彼が見ていた
「どうしたの?」
フミが尋ねるので、私は彼女を見て、それから問題の視線の主の方へ、顔を向けた。
そんな私の様子に、フミもすぐさま同調して、怯えた様子で身構えた。私たちの前に立ちはだかったのは、名札から察するに、1年上の3年生で、身体の大きな、男子生徒だった。
「平田、だよな」
低い声で名前を確認され、私は頷いたものか、思案する。
平田は私の苗字だ。
「あの、先輩。スミちゃんは…」
フミが怖いのをこらえて、応えない私の代わりに、事情を説明しようとする。
「あぁ、分かってる」
けれど先輩は、そんなフミの健闘を一蹴し、じっと私を見降ろすと、言葉を継いだ。
「お前、しゃべらないんだってな。手話、やってるって聞いた。俺も手話、始めたんだ」
私は、目の前の先輩の言わんとしていることを、理解していた。手話で、私と何らかの意思疎通を図りたい、という意味だ。それならばと、私は早速、手話で返事をする。
『じゃあ、また今度。さようなら』
先輩はなんとか読み取れたようで、すっと、脇を歩き去る私の背に、大きな声で「じゃあな!」と答えた。
早足の私に、フミも追いついてきて言った。
「なんかびっくりしたけど、悪い人じゃない、よね。スミちゃんのこと、好きなのかな」
フミの言葉に、私はしばらく頭を悩ませた後、大きく首を振った。
「そっかー。スミちゃんのタイプじゃないかー。でも分かるかも。なんか力で、わっと来そうな人だったし。怖いなって、思ったもん」
靴を履き替えながらそう言ったフミに、私は同意の視線を送る。今日はさすがに、後を付けてきてはいないが、実は今日、話しかけられるより以前から、同じ視線を何度も感じていた。そして対面して、ようやく相手の名前を認識した。
彼の思考、そして記憶の中には、まるで画質の悪い映像で記録されたような私の姿があり、気味の悪いことにその私は、彼に向かって、ひどく親し気に微笑んでいた。
他人の頭の中とはいえ、自分の姿が都合よく解釈されて、いいことなど一つも無い。読み取れた感情の殆どは、かなり一方的で、押しつけがましく、傍に寄られるだけで不快だったが、フミの手前、私は耐えた。
「スミちゃんは、やっぱり、異質だよねー。肌も、透きとおるみたいにきれいだしさ。しゃべらない口元が、少し笑顔になったり、残念そうに曲がったりするのとか、ずっと見てると分かるようになってきて、それが嬉しいって、思っちゃって」
フミは鞄のキーホルダーをいじりながら、散り始めた桜の木を見上げる。
「すごく特別なの。スミちゃんって、会った時からなんだか、 ”特別な人だ” っていう感じがするの。そう、普通じゃない。いい意味で全然、他の人とは違うの」
彼女の言葉に、私は首を傾げて見せる。そして、他人が見ている「自分」のことを考える。
きっと社会から見れば、私はただ、 ”好きなように” 振る舞っているだけの子どもだ。
見えるままに、感じるままに。
私の命は、みずからの感覚意識によって、そのはじまりから、すべからく決められている。
そこで起こる、ただ一つの社会との違和が、発話の拒否であることも、今思えば、本当に自分で選んだことだったのか。
自分にとっての正しさを求めることは、まるで、餓えの衝動から食事を
「なぁ平田、今度さ」
また後日、職員室から出てきたところを、いつかの先輩に呼び止められる。
正直、無視すべきかどうか迷ったが、廊下を往来する、他の人間の目もある。私は、腕に抱えたノートとペンケースを見ながら、とりあえず身体の正面を先輩の方へ向けて、脚をとめた。
先輩は終始落ち着かない、といった体で、話を続ける。
「あのさ、俺、前から平田のことが気になっててさ。あっ、ここじゃまずいな。どっか余所で話さない?」
場所は職員室前だ。相手が嫌でも、私はここから動きたくない。
私が動く素振りを見せないので、先輩は困ったように頭を掻いた。
「あのさ、話をするのも駄目? もしかして、この距離でシカト? なんか、手話でもいいからさ、応えてくれないと話にならないんだけど」
相手が苛立ちを隠さないのを見て取ると、私も、これに付き合うのは終わりにしようと思う。
ノートを脇に抱え、ペンケースから、ボールペンを一本取り出すと、ペン先を上にして、腕を振り上げる。
「えっ、何。ちょ」
別に、それ以上の動作は無い。ペンを握った腕を、先輩の目の高さまで上げただけだ。怒っているとか、そういう激した感情がある訳ではない。
「やめ、やめろよ。ペンとか、マジでありえねぇ。悪かったって、もう声かけねぇよ。チッ、何だよ、見た目だけかよ」
自分の思い込みに対して、勝手な悪態をつき、その先輩は去って行った。
その一件を、当の私が、誰かに話すことはない。けれどその日の終わりには、その場に居なかったはずのフミが、私にこう言った。
「スミちゃん、怖い先輩を撃退したんだって?」
またこの一件は、教師たちの耳にも届いていて、帰りがけに何度か呼び止められた。
「平田、筆記用具はだめだが、気持ちは分かる。なにか、方策を考えよう」
「平田さん、防犯ブザー持ってる? 先生が今度、持ってきてあげる」
相手の先輩は、厳重注意されたらしい。ほぼ確実に恨みを買っただろうと私は思ったが、周囲は俄然、私の味方だった。
電話一本。学校から自宅へも連絡があり、建蔵さん雪絵さん夫婦にもしたがって、知られるところとなった。
『そうよねぇ、共学だもの。色々あるわよねぇ』
夕食の席で、雪絵さんがそう言って手話で語りかけると、建蔵さんは少し怖い顔をして、こう言った。
『子どもの分、加減が分からなかったり、女の子に対しても、自分の気持ちのまんま、強く出たりする奴がいるからなぁ。寿美子が立ち向かって、何事も無かったからいいものの、心配だよ。だって今度、鷺沼先生の紹介で、男の子に会いに行く約束だったろう?』
建蔵さんは口を動かしつつ、腕も動かす。この人がいつも忙しい。
『そうだよ』
私は手話で返事をし、カレーを掬う。
『不安だよ』
建蔵さんがもう一度、そう言って雪絵さんの方を見ると、雪絵さんは私の方を見ながら、『そうね、不安ね』と、言った。
私は、どうしようか迷ったが、教師から貰った防犯ブザーもあることだし、怖がることも無いような気がする。
『大丈夫だよ、ブザーを持っていく』
“ブザー”に当てはまる言葉が分からなかったので、とりあえず、 ”首から提げたもの” を身振りで表現して、代わりにする。
それで二人に通じたのか、それ以上反対されることもなく、月日は経ち、その日を迎えた。
5月の第2日曜日。医師の迎えの車に乗り込み、私は、山の麓にあるという神社へ向かった。
私と同じように、 ”話さない" 人間が住まう場所へ。期待もなく、拒絶もなく、ただ、なるように任せるだけだと、自分に言い聞かせた。
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