雨が見ていた


 ガラス窓には、引っかき傷の様な微細な雨粒が落ちていたが、耳には、まるで不似合いな激しい雨音が聞こえていた。見上げれば空の雲は、黄土色の怪しげな光を放っている。



「お天気雨ねぇ!」


 

そう言って萌子さんがキッチンへ戻ってきたとき、今日、初めて見る人が二人、その後ろに立っていた。私は振り返り、お辞儀をした。


 萌子さんのすぐ後ろにいた、ほっそりとした眼鏡の男性は、浅葱あさぎ色の袴に白い着物を着ていたので、一目で神社の人と分かる。温和な表情を浮かべたその人は、私を見て、萌子さんと同じように嬉しそうに微笑んだ。おそらく萌子さんの旦那さんである、郁也さんだ。


 郁也さんは、医師の弟というには正反対の体格、ひどくほっそりとした感じの人で、黒ぶちの厚い眼鏡をかけていた。


「やぁやぁ、話には聞いていたんだよ。寿美子ちゃん、だよねぇ。こちらは息子の純也。ほら純也、挨拶しなさい」


 そんな郁也さんが、困ったような表情を浮かべて、後ろにいた、あまり背丈の変わらない若い男性の頭を、こつんと、こづいた。雨で髪が濡れたのだろう、二人とも首から白いタオルをかけていたが、呼ばれたその人は、黒い上着に黒いジーンズと、服装が違っていた。この人が、純也さん。私と同じ、”喋らない人” なのだろう。



 そう思って、純也さんと目が合う。けれどすぐに、普通じゃないと、気付いた。何もその眼から、発せられていない。光が、見えなかった。


 花は勿論、草木一つだって、それぞれの香りや光がある。学校のウサギに鶏。それから見かける犬やネコ、昆虫だって、、意識が通う感じがある。でも、この人からは、本当に何も、その手掛かりらしきものさえ、見えないのだ。私は怖くなって、目を反らした。



「ほら、お前が挨拶しないから、寿美子ちゃん困っちゃっただろう!ごめんねぇ。こんな調子なもんだから、手を焼いてねぇ。こら、」



 郁也さんがたしなめると、その言葉に反応したように、純也さんは動いた。首からタオルを外し、まっすぐ、私の方へ歩いてくる。


 なんとも言えない威圧感に、私は、好きで立っているはずの窓辺に、ぐいぐいと追い詰められる心持がした。意図の分からない接近に怯えた私は、こちらを見ていた医師に、視線で助けを求めると、急ぎ足で、その背にしているソファの後ろへ、逃げ込んだ。



「おや、珍しいこともある」


 ソファの影に隠れるように身を屈め、私は、不自然に高鳴る動悸に、呼吸を落ち着けようと、静かにもがいていた。


 そんな私を、医師は今日初めて見たせいか、驚いたように私を上から覗き込んだ後、ごそごそと、手元の新聞を片付けた。そして、ぼんやりと立ち尽くしている純也さんに向かって、質問した。



「君は、何か寿美子ちゃんに言ったのかい? 怖がってるようだけど」


 

 私は、口元を手で覆って、声が漏れないように我慢した。普段から、なるべく見ないようにしているものが、ある。背筋にぴりぴりと、幾筋も悪寒が走った。


 

 部屋の空気が、変わる。


 電灯と、外の日差しで出来た、小さな家具の影たち。それがふわりと輪郭を濁して立ち上がると、にょきにょきと腕や、しっぽの様なものを伸ばし、まるで床を這うように、部屋の中心へ、ずるずると流れて行った。


 私は目を閉じ、肘までしかない服の袖を握りしめた。でも、寒いのはどうにもできない。


 そして、目を閉じた分、広がる感覚世界の中で、純也さんのいる場所はひどく、まるでそこだけ、床が沈み込んでいるような、気持ち悪さがあった。


 影がその足元に集まるのは、その場所が、ここより低く、窪地になっているからなのだと、私は納得した。影はそのまま、純也さんの輪郭をせっせとよじ登り、まるで、部屋から存在を切り取らんかとするように、誇らしげにばらばらと、を広げた。


 私はこらえきれなくなり、目を開けた。広げた自分の掌を見つめ、そこに刻まれた小さな皺を見つめながら、自分の眼が見るべき範囲を、確認する。目を閉じるんじゃなかったと、私は深く反省した。



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