獄中のミリア
第19章『獄中のミリア 1』
その兄妹にとって、両親が働きに出ている昼下がりから夕方までの間は、一番安心できる時間帯だった。
兄・アレックス、10歳。
妹・ミリア、6歳。
木星での過酷な労働を生業とする両親は、ストレスの捌け口として彼らに虐待を行っていた。もはや習慣化してしまっていた親からの暴力であったが、当然ながら子供がそれに慣れるはずもなく、帰宅時間が近づくとミリアはいつも泣き出してしまう。
「ふえぇん……もう痛いのはやだよう……」
今日もミリアは泣き出した。
大声で泣き叫ぶと叩かれてしまうので、彼女の泣く声はいつも静かだ。身に染み付いた痛みという教訓が、まだ幼い少女の泣き方さえも変えてしまっていたのだ。
「大丈夫だよ。だから泣かないで、ミリア」
アレックスが優しく頭を撫でる。妹をあやすのは、いつも兄である彼の役目だった。
「でも、痛いのはやだもん……。死んじゃえば、楽になれるのかな……」
「っ……! 何を言い出すんだミリア、そんなのダメだ!」
「でも……だって……」
生きるのが辛いから。誰も優しくしてくれないから。
そのようなことを言おうとしたが、ミリアの口からは上手く言い表せない。言葉に詰まってうろたえていると、アレックスはそっとミリアを抱き寄せた。彼の人肌の温度が、自然とミリアを落ち着かせる。
「大人はみんな、僕たちに優しくないのかもしれない。でも安心して、たとえ世界が僕たちに優しく出来ていなくても、お兄ちゃんだけはずっとそばにいる」
「ほんと……?」
「ああ、約束する。何があったって、お兄ちゃんはミリアの味方だ」
それは何の根拠もない口約束に過ぎなかったが、それでもミリアにとってはこの上ない救いの言葉であった。
すっかり安心して泣き疲れてしまったミリアは、ゆっくりと夢の世界へと落ちていった。
この数ヶ月後、彼らの両親が行っていた虐待が明るみとなり、二人は児童養護施設に引き取られることとなるが、それはまた別の話である。
*
「ケレス基地から脱出してきた小型艇の操縦士……まさか貴方だったとはね、ウォーレン=モーティマー」
ドロレスがブリーフィングルームに入った時には、すでにナナキ=バランガやウォーレン=モーティマー、キム=ベッキムなどの
現在、火星軌道と木星軌道の狭間を航行しているルビゴンゾーラ級戦艦“アルゴス”は、ファントマイルを搭載したU3Fのアークビショップ級戦艦の追撃任務に就いていた。先行するアークビショップ級の進路からして、敵の目的地はおそらく火星──つまり、インデペンデンス・ステイトの最重要拠点である。“ホロウ・リアクタ”搭載機であるファントマイルが無事に輸送されてしまえば、U3Fの企てている“火星圏制圧作戦”は決定的なものとなってしまうだろう。インデペンデンス・ステイトとしてもコスモフリートとしても、それだけは何としても阻止せねばならなかった。
しかし、多くのクルー達にとってはまだ不明瞭な点があった。
従来の核融合炉を遥かに凌駕する出力をもつ“ホロウ・リアクタ”とはそもそもどのような代物なのかということを、殆どが知らされていなかったのである。その情報を開示するべく、各勢力の代表者がこのブリーフィングルームへと招集されたというわけだ。
「全員、集まったようだな。では予定通りにミーティングを始め……」
「その前に一つ確認してもいいか」
口火を切ったモーティマーの言葉を遮ったのは、コスモフリートの整備班班長であるキムだった。先の戦いで
「ウォーレン=モーティマー……といったか。
会議を停滞させるようなキムの発言はあまり望ましいものではなかったが、それを傍観していた者達は誰一人として彼を咎めるようなことはなかった。それはつまり、この場にいる全員の総意でもあるということに他ならない。
モーティマーもそれを察してか、キム以外の者達にも言い聞かせるように言葉を返す。
「……それを説明するためにも、まずは“ホロウ・リアクタ”の実態について君達にも知ってもらわねばならない。知識の共有を図る時には、順序というものが大切だ」
『だが……』と、モーティマーは続ける。
「これだけは信じて欲しい。君達が人類全体にとっての正義を見失わずに戦い続ける限り、私は君達の味方であり、同志だ」
彼の言葉に異を唱える者など、誰もいなかった。モーティマーは『ありがとう』とだけ呟くと、床面に設置されたディスプレイに資料を映し出す。ホログラフィックとして現れたのは、“ホロウ・リアクタ”の立体図面であった。
「……! こいつぁ……」
いち早くリアクタの機構に驚きの声を漏らしたのは、技術屋のキムだった。素人目では核融合炉との区別がつかないような些細な違いではあったが、彼ほどのメカニックであれば一発で見抜くのも容易だったようである。
「そうだ。この“ホロウ・リアクタ”という開発コードで呼ばれているこれは、従来の核融合炉とは全く異なる出力形式が採用されている。“アンチマター・リアクタ”という正式名称をもつ、反陽子エンジンなのだ」
「反陽子……つまり反物質は、粒子加速器を用いて生成される“地球上には自然に存在しない”物質だ。そして、リアクタ内で生成した反陽子と陽子をぶつけ、対消滅によって生じる莫大なエネルギーを動力へと変換するのが、“アンチマター・リアクタ”というわけだ」
モーティマーが述べるように、構造や仕組み自体は非常に単純明解である。それ故に、話を聞いていたドロレスはとても鵜呑みにすることができず、つい口を挟んでしまう。
「反物質を生成して対消滅を起こすエンジンだなんて……それこそ、これまでは架空の理論として扱われてきたような代物だわ。それをこんなにも急に実用化するだなんて、技術的に可能なの……?」
「……いや、反物質を生成すること自体は、3世紀以上も前には既に成功している」
そのように言及したのはキムだ。
「技術的に不可能だったのはむしろ、生成したアンチマターをそのままの状態で保管しておくことだった。反物質っつうのは、放っておけば勝手にそこらじゅうの物質……例えば空気なんかと結合して、消滅しちまうからな」
「……? 対消滅を防ぐためなら、何の物質もない真空で保管しておけばいいんじゃないの? 空気がマズいのなら、宇宙とか」
「その完全な真空を確保するのが無理だったんだよ。“真空の宇宙”とはよく言うが、あれも実は微量な水素分子のガスが漂っているしな。地球に比べりゃ遥かに真空に近いだろうが、それでも完全に物質が何もないわけじゃねえ」
要するに、反物質を保存するための容れ物が作れなかったのだ。
生成した反物質をその場に留めておく為には、完全なる真空──物質が一切存在しない“無”の空間を用意する他に手段はない。
裏を返せば、LOCAS.T.C.はこの問題を何らかの形で解決した……ということになる。モーティマーが次に言及することこそが、まさにそれであった。
「だが、歴史にDSWという新兵器の誕生をもたらしたLOCAS.T.C.は、とうとう“絶対真空管”までも実用化に成功させてしまっていた。これまで誰もが成し得ることのなかった偉業を、
ホログラフィックとして映し出された“アンチマター・リアクタ”。細長い管のような形状をした“絶対真空管”を中心軸として構成された動力機関を、モーティマーは忌々しげに睨んだ。
「君達も知っているように、このリアクタを搭載したDSWの出力は従来機の4倍にも匹敵する。これがどれほどの驚異なのかは、あの
前の戦闘でタランデュラと交戦したナナキが神妙に頷く。歴戦のエースパイロットである彼ですら、コスモフリートが決死の特攻をしなければ危うく命を落としていたところだ。実戦経験やセンスを埋めるほどの力が、アンチマター・リアクタ搭載機には備わっていると言い換えてもいいだろう。
「そう、あれは人類の手にあまる力だ。少なくとも軍事利用を目的に使われるべきではない。だからこそ、私は君達に情報を開示すると決めたのだ」
言いつつ、モーティマーは画面に映るオミクロンの顔を伺う。鉄の仮面に阻まれているため素顔は拝めないものの、おそらく彼もこの情報を既に握っていたとみて間違いないだろう。ケレス基地への強襲作戦に失敗してもなお追撃任務を課したということは、それだけオミクロンも焦っているのだ。
「もしあんなものが量産されてしまえば、戦争は虐殺へと変わる。それを阻止するためにも、私の望みを君達に託したい」
《ウォーレン=モーティマー、あなたの語る望みとは……?》
スピーカーを介して、オミクロンが問う。すると、モーティマーは考える間もなく答えた。
「平和だよ。宇宙に住まう、全ての善良な人々の安息のためだ」
飾り気のないその言葉は何よりも暖かさに満ちており、それでいて恐ろしく冷たかった。彼は根底にあるその願いの為であればどんな手段も使い、時には犠牲さえ払ってきた。彼の着るくたびれたトレンチコートが、その壮絶な人生を物語っているかのようだった。
「そしてそれを成す為には、やはり君達の力が不可欠だ。利害も一致している。どうか、力を貸して欲しい」
類稀な商才を存分に振るい、J.E.T.S.の代表取締役会長という地位にまで実力で上り詰めた男──ウォーレン=モーティマー。それほどの男が、深々と頭を下げている。
彼の心からの願いを無下にする者など、この場にはいなかった。
*
牢獄に入れられてからの日々は、取り調べとは名ばかりの拷問と尋問の毎日だった。
隙を見つけて寝ていても叩き起こされ、冷たい鉄の廊下を裸足で歩かされる。久しく鏡を見ていないが、きっと拘束衣を着せられた今の自分の姿は、とても酷く哀れで滑稽なものだろう。このように何事も客観的に捉えることで、ミリアはどうにかして平静をギリギリのところで保てていた。主観的に現実を見てしまったら、心がガラスの如く粉々に打ち砕かれそうだったからだ。
今のように独房の中で体を拘束具に固定されたまま放置されている時は、なるべく無心でいるよう心がけていた。布で視界を遮られてはいたが、ミリアとしては寧ろ現実を直視しないで済むので、ありがたいと思うことができた。
「お疲れさん、あとは任せな」
廊下の方から兵士の声が微かに聞こえる。恐らくは見張り番の交代だろう。
とくにやることも出来ることもないので、何となくミリアは聞き耳を立てることにした。
「しっかし、アーノルド少佐も人が悪いよなぁ。だって本部直属の諜報部の人間だろ? 海賊から取り調べる情報なんて何もないだろう」
「ばーか、あの人は拷問が趣味なんだよ。“拷問好きのアーノルド少佐”ってあだ名は結構有名だぞ」
聞くべきではなかったと、ミリアは数秒前の自分の軽率な判断を後悔する。
何故、コスモフリートに偶然乗り合わせていたに過ぎない自分が拷問を受けていたのかがずっと疑問であった。確かにピージオンという軍事機密には関わっているものの、自分が直接操縦していたわけではないし、事情聴取されても何か答えられるほど知識がない。それだけが、ずっと気掛かりだったのだ。
だが、実際のところ“コスモフリートに関与していた”という容疑は、どうやら自分を拷問するための建て前に過ぎなかったらしい。ただアーノルドという男がストレスの捌け口とするために──あるいは、快楽を得るために──ミリアはこんなにも痛めつけられてしまっているのだ。
もしこれが本当なら、なんて救いのない話だろうか。しかし、皮肉にもミリアはこれに納得してしまっていた。
これまで受けた拷問の数々を振り返る。それらは全て、まるでミリアが悲痛に嘆き叫ぶのを楽しんでいたように思えるのだ。
手術台に寝かされたまま身体を固定されて、見るからに違法な薬物が入った注射針を何回も刺された。
その次には椅子に座らされて、手足の爪を一つ残らず全て順番に剥ぎ取られた。
天井から吊るされて、バケツに入った水に溺れる寸前まで顔を付けさせられたこともあった。
そして、例外なくその場に居合わせていたアーノルドという男は、まるで罪人に情報を吐かせることなど二の次だと言わんばかりの様子で、部下たちに指示を下していた。今思えば “事情聴取”などという言葉も、アーノルドが楽しむための便利な口実に過ぎなかったのだろう。
「げぇ、ロリコンな上にサディストかよ。見かけによらず危ない人だなぁ……」
「間違っても本人の前で言うんじゃないぞ。バレたらお前も、拷問されちまうかも……!」
「違いねぇや。はっはっはっは!」
「……フフフ。残念ですが、聞こえていますよ」
噂をすれば影がさすとはよく言ったものだ。
目隠しをされているためミリアが姿を見ることはできないが、どうやら立ち話をしていた兵士たちの後ろからアーノルドがやってきたらしい。
そして、彼がこの独房へとやって来る理由など、一つしかない。
「さぁさ、起きてくださいミリアちゃん。別室まで少しばかり歩いてもらいますよ」
ドアロックの外れる音が鳴り、足音がゆっくりと近づいてくる。疑うまでもなく、それはアーノルドのものだ。
全身を縛っていた拘束具が解かれたあと、再び鎖のついた手錠をかけられる。目隠しは依然として外されないまま、ミリアはアーノルドに誘導されるがまま廊下を歩き出した。
──大丈夫だよ。だから泣かないで、ミリア。
歩かされている途中、ふと兄の言葉を思い出していた。
(昔から私は弱虫だった。私を産んだ両親からは鬱憤の捌け口にされて、お兄ちゃんに守られることしかできなかった、惨めな弱虫)
兄は、アレックス=マイヤーズは、自分とは違っていつも強かった。
腕っ節が強いという意味ではない。彼は自分を心配させまいと、両親に対していつも強がってくれていた。強がり続けようとする心が、強かったのだ。
無意識のうちに、ミリアはそんな兄に対して憧れを抱いていた。
その感情が、何という名前のものなのかミリアは知らない。でも、その感情をストレートに表すのは何となく気恥ずかしくて、気付けばミリアは兄を呼び捨てにするようになっていた。“お兄ちゃん”と呼んでしまうのは、まるで自分が兄の強さに依存しているような感じがして、気が引けてしまったのだ。
兄を安心させてやるためにも、今度は自分が強くならなければいけないと思った。だからこうして、度重なる拷問を受けてもなお耐え忍ぶことができているのだ。
──たとえ世界が僕たちに優しく出来ていなくても、お兄ちゃんだけはずっとそばにいる。
『ほんと……?』
──ああ、約束する。何があったって、お兄ちゃんはミリアの味方だ。
(そうよ、アレックスは絶対に助けに来てくれる。だからその時まで、ひたすら耐えるのよ、ミリア)
何度も何度も、心中で自分にそう言い聞かせた。
ほつれそうな糸を繋ぎとめるように、自らの心に針を入れていった。
この傷が、自分を強くしてくれる。そう思えたのだ。
いつも兄が、そうしていたように。
「さあ、着きましたよ」
ミリアを引くアーノルドの足が止まった。
どれくらい歩かされただろう。そんなことを考えながら、ミリアは促されるがままに両手を差し出す。手錠だけ外された後、アーノルドの足音がミリアの元から離れていく。
「っと、目隠しは外しても構いませんよ。それでは、終わるまで私は隣の部屋にいますので」
それだけ言い残した直後、背後で扉が閉まる音がした。立ち尽くすミリアは、ひとまず言われた通りに顔を覆う布を解く。
そこは、乗組員の個室のようだった。
鉄の壁に覆われた質素な部屋。壁には寝心地の悪そうな簡易ベッドが備え付けられ、そこにU3Fの兵士らしき人物が座っている。まるで野蛮人が無理やり軍服を着込んでいるような、如何にも不衛生そうな男だった。
「ガキかよ、前みたく褐色の姉ちゃんが良かったんだけどな……。まあいいや、さっさと脱ぎな、お嬢ちゃん」
「な、何でよ……」
男が何を言っているのかわからなかった。
否、わからない振りをした。
そうでもしなければ、この先に自分を待ち受けているであろう絶望に耐えられる気がしなかったのだ。心の中では耐え忍ぶと決めていても、もっと本能的な部分がそれを拒んでしまう。身体に刻み込まれた恐怖という名の遺伝子が、必死に“逃げろ”と叫んでいた。
「い、嫌……っ! 出して、ここから出してぇぇぇっ!!」
すぐさま背後に佇むドアへと駆け、力いっぱいに叩く。しかし、重苦しい鉄の扉はただ自分の悲鳴を反響させるだけだった。
「出してよ! 誰か、ここから出し……っ!!」
「騒ぐな! ちったぁ静かにしねぇか!!」
男に手を捕まれ、ミリアは乱暴に投げ捨てられた。強く背中を打ってしまい、立ち上がる気力もないまま天井を仰ぐ。手の届かない高さにある照明が、まるで惨めな自分を嘲笑っているかのように思えた。
「これも上からの命令なんでね。まっ、悪く思うなや」
「あ……あぁ……」
目に映る景色が、どんどん色彩を失っていく。
怒りも悲しみも、この圧倒的な絶望の前では湧いてすらこないのだと知った。
いっそこのまま感情が消えてしまえばいいとさえ思った。
心を持たない人形が、屍が、生まれてはじめて羨ましいと思えた。
でも、神様はやっぱり意地悪だった。
私は肉体と心を持った人間であり、それ以上でも以下でもない。
だからこそ、この両方を傷つけられるのはとても耐えられなかった。
楽にしてほしい。いっそ狂ってしまいたい。
だが、肉体という枷がそれを許さない。
もはや運命を呪うことさえ馬鹿らしくなっていた。
これからさらなる支配と屈辱が待ち構えていようと、もうどうでもよかった。
生まれて来なければよかった。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます