ど、どうぞ……?」


 絹のように繊細な金髪から首にかけてを撫でられたエリーは、全てを受け容れるようにそっと瞼を閉じる。彼女よりもほんの少しだけ身長の低いアレックスもまた、僅かにかかとを床から浮かせると、相手の頭を引き寄せ、ゆっけり唇を重ねようとした──。









《第1種戦闘配備! 繰り返す。総員、第1種戦闘配備!》


 が、つん裂くようなアラートが鳴り響き、無慈悲にも二人の行為を中断させた。

 次いで着弾の衝撃がやって来る。艦が敵の攻撃を受けたということだ。


「ご、ごめんエリー、僕もう行かないと……!」

「う……うん、わかってる。アレックスも気をつけてね……!」


 警報が鳴った瞬時に頭のスイッチを切り替えられるくらいには、二人とも戦場というものにすっかり順応してしまっていた。エリーは別れ際にハイタッチを交わしたあと、自らも持ち場である医務室へと駆けていく。


(心の準備がまだ完全に出来ていなかったから、助かった……!)


 ……実は内心でかなり動揺していたことは、とりあえず胸の奥にしまっておくことにした。

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