そこにある「声」


 純也さんは、その厚い唇を開いて、言った。


「えぇ、”はじめまして” と言いました」


 そうしてニッコリと、微笑んだその人は、ただの二つ上の男性には見えなかった。その人の生きて来た歴史、時間、感情の襞が見えない、感じられない。私の知っている人の概念に、。だから、”人じゃない”。


 純也さんが言葉を発したことで、ご両親も医師も、明らかに驚いていた。互いに目を見合わせ、萌子さんなんて、手を叩いて飛び上がりそうな様子だった。この人が、私だけじゃない、周囲の人にも聞こえる言葉を発したこと自体が、恐怖でしかない。けれど、私以外の人には、全く別の意味になる。


「まぁ、案ずるより産むが易しとは、よく言ったものだね。兄さんも、待たせて悪かったね。昼飯にしようか、な、萌子」


「えぇ、そうね、ご飯にしましょ。みんなで仲良く! ほんとに心配して、損しちゃった。純也もふつうに男の子なのねぇ。寿美子ちゃんが可愛いから、思わず『はじめまして』なんて、似合わないこと言っちゃって」


 萌子さんが純也さんに近づいて、その肩に触れた。その途端、ふわっと影が薄れ、代わりに、白い煙のようなものが、その肩口からするりと昇った。焦げくさいような気がして鼻を覆ったが、誤魔化しがきかない臭いだった。頭の奥にきりきりと刺さるような、本能的な危機感を呼び起こす異臭。これは"獣臭い"と、いうのだろうか。


 萌子さんが食事の支度をしている間、私は、気の落ち着くまで、その場に留まっていた。もう近くに、純也さんの気配は無かった。



『大丈夫かい?』

 

 はっと気付いて顔を上げると、すぐ間近に、知らない人の顔があり、心臓が止まりそうになる。そして間を措かず、その若い人が純也さんだと分かると、今度は、混乱で喉が締まりそうになった。



『そうか、通じるのか。やっぱり君は、ふつうの人じゃないんだな』


その声は、さっき聞いたものとまるで別物で、柔らかな感情に満ちていた。また加えて観察するまでもなく、彼の "声" は、唇を介さず、直接頭の中に、語りかけられている。私はおそるおそる、同じ方法で、言葉を返した。



『純也さん…ですか? さっきと別人みたい』


 私の言葉に、純也さんは応じた。少し悲しそうな顔をして、まなじりを下げたその瞳には、今度は、はっきりと青白い光が見えた。でもごく弱い光で、見たことの無い、色だった。


 私は大きく、目を見開いた。


 

 純也さんは、私の視線にぱちぱちと瞬きを二度返すと、じりっと後ろへ退がり、腰を落とした。



『ごめん、その目であんまり見ないで。さっきから、中でうるさいんだ。つい、話が出来る人がいたから、出てきちゃったけど、君の存在が気になるのは、もう一人の奴なんだ。ごめん』


消え入りそうなその声に、私は思わず引き留めようと、手を伸ばした。だが、逃げるように、どこか怯えた様子で、台所の方へ歩き去ったその人は、どう見ても人間で、初対面で感じた恐怖の存在では、無かった。



 まるで、逆転している。


 唇を使って話すとき、純也さんは、、聞こえない言葉を発している時が、彼の正気だというのだろうか。そしてそのことを、おそらく家族の誰も知らない、という事実を、私は知らされたのだ。

 そして彼は、何か、明確にならない種類の "助け" を求めているらしいことも、その様子の違いから読み取れた。



 昼ご飯は、萌子さんお手製の、筍とおかかの炊き込みご飯に、焼き魚、かき卵汁と、どれも温かで、可愛らしい品が並んだ。


「嫌いなものがあったらどうしよう、って思いながら、それでも、エイヤって、作っちゃった。無理しないで食べて。好きなものだけ、ね」


 純也さんの発言が、ご両親に希望の手ごたえを感じさせてしまったらしい。すっかり私は歓待の対象で、その篤い感謝と、期待の感情に、身が焼けそうだった。このままだと本当に、熱が出るかもしれない。


「まぁ、人間に見向きもしない純也が、寿美子ちゃんに興味を持ったってだけで、大進歩だな。寿美子ちゃんには、いい迷惑だったかもしれないが、ハハハ」


 そう言って笑う医師を左に見ながら、私は箸をとる。


 カウンターテーブルの端と端。私から一番遠いところに坐している純也さんは、両親の嬉しそうな顔を見、ただ純粋に、幸せそうな笑みを浮かべていた。


 あえて言われなければ、この人が、言葉に不自由しているなんて、いったい誰が思うだろう。人に興味が無いなんて嘘だと、なぜ、誰も気付かないのか。

 

 そうして考えをめぐらせたとき、ふと、まったく感情の見えなかった純也さんのことを、思い出した。周囲が、純也さんの表情さえ、まともに見ることができない理由は、きっと、別のところにあるのだ。


 

 筍ご飯を食べ終えると、その下から、きれいな絵皿の底が見えた。耳と尻尾から察するに、キツネだろうか。


「あら、萌子ちゃん、ご飯お代わり? かわいいでしょ。狐さんの絵皿なのよ」



 私は曖昧に笑ったあと、小さく首を振った。


「そう?要らない? でも、欲しくなったら教えてね」


 萌子さん自身は、落ち着いてご飯を食べる間もなく、こまごまと飲み物やお代わり、話の相槌と、テーブルの向こう側に立って、忙しくしている。

 

 萌子さん、純也さんのお母さんの気持ちが、私には手に取るように分る気がした。雪絵さんがいつも、そうなのだ。


 何かあったら、”声を掛けて”と、言えない相手が、そこにいること。だから本当に見える距離、手の届く範囲にいることで、その相手の『必要』を知ろうとしている。今日は純也さんだけではない、私がいるから、余計にそうなのだろう。



 頭が下がる思いで、美味しい昼食を味わった。こんな私でも、気付いてしまったものを、どうにかできるだろうか。もし、純也さんを『救える』のなら、この優しい心遣いの、正しい返礼になるだろうか。


 

 私は窓の外を見て、割れた雲の間から差し込む陽光に、すうっと自身の目を細めた。


 雨は、止んでいた。




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