その9 疱瘡の因子



 海面は分厚い氷で覆われていた。


 半径一キロ圏内を凍りつかせたのは、たった一人の少女の仕業である。足場が不安定なのが不便くらいの勢いで巨大な流氷を作り出した彼女は、氷の上でつまらなそうに目を細める。


「なんだ。期待したのに、こんなもんか」


 久我アヤネは、無造作に右腕を上げている。

 その手の先には、満身創痍になって宙吊りにされた比良坂シドウの姿があった。


 シドウはそびえ立つ氷柱に首を掴まれてぶら下がっていた。もはや腕を上げることすらも出来ないほどに消耗した彼は、虫の息の状態でアヤネを見下ろしている。


 ファントムの力を借りた状態であっても、シドウは本気を出したアヤネに手も足も出なかった。

 二人の戦闘が拮抗していたのは最初だけで、あとはほぼ一方的ななぶり殺しだった。今に至っては、死なないためにかろうじて霊子体となった肉体を維持している状態である。


「やっぱり水が多いと氷が作りやすいな。逆に、雷は駄目ね。感電しないための制御に余計な計算が必要だし。それよりは、熱量を操作して水蒸気爆発を起こした方がよっぽど効率的」


 もはやシドウに興味を失ったのか、アヤネは淡々と感想を述べている。大人の魔法士が苦労して行うような大規模な魔法ですら、彼女にとっては手癖で行う実験でしかないのだろう。つくづく人間離れした少女である。


 そんな彼女は、不意に背後を振り返ると、「ふぅ」と息を漏らした。


「時間切れ、か。ま、それなりに時間稼ぎは出来たでしょ」


 そっけなく言ったアヤネは、上げていた右手を軽く振るう。


 それだけで、シドウを拘束していた氷の柱は粉々に砕け散った。慣性に従って落下したシドウは、受け身も取れずに氷の床に激突する。もはや指先すらも動かせないくらいに消耗した彼は、冗談でなく死にかける。


 文句を言うために息をするのも辛いくらいだが、せめて睨みつけてやろうと顔を上げると――そこには両手を上げて降参のポーズを取るアヤネの姿があった。


 彼女は余裕たっぷりの表情で言う。


「白旗よ。無抵抗の相手を殺しても良いのかしら」


 次の瞬間。

 アヤネの直ぐ側に姜緋槭が立っていた。


「……どういうつもりだ」


 緋槭は大刀の切っ先をアヤネの首筋に合わせていた。

 彼が少しでも力を加えれば、少女のか細い首はあっさりと切り離されるだろう。牛面で隠された顔からは表情が読み取れないが、その巨体が微かにためらいを覚えているのが伝わってきた。


 今まさに命の危機に瀕していながら、アヤネはふてぶてしい態度で口を開く。


「さすがにファントムとやり合うほど無鉄砲じゃないわ。だから降参。そもそも、テオが負けた次点で私の役割は終わっているもの」

「役割が終わり――と言ったか。やはり貴様たちは時間稼ぎだったのだな」


 本当であれば、テオを倒した次点で緋槭はカラミティ・ジェイルの元に向かうべきだった。しかし、バディであるシドウが死ぬ寸前であることを察知して、真っ先に戻ってきたのだった。


 氷の上に倒れるバディの姿は想像以上にひどいものだった。

 奥の手と言っていた『比良坂黄泉下り』を使用していながら半死半生の目にあっていることを考えると、この少女がどれだけ危険な存在か実感する。


 緋槭は油断なく武器を向けて言う。


「だが、白旗を振ったからと言って、それを聞く道理があると思うか? 貴様に手心を加える必要がないことは、私のバディが証明している。後顧の憂いが無いよう、ここで始末しておくべきだと私は考えている」

「あら、会話ができないバディのために説明をするなんて、親切なのね。けれど『蚩尤』。アンタの気遣いはきっと無意味よ。だって――そいつに私を殺す権限は無いんだもの」


 生殺与奪権を握られてなお、アヤネは堂々と言う。


「殺すだけならいくらでも出来た。でもそいつは、私を無力化する方法を探ってた。ほんとふざけた話よ。それだけ上からの命令が厳しいのかしらね。それとも、ただの主義? だったら屈辱だわ。この実力差で手心を加えられたってことなんだから」


 ファントムの力を借りた状態であれば、脆弱な人間程度いくらでも壊すことが出来る。それが出来なかったのは、単純にアヤネが強かったのもあるだろうが、シドウの方にその気がなかったからとも言える。


 アヤネの言葉に図星を突かれたシドウは、苦々しそうに顔を歪める。


「ひ、しゅく……もう良い」

「………承知した」


 バディの言葉を聞いて、緋槭は大刀の刃を下ろす。そして、すぐにシドウの側に寄ると、彼に丸薬のようなものを飲ませた。


 カニングフォークによって生身と霊体が重なり合わせになっていたシドウは、その丸薬によってようやく生身に戻る。満身創痍であることに変わりはないが、かろうじて体を動かすことは出来るようになった。


 シドウはよろよろと立ち上がると、アヤネに向き合いながら言う。


「おとなしく連行される気はあるか、この不良娘」

「どうぞご勝手に。別に抵抗はしないわ」


 アヤネからすれば、身柄を拘束されるというデメリットより、この島から無事に帰れるというメリットの方が大きい。なにしろ、魔導連盟からのお迎えがあることは確定しているからだ。

 今回の騒動について何らかの手打ちはあるだろうが、すでに霊学協会と大きくトラブルを起こしている彼女たちからすれば、大した問題ではない。


 だが――一つだけ、確約が必要だった。


「だけど、シオンも一緒にしてくれないと困るわ。どれくらい困るかって言うと、腹いせに戦艦をひとつ沈めちゃうくらいに困る」

「けっ。脅しが穏やかじゃねぇな」


 この少女であれば、本当にそれくらいはやってのけるだろう。

 身に宿した魔力量も平均以上だが、何より計算能力が尋常ではない。通常なら大工程の魔法でないとなし得ないような事象改変を、彼女は最小の労力で実行するのだから。言ってしまえば、人の形をした兵器が歩いているようなものである。


 とんでもないものを背負い込んでしまったと、シドウは小さくため息をつく。

 ひとまず神童の一人は確保したので、もうひとりをどうにかしなければならない。そうシドウが思考を切り替えようとした時、緋槭が不意に動き出した。


「カラミティ・ジェイルに異変だ。すぐ向かう」


 緋槭はかき消えるようにしてその場から離れる。天候そのものとなった彼は、その巨大な質量を限りなくゼロにして空間を駆ける。

 あとに残されたシドウとアヤネは、戦艦『ひいらぎ』の救援を氷の上で待ち続けた。



※ ※ ※



 シオンが雷切丸を逢沢あきほに突き刺した直後、霊子庭園が崩壊した。


「……ぐ、ぅう!」


 生身に戻ったシオンは、空中に放り出されてそのまま落下を始めた。


 慌てて重力操作の魔法式を組もうとするが、うまく魔力が身体に巡らない。霊子体から生身に戻ったことによる感覚のズレもあるが、そもそも、雷切丸の鋳造という大掛かりな魔法を使った直後なので、消耗が激しいのだった。


 このままでは地面に激突する。

 そう覚悟した時、シオンの身体はさっと拾い上げられた。


「大丈夫? おにいちゃん」


 シオンを抱え上げたのは、子供のあきほだった。


 彼女は小さな体でシオンを受け止めると、不可思議な力で浮遊する。

 単純な重力操作や風力操作ではない。まるで座標点を指定したかのように、二人は不自然な体勢で空間上に固定される。


「あきほ――お前、大丈夫なのか?」

「んー。もうちょっとで、消えそう」


 そう言った彼女は、すでに体が半透明になっていた。


「ありがとね、おにいちゃん」


 あきほはニコリと笑ってそう言うと、視線を上に向ける。


 彼女が見上げた先には、縮小を始める雷雲が広がっていた。大きな雷鳴を轟かせながら、黒い雲は次第に霧散していく。それはまるで、巨大な生物が断末魔を上げているようだった。


 消えていく雷雲を見上げるあきほの目から、光が消えた。


「――たった今、あきほは消滅しました」


 その小さな口から出た言葉は、まるで機械じみた温度のなさを感じさせた。


「この身体は残滓です。直に消滅するでしょう。宿主を失った『この身』も、すぐに現実界から退去することになります」

「……お前は、アウトフォーマーか」

「肯定」


 童女の形をした人外は、機械的に答える。

 ソレは無機質な動きで首をシオンの方に向ける。


「久能シオン。

「は? 失敗って、何を」


 いきなりの言葉に戸惑いを覚えたシオンだったが、その様子に構わず、アウトフォーマーはまるで記録を出力するかのように言葉を続ける。


「アレが近くにいると知っていれば、『この身』も『逢沢あきほ』も、討伐を許可などしなかった。情報を伏せたあなた方の手落ちです」


 アウトフォーマーは上空を見上げたまま淡々と言う。

 あまりに平淡な口調なのでそうは感じられないが、どうやら焦りのようなものを覚えているらしい。


「こうなった以上、被害を最小限に抑えるには、一刻も早く『疱瘡』の因子を破壊するしかありません。任せましたよ」


 そこまで言って、アウトフォーマーはシオンの身体を移動させた。


 それは、情報界を経由した空間転移だった。


 予備動作もなければ事象改変による情報圧も起きない。ノータイムの瞬間移動。魔力を消費しない神咒と呼ばれる技法によって、シオンはそこから百メートル上空へと唐突に出現した。


「は、はぁ!?」


 瞬きするよりも短い時間で起きた出来事に、シオンは目を白黒させる。


 動揺している彼の目の前に、同じく目を丸くしたレイウォンの姿があった。


「おい坊主! 大丈夫か!」


 今度こそ、しっかりとシオンの身体は受け止められる。

 唐突に現れたシオンを抱えたレイウォンは、バランスを取るようにしてその場から数メートル上昇する。


 やがて浮遊した状態で停止したレイウォンは、反射的に下を見る。


 そこには、消滅する寸前のアウトフォーマーの姿があった。

 アウトフォーマーはかすかに残った身体を動かすと、上空の一点を指差す。


「そこです」


 そう言ったのを最後に、アウトフォーマーは消滅した。


 消えゆくその情報体を見つめて、レイウォンは複雑そうな表情をする。しかしすぐに気持ちを切り替えると、さっと視線を上空に向ける。


 アウトフォーマーが指差したその先には、魔力の渦のようなものが生まれていた。


「ありゃ何だ」


 まるで無秩序な力が一点に収束しているような光景。

 その因子の渦からは膨大な情報圧が溢れており、気を抜いたら飲み込まれてしまいそうだった。


 シオンはそれを見て叫んだ。


「レイウォン、あれは『疱瘡』の因子だ! 逢沢さんから破壊するように言われてる!」

「……! あれか!」


 言葉はそれだけで十分だった。


 逢沢あきほからの伝言。それは、レイウォンにとって疑う必要のない言葉である。彼女が破壊しろと言うのであれば、全力で実行するだけだ。


「しっかり捕まってろよ、シオン!」


 レイウォンは手に金剛杵と剛弓を作り出すと、すぐさま弦を引き絞る。

 その手から放たれるのは、雷の弾丸。


「『哭き叫べ、金剛杵ルドラ・ヴァジュラ』!」


 火花をちらしながら放たれた金剛杵は、閃光のように空を駆ける。そのまま『疱瘡』の因子に激突して巨大な爆発を起こした。


 爆風に押されてレイウォンとシオンは吹き飛ばされそうになる。

 すぐに空中で踏ん張ったレイウォンは、攻撃の結果をまっすぐに見据える。


「くそ、少し足りんか」


 因子の渦はわずかに欠けた様子を見せるが、すぐに魔力をかき集め始める。渦が情報密度を高めるごとに、周囲の魔力がどんどん奪われていく。


 そこに、地上から飛んできた緋槭が現れた。


「レイウォン、貴様何をしている!」


 今にも飛びかからんばかりの勢いで飛翔してきた緋槭は、手に持った戦斧を思いっきり叩きつけようとしてくる。


 それを間一髪で避けたレイウォンは、反撃をすることなく口を開く。


「良いところに来た、緋槭! 話は後だ。手伝ってくれ」

「手伝うだと? 戯言を言う余裕があるとはな。私がなぜ貴様に手を貸す理由がある」


 レイウォンの言葉に食って掛かる緋槭だったが、そんな彼に端的に理由を話す。


「アレを見ろ! 『疱瘡』の因子だ。とっとと破壊しないとまずい」

「…………」


 緋槭は因子の渦を見上げる。渦は成長を始め、天を覆うくらいに巨大になっている。その膨大な情報圧を見れば、嫌でも状況は理解できる。


 すぐに手元の得物を大刀に持ち替えた緋槭は、苛立ちをぶつけるように言う。


「それを早く言わんか、たわけ!」

「言う前に襲ってきたのはてめぇだろうが牛野郎」


 ぎゃあぎゃあと言い合いながら、二人は並んで武器を構える。


 緋槭は大刀を、レイウォンはメイスを。

 因子の渦を見据えながら、二人は短く会話を交わす。


「あきほはどうなった」

「先に休んでもらったよ。随分長いこと、残業させちまったからな」

「……そうか」


 そのやり取りだけで、緋槭は状況を理解した。

 経緯はわからずとも、レイウォンの口調からおおよそは察することが出来る。それくらいには、かつての二人は気をおけない仲だった。


 そして何より、結果として『疱瘡』の因子が目の前にある以上、答えは明白である。


「勝手を許すつもりはないが、話は後だ。つまり、これを破壊すれば終わりだな」

「おうよ。話が早いだろ、牛の旦那よ」


 軽口を叩き合いながら、二人は力を蓄える。

 そして、それぞれの武器を手に、二人は同時に因子の渦へと突撃した。


 最初に刃を届かせたのは緋槭だった。


「『血楓林・屍山血河』!」


 緋槭の周囲を血のような赤色が彩る。

 それは空間そのものを塗りつぶすような真紅の濃霧だった。赤い霧は因子の渦すらも飲み込むように広がっていった。


 真赤に染め上げられた空中で、緋槭は大刀を振り下ろす。それとともに、四方から幾重にも重なった刃が現れた。

 血塗られた刃は、因子の渦を細切れにするように突き立てられる。


 続けて、横合いからレイウォンがメイスを振りかぶった。


「『風天・鏖殺撃ヴァーヤヴィヤ・アストラ』!」


 風神の力を宿した必殺技術。


 思いっきりぶん投げられたメイスは、ソニックブームを起こしながら突き進む。暴風をまといながら投擲されたメイスは砲弾そのものであり、着弾とともに大規模な爆発を引き起こす。


 二人の攻撃によって、因子の渦は崩壊し、中身が露出する。


 鈍く光る因子の核。

 情報の塊とも言えるそれは、膨大なエネルギーを噴出させる一歩手前であった。


 そのまま暴走に任せれば、莫大な情報圧が辺り一帯を消し飛ばすだろう。そうさせないためにも、同レベルのエネルギーをぶつける必要がある。


「シオン、魔力を回せ!」

「ああ。やってくれ、レイウォン!」


 レイウォンの背におぶわれたシオンは、必死でしがみつきながらありったけの魔力を送る。

 それを受け取ったレイウォンは、手のひらを前に突き出して魔力の弾丸を作り出す。溢れんばかりの情報密度は、それだけで島を消し飛ばせるくらいのエネルギーを持っている。


 その対面では、緋槭が魔力を霧状にして放出していた。

 その霧はやがて怪物の姿をかたどる。牛の体に羊の毛並み、曲がった角は背中まで伸び、口からは鋭い虎の牙が生える。

 それは財産や食物を貪るとされる怪獣、『饕餮とうてつ』である。


 レイウォンは魔力を射出する。

 緋槭は濃霧の怪物を解き放つ。


「――『梵天・灰塵砲ブラフマー・アストラ』!」

「――『悪食あくじき饕餮王とうてつおう』!」


 創造神の力を宿した投擲武器と、あらゆるものを貪る神話の怪物は、膨大な情報圧を伴って因子の核を粉砕する。

 強力なエネルギー同士がぶつかり合って、衝撃波を撒き散らしながら消滅を始める。


 これで決まったと誰もが思った。

 だが――まだ微かに、『疱瘡』のウイルスは力を残していた。


 飛び散った魔力を懸命に集めながら、『疱瘡』の因子は再び自己増殖をしようと最後のあがきを見せる。

 その姿はまるで、根絶された存在がそれを否定しようと藻掻いているようだった。


「くそ……! シオン、まだ行けるか?」

「悪い、すぐには……」


 ルドラ・ヴァジュラから大技を連続で三発。もとより燃費の悪いレイウォンの魔力消費は、バディであるシオンに大きな負担を与えていた。

 レイウォン自身の魔力も底をつきかけており、浮遊するので精一杯となっている。


 対する緋槭の方はわずかに余力を残しているが、しかし因子を消滅しきるほどの大技を出すには少し時間が必要だった。その僅かな時間は致命的な隙に繋がりかねない。


 悪あがき気味にレイウォンと緋槭は武器を構える。

 しかし、『疱瘡』の因子は細かい力の粒子となってその場から消え去ろうとする。


 このままでは逃してしまう。

 身構えた、その時だった。



「はっはっっはー! 遅れて登場するには最高のタイミングだね!」



 虚空から、まるで檻を作るように鎖が現れた。


 縦横無尽に重なり合うその鎖は、『疱瘡』の因子の逃げ場を完全に封じる。

 それどころか、細かい粒子となって形を崩したその因子を、何重にも縛って拘束してみせた。


 あらゆるものを捕縛するその鎖の持ち主は、幾重にも張られた鎖の上に立って、にこやかに笑っていた。


「この『縛竜索ばくりゅうさく』はね、本来は形あるものより不定形のものを縛る方が得意なんだ。形よりも、情報をこそ縛り付けるってね。ふふ、さあ逃しはしないよ」


 長い黒髪に黒い肌をした、十歳くらいの少年。

 テオと名乗るそのファントムは、見計らったかのようなタイミングで再登場した。


 その姿を見て、緋槭は憎々しげに言う。


「貴様、なぜ生きている」

「おお怖い。何故も何も、殺しそこねたのは君じゃないか。自分の不手際を人のせいにしないでもらいないなぁ」


 人を喰ったような態度でヘラヘラと笑うテオは、大仰に肩をすくめてみせる。


「僕にはどうしてもやらなきゃいけない目的があるからさ。あんなところで無駄死にするわけには行かないんだよ。ま、それももうすぐ終わるんだけどね」


 彼は鎖の上を歩くようにして『疱瘡』の因子の側へと近づく。

 そして、手に身の丈ほどの大鋏を握ると、あっさりとその刃を振るった。


 鎖ごと両断された『疱瘡』の因子は、最後の情報密度を霧散させてその力を完全に失った。


「はい、しゅーりょー」


 あまりにあっさりと、テオは最後の戦いを終わらせた。


 もはや『疱瘡』の因子の気配は微塵も存在しない。

 物理的に少量のウイルスは残っているかもしれないが、概念的な力を持たないウイルスではそう長く持たないだろう。


 大鋏を仕舞ったテオは、その場にいる三人へと優雅に視線を向けて大げさに頭を下げる。


「いやはや皆様、この度は『カラミティ・ジェイルの火雷天神』討伐にご協力いただき、ありがとうございます。おかげで助かったよ。いやあ感謝感謝」

「……貴様は終わった気でいるようだが、ただで帰すと思うか?」


 テオの言葉に、緋槭は殺気を放ちながら武器を構える。

 その気迫だけでも人を殺せそうな勢いだが、当のテオはヘラヘラと気の抜けた態度を取り続ける。


「怖いなぁ。もう決着はついたし良いでしょ?」

「勝負ならたしかについた。だからおとなしく捕まるんだな。貴様には効かなければいけないことがたくさんある」

「ふふふ。それは困るなぁ。すごく困る。だから僕は逃げるよ」


 アディオス、と冗談っぽく言って、テオはその場から飛び上がる。


 緋槭が大刀を投擲するが、それが直撃する寸前でテオの身体は消滅した。ただ霊体化しただけならば追跡が可能だが、どうやら空間転移の類らしい。

 微かな痕跡も残さずに、テオと名乗る正体不明のファントムはその場から完全に消え去った。


 あとに残されたのは、緋槭とレイウォン、シオンの三人だけである。


「…………」

「…………」


 緋槭とレイウォンは無言で向かい合う。


 横からかっさらわれるような幕切れだったが、二人の間にある確執にはまだ決着がついていない。

 霊子戦争の終戦から二十五年。すれ違い続けた関係は、先程の共闘程度では解決しない。


 だが――仮に、話は別である。


「緋槭よぅ。今の、気づいたか」

「……ふん。それを理解していながら、貴様はあのファントムを逃したのか」

「仕方ねぇだろ。こっちはもう魔力がすっからかんなんだ。今だって、かろうじて飛んでるだけでいつ落ちたっておかしくねぇんだぞ」


 肩をすくめて言いながらも、レイウォンの口調に冗談を言う雰囲気はない。


「でもまあ、足がかりは掴んだ。見つけるのに時間はかかるだろうがな」

「そうか。不愉快だが、その言葉を信じよう」


 不服そうにしながらも、緋槭はうなずいてみせた。


 レイウォンの背にしがみついているシオンは、二人が何を話しているのかうまく理解できなかった。

 消耗が激しくて思考力が落ちていることもあるが、数年後ならともかく、今のシオンにはそれを理解するだけの余裕はなかった。


 シオンが理解していないのを察して、緋槭もレイウォンも、それ以上話を続けようとはしなかった。

 代わりに、二人はゆっくりと降下を始めた。


「貴様のことは、自然発生したファントムとして扱う。その代わり、話は聞かせてもらうぞ」

「そりゃありがたいね。ちなみに、この坊主たちはどうなる?」

「それはこちらのバディが決めることだ。だが、悪い風にはならんと聞いている」


 牛の面で隠された顔で、緋槭はシオンを見つめてくる。


 視線を向けられて、シオンは必死で身構える。すでに心身ともに限界に近いが、それでもこの眼の前の化物相手に気を抜くことは出来ない。


 だが、そんな神童の悪あがきを見て、緋槭はわずかに息を吐いてみせた。


「あのカラミティ・ジェイルを、よもやこのような子供が倒すとはな。末恐ろしい次代だ」

「同感だよ」


 緋槭の言葉に、レイウォンは苦笑を漏らしながら同意した。

 まだ互いに気を許し合ってこそ居ないが、その瞬間だけは、かつてのように身近な友人としての間柄を取り戻したようだった。



 こうして――S級霊子災害『カラミティ・ジェイルの火雷天神』は討伐された。


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