風を見ていた


 医師の言う通り、暗い水に、緑の葉の広がった小さな沼地が見えてきて、また一段上手に人家があった。建蔵さんの家とは違い、テレビで見る様な和風の、けれどあまり古くはない家だ。

 黒い金属製の壁には、上から下へ、細かな溝が走り、黒と灰色の縞模様にも見える。平屋の玄関は、赤茶に見える木製の引き戸だった。


 呼び鈴を鳴らす医師の後ろで周囲を見回すと、古ぼけた三輪車と、真新しい自転車2台が、目に入った。隣には、薪というのか、小枝を集めた束が積み上げられている。蓮沼との間を塞ぐようにあるそれは、焚火に使うのだろうか。用途が分からない。


 

 がたがたと音がして、戸が開いた。


 玄関から出てきたのは、着物姿の、こちらが気後れするような美人の女性で、すぐに私と医師を見て、こう言った。


「あら!いらっしゃい」


 その人が身に付けている純白の割烹着は、木陰でも浮き上がって見える程、派手な色に見えた。でも一番気になったのは、その人が私をとらえた瞳の、ひどく澄んだ色だった。どこかで見たような気がして、私は小さくお辞儀をする。



「お兄さんも、どうぞ上がって下さいな、ほらほら。それで、寿美子ちゃん、よね?」



 向けられる強い視線に、思わず肯く。口元のえくぼが印象的で、綺麗に引かれた口紅も、その声に力を与えているようだ。


「あら、なんて可愛らしいの。うそだわ、こんなお嬢さんと、うちの子がお話しするなら、もう少し準備をすべきだったのよ。やだわ、あの人ったら、気楽にしろって、そればっかり言うから」


 その人は、楽しそうにそう言うと、一足先に土間を上がって、スリッパを揃えてくれた。


「いやいや、いいんだよ、気楽で」


 そう答える医師の後について玄関をくぐると、すうっと鼻を抜ける、竹の香りが満ちていた。私は不思議に思いながら、靴を脱ぐ。気のせいだろうかと首を振ると、もう、そんな香りはしなかった。



 深い段差を、医師は一足で上がり、私は、脇の上りかまちを頼りに上った。目の前に置かれた室内履きは、子ども用のもので真新しく、躊躇っていると、「寿美子ちゃん様だから」と、女性に微笑まれてしまった。



 案内されるまま、進む廊下は隅々まで磨き上げられていて、どことなく、生活感の無いものに思えた。迎えてくれた人は、今日会う相手の母親なのだろう。


「ごめんね、休みの日に」


「いいんですよ。辺鄙なとこなのに、いつもお兄さんに来てもらってばかりで」


 のしのしと歩いていく大きな医師の背中越しに、二人のやりとりを見つめる。自分の母とは、まるで違う女性だ。


 思い返す限り、私を見るときの母はいつも、こんなふうに満ち足りた笑みを、浮かべてはいなかった。他にも、違うところはある。私は歩きながら、じっとそれが何かを考えた。


 そうして俯いたまま歩いていたら、いつの間にか、キッチンに案内され、椅子の前に立っていた。



「何にしましょうか?」


 女性が食器棚の方へ向かいながら、医師に向かって、声を掛ける。


「じゃあ、麦茶で。寿美子ちゃんは、同じでいい?」


 私は何があるのか知らないので、とりあえず首を縦に振る。



 こわごわ腰を掛けたのは、雪絵さんが憧れると言っていた、システムキッチンの、”カウンターテーブル”と呼ばれるものの前だった。


 食事を作る人と、向かい合って話が出来る様になっているのがいいのだと、雪絵さんは言っていた。たしかに、料理をしている人の様子を見ているのは面白い。一つ一つが計算されていて、意味があって、手伝うのも楽しい。この人も、そういう風に思う人なのだろうか。



 医師が「あっ」と隣で声を発し、思い出したように言う。


「ごめんごめん、紹介しておこうか。こちらが、今日会う純也のお母さんで、萌子さん。で、父親が、私の弟の郁也なんだけど、あれ、仕事中?」


 医師が、お土産袋を萌子さんに手渡し、ポケットから取り出したハンカチで、顔の汗を拭いながら、そう尋ねる。


 萌子さんは、袖を引きながら眉をひそめて、こう答えた。


「あぁ、そうなんですよ。今日の朝方、突風が吹いて、お飾りとか、柄杓とか、置いてあったのが飛んでっちゃったり、作り直さないといけなくなったりして」


「ご神体は、大丈夫だったの?」


 

 聞き慣れない言葉に、耳をそばだてる。萌子さんが、目の前に麦茶のカップをおいてくれた。素焼きのティーカップというのが、変わってるなと思う。


「えぇ、御神体はちゃんと毎日、しまってありますからね。でもなぜか、昨日無かったはずの小さな錆が出たって、洗剤を借りに来たりして。あらやだ、もしかして不吉なのかしら。せっかくお客さんがいらっしゃる日なのに、やあねぇ、仕事ばっかり増えて」


 私と目が合った萌子さんは言う。


「あら!でも気にしないでね。息子にもちゃあんと、来るように言ってあるんだけど、どこへ行ったのかしら」



 萌子さんは「困ったわ」と言いつつ、また笑顔を浮かべ、ぱたぱたと、キッチンを出ていく。



「萌子さんも、相変わらず忙しい人だよ」


 医師がふーっと言いながら、麦茶をごくごくと、音を立てて飲み干す。



「うちの弟が、まぁ、のんびりしてる奴なんだが、息子も輪をかけてマイペースとなると、ああなるなぁ。寿美子ちゃんも、だから、あんまり緊張せずに。特段…まぁ、そうだな。無理にでもあいつと話をしてくれ、っていうんじゃないからさ」


 そう言って立ち上がり様、医師はポンと、私の肩に手を置く。子どもの様に笑いながら、でもその瞳は、なにか想うところのあるように、冷たく光っていた。私は咄嗟にそれをとしたが、医師が離れる方が早かった。「何か、あるかなぁ」と言いつつ、背後の、テレビのあるリビングの方へ、のしのしと歩き去る。


 そして、「どっこらしょ」と、菫色のソファに落ち着くと、医師は、テーブルの上にあった新聞を広げて、手近な記事に目を落とした。


 その様子を見て、私はもう一度、キッチンの方へ向き直る。まだ飲んでいない麦茶に口を付けると、とても香ばしくて、甘かった。



 カップの半分ほど、麦茶を味わったところで、じゃあ、私は何をして待とうかと思う。ブーンと低い音をたてる、大きな銀色の冷蔵庫を見つめ、それから奥の、外光を取るために設けられた、縦長の羽目ごろしの窓に、目をやる。


 そのガラス窓からは、青々と天に向かって伸びる、黄緑色の竹が見えた。椅子から立ち上がり、近付いて、その細い節をよく見てみると、その枝自体が意図的に植えられたものらしく、その向こうにある竹藪と、種類が違っていた。ふと、この家に入ったときに感じた匂いを思い出す。


 外にあるものが中で香るのは、どこかで隙間が、"風の通り道" が、あるからだ。私は、医師のいる居間の方へ歩いていき、外に出られる窓の傍で、もう一度、香りを探す。閉ざされた窓でも、日差しの匂いが混じって、一段と強い香りがする。痕跡をたどるように竹藪の向こうに、目をこらした。



 人の触れていないものは、人が介助したものと比べて、持っている"熱"が低く、穏やかな光り方をする。庭の竹は、見ていると眩しくて、目が休まらない。町で暮らしていると、境界線を見定めるのが難しいほど、光るものばかりだ。だから、こんなに違いがあるなんて、知らなかった。この場所では、自分の視界の奇異が、今さらのように、理解できる。


 

 いつも思う。このは、どこにあるのだろう、と。


 人が持っている熱や光を、形あるものとして感じるのは、何のなのだろう。人に備わった ”機能” は、それぞれ違ってもみな、生きるために必要な ”能力” なのだと、建蔵さんが言っていた。



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