第16章『赤い朱いミルカ 6』

 ナットとミルカの二人は管理局を目指し、非常灯の光が照らす通路を進んでいた。宇宙港は無重力であるため、ミルカは車椅子から降り、ナットに手を引かれる形でついてくることが出来た。

 ナットはサブマシンガンを構え警戒しつつ進んでいたものの、結局のところテロリストとは一切出喰わすことなく、最奥の管理局前にまで辿り着いてしまった。多くの民間人協力者が離反した今、テロリストたちにはもはや管理局の防衛に割けるほどの人員すら残っていないのだろう。


「3セコンド後に突入する。いいな」


 ドアを目の前にしたナットが小声で囁くと、ミルカは黙って頷いた。静寂が包む通路の中、ナットの頭の中の秒針だけが音を立てて時を刻み……、


「動くなッ!! 手を挙げて投降しろッ!」

「ひぃっ!?」


 勢いよく管理局のドアを開け放つと共に、ナットはすかさずサブマシンガンの銃口を向ける。室内にいたテロリストはたった一人だけであり、デスクチェアに座していたその者は驚きのあまり情けない声を出しつつも、両手を挙げながら慌ててこちらを振り向いた。

 痩せ細った長身の男性で、いかにも頭脳派といった風貌の少年だった。

 彼の顔を見てナットは、そしてミルカもまた、悪い予感がまたも当たってしまったことに少なからず動揺してしまう。

 管理局を任されていたテロリストは、やはりモルモットチルドレンの一人だったのだ。


「あれ……もしかして、ナット……? それにミルカも……! ぼ、僕だ。ブルックだよ! 覚えているだろう……!? 二人とは、9年前に離れ離れになったきりだったよなぁ……!」

「あ、ああ。久しぶりだなブルック」


 意外にもブルックは、自分やミルカと再会できたことに喜びを感じているようだった。アフマドやシェリーとは異なる反応に、ナットは思わず耳を疑ってしまう。


「ここで民間協力者たちを指示していたのはお前だな……?」

「そ、そうだよ……。でっ、でもそれは命令されたから仕方なくって……!」

「仕方なく……だと?」

「ああ、そうさ! 僕は望んでフロッグマンに付いてるわけじゃないんだ! だから僕を助けてくれよ……ナット!」

「どういう意味だよ、それは」

「ひ、ひぃっ! まずは銃口を降ろしてくれよ! 何でも話すから!」


 怯えきった表情のブルックにそう言われるが、ナットは依然として銃口を降ろすことはない。アフマドやシェリーに拒絶し続けられてきたナットは、もはやかつての仲間にかける情けなど持ち合わせていなかったのだ。


「それで、お前は本当に、フロッグマンの味方をする意思はないんだな……?」

「ああ、本当だとも! そもそも、この作戦に参加することだって、僕にとっては不本意だったんだ! いや、僕だけじゃない。アフマドとシェリーはともかくとして、リリーやリリアンだってそう思っていたさ!」

「何……? 二人もこの作戦に参加しているのか」


 リリーとリリアン。その両名もまた、かつてはナットやミルカと同じ屋根の下で暮らしていたモルモットチルドレンの仲間だ。暖かく微笑む小さな双子の姿をナットは頭の片隅で想起させる。


「正確には“していた”さ……。でも、二人とももう死んだよ。トレーラーを襲撃しようとした、一機のソリッドが居たろう? あの中に、リリアンがいたんだ……」


 トレーラーを襲ったソリッド。つまり、デフの駆るキメラ・デュバルが撃破したあのソリッドは、リリアンが操縦していたということになる。そしてナットの気付かぬうちに、彼は戦死してしまっていたというのだ。


「……それで、お前は二人を殺した俺たちコスモフリートが許せない……と」

「違う! もうこりごりなんだよ……! 昔の友達同士が銃を向け合って殺し合うなんて、見てられない……もうたくさんだ……ッ!!」


 ブルックの顔が悲痛に歪み、大粒の涙が溢れて無重力の室内を漂う。とても格好のつかない様ではあったが、それだけに彼の無念や、切実な思いを体現していた。


「お願いだ、ナット! まずは銃を降ろしてくれぇ! お前は9年ぶりに再会した親友に、その鉛玉をくれてやるのか……!」

「……っ」


 言われ、ナットは思わず押し黙ってしまう。サブマシンガンの銃口の先にいるブルックはこんなにも脆く、今にも崩れてしまいそうになっているではないか。


「ナット」


 ミルカにジャケットの袖を引っ張られ、ナットは仕方なく突きつけていたサブマシンガンを降ろす。彼に敵対しようとする意思はないと、そして銃口を向けたままではロクに話し合いすらできないと、そう判断することにした。




『必要なのは対話。向かい合って話すことだぞ、ナット。少なくとも、言葉で解決できる問題は、そうするべきだ』




 バハムートも前にそう言っていたのだ。まずは、歩み寄ることが大切である。

 そう思い至ったナットは、握っていたサブマシンガンを手放そうと……、


「……かかったな、アホがぁっ!!」


 ブルックは罵倒の言葉を放つと同時に、背後に隠し持っていた拳銃をナットに突きつける。彼は躊躇いなくトリガーに指を引っ掛け……、

 直後、管理局内に銃声が鳴り響いた。


「が……はッ……!」


 一発や二発ではない。十数発という銃弾の嵐が、ブルックの頭部を粉々に打ち砕いていった。鮮血を辺りに撒き散らしながら、吹き飛ばされたブルックの身体が力なく壁に衝突する。


(変わっちまったな、お前も。昔は嘘なんか吐くヤツじゃなかったのに)


 に変わり果ててしまったブルックを冷めた眼差しで一瞥しつつ、ナットは何事もなかったかのように通信機を取り出す。


「こちらバロム6。管理局の制圧に成功。任務、完了ミッションコンプリートだ」

《こちらバハムート、了解。こっちも宇宙港は奪還した……というより、着いた頃にはすでに敵が倒されていたんだがな。お前も一旦帰投しろ》

「了解だ。


 一先ず自分の役目を終えたナットは肩の力を抜く。管理局さえ占拠してしまえば、これでフロッグマンの脅し文句は無効になったも同然である。あとは、『ダーク・ガーデン』内にいるテロリスト残党をしらみ潰しに掃討するだけ。

 『ダーク・ガーデン』の平和は、ミルカの暮らすコロニーの平穏は、守られたのだ。


「よし、一度コスモフリートに戻ろう。ミルカ」


 ナットはミルカに呼びかけつつ、交信を終了するべく通信機を操作しようとする。




「助けて……ナット……!」


 しかし、ミルカの方を振り向くなり、通信機のボタンを押そうとしていたナットの指が止まった。


「な……に、やってんだ。ミルカ……?」

「わかんない……でも……! 怖いよ、ナット……!!」


 人工皮膚に覆われた、ミルカの機械仕掛けの腕。

 まるで当人の意思に背いて動いているかのように、あるいはそれ自体が意思を持っているかのように、ミルカのオートメイルが管理局のコントロールパネルを操作しているのだった。



 『ダーク・ガーデン』郊外にある病院施設。その地下にある研究室。


(のは聞いていたケド……相っ変わらずエゲツないことしてるねぇ……)


 研究データの纏められた資料を片っ端から拝見しながら、フロッグマンは邪悪に頬を綻ばさせた。その資料のうちの一つに見知った人物の顔写真を見つけ、フロッグマンは着目する。

 識別番号“B-22640096”。そう記された資料には、栗色の髪をした少女の写真が添付されていると共に、アンドロイドの試作型腕部パーツの図面や細かな実験データなどが記述されていた。


(クククッ、なるほどねぇ。要するにこのモルモットちゃんは、自分の機械義手オートメイルの定期検診だという連中のホラを信じ込んで、知らず知らずのうちに実験のデータ取りに利用されちまってるってワケか……)


 それで、その実験内容とは……と、フロッグマンは目線を資料の下部にスクロールさせる。


「ほーん、『遠隔操作型義体リモートロイド』ねぇ……。こりゃまた、珍妙な発明を……」


 あまりにも可笑しな響きの単語を目にして、フロッグマンはつい口に出して読んでしまった。

 どうやら遠隔操作型義体リモートロイドとは、その名前の通り外部からの遠隔操作に対応したアンドロイドのことらしい。おそらく、何らかの事情により身体が不自由になってしまったり寝たきりになってしまった人間が、健常者と同じように外で行動することを目的に開発が進められている代物なのだろう。と、フロッグマンは推測した。


(へぇ……。このモルモットちゃんに移植されている義手も遠隔操作が可能なのね……。ま、遠隔義体のテストも兼ねているのだから当然か)


 それを踏まえた上でフロッグマンは収集された実験データを確認すると、興味深い実験結果が幾つも記されていることに気づいた。

 遠隔操作可能範囲は『ダーク・ガーデン』全域、操作中は義手装着者本人の命令を一切受け付けない……など、義手に関する情報を次々と頭に叩き込んでいく。


(こりゃ、使えるかもしれねぇなぁ……)


 被検体ミルカ=ローレライの顔写真を見据えつつ、フロッグマンはやはり不敵に微笑んだ。



「どうして……!? 腕がちっとも、私のいうことを聞いてくれないよ……!」


 青ざめた表情で悲鳴をあげるミルカ。しかし彼女の腕はまるで彼女自身の意思に背くかのように、依然としてコントロールパネルの操作を淡々と続けていた。キーボードを叩くその動作は徹底的に効率化されており、まるで人間味の感じられない無機質なものに見えた。


《ナット! どうした、何があった……!?》

「ミルカが……いや、ミルカの機械義手オートメイルが……急に……!」


 通信機越しにバハムートから状況を確認されるも、ナットは焦りのあまり上手く言葉を紡ぐ事もできずにいた。


《落ち着け、6! 機械義手がどうした!》


 コールサインで呼ばれたことにより、ナットは作戦行動中のマインドセットを徐々に取り戻し始めた。そしてたった今、目の前で起こっている事態をありのまま伝える。


「……ミ、ミルカの機械義手が、管理局のコンパネを操作し始めた。それも、義手はどうやら本人の意思とは関係なく動いているらしい」

《義手が勝手に動いているだと……? それはどういう……》


 通信機の向こうにいるバハムートが言いかけたところで、肌身で殺気を感じ取ったナットは咄嗟に通信機を投げ捨て、物陰に向かって飛び込んだ。

 刹那、ナットがつい先ほどまで立っていた場所を数発の銃弾が通り抜けてゆく。その銃弾を放ったのは他でもない、サブマシンガンを握ったミルカだった。


「ミルカ……ッ!?」

「違う! 違うの、ナット! これは私じゃない……! 腕が、私じゃない何かが、私の中に入ってくる……気持ち悪い、嫌ぁ……ッ!」


 サブマシンガンを握ったまま取り乱すミルカを目の前にし、ナットは思考がろくに纏まらず、どう対応するべきかの判断さえも下すことができずにいた。ただ、ミルカの精神が何らかの要因により追い詰められているということだけはわかる。そして、その正体はこちらが突き止める前に自ら名乗り出るのだった。


「ハ……ロー……。ワガ親愛ナル、コスモフリートノ誰カサ、ン……」


 大粒の涙を流しながら、ミルカが辿々しく言葉を紡ぎ始める。ナットにはそれが、まるで口を何者かに突き動かされて、ミルカの意思に関係なく無理矢理喋らされているような、そんな印象を受けた。

 そして、その犯人の名はおそらく……。


「フロッグマン……ッ! テメェ、ミルカに何をしてる……ッ!!」


 忌々しい名前を叫ぶと共に、ナットはミルカに……その背後に彼の幻影を見出し、すかさずサブマシンガンを向けた。


「面白イダロウ? 遠隔操作リモートコントロールダケジャナイ、精神ガ逆流スルッテヤツダ。ソノモルモットチャンノ可愛ラシイオクチハ、今ヤワタシノスピーカー代ワリナノダヨ……!」


 機械義手。遠隔操作。そして、精神の逆流……?

 ナットはフロッグマンの羅列したキーワードを、噛みしめるように脳内で復唱する。しかし、彼の言わんとする意図は結局掴めることができなかった。というよりも、そこから導き出される結論はあまりにも信じがたいものであったのだ。


(奴が義手を遠隔操作してる、……ってんならまだわかる。だが、ミルカはまるで、口や発言さえも操られているように見えるぞ……! これは一体……ッ!?)


 もしも。フロッグマンがあの義手を通して、ミルカの肉体を乗っ取っているのだとしたら。

 あの得体の知れない機械義手オートメイルが、フロッグマンの命令を電気信号に変換してミルカの脳に送り込まれているのだとしたら。

 馬鹿らしい発想だとは、ナットだって思っている。

 しかし、そんな非人道的な真似でも“ゲノメノンならやりかねない”ということを、ナットは物心つく前から知っているのだった。


「お前は……お前たちは……ッ!!」


 ナットは怒りを露わにして拳を震わせるが、フロッグマンはそれを無視して尚も語り続ける。実際のところ、ミルカを遠隔操作しているフロッグマンにはナットの声が聞こえていないため、彼に対し返答できないのは当然のことではあったのだが、その事実を知らないナットはただ己の精神を逆撫でされるだけであった。


「今、コノ娘ハコンパネヲ用イテ、アルコトヲシヨウトシテルワケヨ。ソレガ何カハ……解ルヨネェ……?」


 まるで勿体振ったような口振りで、ミルカの肉体を介したフロッグマンは再びコントロールパネルの方に向かいながら、物陰に隠れるナットに対して言う。なにか脳に負担が掛かってしまっているのか、ミルカの鼻からは血が流れ始めていた。


「ソウ、コレハ簡単ナゲームサ。今、君ノ目ノ前ニハ、コンパネヲ操作スル民間人ノ小娘ガイル。制限時間タイムリミットマデニソイツヲ殺シチマエバオ前ラノ勝チダ」


 もしそれができなかった場合……と、フロッグマンは続ける。


「コノコロニー……『ダーク・ガーデン』ノ回転ヲ、止メル」

「なっ……!?」


 コロニーの回転停止。それはつまり、遠心力により発生している疑似重力さえも取り払ってしまうことと同義である。もしもそんなことになれば、人々もコロニー内の建物もただでは済まない。ナットは、今朝にフロッグマンのアナウンス放送を聴いた際のイメージを想起させていた。


「ホラホラァ、2分モシナイ内ニ作業ハ完了シチマウゼェ。ナァニ、今スグコノ小娘ノ脳天ニ鉛玉ヲブチ込ンジマエバ済ム話サ。ソウシタ場合、アノ誇リ高キ宇宙義賊コスモフリートガ民間人ヲ手ニカケタッテ事ニナッチマウケドナァ……!」

「下衆が……ッ!」


 ナットは言葉の上では反論しつつも、フロッグマンの主張も一理あるように思えた。

 バハムートが演説で語っていたように、コスモフリートは善良な市民の味方である。そんな自分たちが、あたかも民間人協力者であるミルカを手にかけて仕舞えば、それは自分達の掲げる主義を自ら破ることに繋がる。

そして、そのような理屈を抜きにしても、ナットにはミルカを撃てない理由があった。


(ミルカは、この『ダーク・ガーデン』でようやく“平穏”を手に入れることが出来たんだぞ……!? 撃てるわけがないだろう、俺が……ッ!)


 間違いなく私情であった。しかし、それは当事者であるナットが引き金を引けずにいる理由としては十分過ぎるものでもあったのだ。

 ミルカを撃たずとも、機械腕さえ破壊することが出来れば暴走は止まるだろう。だが、ミルカの腕は彼女の背中に隠れており、今のナットの位置からは完全に死角となってしまっていた。


(だが、ここでミルカを撃たなければ、もっと多くの人が死ぬ……!)


 シリンダー型コロニーの回転停止とは、シリンダー内……つまり街中に住む全ての人々の死を意味する。今まさに、フロッグマンの手によって、ミルカ一人の命とコロニー居住者全員の命が天秤に掛けられているのだ。そして、二者択一の権限はナットの決断に委ねられてしまっている。


 ──今すぐにミルカを撃て!


 ナットの理性がそう呼びかけてくる。

 かつての仲間であったシェリーやブルックを自ら手にかけたのは何故だ。それは他でもない、宇宙義賊コスモフリートのメンバーとして仲間達を、そしてコロニーの人々を守るためだった。


(……違う)


 ナットの感情がそう訴える。

 自分が本当に守りたかったのは、ミルカだったのだ。彼女にとっての平和な生活を守る為ならば、俺は過去だって捨てることが出来た。


 ──ならば、コスモフリートとしての俺はどうすればいい。


(……ならば、ミルカを守りたい俺はどうすればいい)


 まるで思考が纏まらない。

 自分が何を考えていたのか、何を考えるべきなのか、わからなくなっていた。

 こういう時、おやっさんならどうしていた……?

 おやっさんじゃなくてもいい。誰でもいい。

 誰か……! 助けてくれ……!




「撃って……! ナット……、はや……く……ッ!!」

「……ッ! ミルカ……!?」


 葛藤するあまり思考の渦に飲み込まれていたナットを、ミルカの叫びが現実へと引き戻した。機械義手こそ依然としてコントロールパネルの操作を続けているものの、意識は逆流を抑え込むことで何とか取り戻したようだ。

 ミルカは精一杯に声を絞り出すようにして、ナットを叱咤する。


「コスモフリートは、善意の味方なんでしょう……!? なら、躊躇なんてしちゃダメだよ……!」

「でも、そんな事をしたら、お前は……!」

「私の事なんていい……! だから、お願い……私を撃つのよ、ナット……! コスモフリートの、ナット=ローソン……っ!!」


 ミルカに名前を叫ばれ、ナットは胸に鈍器で殴られたような痛みを感じると同時に、つい先ほどまで忘却していた、自分にとっての全うするべき使命を思い出す。


(決断を迫られた以上、絶対にそれから目を背けてはいけない。選択を放棄すれば、待っているのは……破滅だ)


 今まさに、決断は迫られている。ここでミルカを撃たなければ、コロニー住民が死んでしまうだけではない、シェリーやブルックの命を奪った事さえ無駄になってしまうのだ。

 選択を誤ってはいけない。下水道でシェリーを撃ち殺したその時から、ナットはそう決心した筈だ。

 サブマシンガンの引き金に指を当て、ミルカの後頭部に照準を合わせる。なに、仲間を殺すのは初めてじゃない。今までも、何度かやってきたことじゃないか。そう自分に言い聞かせることで、ナットは何とか荒い呼吸を無理やり整える。


(これで、何もかも終わる……全て……!)


 心中で決心を固め、ついにナットは人差し指に力を込める。ゆっくりとトリガーは引かれ……、



















『ありがとね、ナット』


「…………ぁ……っ」


 自分に対して何度も向けてくれた、ミルカの笑顔が脳裏から溢れ出す。

 壊れかけた自分という存在を、人間のままで繋ぎ止めてくれている彼女を。

 彼女が居てくれたから、自分は人としての良心を保つことができているのだということを。

 全て、思い出していた。

















「残念。時間切レタイムオーバーダ」

「……えっ」


 ナットが我に返ったのとほぼ同時に、ミルカの指がエンターキーを押す。


 直後、コロニー内に凄まじい振動がはしる。

 元はゲノメノン社の実験施設であったこのコロニーには、万が一に備えて解体作業を短時間で終わらせる為の大型燃料噴射装置が大量に取り付けられていた。普通のコロニーには、このようなものは用意されていない。しかし、違法に建造されたこのコロニーだからこそ、瞬時に回転運動を止めるという荒技を可能としていたのだ。

 あまりにも馬鹿げた構造。しかし、ここはゲノメノン社のコロニーなのだ。


 火星圏L4コロニー『ダーク・ガーデン』は静止した。

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