聞こえた「音」


 一時間ほど車は走り続けて、お昼の時間を迎える前に、到着した。


 鬱蒼と木々が生い茂る中に、神社の蒼い屋根が見え、車のエンジン音が止まると、鳥のさえずりや風の鳴る音、木々のざわめく音に、一気に耳が支配される。足元から、これまでと異なる環境だと感じる。


 そんな音の層の向こうから、また一つ、耳慣れないザーッという強い水音が聞こえ、注意がそちらへ向く。



「寿美子ちゃん。滝は、見たことあるかい?」



 医師が、私に持たされたはずの菓子袋などを持って、車を挟んだ向こう側から、顔を覗かせる。もし、私の記憶が正しければ、『滝』というのは、山の中をめぐる水が、段差や地形のせいで地下から表出し、外気に曝されながら "落ちる" ものだ。



「時間があれば、見に行くといいよ。この辺はわらびとか、今の時期ならワサビの花も咲いてるかな」



 柔らかい腐葉土の弾力に、それが放つ香りと空気の湿度。呼吸が楽だった。飛び跳ねるように歩を進め、後ろに追いついた私を見やって、医師は言う。



「出かけるときは嫌そうだったのに、気に入った様だね。じゃあ行こうか」



 歩く度に、少し左右に揺れる医師の背中を見上げながら、そういえばこの人も、どことなく、人間らしくないところがあるように思う。



 土の道を抜けると、不揃いに大きな石の転がる、砂利道に出る。見れば前方に派手な赤色のSUVと、白いワゴン車が停まっている。観光客のものだろうか。


 頭上の樹々の葉の合間、暗い覆いを破って、日光が降り注ぐ。医師の紫色のポロシャツに、汗染みの跡が見え、顔を上げれば、社の全容が見渡せる場所に来ていた。



 さっき社だと思ったものは、同じように屋根付きではあるが、その背後に見える本殿と比べればずっと小さく、四本脚の付いた、蔵の様なものだと分かった。


 そして、その蔵と社の在所は、だいぶ草生くさむしてはいるが、荒く積み上がった石垣の上にあり、地続きではない。そこへ上がるには、左に見える小さな案内の看板の位置から、この石垣に張り付いて、ジグザグに伸びた階段を、順に上っていく必要があるようだ。



「思ったより大きいでしょ。でも階段を上がると、社の方へ行っちゃうからね。弟の自宅はこの山道を、もう少し上がったところ。見事な蓮沼があって、それが目印だ」


 歩く労を考えるなら、車をなぜ、さっきの場所に置いてくる必要があったのかと思ったが、平らな場所の少ないことを思えば、仕方がないのだろうか。


 人の声のしない場所で、少し息を荒くして、坂道を上る。頭の中で何かが、研ぎ澄まされていくような気がした。



 人の放つ、ひどくまとまっていて、単調な意識の


 他愛ないものでも、その存在はうるさいほどに音を立て、ざらざらと肌を掠めるときもあれば、ぎしぎしと周囲に影響し、べたべたと、肌に吸い付く場合もある。


 それは、まるで光るゼリーのように絶え間なく零れ出て、モノや、ヒトにあたると捩れたり、他の何かと混ざって、澱んだりする。そうした粘度の高い、生々しいものは、こんな場所だと、さぞ目立つだろう。



 けれど今、ここに見えるのは医師と、私だけ。


 私は、自分の意識を見られず、医師の感情は、まるで、ここにある緑のものと同じように空気に溶けて、ほとんどそれが何なのかを、感じることが出来ない。だからこそ明確な言葉が、頼りなのだとは思う。



 もし人が、この医師のように生きてくれたら、発する言葉の意味にも、価値があると感じられる。一人の人間が発するメッセージ、情報は、他の生き物たちの発するそれと比べて、異様なほど大きすぎる。

 また、それだけの情報量と侵犯性に比して、含まれる内容が極端に小さい。つまりは、そのほとんどが "無意味" なのだ。


 まるで最初からすべてを拾うことが無い、という前提で放たれる「声」を、私だけが聞いている。もし、それが真実ならば、気のふれているのは、本当は母ではなく、私の方なのだろう。



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