その7 醜い化物の子
テオが持つ大鋏は、あらゆるものを両断する神仙の宝物である。
地面がめくれるほどの衝撃とともに飛び出したテオは、両手で持ち手を握って大鋏の刃を大きく広げると、真上から緋槭へと叩きつける。
それを緋槭は正面から大刀で受け止め、力強く弾き返した。
その一合だけで、辺り一帯の砂浜が吹き飛ばされて砂塵が舞った。
「くぅ、効くなぁ!」
押し負けて宙へと投げ出されたテオは、慌てて体勢を立て直そうとする。しかし、小柄な体に対して身の丈ほどもある大鋏は重く、重力に従って下へと落ちていく。
そこを、地上から飛び上がってきた緋槭が強襲した。
「――ハァ!」
緋槭は大刀を下段から振り上げると、落下しているテオの身体を斬り上げた。
胴体を両断する勢いで振り上げられた大刀は、しかし間一髪のところで大鋏の刃に防がれる。
大鋏で大刀の切っ先を受け止めたテオだったが、その威力までは殺しきれなかった。
そのまま横薙ぎに振り抜かれ、テオは右ノ島の西方へと思いっきりぶん投げられる。
島へと激突したテオは、勢いを殺しきれずに何度も地面に叩きつけられては跳ね上がる。ようやっと勢いがなくなった時には、西海岸側の絶壁付近にいた。
「い、つぅ。この」
ぼろぼろになった身体をスキルで修復しながら、テオはよろよろと立ち上がる。
しかし、休む暇など与えられない。
上空から、緋槭が大刀を振り下ろしながら落ちてきた。
それはただ武器を上から下に振り下ろしただけの攻撃だ。
にも関わらず、目を疑うような破壊を生んだ。
轟音とともに西海岸の絶壁は粉々に破壊され、岩片が雨のように海へと降り注ぐ。誇張でもなんでもなく、彼の一振りで島の形が変わった。
「ぐ、ぁあああああ!」
かろうじて直撃を避けたテオだったが、そんな破壊力を前に無事では済まなかった。
余波によってまたしても空中に打ち上げられた彼は、降ってくる岩片とともに海面に叩きつけられる。せっかく治した身体も満身創痍になり、いつ死んでもおかしくない傷を追う。
そこまで追い詰めておきながら、緋槭はまだ追撃を止めない。
(加減は不要だ。あのファントムの情報密度ならば、この程度で消滅するはずもない)
ファントムとして絶大な力を持つ緋槭であるが、その真価は因子の強さではなく、油断することのない精神性にある。
戦闘において事実をありのまま認識する彼は、決して気を緩めることがない。それは、彼を相手にする敵にとっては、絶望にしかならない特徴である。
緋槭は『天候』の因子由来のアクティブスキル『
風を操る
続けて使用するのは、『武具』のアクティブスキル『兵主・武神具象』。蚩尤が作り出したとされる武具を立て続けに召喚し、それらを連続で叩きつける。
大刀、大戟、大槍、大斧、大盾――次々と振り下ろされる武具の雨に、海面が突き破られて岩盤が顔を出す。仮にその下に誰かが居たとすると、肉片一つ残らないだろう。
武具が乱立する岩盤の上に、海水が流れ込んで元の海面に戻る。その様子を片時も目を離さずに見つめながら、緋槭は油断なく周囲を警戒する。
「――ッ!」
反応できたのは紙一重だった。
振り返るよりも先に、右手に持った大刀を背後に合わせていた。そこに、大鋏の刃がかち合って火花を散らす。
「ははっ! まさか、これに反応するかい!」
背後から不意打ちを仕掛けたテオは、見事にそれを防いだ緋槭を見て顔をひきつらせる。
仙術を扱えるテオは、大地と一体化するスキルを持っている。それを利用して完全に気配を消していたのだが、緋槭はそれすらも上回って防御に成功していた。
緋槭は振り返りざま、防御に使った大刀を思いっきり振り抜く。またしても弾き飛ばされたテオは、そのまま海面に叩き落されそうになる。
だが――その時、虚空から黒い一体の影が現れて、落下するテオを受け止めた。
それは黒いトラだった。
全身の毛並みが塗りつぶされたように黒い。宝石のように深い漆黒の色をしたブラックタイガー。
それはテオを背に乗せると、宙を駆けて緋槭から距離を取る。
「ふぅ、間一髪」
「――させると思うか?」
緋槭は両手に大弓を構えると、立て続けに矢を発射した。
空間に面を作るように無数の矢が放たれる。
「わわ!」
正面から迫る矢の壁を避けるように、テオは黒虎に跨って逃げる。黒虎は空中を踏みしめながらその矢の雨を避けていく。
そうして大きく旋回すると、テオは緋槭の真横を取った。
「なら次は、これならどうだい!」
次にテオが取り出したのは長い鎖だった。
神仙の力が込められた鎖の宝物。それは、対象を自動的に縛り上げる神具だった。
彼がそれを放つと、鎖はひとりでに伸びて空間を席巻する。
もとの長さからどんどん伸びていく鎖は、枝分かれして四方へと散らばり、やがて緋槭の両手両足を拘束した。
「む」
「さあ、獲った!」
黒虎の上に立ったテオは、拘束されて身動きが取れない緋槭に向けて、大鋏をブーメランのように投げつける。
刃が開かれた大鋏は、その鋭い切っ先を緋槭の首筋に向けて飛来する。
だが――その程度で詰まされるほど、『蚩尤』は甘くない。
「無駄だ」
両手を拘束されているのであれば、更に別の腕があればいい。
緋槭は胴体から更に四本の腕を生やすと、それぞれに武器を握り、投げつけられた大鋏を弾き落とした。
――緋槭の『牛』の因子のパッシブスキル『
これにはさすがのテオもあっけにとられ、ほうけたように口を開ける。
「んなアホな!」
「愚かかどうか、その身で受けてみるか?」
テオの文句にずれた回答をしながら、緋槭は鎖を強引に引きちぎると、六本の腕全てに武器を握って攻撃を仕掛ける。
大刀が、大戟が、弓が、矛が、槍が、戦斧が――あらゆる武器が圧殺するようにテオの身体を蹂躙する。
テオは鎖の宝物を使って攻撃を防ごうとするが、縦横無尽にはられた鎖の壁はガラクタのように叩き割られる。
そうしてテオの身体は八つ裂きにされた。
が、その時。
テオが首に下げていた首飾りが、眩い光を発した。
「何!?」
突然膨大な情報圧に襲われ、緋槭は目を丸くする。
小さな宝珠が二十四個繋げられた首飾り。そこから発される五色の光は、破壊と創造を同時に行う。混沌の海より拾い上げられた二十四個の宝珠は、その一つ一つが方向性の定まらないエネルギーの塊である。
緋槭の腕は霊子の塵となって消滅し、代わりにずたずたにされたテオの肉体は修復された。
「はは! とんだ棚ぼただ!」
突然の出来事に緋槭が怯んでいる間に、テオは黒虎にまたがって即座に逃げ出す。
黒虎は目にも留まらぬスピードで地上へと降り立つ。破壊しつくされた海岸には、障害物となる瓦礫がたくさんある。そこに身を隠すようにしながら、テオは大地の波長と呼応する。
因子『道教』のパッシブスキル『無為自然』。
自然と一体化したテオの存在は、感知することが難しくなる。ましてやこの障害物だらけの海岸である。如何に緋槭が強力なファントムであると言っても、テオの姿を探し出すのは至難の業のはずだ。
「はは! いやあ、まいったよ、蚩尤。この宝珠は使うつもり無かったんだけどね」
身を隠しながら、テオはあえて煽るように言う。
それに対して、緋槭は鼻を鳴らしながら、テオに合わせて海岸に降り立つ。
「……ふん。使う? 私には、使いこなせているようには見えなかったが」
六本の腕を無くした緋槭は、ひとまず両腕だけを修復する。仮にも腕をもがれたというのに、彼にダメージを受けた様子はない。
彼はゆっくりと海岸を見渡す。
岩の欠片が散乱し、木々が倒れて荒れ放題の砂浜は、生き物の気配が感じられない。
緋槭の持つ『戦争』の因子には、戦場にいる限り敵の気配を捕捉し続ける『常在戦場』というパッシブスキルがある。それを持ってしても捉えきれないということは、相手の方が更に上のスキルを使っているのであろう。
見つけられないのならば仕方ない。
緋槭は攻め口を変える。
「さきほどの宝珠、あれは『
「…………」
緋槭の言葉に、テオは無言を返す。
その沈黙こそが何よりの証拠だ。緋槭はここまでの戦闘を振り返り、テオの原始を考察する。
「神仙の秘密兵器、
「はは、さすがは兵主神。人間の武具だけじゃなく、神仙の宝物にも詳しいんだね」
的確に言い当てられたテオは、岩の裏に隠れたまま、強がるように言う。
「君の時代より、千年はあとなんだけどね。まるで見てきたように言うもんだ」
「ふん。そもそも貴様の原典は、時代考証が意味をなさん創作神話だろう。それに、神仙は出会ったことがないが、真人であれば私の時代にも居た。宝貝については現代の知識が大半ではあるが、真人の生態についてはある程度理解がある」
つまらなそうに緋槭は言う。
それは、神仙が使用する秘密兵器の名である。
紀元前十一世紀の古代中国、殷の時代。
暴君として名高い
その時に使用されたのが、仙人たちが鍛え上げた秘密兵器、パオペエである。
そして、その殷周革命を舞台にした神話が――
「封神演義。殷周革命を舞台として後の時代に描かれた創作神話。だが、そこで描かれた逸話は事実となった。貴様はそうして力を得た神霊だ」
神話には、事実と虚構の二つの側面がある。
実際に居た神霊の活躍が後世に伝わったものと、後の時代に逸話として語られることで神秘性を得た物語の二つだ。
封神演義は後者の色が強い。殷周革命時代には居なかった神仙や、独自の神仙が登場するため、封神演義は事実ではなく創作神話であるとされる。しかし、封神演義によって新たな信仰を得た神仙も多いため、一つの伝承としての神秘性を持っている。
「封神演義には多くの神仙が登場する。その中には、別の伝承を持っていたり、宗教の神としての神格を持つものもいる。そうかと思えば、元々あった神格が他の神仙に分けられた神もいるな。貴様もその一人だろう。道教の古き神よ」
定海珠に縛竜索、金蛟剪の三つのパオペエを使用する神仙。
道教の神であり、黒い虎にまたがる財神。
瘟神の性質を持ちながら、封神演義では弟子がその性質を担う事になった存在。
その神霊の名は――
「
「御名答! 流石だよ、蚩尤」
正体を明かされた瞬間、テオは盾にしていた岩を拳で破壊しながら前に出た。
彼の手には、金でできた棒が握られている。
道教の神・趙公明が伝承として扱う金鞭。その武器を構えながらテオは緋槭に迫る。
同時に、緋槭の背後から大鋏が回転しながら迫ってきた。先程、緋槭によって弾かれて手放していた金蛟剪を、テオは遠隔操作で引き戻していた。
更には――いつの間にか砂浜に隠れていた黒虎が姿を表し、足元から食らいついてくる。
三方から攻めながら、テオは勝ち誇ったように言う。
「はは! 種明かしありがとう! けど、僕だって黙って正体を明かされたわけじゃないよ」
因子『渡来神』。
緋槭がテオの正体を言い当てている間、テオは大地の気を取り込み、この『渡来神』のパッシブスキル『
趙公明は、黒面の財神という特徴を持つ。そのことから、インド神話の『
そんな、複数の文化圏の信仰を渡り歩いてきた大黒天の力を引き出し、テオは瞬間的に全てのステータスを上昇させる。
筋力値も、耐久値も、敏捷値も、あらゆる能力値を上乗せし、最強のファントムに迫る。
だが――
「奇遇だな、道教の
緋槭の目の前で、テオはその動きを止めた。
「な……!」
まるで地面に縫い付けられたように、テオは動けなくなる。
「こちらも、ただ無策で正体を口にしたわけではない」
強い圧力を受けたように身動きが取れないテオをよそに、緋槭は余裕を持って足元の黒虎を蹴り飛ばして首をへし折る。続けて、振り返りざまに背後の金蛟剪を打ち払った。
最後にテオへと向き直った緋槭は、膨大な情報圧とともに近づいてくる。
「何、策を巡らせていたのは、貴様だけではないという話だ」
歩み寄る緋槭の右肩には、赤い布がたなびいている。
それこそは、蚩尤の象徴である『
赤は蚩尤の流した血の色とされ、赤い旗は蚩尤の象徴とされる。蚩尤を破った黄帝は、蚩尤が描かれた赤い旗を使うことで、敵対者に威勢を示したと言う。
因子『軍神』のパッシブスキル『蚩尤旗』は、向かい合った相手に威圧を与えるスキルである。緋槭よりも精神力が低い場合、僅かの間その行動を封じることが出来る。
だが、それだけならば、ステータスが上昇したテオの動きを止める理由にはならない。
肝となるものは、もう一つのパッシブスキル。
因子『異人』のパッシブスキル、『知性ある怪物』の効果である。
「私が秘密を見破った相手は、一時的にその能力を大きく下げられる。貴様の原始をわざわざ解説したのは、貴様を誘い出すためだ」
なんのことはない。時間稼ぎをしていたのは、テオも緋槭も同じだった。
そして、ここに明確な力の差が見せつけられた。
「さらばだ、瘟神。貴様はここで果てろ」
ファントムを殺すのは簡単だ。
その因子が持つ情報密度を全て破壊しきればいい。
アクティブスキル『
緋槭の周囲に、赤く染まった楓の木が乱立していく。血のように赤いその楓の葉は、かつて蚩尤が流した血の色と伝えられている。
緋槭は手に持った大刀を振り下ろす。
その瞬間、幾重にも重なった凶刃がテオの肉体を切り裂く。一太刀で何十回も切りつけられたテオは、断末魔を上げるまもなくその肉体を殺された。
後には、テオが身にまとっていた衣服のみが残された。
※ ※ ※
一方。
久我アヤネと比良坂シドウは、互いに睨み合っていた。
先に口を開いたのはアヤネの方だった。
「その腕章、世界協定の人間ね。ってことは、アンタ魔導連盟の出向者でしょ?
十歳の子供とは思えない不遜な態度に、シドウは警戒しながら言った。
「理事長を知ってるんだったら、話は早ぇな。お前らには捕獲命令が出てる」
「へぇ。あの狸爺、まだ私達のこと欲しがってるんだ。霊学協会のクソ狐とトラブった時にはガン無視してくれたのに」
嫌気のさした表情を浮かべるアヤネに、シドウはぶっちゃけて言う。
「包み隠さず言えば、そのクソ狐こと芦原会長へのカウンターとして、理事長はお前らを欲しがってんだよ。そのために、お前らに一時ライセンスまで付与されてる」
「へぇ、そんなにご執心なの。それは良いことを聞いたわ」
「そのせいで、俺はお前らを不法侵入と魔法の不正使用でしょっぴくことが出来なくなったがな。ったく、ここに赴任してそうそうこれだ。この後始末、どうしてくれやがる」
憎々しげに言うシドウに対して、アヤネはつまらなそうに鼻を鳴らす。
「知らないわよ。勝手にやれば」
「ああそうかい。だったら勝手にやるさ」
シドウは手に握った拳銃型デバイスに魔力を通す。
臨戦態勢に入ったシドウに対して、アヤネはあくまで自然体のまま向かい合う。
「力づくってわけ? 私達に魔法ライセンスが出てるんだったら、霊子災害の討伐は許可されてるはずでしょ。逮捕する理由はちゃんとあるのかしら」
「さっきも言ったろ。理事長から直々に捕獲命令が出てんだよ。生きたまま連れてこいってな。だから殺しはしねぇ。けど――痛い目は見てもらうぜ、神童」
シドウはデバイスをまっすぐに構える。
そこから放たれた魔法は、鋭いトゲのついた網のようなものだった。
魔力で編んだ網は大きく広がって砂浜を覆うと、アヤネを捕獲するように一気に収束していく。
複数の概念属性が込められたこの霊子の網は、生半可な攻撃では破壊できないように作られている。如何に神童と言えど、逃れることは難しいはずだ。
だが――霊子の網を放った瞬間、シドウは後ろに叩き飛ばされた。
「が、っは……ッ!」
何が起こったのか、瞬時には判断がつかなかった。気づけばシドウの身体は海の上にまで吹き飛ばされていた。
続けて第二撃。
真上からの衝撃によってシドウは海に叩き落される。
浅瀬であることもあって、海の水が盛大に舞い上がり、地面へと思いっきり身体を叩きつけられる。
更には、舞い上がった海水が細かい粒となって機関銃のように襲いかかる。
「お、おぉ、おおおおお!」
立て続けに大きなダメージを受けたことで、シドウが持つ魔法式が自動発動する。
自身を襲う厄災を全て払う『
上から迫る海水の弾丸は、すべて波に飲まれた。
間一髪で即死を間逃れたシドウは、海水をかぶって溺れそうになりながらも、なんとか立ち上がって海岸を見やった。
シドウが最初に放った霊子の網は空振りしたのか、砂浜の奥に落ちていた。
その手前で、アヤネは無傷で悠然と立っている。
「なんだ、死ななかったの。しぶといのね」
アヤネは髪をかきあげながらゆっくりと海の方へ歩いてくる。
彼女は当たり前のように海面に足を乗せて仁王立ちすると、つまらなそうにシドウを見下ろしてくる。
シドウは浅瀬で波に揉まれながらデバイスを構える。戦意を失っていない彼の姿を見て、アヤネは目を細める。
「私、人殺しは好きじゃないの。だって、気分が悪いもの」
その言葉とともに、アヤネは海水に魔力を通して、周囲の水を一気に持ち上げた。
それは複数の水球となってアヤネの周囲に浮かび上がる。大量の水を一手に制御するその技量は、大人の魔法士でさえ敵わないほど飛び抜けた実力である。
千紫万紅・
大量の水を魔力で制御しながら、アヤネは冷たく言い放った。
「だから――頑張って耐えてね」
次の瞬間、いくつもの激流がシドウを襲った。
それは水の龍のように荒れ狂いながら、まるで貪りえぐるように海面を襲った。その一つ一つが、大木をへし折り大地を砕くような水流の暴力である。まともにくらえば、人間の五体などたやすくバラバラにされてしまう。
直撃は避けなければならない。
シドウはアヤネと同じように海水を魔力で操作する。そうして作り上げた高波は、激流を防ぐためではなく、シドウの身体をさらうためのものである。
波の力によって水中に引きずり込まれたシドウは、荒れ狂う海流に身を任せてその場から大きく離れる。
続けて、海流の渦に飲まれながら、魔力でその力の流れを掌握する。
即興であるが、精度の高い魔力操作。渦の回転運動エネルギーを自身の推進力に転換し、飛び上がるようにして海の上へと飛び出した。
「はぁ! はぁ、はぁ! くそ、死ぬかと思った」
空中に飛び出したシドウは、すぐさま靴型のデバイスに魔力を通して浮遊の魔法を発動させる。シドウの力では長時間の運用はできないが、それでも海の中にいるよりは動きやすい。
しかし、それを見逃すアヤネではなかった。
「バカね。狙いやすくなったわよ」
海面に立つアヤネは、まるで海の上で踊るかのように身体を動かす。その動きに合わせたように、彼女の周りの海水は激流となってシドウに迫る。
水の鞭という、何よりも防ぎづらい攻撃は幾重にも重なって叩きつけられる。
空中を飛び回ってそれらを避けるシドウは、次第に追い詰められていく。
「くそ、デタラメだな、おい!」
どくづきながら、悪あがき気味に魔力弾を放つ。
しかし、それらも水流に防がれて砕かれる。
シドウはあらゆる攻撃を打ち払われ、逆転の糸口を見つけることすらも出来ず、やがて背後から迫る激流によって再び海面に叩き落された。
海に落ちたシドウを狙って更に四つの激流が叩き込まれる。もはや確実に殺そうとしている手口であるが、それでもシドウはかろうじて生きていた。
「が、はぁ、はぁ、はぁ、はぁ……!」
息も絶え絶えなシドウは、なんとか浮かび上がってきて海面から顔を出した。
度重なる水の暴力によって、全身の骨が軋んでいる。かろうじて五体はつながっているが、全身骨折のようなもので全く力が入らない。
いつの間にか足がつかない遠瀬にまで来てしまっている。激痛に身体が動かせないシドウは、ただ波に揺られることしか出来ない状態だった。
そんなシドウを見やりながら、アヤネが海面を徒歩で歩いてくる。
「良かった。死ななかったのね。ちょっとやりすぎたかなって思ったから」
「はぁ、はぁ……。けっ、ふざけろ。普通だったら殺人未遂だ。クソガキ」
がむしゃらに霊子属性で防御を固めたからなんとかなったが、シドウの魔力操作があと少し下手だったら絶対に死んでいた。
シドウの文句に対して、アヤネはつまらなそうに鼻を鳴らす。
「だって、それくらいなら耐えてくれると思ったんだもの。死んだとしても、そんなのアンタの実力不足が悪いわ。いいとこ過失致死でしょ」
その僅かな差を意識した上で手加減をしていたのなら、この少女は確かに神童である。
涼しい顔をして見下してくる十歳の少女を見て、シドウは心の底から畏怖の念を抱いた。神童の話を聞いた時には劣等感を覚えたものだが、それが如何に馬鹿げた考えだったのか思い知らされる。こんな化物と比べるなど、身の程知らずにもほどがある。
「で。もう勝敗はついたと思うけど、ここからどうするの?」
シドウの内心も知らず、アヤネは冷めたように言う。
「私としては、アンタが蚩尤を連れ帰ってくれればそれで良いんだけど」
「出来るわけねぇだろ。旦那がお前のバディを倒したら、次はお前の番だ。せいぜいそれまで俺で遊んでろよ」
「……あの不審者をバディと言われるのは癇に障るけど、まあそうね。どうせ蚩尤の方が勝つだろうし、それまでにアンタ相手に交渉しておくべきかしら」
アヤネはそうつぶやくと、ゆっくりと海の上を歩いてくる。
そして、シドウの直ぐ目の前に立つと、彼の頭に右足を合わせた。
「…………」
「このまま踏みつけたら、溺死するかもね?」
とんでもないことを言うガキである。
交渉などと言っていたが、シドウの身動きがとれないことを良いことに、アヤネは脅迫を実行しようとしていた。
「やれよ、神童」
挑発するようにシドウが言うと、アヤネはためらいもなくその右足を踏み降ろした。
急に水の中に顔を沈められたシドウは、もがきながら浮上しようと悪あがきする。そんな敵の様子をまるで観察するように見下ろしながら、アヤネは小声で時間を数える。
たっぷり十秒。
シドウが海水を飲み込み始めた頃に、アヤネは足を上げる。慌てて顔を出したシドウは、痙攣して咳き込みながら水を吐き出した。
必死に水を吐こうとする彼の姿を観察しながら、アヤネは再度言う。
「選んで。死ぬか、見逃すか」
「はぁ、はぁ……。ははっ! おい神童。大人を舐めんじゃねぇぞ」
衰弱して顔を青くしながらも、シドウは強い意志のこもった瞳でアヤネを見上げる。
「てめぇみたいな世の中舐めたガキを叱るのが大人の仕事なんだよ。そうやって舐めてっと、すぐに痛い目見るからな。せいぜい気を良くしてろ、神童」
「……意味がわからないわね。そんなかっこ悪い姿で凄まれても、何も怖くないわ」
冷めたように言ったアヤネは、今度は一歩下がってみせる。
このまま頭を海に沈めても、結果的に死なせるだけでしかない。それでは意味がないのだ。あくまでここでのアヤネの役割は、この男から身の安全の保証を引き出すことにある。
だから、殺さず無力化し、なおかつ脅す必要がある。
次にアヤネが行ったのは、海面を凍らせることだった。
「私達、こないだ小笠原諸島の氷結城を攻略したの」
足元の熱を奪い、海面の分子運動を停止させていく。その分の熱エネルギーを右手から大気に放出しながら、アヤネは淡々という。
「フローズン・マグマ。熱量の遡行する氷の城塞――凍りついた活火山は、活動しているはずなのに周囲をどんどん凍らせていっていた。一体どういう原理なのかってずっと悩んだものだけど、答えは簡単だったわ。要するに、熱量の絶対値を逆転させていただけなの」
熱くなればなるほど冷たくなる。
マグマの熱は反転して氷結し、氷の低温は反転して熱を生む。
エントロピーは減少などしておらず、ただ明確に温度差をより分けられていただけだった。いわば、マクスウェルの悪魔を再現するような霊子災害だった。
「そのフローズン・マグマの正体は小さな子供だったわ。私達よりももっと年下の。ねえ、世界って案外真っ黒じゃない? そういう子をなくすのも、アンタたちの仕事じゃないの?」
「ああそうだよ」
アヤネの片手間な雑談に、シドウは真剣な顔でうなずいた。
「その氷結城の話は初耳だが、そんなもんを野放しにしとくわけには行かねぇ」
「そ。安心したわ。どうでもいいなんて言ったら、思わず殺しちゃいそうだったもの」
アヤネの足元から伸びた氷は、シドウの周囲の海水を氷漬けにしていく。生かさず殺さず、人質として有用な形に拘束をしていく。
そんなアヤネの目論見を前に、シドウはわずかに目を閉じた。
「おい神童。今のうちだぞ」
「何、命乞い?」
半ばシドウへの興味を失っているアヤネは、おざなりな態度を取る。しかしそれに対して、シドウは覚悟を決めたように息を吐いた。
「ちげぇよ。お前が命乞いするなら今のうちだ、と言ったんだ」
「…………」
アヤネはチラリとシドウを見下ろす。
実験動物でも見るように冷めた瞳は、シドウから何ら脅威を見いださなかった。なんだったら、あと少し魔力をつぎ込むだけで氷漬けにして殺すことが出来る。生殺与奪の権利を握った状態で、何を命乞いしろと言うのだろうか。
そんな冷めきったアヤネの表情は、ほんの数秒後に驚愕に変わることとなる。
凍りついた海面が突如として吹き飛んだのだ。
粉々に砕けた氷と、巻き上げられた海水が空中を舞う。その破壊を生んだのは、氷漬けになりかけていたシドウだった。
海の中でただ一振り、右腕を振り切っただけの動きで、爆発でも起こしたかのように海の水を大量に海上へと跳ね上げていた。
その衝撃にアヤネの小さな体は吹き飛ばされる。目の前の出来事を信じられず、彼女は目をむいてその爆心地を見る。
「な、なに!?」
つい先程まで、シドウには僅かな余力も残っていなかった。
仮に魔力を回していればすぐに分かる。予兆もまったくなく、突如としてとんでもない膂力を発揮した敵を前に、アヤネは瞬時に緊張感を高める。
そんな彼女に対して、波飛沫の間から音速の勢いでシドウが突っ込んできた。
「終いだ、神童!」
電光石火。
目にも留まらぬ勢いで懐に入ってきたシドウは、その拳をアヤネの腹部に向けて思いっきり振り抜いた。
「く、『
「通じるかよ!」
シドウの豪腕はカウンターの呪詛すらも破壊し、アヤネを思い切りぶん殴って吹き飛ばす。
「……、はッ!」
殴り飛ばされたアヤネは、海面を水切りのように跳ねていく。
一瞬意識を無くした彼女は、三度目のバウンドでようやく意識を取り戻す。
全力で防御を張ってすら、威力を殺しきれなかった。まるでファントムでも相手にしているかのような脅威に、海面に立ちながらアヤネは歯を食いしばる。
(まるでファントムみたい――って、要するに、そういうことでしょ!)
レイウォンのような霊子融合体というわけではないだろう。もしそうだったら、もっと早く使っているはずだ。
ならば答えは一つ、バディの能力で一時的に疑似ファントム化しているということだ。
「ぐ、い、つぅう」
痛む腹部を押さえながらアヤネは海面上で踏みとどまる。魔力を固めて足場にしているのだが、激痛で魔力操作がうまく行かず、気を抜けば沈みそうになる。
痛みからするに、確実に内臓を痛めている。本当ならばすぐにでも治療をしたいところだが、それをする時間はない。
上空からシドウが迫ってくる。
彼の手には身の丈ほどもある兵仗が握られており、更には浮遊霊のようなものを従えていた。猛スピードで突っ込んでくるシドウに対して、アヤネは再び海水に魔力を通して水龍を作り出す。
今度は殺さないための加減など出来ない。殴られる前に叩き潰す。
「『水面には月』『巣には水龍』『束ねて喰らえ』!」
目の前の敵を止めるために、全力で激流を放つ。
それを、シドウは兵仗を振り回して全て打ち払っていく。
本来であれば、水の奔流である水龍を叩いたところで、その流れまでは止められないはずだ。
しかしシドウの的確な打撃は、まるで水の流れそのものを変えるかのように水龍を無力化していく。一つ一つ、丁寧に魔法式を切り崩すような繊細な魔力行使。この土壇場でなければ、アヤネも称賛の声を上げるくらいの技術だった。
そして――八本目の水龍を弾いたシドウは、真上からアヤネの頭を叩き落とした。
「ガッ、ハ」
一撃で意識を刈り取られたアヤネは、そのままふらりと倒れて海に沈む。そのまま水没すれば溺死は確定だったが、幸い、浮力のおかげですぐに浮き上がってきた。
それに対して、シドウもまた力を使い果たして海の中に沈んでいく。
「はぁ、はぁ、はぁ、はぁ……!」
無理な力の使用に肉体が悲鳴を上げている。そうでなくても、つい先程まで全身の骨にヒビが入っていたのだ。節々がきしみ声を上げて今にも死にそうである。
逆転に使われたのは、緋槭の持つ『反乱』因子のパッシブスキル『
このスキルは、緋槭と魔力でつながっている場合に限り、緋槭の能力の一端を借り受けることが出来るというものだ。
バディとして緋槭とつながっているシドウは、いつでもこのスキルの恩恵を受けることが出来た。しかし、下手に使えばアヤネに感づかれて出鼻をくじかれる。完全に相手が油断している状態で使うのが条件だった。
加えて、ファントムの力を借り受ける以上、その負荷は相当なものになる。そのために、シドウは比良坂家秘伝のカニングフォーク『
マナを取り込んで自身の肉体を仮死状態にし、霊体と情報界とをつなげる呪法。
今のシドウは、生身でありながら半ば霊子体化しているため、ファントムの力も使いこなすことが出来る。いわば霊子融合体と似たような状態であり、少しでも使い方を誤れば二度と生身に戻れない禁呪である。
(ちっ、あんなに反発してきた実家の術のおかげで、命を拾うことになるなんてな)
シドウの実家は、神咒宗家に連なる魔法の大家である。
複数の分家があるほどの大きな家で、そこの長男であるシドウは期待を一身に受けて育った。しかし、期待に反して大した才能がなかった彼は次第に見放され、代わりに年の離れた妹が目をかけられていた。
妹は特殊な異能を持って生まれたが、それを理由に本家と分家の間でお家騒動が起きた。それが収束したのは三年前であり、今でもその傷跡は比良坂家全体に残っている。
そんな家で育ったものだから、シドウはあまり実家を好ましく思っていない。もとより見放された身である。半ば縁切りされた妹の代わりに本家の跡継ぎにはなっているが、シドウ自信には何の期待もされていないのは分かっていた。
世界協定に所属する魔法士という立場は自力で手に入れたものだが、特殊な才能がないシドウには家柄を背負うだけの理由がないのだった。
「くそ、嫌なこと思い出しちまった」
霊子化した肉体は生者と死者の中間のような情報体である。生物として不自然な状態なので、どうしても違和感がある。自身が比良坂家という大きな家の一部であることを嫌でも教えられるこの状態は、はっきりと気持ち悪かった。
だが、今すぐこの状態を解除するわけには行かない。
なにせ元々、シドウの肉体は死にかけていたのだ。その上、ファントムの情報圧を受けた状態で生身に戻ると、情報圧汚染で即死しかねない。慎重に生身を修復する必要がある。
「あー、畜生。緋槭の旦那は無事なんだろうな」
あの男が負けるとは思わないが、万が一ということがある。こちらも神童とは言え子供相手に死にかけたのだ。早めにあちらの様子も見に行かないと。
そう考えて、まずは気絶したアヤネを回収しようと海の上に飛び上がろうとしたときだった。
「……おい。あいつ、どこに行きやがった」
アヤネの姿がない。
さっきまで海面に浮かんでいたのに、忽然と姿を消していた。まさか沈没して溺死したか、と慌てて周囲を見渡したときだった。
「……は、はは……あはは」
かすれたような笑い声が聞こえた。
それは、背後から聞こえた。
慌ててシドウが振り返ると、十メートルほど離れた場所にアヤネの姿があった。
足元を凍らせて足場にしたアヤネは、よろけながらもその氷の上にゆらりと立っている。その頭からは血がダラダラと流れており、ひと目で無事でないのが分かる。そんな状態でありながら、彼女はかすれた笑い声を上げる。
「かはは、はは、は、……あは、は」
その尋常じゃない様子を前に、シドウは慌てて海面から飛び出ると、浮遊の魔法を使って空中を踏みしめる。
身体にはまだ『蚩尤』の能力の一端が宿っている。構成した霊子体は限界に近いが、まだしばらくは運用に耐えうる。しかし、それでもシドウは緊張に身をこわばらせた。
その原因は、目の前の少女にある。
「あは、あはは
「は、は――はは、ははは、はははは!
「あはははははは! はは、は――あははははははははははははは!」
哄笑、だった。
大口を開けて、ただ笑う。それだけの行為だったが、あまりにも奇怪な光景は見るものを萎縮させるだけの狂気を感じさせた。
そんな、見るものを怯えさせるような笑い声を上げたアヤネだったが、やがて目を見開いてシドウを見つめる。
「は、はは。さ、最高、だわ。こんなの、初めて」
頭から血を流しながら、少女は満面の笑みを浮かべる。その姿に狂気を感じないなんて言ったら嘘になる。不気味なほどに全身で歓喜を表現する彼女は、よろける身体を必死で踏ん張らせながら、前のめりで言う。
「初めてなのよ! 人間相手に、殺されるなんて思ったの!」
あはは、
ははははは!
歓喜。
喜悦。
そして――狂喜。
「嬉しいじゃない! 私を殺せる人がいる。なんて素敵なの! こんなの今までなかった。どいつもこいつも雑魚ばかり。シオン以外に私を殺せる人なんて居ないと思ってた。でも、こんなところで、名前も知らない男が、私を殺そうとしている!」
なんて最高なの。
そう、アヤネは気が狂ったように笑みを浮かべた。
そして――
「だから、ねえ」
すっかり思考をクリアにした彼女は、足場にしている氷の上で踊るように身を揺らして、まるで官能に悶える少女のように淫らに言った。
「ちょっとくらい、本気出しても良いよね?」
次の瞬間、足元にある海水が消失した。
楕円状にごっそりと抜け落ちた海水は、すぐに周囲の水が流れ込んで元に戻る。その時に発生した高波が水面を揺らすが、問題はそんなものではない。
上空を埋め尽くすように、白く染まった氷の剣が現れた。
続けてアヤネは、自身の周りに氷の結晶をいくつも発生させ、足場を広げていく。さらに彼女は、自身の近くに水蒸気で小さな雲を作り出す。その自家製の積乱雲はバチバチと放電を始めている。それを火種に炎を生み出し、轟々と燃える猛火を従える。
氷、雷、炎。
海水から複数の事象を同時に生み出した彼女は、喜色にまみれた笑顔でシドウを見る。
「は、はは……」
シドウは顔をひきつらせながらその光景を見る。
これには流石に絶句するしかない。どんなにファントムの力を身に宿そうと、この化物と正面から戦うことを考えると身が竦んでしまいそうだった。
(ちくしょう、とんだ厄日だ)
死を覚悟しながら、シドウは化物に立ち向かう。
そうして、ただの人間であるシドウは、醜い化物の子の遊びにつきあわされるのだった。
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