第2章『ミーディールの帰還 2』

 ──13年前。


 母親に手を引かれながら連れてこられたその場所は、水族館のように薄暗く、延々と続く細い通路を水槽に挟まれた窮屈な空間だった。

 ガラス板を隔てて向こう側にいるのは、水をかき分けて優雅に泳ぐ魚などの色とりどりな海洋生物たち──ではない。やや緑がかった培養液に満たされた水槽の中に浮かぶのは、一糸纏わぬ裸の人間の子供。それも同じ顔と髪色を持った、おそらくまだティーンにも満たない少女ばかりだった。


 博物館の展示品のように並べられたらはまるで額縁に閉じ込められた絵画のように眉一つ動かさず、死んでしまっているように眠っている。注意深く見れば微かに心臓が鼓動しているのがわかるが、それでも瞳に光はない。

 『これは生身の人間ではなく精巧に作られたただの人形だ』と言われてしまえば思わず信じてしまうだろう。それほどまでに、彼女達からは生命いのちの気配のようなものが全くといっていいほどに感じられなかった。


『ママ……なんかこわい……』


 不安げに母親の顔を仰ぐ。すると、母親は涼しげな笑顔で応えた。


『怖がらなくても大丈夫よ、ミーディール。動き出したりはしないから』

『うごかないの? じゃあ、やっぱりおにんぎょう……』

『ううん、これはお人形さんでもないの。彼女たちは私たちとおんなじ人間よ。ただ、だけ。そして、彼女たちはもう、二度と生まれることもない……』

『……?』


 幼き日の少年には、自分の母親が何を話していることがこれっぽっちも理解できなかった。ただ一つだけわかるのは、水槽を見つめる母親がどこかやりきれないような哀しい表情をしていたことくらいである。

 やがてとうとう耐えきれなくなった母親は、唐突に少年の小さな体躯を抱きしめた。すぐに痛みを訴えようとしたが、母が泣いていることに気付いて止める。


『ママ……?』

『ごめんね、ミーディール。確かに私はお父さんと真剣に愛し合って、彼との間に子供を産むことを望んだわ。けれど、そんな男女の愛情くらいでは済まされないものを、貴方にはこれから背負わせてしまう事になる……。こんなママ、きっと嫌いになっちゃうわよね……』


 母の小さな背中は震えていた。きっと悲しくて泣いているのだ。

 悲しんでいる姿を見ると、こっちも悲しい気持ちになってしまう。それは嫌だ。

 だから、少年は優しくさすってあげた。


『ボクはママのこときらいになんてならないよ。だってボクのママだもん。だから、なかないで……?』

『ミーディール……』


 すっかり慰められてしまった母親は、まるで憑き物が落ちたように息子の頭をそっと撫でる。優しい人肌の温もりが、自然と不安がっていた少年の心を安堵させていた。


『……ありがとう』









「マ、マ……」

 

 喉奥からようやく絞り出されたような呻きが、虚しくも宙へと消えていく。しばらくして、他人に聞かれたくないような寝言をつい口にしてしまったことに遅れて気付き、それまでベッドに横たわっていた少年は慌てて半身を起こした。

 寝起きでボーッとしていた頭もようやく冴えてきて、彼は机に置いていたサングラスをかけつつ周囲を見回す。簡易ベッドと壁面のディスプレイ以外、面白いくらいにインテリアが何も置かれていないこの部屋は、月面都市『アリスタルコス・ドーム』の一角に構える『LOCAS.T.C.』本社ビル内のとある一室だった。


《やあ、お目覚めのようだね。よければ淹れたてのコーヒーをそちらに持って行くけど、どうだい?》


 男の声がスピーカーから発せられ、少年は声の聞こえた方向へと顔を向ける。自分の肩幅と同じくらいのディスプレイに、白衣を羽織る薄ら笑いを浮かべた壮年のバストアップが映し出された。

 少年は彼の名を知っている。

 キョウマ=ナルカミ。『LOCAS.T.C.』の技術者にして、“LDP-90番台ナインティシリーズ”の開発主任に任命されている、少々風変わりな男だ。


「いらない……それよりも、頼んでいた例の件については調べてくれたか?」

《例の件? ああ、調べたとも。確かに君とミスター・プレジデントのDNAを照合した結果、確かに血縁関係であることが証明され……》

「そっちじゃない、俺が聞いているのは……」


 急き立てると、画面の中のキョウマは『ああ!』と大袈裟に反応を示す。彼と初めて出会ったのは月面に下船した1週間ほど前のことではあるが、どうやら彼には会話中のほんの些細な駆け引きを面白がるきらいがあるらしい。その輝かしい実績から仕事の手腕は信頼できるようだが、信用に足るかどうかは怪しいところだった。


《まあそう睨むなよ。君が保護したコスモフリートメンバーの安否についてだろう?》

「ミリアはコスモフリートじゃない! ……それで、どうなんだ」

《……安心したまえ、彼女は無事だとも。もとより危害は加えないという約束だったからねぇ。ミリア=マイヤーズの身柄は今、『コペルニクス・ドーム』の民間施設に保護されているよ》

「そうか。それはよかった……」


 報告を聞いて、少年はつい安堵の息を吐く。

 ミリアを人質としてU3Fに投降してからというもの、アークビショップ級艦内では半ば軟禁状態を強いられていたこともあり、彼女とは乗艦以降一度も顔を合わせていなかった。

 自分が間違ったことをしたとは断じて思わないが、それでも巻き込んでしまった罪悪感や責任はある。だからこそずっと彼女の安否が気がかりだったのだが、どうやらそれも杞憂に終わったようだ。


《そうそう、こちらからも一つ聞いておきたいことがあってね》

「何だよ。手身近に頼む」

《では単刀直入に聞こう。君は“ミド=シャウネル”と“ミーディール=ツェッペリン”という二つの名前を持っているわけだが、これからはそのとして生きていくつもりだい?》

「……どういう意味だ」


 問い質すと、キョウマはまるで構えることなく軽快に答える。


《“オペレーション・ワルプルギス”が発動された今、君がツェッペリンの名を冠する者ならば、当然ながら無関係ではいられなくなるだろうね。晴れて世間を賑わすロイヤルファミリーの仲間入りというわけだ》

「名声や支配なんかに興味はない。それに、シャウネルの姓名は俺の母から受け継いだ大切な名だ。それを易々と捨てる気はない」

《つまり、君はあくまで“シャウネル”であると?》

「そのつもりだ」

《ふむ……君はそれで構わないのかもしれないが、その場合に困るのは君かもしれんぞ》

「何……?」


 訝しげな表情でキョウマを見やる。どうやら悪質な冗談などではないらしい。


《『ミスト・ガーデン』の“ミド=シャウネル”には、軍事機密への抵触及び拘留所からの無断による脱走、更には反政府勢力に加担していた疑いもあるとして、極刑が言い渡されている。それでも君は、この名前を名乗り続けることが果たして出来るかね?》

「………………」

《それに、危害が及ぶ可能性があるのは君だけじゃない。君の保護したミリア=マイヤーズにも、同様の刑が課せられている》

「何……だと……!?」


 動揺のあまり、思わず声を荒げてしまう。


「話が違うじゃないか! お前はさっき確かに、彼女は無事だと……!」

《オイオイ、何も私は刑が無効になったとは一言も言っていないぞ。彼女は絶賛指名手配中さ》


 言われ、少年はあえぐように息を吐いた。

 ミリアに危害が及ぶだと? そんなことは絶対にあってはならないというのに。


「ミリアはまだ13だぞ……」

《まだ年端もない少女を追い回すのはU3Fとて心苦しいだろうがね。しかし、正規軍である以上は軍法ルールが絶対だ。生憎だが、U3Fに未成年だからといって刑罰を緩和するような法はないからねぇ》


 キョウマはいかにも作為的に考える素振りを見せると、まるで子供に悪事を吹き込む大人の表情で言う。


《そうだなぁ。軍に絶対的な発言力を持つ者……例えば、資金提供者が意図的に働きかけたりでもしない限り、彼女の罪状を抹消することは難しいんじゃあないかな?》


 飄々と言い放つ画面越しのキョウマを前に、少年はつい閉口して息を飲む。

 彼が何らかの野心を持ってこちらに働きかけているのは明らかだったが、その真意までは見抜くことが出来そうになかった。


「キョウマ=ナルカミ、あんたは一体……」

《なに、私は君の味方だとも。君が私にとって、有益な人材である内はね……》


 自分の人生をもてあそばれているような不快感に、少年はつい眉間にしわを寄せた。




 『LOCAS.T.C.』の重役らが首謀し決行した大規模軍事クーデター“オペレーション・ワルプルギス”。その発生に伴い、体制から離反した一部のU3F部隊はインデペンデンス・ステイトとの間に同盟関係を締結。さらに共通の敵たる“死の商人”を討ち果たすべく、オミクロンはアングラのネットワークを通じて大小様々な武力勢力へと呼びかける。それによって世界各地では次々に義勇軍が奮起し始め、その戦力は着々と拠点である火星へ集いつつあった。


「なあ、『LOCAS.T.C.』やそっち側についたU3Fの奴らを倒せば、本当に戦いは終わるのか?」


 月への出航を明後日に控えた夜。

 満天の星空を見上げながら、フェンスに背を預けているデフ=ハーレイはふと呟いた。彼がいるマリネリス基地の展望デッキには、他にも『ミスト・ガーデン』出身の仲間四人が集まっており、それぞれが物思いに耽っていた。

 デフの投げかけた問いに、ベンチに座るアレックスは答える。


「多分、そう簡単にはいかないと思う。いくらU3Fとインデペンデンス・ステイトが協力して敵を倒したって、それで宇宙やコロニー居住者の国連政府からの独立が認められるわけじゃない。この事態が治っても、きっと戦いはしばらく続く事になる……」

「結局はフリダシに戻るってわけか……」


 デフは悲観的に顔を俯かせる。冷え冷えとした沈黙が一瞬、この場の空気を支配した。

 それを打ち破るように、アレックスはありのままの想いを告げる。


「けれど、敵同士だった者達が手を取り合ったっていう事実は、この先も決して消えることなく人々の記憶に残るはずだ。それがいつかきっと、人と人とが互いに武器を向け合わない平和な未来に繋がるきっかけになればって……僕はそう思ってる」


 彼は両膝の上に乗せた握り拳に視線を落とすと、昔を懐かしむように眼を細めた。


「ここに来るまで、僕たちはあまりにも多くのものを失い過ぎた。戦争が僕から大切なものを奪って、僕も……人からたくさんの大切なものを奪った」

「そうしなきゃ、私たちだってやられていたかもしれない状況だったんですから。先輩は悪くないですよ……」

「そうだね……そうかもしれない」


 こちらを気遣うようなミランダの視線に、アレックスはもっともらしくはにかんでみせる。


「別にさ、自分を責めようってわけじゃないんだ。戦って仲間を守ることができたのなら、僕に後悔はない。ただ、僕にとっての正義や善意が、人を傷つけてしまうこともある。これは戦争だから、仕方のないことなのかもしれないけれど……僕はそれが悲しい。こんな負の連鎖は、誰かが断ち切らなければいけないんだ」

「その為にアレックスは、ピージオンに組み込まれてるっていうプログラムを使うつもりなのね……?」


 エリーが訊ねると、アレックスは『ああ』と重く頷いた。


「“マスター・ピース・プログラム”、世界を覆すほどのチカラ……。僕はこうなる運命を望んではいない。けれどどんな形であれ、僕はそれを託されてしまった。だから僕は、僕なりのやり方で……この運命に向き合うと決めた」


 言いながらアレックスは顔を上げた。闇の中に一筋の光を見出したような、冴えきった表情で告げる。


「それで全てを終わらせて、今度こそ帰ろう。僕たちの帰るべき場所ミスト・ガーデンへ」

「……ハハ。ちょっと前までは心配で仕方なかったけどよ、その分だともう大丈夫そうだなぁ!」


 デフは不器用な笑みを浮かべると、アレックスの背中をバンと力強く叩く。


「安心しろって、ピージオンは俺たちにとっての切り札でもあるしな。お前の背中は俺が守ってやっから、お前はお前の役目さえ果たせばいいんだ!」

「それに、ミリアちゃんを連れ戻して、ミド先輩にも土下座して謝ってもらわなきゃいけませんしね。狙撃手スナイパーとして、誰にも邪魔はさせませんよ」

「デフ……ミランダ……」


 そう上手くいくとは限らない。

 一度は破綻した関係が、再び元通りになる確証なんてどこにもない。

 それでも、仲間たちがこの願いを肯定してくれたことが、アレックスにはひどく嬉しかった。


「私も一緒に戦うわ、アレックス」


 不意に、エリーが呟くように言った。アレックスは深刻な顔で見つめ返す。


「そんなこの世の終わりみたいな顔をしないで、何も別にDSWに乗って戦おうだなんて言わないんだから。看護助手として、アルゴスに乗艦させてもらうことをパウリーネさんに許してもらったの」

「エリー、じゃあ君も……」

「うん、私も月へ行くわ。私だって、皆の役に立ちたいもの」


 照れ臭そうに、しかし決意のこもった表情でエリーが言う。アレックスは真剣な眼差しで彼女を見つめた。

 目と目があう。このまま時間が止まってしまえばいいとさえ──。


「……コホン。とにかく、これで次の戦いが最後になりそうですね。気を引き締めないと」


 ミランダのわざとらしい咳払いに、アレックスとエリーは慌ててそっぽを向く。自分たちのやり取りを仲間たちにも見られていたことに気付き、恥ずかしさのあまり顔から火が出そうになった。


「先輩も、どうか注意を怠らないで下さいね。具体的には……背中とか」

「あ、あはは……」


 ミランダのとても笑えない冗談に、アレックスが表情を引きつらせる。とはいえ、久しく忘れていたようなこの暖かな時間は、張り詰めていた少年少女たちの心をほぐしてくれた。

 それぞれが同じ目標を見つめ、一丸となって決心を固めている。今の自分達ならば不可能はないとすら思えてしまうほどに、彼らは一致団結していた。


(みんな、月に行っちゃうんだ……。そうだよね、今は戦わなきゃいけないもんね……)


 ただ一人。年少のテオドア=グニスだけは、ぽっかりと胸に穴が空いたようにその場で立ち尽くす。

 まるで自分だけが取り残されているような孤独感を感じ、打ち拉がれてしまっていた。


(じゃあ僕は何をすればいい……僕には何ができるんだろ……?)


 胸中で呟いたところで、その問いに答えてくれる者は誰もいない。そんな現実が、彼の抱いた影の黒色をより強めていく。

 皮肉にも、他の四人は未だテオドアの不安に気付いてやることができずにいた。



「あら、おかえりなさい。体の具合の方はどうですの?」


 とある野暮用を済ませたミリア=マイヤーズがやつれた様子で別荘の寝室へと戻ると、深紅のベビードールを纏ったファリス=ツェッペリンが暖かく出迎えてくれた。どうやら自分の帰りを待ってくれていたらしい。


「あんまり大丈夫じゃない、かも……。でも、DSWの操縦に支障はないから安心して」

「それならいいけれど……どうか無理だけはしないで頂戴ね。もう、それはのだから……」

「うん。心配してくれてありがとうね、ファリスちゃん」


 率直な感謝を告げたミリアは、とりあえず体に染み付いた汗を流すべくバスルームに向かおうとする。しかしドアノブに手をかけようとした途端、不意にファリスが背中へと勢いよくすがりついてきた。


「ファリスちゃん……?」


 肩越しに振り向くと、彼女は顔を俯かせたまま両手を震わせていた。こちらから表情は伺えないが、背中越しに伝わる温い感触から泣いていることが伺える。


「ごめんね、ミリア……。同じ女なのに、あなたをこんなにも辛い目に遭わせてしまったわ……」


 それはミリアが初めて耳にした彼女の弱音だった。赤子のように泣きじゃくるファリスの体を、ミリアは母親のように優しく抱きしめる。


「ううん、ファリスちゃんは何も悪くないよ。それにファリスちゃんは私に生まれ変わるきっかけを与えてくれた。牢屋で野垂れ死ぬはずだった私の人生は、あなたのおかげで彩色いろを取り戻せたんだもの」

「でも、妾はまた貴女を戦わせることになるわ……。貴女に不当な搾取を強いた男達と妾に、一体なんの違いがあるというの……?」


 彼女の言うように、ミリアはかつてU3Fの軍人達に慰み者にされた。

 彼らのことは今でも許せないし、これからも一生許すことはないだろう。

 それを踏まえた上で、ミリアは断言する。


「全然違うよ。私はファリスちゃんの剣だから、ファリスちゃんだけには吸い尽くされても構わない。あなたの望む世界を実現する為に、私を好きに使って」

「ミリア……」


 抱き合う二人の少女の体が、ゆっくりと純白のベッドへ沈む。

 ミリアの腕の間で小さくうずくまるファリスが、ルビーのような瞳を潤わせながら細い腕を背中へと伸ばした。


「愛してるわ、ミリア……だから妾を、妾を見て……妾だけを愛して……」

「ファリ……ス……んっ……」


 剥いたばかりの果実のような桜色をした唇と唇が、そっと重なる。

 柔らかな舌が絡み合い、水面を撫でるような隠微な音が奏でられる。

 気持ち悪さは微塵も感じられない。ミリアの知らない愛情の温度が、そこにはあった。


「ふふっ、いい音色ねいろね。もっと……もっと聴かせてちょうだい……」

「あっ…………はぁ……んっ……」


 二人の少女は指を互いの肢体に這わせ合い、秘所を愛撫しては、生まれたての仔鹿のように細く紅潮した両膝を震わせる。

 口の中の粘膜を絡めあう度に、言葉では形容できないような無上の喜びが、電撃の如く全身を駆け巡った。


 そうして甘い匂いと温もりに抱かれながら、溺れる夜は更けていく──。

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