町が見ていた


「お嬢さんに、前から会わせたいと思っていた子が、おるんですよ」


 私は病院の診察室で、目の前に座る医師が、母にそう言うのを聴いた。


「この子に友達なんて…」


 母はそう言いかけて、私の視線から逃れる様に、顔を背けた。小学校に入学するはずの年齢を過ぎても変わらなかった私に、母が取り始めた態度だった。


「いやぁ、友達といいますか、寿美子さんと似たようなもんで、こやつはめったに言葉を口にしません」


「寿美子は、一度も話を」


 母が釘をさす。医師はあぁ、という体で頷き、まぁまぁ、と取り成して続ける。


「実は私の甥っ子でして。寿美子さんはまだ、表情がありますが、こいつはたまーに、奇妙なところで笑うくらいで、何を考えているか、とんと知れない無表情というか、愛想がないだけというか。けれどまぁ、言葉数が少ないのは、生まれつき聡いゆえにそうなんだろうと、弟夫婦ものんびりと甘やかしまして、学校がだめなら家で勉強させようと、手をかけて。


 それで、ふと気づいたら十六のいい大人です。弟が社を継いでいるもんで、ゆくゆくは神主なんですが、まぁ、ちょっとそうなると心配だと、私に相談をしてきたんですな、ようやく」


「はぁ」


 母は、めったに口を利かないという、その医師の甥っ子にも何某かの不快感を抱いた様子だった。だから、もちろん医師が、私をその兄の家に連れていきたいと話をしたときも、乗り気ではなかった。


「似た者同士、なにか話をするかもしれません」


 医師はそう言って視線を下げると、私を好奇の瞳で見つめた。この嘘を付かない医師のことを私は信用していたが、それはこの人が私に学校に行くことを薦めてくれたからだ。

 話はしなくとも、自分の考えを「書ける」のなら、大丈夫だと。


「先生、この子も十四です。近い年齢の男の子に…個人的に引き合わせるようなことはちょっと…」


 母は、言うに事を欠いて、違う方向性の拒否をし始めた。だが、この一言は医師も思ってもみなかったようだ。


「あ、あぁ。そうですな。万が一何かあったとき、寿美子さんは助けを求めて、叫べないかもしれない。それなら、防犯ブザーを持たせて。いやぁ、何もしませんけどね。甥っ子が家族をはじめ、人に興味を持った様子など、一度も見たことがありませんから」


「そうですか?」


 母の心は揺れて、いくばくかの期待を持ち始めたようだった。私は嫌な気持ちになった。


「そうです。ものは試しに」


 医師がそう最後に念を押すと、母は肩を落として頷いた。


「では、お母さん、落ち着いたら戻りましょうか」


 医師がそう言うと、パジャマ姿の母はふらっと立ち上がり、診察室の入り口に立つ看護師の元へ歩いていく。制服姿の私は、そんな母を見送る。


「寿美子さんは、お迎え、誰か来ているの?」


 そう問われて、私はこくんと頷いた。


「建蔵さん?」


 私はしばらく考えた後、とりあえず頷いた。


 八年前、母が気の病で長い入院生活をすることになったとき、医師の仲介で、私は奥さんがろう者の夫婦に引き取られることになった。


 私は二人の生活のリズムとルールを覚え、そして手話を習った。二人は優しく、嘘を付こうとしない。でも、私が本当の子どもではないこと、母親が入院していることを、常にどこかで気にかけ、その分距離があるように感じる。


「建蔵さんはお元気?」


 私は少し首を傾げた。この間、風邪をひいて、役所の仕事を休んでいたからだ。医師もそれ以上尋ねない。


「学校はどう? とりあえずはこれまで通りに、やれてるってとこかね」


 私は医師の目を見て、やんわり微笑んだ。


 可もなく不可もなく、私は中学校生活を送っている。小学校の頃より、言葉を口にしなくとも授業に参加できる場面が増えた。筆談も、それなりに受け容れてもらえている。


「そう、それは良かったなぁ」


 医師はひどく嬉しそうに、手を叩いて笑った。この人のおかげで、今の生活がある。そう思うと私は少しだけ、後ろめたい気になる。母を除いて、こうして周囲の人間に恵まれていることを、私は当然だと思わない。感謝している。


 しかしそれでも、私は話す理由がないのだと「言う」わたし。


 中学二年生になった春だった。



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