疾走、モーティマー
第7章『疾走、モーティマー 1』
不殺主義。
文字通り、人の殺傷を避ける主義のことである。
人々がこれを行うようになる動機は幾つか存在する。敵兵を殺すことへの忌避感、殺してしまったことへの罪悪感などが主な理由だろう。それ自体は別に悪いことではない。寧ろ、殺人に対してこのような感情を抱いてしまうことの方が普通の反応であり、忌避感が全くないほうが少数派だと言えるだろう。殺人という行為自体が倫理的に逸脱しているのだから、それは間違いない。
では何故、人として当然ともいえるこの行為が、戦場においては咎められてしまうのか。それはまさしく、不殺を行った後に生じる責任の重さ故だろう。
“殺さない”という選択は、すなわち殺されるはずだった者を生かすということと同意義である。
ではもし、その生かされた敵兵が再びこちらに銃を向けることになったらどうなるか。考えるまでもなく、味方……ひいては自分の命までもが脅かされてしまうだろう。敵も不殺主義の持ち主だった……なんてことはそうそうない。思い至ることはあっても、時代や環境がそれを許さないのだ。
このような理由から、戦場における不殺は主に味方から忌み嫌われる。不殺の責任というのは、人ひとりが背負いきれるほど軽くはない。故に兵士たちは、人としては寧ろ真っ当でさえある“人を殺したくない”という感情を押し殺して、武器を敵の喉元に突きつける他ないのだ。
それでも不殺を貫く覚悟をした人間というものは、ある意味では最も人間らしく、同時に最も非人道的であるといえるだろう。
“正気”か“狂気”と捉えるかは、結局のところ人それぞれである。
*
「もう。快復したとはいえ、無茶をしていいとは言ってないわよ。アレックス君」
「はぁ……。すみません、パウリーネさん」
真っ白な病室で目を覚ましたアレックスは、ベッドの上に横たわる自身の身体に視線を落とす。シャツの上から覗ける肉体は、一見すると何の変哲もない生身の肌だ。
しかし、この肌色の皮一枚を隔てた内側……内臓などの生きる上で必要な器官の殆どが、人工の
(思えば、こうして僕が見ている光景も、『義眼型生体カメラアイ』が写した視覚情報を、脳が読み取っているものなんだよな)
LOCAS.T.C.とゲノメノン社が共同で開発したとされるこの義眼は、機械と呼ぶにはあまりにも生身の眼球と変わらない代物であったし、見た目もアレックスが元来から持っていたサファイア色の瞳と同じカラーだったため、違和感を周りに言及されることもなかった。そのため、自分の眼が機械であるという実感がアレックスには欠如していたが、紛れもない事実であるということは、あの時に味わった痛みが証明していた。
(……でもよく考えたら、生身の“眼”や“耳”だって、外界から得られる情報を脳に伝達するためのパーツに過ぎないのか。そう思うと、人の身体自体が有機物のみで構成されたロボットのようなものだ)
ただ、有機物が無機物へと置き換えられただけ。生身の人間とインプランターの違いなど、その程度である。
現に、西暦2281年の科学技術を持ってすれば、人体に存在するほぼ全ての器官は機械へと置換することができるようになっている。未だに完全な再現が出来ていないのは、たしか“脳”くらいのものだったはずだ。
アレックスがそのようにして物思いに耽けていると、不意に医務室のドアが開かれる。室内へと入ってきたのは、上着のポケットに手を突っ込んだままムスッとした表情をしているナット=ローソンだった。
ナットはベッドに座るアレックスの姿を一瞥すると、何も言わずにすぐ側まで足を運んできた。しばらくの間、二人の少年は視線を交わす。これほどまでに険しいナットの形相を、アレックスは初めて目にしていた。
「アレックス」
「ナ、ナット……?」
「……歯ァ、食いしばれ」
次の瞬間、ナットの握り拳がアレックスの頬に思い切り食い込んだ。パウリーネの制止の声に耳も貸さず、ナットは床に転げ落ちたアレックスの胸ぐらを掴み、無理やり起き上がらせる。
「俺がお前を殴った理由。ちゃんとわかってるだろうな……?」
ナットが問う。彼の鋭い棘のような眼差しは、決して目を逸らすことを許さない。そして、思い当たる節がアレックスにはあった。
撃墜できたはずの敵機を庇った。ナットは今、その責任について問うているのだ。
「何故あんな真似をした……!? 答えろ……ッ!」
「それについては言ったはずだ……! 何も命まで奪う必要はないって、思えたから……!」
アレックスもまた、確固たる意志を持ってナットを睨み返す。彼の見せる意外な力強さにナットは一瞬だけ驚いたが、それさえも苛立ちに変えて、吠える。
「必要がないだと……? 大アリだ馬鹿野郎ォッ!! お前の犯した行為は、死ぬはずだった敵に未来を与える事だ! お前のその不用心が、敵兵に再び銃を握らせるんだぜ! その銃口は、巡り巡って俺たちを殺す……!!」
敵兵を殺さないというアレックスの判断は、必ずしもメリットばかりではない。寧ろ、リターンよりもリスクの方が圧倒的に大きいと言っても過言ではなかった。そのリスクの一つが、ナットの語った“敵兵を生かすことによる二次被害”だ。
戦争状態のような、命のやり取りを強いられる状況に陥ってしまった場合、自分の身を守るうえで一番手っ取り早い方法とは何か。それはまさしく『相手を殺す』ことである。
殺される前に殺す。あまりにも簡潔な発想ではあるが、それだけに戦場においてはこれが真理であるとさえ言えるだろう。『敵の命を奪うこと』とはつまり、『自分や味方の命を護ること』に繋がるのだ。“命のやり取り”とは、文字通り奪い合いの死闘なのである。
「だからって、平気で人を殺すのが正しいっていうのか……!? そんなのは、正気じゃない……少なくとも、心を持った人間のあるべき姿ではないんだ!」
一人の人間を殺めること。それはつまり、一つの人生を終わらせることと同意義である。アレックスはこれまでの戦闘を通して、その重みを痛いほどに味わった。
だからこそ、この痛みに慣れてはいけない。甘んじてはいけない。屈してはいけない。 そう思えたのだ。
「善人面しやがって、それを自己満足っていうんだよ……! てめぇはただ、てめぇ自身の慢心を満たす為だけに慈愛を振り撒く、聖人のフリをしただけの偽善者なんだよッ!」
「何とでも言えばいいさ! でも、例え偽善だと言われたって、僕は諦めない。殺しを当然だと思えてしまうようにはなりたくないから……!」
再び拳が頬に叩き込まれる。それでもアレックスは強く睨み返すだけで、決して殴り返そうとはしてこない。ナットはそれに対して苛立ちを覚えると共に、奇妙な気持ち悪ささえ感じた。目の前にいる少年が、人ではない……何かもっと怪物のような得体の知れない存在に見えたのだ。
「味方にそれをやられたらたまらねぇって言ってんだよ! そもそも、敵の命に価値なんて見出すのが間違いだって事に気付け……!」
「敵だって人間なんだ。命の価値は、敵も味方も同じだろう……!?」
「……いいや、命の価値は決して等しくない。この世界に“死んでいい人間”は幾らでも存在するんだぜ。確実にな」
ナットの脳裏に、ある男の姿がチラつく。吐き気を催すほどの邪悪。しかしアレックスには、ナットの抱える“闇”など見えない。
「そういう奴らを一人残らずブッ殺せ! そうすれば、お前の言う“平和な世界”だって実現するだろうぜ……!」
「人殺しなんて、甘い毒なんだよ! その毒はいずれ自分だって追い詰める! それはとても虚しくて……悲しいことなんだ! ナット、なんでわかってくれない……!?」
ゲノメノン施設の地獄を、『ダーク・ガーデン』の惨劇を、アレックスは知らない。
肉親に虐げられ続ける痛みを、暴力に溺れる者の愚かしさを、ナットは知らない。
人の価値観とは、これまでに蓄積されてきたその者の経験によって決まるという。この場においては、二人の歩んできた人生の差異が、すれ違いという名の溝を決定的なレベルにまで押し広げていったのだ。
「あのねぇ、君達……ちょっとうるさいよ。ココ、病室。アンダスタン?」
啀み合う二人の間に、間の抜けた声が飛び込んでくる。振り返ると、一枚のカーテンレールを隔てた向こう側のベッドに座る包帯だらけの男が、呆れ顔でこちらを見ていた。
「シンディさん……」
「シンディ……。生きてたのか」
「オイ、勝手に殺すなよ!?」
ソリッドが纏う装甲のうちもっとも厚い部分が、コックピットのある胸部周辺である。そのため、コンドルフの散弾銃を至近距離で受けてもなお、搭乗者のシンディは辛くも生き延びることができていた。とはいえ、少しでも被弾箇所がズレていれば機体が爆散する可能性さえあったという。彼は幸運だったのだ。
「ったく、大層な主義主張を語る前に、目先にいる俺やパウリーネさんの困り顔に目を向けて欲しいね」
そう言われ、取っ組み合っていたアレックスとナットは医務室を見渡す。パウリーネはどこか怯えている様子だったし、シンディは厄介なものを見るような目でこちらの方を向いている。言うまでもなく、原因は自分たちにあった。
「すみません。シンディさん、パウリーネさん」
渋々ながらもすぐに謝罪の言葉を述べるアレックスだったが、彼の胸ぐらを掴む拳を解いたナットは、それでも尚謝ろうとはしなかった。
「俺は謝らないからな」
「ナット、お前な……!」
シンディの声を無視してナットは身を翻すと、医務室の出入り口の方へと向かってゆく。彼は開いたドアの寸前で立ち止まると、もう一度アレックスを見据え、重々しく言葉を紡ぎ出す。
「“何かを一つ守ろうとするたびに、一つ何かを失ってゆく”。おやっさんの言葉だ」
「バハムートさんの……?」
「ああ。そして、それがこの世界を織り成す摂理でもある。守りたいものがお前にあるのなら、何かを切り捨てる覚悟をしろ。『敵も味方も両方救う』なんてのはナシだ」
言って、ナットは視線を部屋の外へと戻す。アレックスには彼の横顔が、どこか寂しそうに映った。
「でないと、いつか取り返しのつかないことになる……」
忌々しげに吐き捨て、ナットは医務室を後にする。ちょうど入れ替わるように入室してきたポニータは、状況が飲み込めず少し困惑していた。
*
木星資源抽出輸送業社“
モーティマーは時折彼らからの敬礼を返しつつ、目的の応接間へと足を運ぶ。
と、その時。膝のあたりに何やら軽いものがぶつかる感触がした。
「きゃっ!」
「うおっとぉ!?」
子猫のような愛らしい声音に、モーティマーも思わず素っ頓狂な声を出してしまう。視線を下に向けると、そこには尻餅をついた女の子が倒れていた。どうやら彼女とぶつかってしまったらしい。
ふわっとした桃色の髪を腰まで伸ばし、側頭部で束ねている。歳は12歳くらいだろうか。年端もいかないその小柄な娘は、少女というよりは幼女と形容するほうが適切かもしれない。
そのような外見だったが、彼女がその華奢な体躯に纏っているのは、如何にも高級そうな紅いドレスだ。着せられている、のではない。舞踏会で身につけるようなゴージャスで華やかな衣装を、彼女は違和感なく着こなしていた。
「これは失礼。お嬢さん」
言って、モーティマーは手を差し伸べたものの、なぜか彼女はそれを拒んだ。
「お気遣いなく、一人で立てますわ。なるべく他人の手は借りぬよう、お父様に言われてますの」
「あら、それはご立派な心掛けで……んん……?」
自力で立ち上がり、手でスカートの
これらのことから、モーティマーの中で導き出される結論は……。
「無礼を承知でお聞きしますが、あなたのお父上とは……?」
「お父様ですの?
やはりな、とモーティマーは口元を緩ませる。
「自己紹介がまだでしたわね。妾はファリス=ツェッペリン。ツェッペリン家の三女で御座いますわ」
以後、お見知り置きを。と、ファリスと名乗った少女はスカートの裾を軽く持ち上げてお辞儀をした。
(ミリアと同い年くらいの、まだまだ遊びたい盛りの子供だというのに……なかなかどうして、気味が悪いくらいに礼儀正しいじゃないか)
率直にそのような感想を抱いた。
勿論、ファリス本人を責めているわけではない。子は親を選べないのだから、仕方のないことなのだ。
「では、お嬢さん改め姫様。つかぬ事をお聞きしますが……」
「ええ。何なりと」
「お父様のこと、好きかい?」
まるで試すかのように、モーティマーが問う。特に深い意味はない。
ただ、レールの敷かれた人生を歩かされているような子が、親に対してどのような思いを抱いているのか、興味があったのだ。
「勿論、大嫌いですわ」
ファリスは考え込むこともなく即答した。
「ほう。それはどうしてだい?」
聞き返すモーティマーだったが、理由は聞かずともわかっている。
徹底した英才教育による自由のない、鎖に縛られるような生活に嫌気がさしている。そんなところだろう。
だが、この少女はどうやら違うようだった。
「今の私は、お父様に飼い馴らされている……いわば弱者ですもの。自分の上に立つ強者の存在が気に食わないのは、当然ですわ」
弱者。強者。とても眼前の幼い少女から出た言葉とは思えなかった。
「弱肉強食……かぁ。難しいことを知ってるね」
「難しい? 何がですの? 強きものが弱きものを淘汰し、支配する。より優れた遺伝子が生き残るのが自然の摂理であり、社会構造の基盤ですもの。だから妾は、妾の上に立つ全ての存在が憎い。人類は全員、妾に跪けばいいんですわ」
踊るように語らうファリスは、氷のように冷たい笑みを浮かべる。少なくとも、普通の少女ができるような表情ではなかった。
いや、この少女は普通ではないのだ。何か根本的なものがズレている。
これも、お父様の洗脳じみた教育による賜物なのだろうか。
そう思っていた矢先のことだった。
「そこで何をしているのだ。ファリス」
「あ、お父様っ!」
背中に投げかけられた低い男の声に、ファリスは嬉々として身を翻すと、声の主の方へと駆け寄る。モーティマーもまた、走るファリスの後ろ姿を追うように、視線をそちらへと向けた。
そこに立っていたのは、浅黒い肌を持つ巨漢だった。
その男はスーツではなく、王族服のような派手な衣装に身を包んでいたが、彼の筋肉質な肉体は服の上からでも容易に確認することができる。
顔はかなりの強面で、毛髪の一切生えていないスキンヘッドや眉が、よりその印象を際立たせていた。煮え立つマグマのような紅蓮の瞳は、注意深く見れば人工の義眼型カメラアイだということがわかる。
そのような、雄々しさと冷徹さを併せ持つような、威厳のある男。
モーティマーは、彼の名前を知っている。知らないはずがない。
(プレジデント=ツェッペリン……!)
世界最大規模のシェアを誇る軍産複合企業『
戦争を効率的に行うことを目的とした共通規格“ユナイテッド・フォーミュラ”の発案者にして、現存するほぼ全ての兵器に適用されるに至るまで普及を推し進めた男。
おそらく人類史上で最も多くの人間に武器を売り渡した、死の商人。
モーティマーの中でプレジデント=ツェッペリンとは、そのような人物であった。
「これはこれは、ミスター・プレジデント。お逢いできて光栄であります」
彼に対する恐怖や疑念、怒りを全て心の奥底へと追いやり、モーティマーは道化師のように大袈裟なお辞儀をしてみせた。
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