その2 ハイエストランク




 霊子体を破壊した直後。

 シオンはチャーターボート内の船底にある物置で目を覚ました。


 実体に意識が戻った反動で微かにめまいを覚えるが、頭をニ、三回叩いて無理やり覚醒させる。そして、すぐさま隣に横たわっているアヤネの身体へと干渉する。


「アヤ、起きろ」


 霊子体との魔力のパスにハッキングをして、彼女の意識を無理やり引き戻す。教科書に載せてもいいくらいの鮮やかな手順を経て、アヤネは一瞬で生身に意識を戻された。


「げほっ、がは、か、はっ」


 意識を取り戻した途端、アヤネは飛び起きながら盛大にむせた。何度か空咳を吐いた後、荒れた呼吸を整えながらシオンの方を見返した。


「は、は、はぁ……た、助かったわ、シオン」

「悪い。緊急事態だから呼び戻した。そっちも何かあったのか」

「うん。でも、生身に戻してくれたおかげで緊急じゃなくなった。……シオンは? 緊急って言うなら、そっちを優先するわ」

「ああ。テオについて報告だ。あいつは危険だと思う」


 手短にシオンは自分の所感を伝える。

 テオには直接口にしていない目的があることと、因子九つのファントムであることから、正面から相手をするのは得策ではないということ。

 その二点だけでも、今すぐにテオを手を切る理由としては十分だとシオンは考えていた。


 それを聞いたアヤネは、少しだけ考える仕草をする。


「誰かのバディになれ、って言ったのね。ということは、私達を人柱にして野良のファントムを支配下に置こうとしているのかしら」

「それか、件のカラミティ・ジェイルをファントムにするつもりじゃないかと僕は思ってる」

「それはないわ。だって、テオはそのバディ候補を『彼』と言ったんでしょ。カラミティ・ジェイルは女だったもの」

「……女? おいアヤ。お前、まさかカラミティ・ジェイルを見つけたのか」


 今度はアヤネが報告する番だった。


 島の反対側の海岸で、謎の病衣の女と交戦したこと。劣勢になった所で霊子体を解除してもらえたために事なきを得たが、あのまま戦い続けていたらフィードバックで生身の肉体がダメージを受けていただろう。


 実際、アヤネはどこか具合が悪そうだった。生身との同調率の高い霊子体である二重身ダブルウォーカーは、活動中の影響を引きずりやすい。大きな負傷はないものの、何らか後遺症があるのかもしれない。


 不調を隠しながら、アヤネは気丈に振る舞いながら話をすすめる。


「とりあえず、今報告できることはこんな所。ここまでで、シオンはどう思う?」

「事前情報と違う点が多すぎる。深追いするにはリスクが大きい」


 互いの情報を交換し終え、ともに同じ所感を得ていたことを共有する。S級霊子災害がさまようこの島には、何か表には出ていない事実があるようだった。


「そう。なら、シオンは撤退した方が良いと思うわけね?」

「アヤは違うのか?」

「ううん。私もそれには賛成。だけど、撤退した後のことも考えておくべきだと思う」


 完全に手を引くのか、それとも態勢を立て直すのか。


 一度霊子災害に関わった以上、その影響は何らかの形で残る。呪詛や霊障というのは、尾を引くからこそ危険なのだ。それから逃れるつもりなら、徹底的に対処する必要がある。


 フローズン・マグマの氷結城の時は、徹底的に攻略すると決めて飛び込んだ。しかし、今回のカラミティ・ジェイルの火雷天神については、半ば流される形だった。こうした中途半端な立ち位置が一番危険だ。


 撤退か、転身か。

 脂汗を浮かべているアヤネの姿を見て、シオンは即断した。


「逃げよう。ひとまず、テオとは完全に手を切る必要がある。そのための行動を取るべきだ」

「……そうね。賛成」


 そう答えたアヤネは、ふらつきながら立ち上がる。

 二人は天井の戸を開けて船底の物置から出ると、デッキに飛び出た。


 デッキでは、密航を手伝ってくれた中年の漁師が優雅に休んでいた。

 島に上陸したと思っていた子供二人が突如として現れたことで、漁師は驚いて加えていたタバコを取り落した。


「お、お前さんたち、どこから……。島に上陸したんじゃなかったのか?」

「話は後。あんた、すぐに船を出しなさい!」


 ものすごい剣幕で迫る少女に、漁師は話がつかめずあたふたとする。


「す、すぐに船を出せって言ったって。さっきから島の方から変な音がしてるし、ほんとに何が起きてんだ? だいたい、お前さんらの父親も帰ってきてねぇし……」

「『父』は死にました」

「はぁ!?」


 真顔で言うシオンに、漁師は面食らって言葉を失う。しかし、シオンのその言葉は何よりも効果的だったらしい。危険地帯で親をなくした子供が逃げ帰ってきたのだと判断したのか、漁師は慌てながら操舵室へと駆け込んだ。


 ボートのエンジンがかかり、急発進する。

 操舵室内の手すりにしがみつきながら、次第に離れていく右ノ島の陸地を眺める。


「くっそ、割に合わねぇぞこんなの。あの旦那、大丈夫っつったじゃねぇか。何勝手に死んでるんだよ畜生」


 毒づきながら必死でボートを走らせる中年の漁師は、この後の保身を考えるので精一杯のようだった。進入禁止区域に人を運んだというだけでも重罪であるが、その上死人が出たとなれば隠蔽は難しい。事前にテオから支払われた報酬では割に合わないと思うだろう。この男の境遇には同情するが、今はこの中年の漁師を利用して陸地に戻るのが先決だ。


 シオンはちらりとアヤネの方を盗み見る。

 やはり体調が悪いのか、顔色は悪く、額に脂汗を浮かべて荒い呼吸を続けている。魔力を回して体調を整えようとしているようだが、あまり効果が出ているとは言えなかった。


(島からの追跡は今のところ無い。アヤの調子が悪いなら、僕が警戒をしないと)


 シオンは操舵室から半身を乗り出して外の様子を注視する。気を張り詰めて、周囲の情報密度の動きを監視する。少しでも異変があれば、すぐに防御の魔法を張れるように準備していた。


 しかし――脅威は得てして、警戒していない方面から襲ってくるものである。

 シオンにとって今一番の脅威はテオだった。だからこそ、離れていく右ノ島ばかりを警戒し、逃げる方角に対する注意は怠っていた。


「ん、なんだありゃ」


 ボートの操縦に集中していた漁師が、急に怪訝そうな声を上げた。声に釣られるようにして、シオンはちらりと進行方向に目を向ける。


 漁師がなんのことを言っているのかはすぐに分かった。

 水平線上に、戦艦のようなものが浮いているのだ。目視できる範囲なのでそれなりに近い距離ではあるはずだが、それは日本海の海域にはあまりに不釣り合いなものだった。


「おいおい、海自か? くそ、なんだってこんなところに。さすがにこりゃあ言い訳が聞かねぇか、畜生」


 悪態をつきながら、漁師は半ば諦め半分の表情を浮かべていた。憎まれ口こそ叩いているが、声色には微かに安堵の色がうかがえる。公権力が現れた以上、密航を隠すことは不可能になったが、安全は保証されたと考えていいだろう。


 しかし――彼に安全が訪れることは二度となかった。


「まあいい、これで助か――」


 次の瞬間。



 



 弾丸に破壊された強化ガラスは割れて飛び散り、操舵室内で暴れまわる。弾丸は操舵室を突き抜け、破壊音とともに外へと飛んでいく。

 操舵席に座る漁師は、顎から上が吹き飛ばされて力なく崩れ落ちた。脳漿とともに毒々しい赤色が飛び散り、室内をベッタリと鮮血が染め上げる。それらの現象が、妙にゆっくりと見えた。


 遅れて、銃撃の轟音が彼方の方角から届いた。


「狙撃……」


 まばたきほどの間に起きた出来事に、シオンは目を丸くする。


「追撃が来るわ! 伏せて!」


 バランスを崩して倒れそうになっているシオンに、アヤネが鋭い声を飛ばす。それとともに、彼女は操舵席の影に身を伏せようとする。


 が、その時。

 操縦者を失ったボートが、波に揺られて大きく跳ねた。


「え……」


 小さく息をこぼしながら、アヤネは態勢を崩してつんのめる。

 割れたフロントガラスの前に、アヤネの姿が無防備にさらされた。


「危ない!」


 思わず叫ぶが、今の衝撃でシオンはデッキの方に投げ出されかけていた。

 ボートの先端が浮き上がっている状態では、手すりを掴む手を少しでも緩めれば海に投げ出されかねない。シオンはアヤネの様子を見守ることしか出来なかった。


 そして、第二撃。

 衝撃波とともに、アンチマテリアルライフルの弾丸が飛来した。


「―――ッ!」


 音速を超える速度で迫る弾丸は、アヤネの頭部に命中する。


 強化ガラスすらも吹き飛ばす大口径の威力を生身で受ければ、銃創は原型を留めることはない。先の漁師と同じように、痛みを覚えるよりも先に脳が粉々に破壊される。


 だが――結果はそうはならなかった。

 激震とともに、銃弾が弾き返されたのだ。


 銃弾を頭で受けたアヤネは、そのままシオンの方に弾き飛ばされる。


「く、アヤ!」


 それを見たシオンは、しがみついていた手すりから手を離し、彼女を体ごと受け止める。二人はそのままデッキの方へと転がり込み、そして威力を殺しきれずに海へと投げ出された。


 またたく間に、二人は海の中に突き落とされる。


 荒れ狂う波に揉まれながら、シオンはアヤネを抱えて必死で水面へと顔を出す。


「がはっ、は、は、はっ!」


 操縦者を失ったボートは、その推進力を殺しきれずにあらぬ方に突き進んでいった。その余波で巻き起こった波が、容赦なくシオンたちを攻め立ててくる。

 シオンは決して離すまいと必死にアヤネを抱きかかえながら、身体強化の魔法を使って懸命に波間を泳ぐ。


 そして、なんとか海面が落ち着いた所で、アヤネに呼びかける。


「アヤ! 生きてるか!」

「……ごほっ。ど、怒鳴らなくても……聞こえるわ」


 アヤネはシオンにしがみついたまま、憔悴しきった様子でそう答えた。その首から上はしっかりと付いている。その首筋に巻きつけられた魔法デバイスにヒビが入っているのが見えた。


 アヤネはあえぐように酸素を取り込みながら、息も絶え絶えに言う。


「間一髪、だったわ……。『』が感知できなかったら、死んでた」


 反射術式『天網恢恢てんもうかいかい竹箆返しっぺがえし』


 シオンが開発した『敵意』に反応する呪詛。それに加えて、アヤネお得意の物理反射の術式を組み合わせた、受けた攻撃をそのまま相手に返す魔法式である。


 完全に威力を殺しきれなかったために弾き飛ばされてしまったが、肉体は無傷で済んでいるらしい。無論、その分は狙撃してきた正体不明の敵へと返されている。


 シオンは遠くに見える戦艦へと視線を向けながら、ポツリと呟く。


「……殺したのか」

「さあね。狙う余裕なんてなかったし、まっすぐに返しただけよ。でも――対物ライフルの弾丸なんて、身体のどこに当たっても結果は同じよ」


 なんの感慨も感じられない声色で言いながら、アヤネは咳き込みながら水を吐いた。


 波にもまれながら、シオンとアヤネは遥か彼方に浮かぶ戦艦を見る。ライフルの弾丸は戦艦の方から放たれていた。どんな目的があるかはわからないが、シオンたちにとって明確な危機がそこにあることは確かだ。


「ぐ……。ひとまず、島に戻ろう」

「賛成。ボートに気を取られているうちに行きましょう」


 島から離陸してすぐの出来事だったため、幸いそれほど距離は離れていない。一キロくらいの遠泳であれば、魔法の補助を行えばシオンたちには容易いことだ。


 問題は、アヤネの体力だった。

 島を離れる時から調子が悪そうだったが、見るからに体調が悪化している。顔から血の気が引いているのは、海に落とされたからだけではなく、純粋に体力が落ちているからのようだ。不調の原因が何かはわからないが、これ以上無理はさせられない。


「アヤ。抱えるぞ」


 シオンは海面から跳び上がると、足元を魔力で固めて海の上に立つ。そして、両手でアヤネを抱えると、了承を得る前に海の上を駆け出した。


「ちょっと、シオン! 自分でできるわよそれくらい」

「良いから、アヤは周囲を警戒しててくれ。今は僕一人のほうが速い」


 反射的に文句を言ったアヤネだが、正論で返されてすぐに黙り込む。緊急事態に置いて意地を張ることの無意味さをよく理解しているからこそ、彼女はすぐに周囲の警戒に入った。


 だが、その役目もすぐに終わることになる。

 シオンは身体強化を施した身体で、アヤネをお姫様抱っこして全力疾走する。その速度は時速三十キロ近くあり、一分もかからずに島の海岸近くまで来た。もうすぐ魔力を解いて地面に足をついても問題がないくらいの所である。


 その時、腕に抱えられたアヤネが目を見開いた。


「シオン! なにか来る!」


 それは海の方からだった。

 膨大な情報圧が存在そのものを飲み込むかのように迫ってきた。


 アヤネの忠告から一瞬遅れて、シオンはその威圧感に身をこわばらせて振り返った。


 ――いつの間にそこに居たのか。

 真後ろに、が立っていた。


「……な、っ」


 叫びそうになって息を呑んだ。

 こらえたのではない。あまりの情報密度に、息を止められたのだ。


 その人物は、黒塗りの牛の面で顔を隠した男だった。

 二メートルを超える体躯は人外を思わせるほどに引き締まっており、その肉体は黒い毛皮で作られた鎧で覆われている。微動だにしない巨躯は岸壁のようだが、唯一右腕巻かれた赤い布だけが風にたなびいていた。


 そいつはシオンと同じように両足で海面を踏みしめ、悠然と見下ろしていた。


「なん、で……」


 

 シオンはこの存在を知っている。


 それゆえに、動けない。アヤネを抱えたまま、シオンは食い下がるように牛の面の男を見上げる。シオンの倍近い身長の相手を前に、一歩も動くことが出来ない。かろうじて海の上に立つための魔力を回すので精一杯だった。


 本能的に、ソレが規格外の存在であることを察した。


 こいつを前にしては、テオでさえ大したことがないように感じる。それどころか、フローズン・マグマの氷結城を含め、これまで相手にしてきた霊子災害が無害に感じるほどに、この牛面の男は規格外だ。


 それもそのはず。

 少しでも魔法界に関わり、なおかつ世界情勢に知識がある者なら、この存在を知らないはずがないのだから。


「不穏な情報圧に駆けつけてみれば、まさか子供とはな。なぜこんなところにいる」


 男は意外そうに口を開く。

 牛の面で隠された表情は見えない。だが、声色から疑問を抱いている事がわかる。厳かな空気が微かに揺れ、わずかばかり動揺の雰囲気が伝わる。


 しかし――それも長くは続かなかった。


「理由を問うたところで、変わりはしないか」


 男が手を掲げると、そこに魔力が集まって戦斧となった。

 巨大な戦斧は、その一振りで大地を割りそうなほどの情報密度を宿していた。


「どうであれ、。せいぜい恨むが良い」

「く、っそ!」


 その段になって、ようやくシオンは足を動かした。


 ありったけの魔力を全身に駆け巡らせ、それをすべて海面に接する足へと集中させる。魔力を強引に噴出させて行う乱暴な跳躍。そのがむしゃらな魔力行使は、少しでも攻撃範囲から離れられれば良いと思ってのものだ。


 ――だが、それすらも、圧倒的な暴力の前には分が悪かった。


 振り下ろされた戦斧は、海を割り、大地を両断した。


 その暴威は五十メートル先の右ノ島の海岸にまで届く。地面はめくれ上がり、硬い岩盤が顔を出す。叩き割られた海の水が上空へと飛び上がり、数秒後には滝の雨となって降り注ぐ。


 その破壊の余波で、シオンは右足を切り落とされた。


 海水とともにシオンとアヤネは右ノ島の海岸へと叩きつけられる。常人であれば間違いなく即死する衝撃に、二人は目を白黒させる。少しでも魔力の操作を誤っていればその時点で生命はない。かろうじて意識を失わなかったのは僥倖だった。


 切断されたシオンの右足から、どくどくと血が流れる。どくどく、どくどく。止まらない。どくどく、どくどく、血圧が下がる。どくどく、どくどく。意識が遠くなる。どくどく、どくどく、視界がかすみ、暗くなる。


「ぁ、……ぐぁ、う」


 遠のきそうになる意識を懸命につなぎとめ、最低限の止血をして顔を上げる。

 ぼやける視界に、死が迫っていた。


「驚いた。手加減をしたつもりはなかったのだが」


 牛面の男が海岸に立って見下ろしていた。


 あぁ、知っている。

 このでたらめな膂力。地形すら変えてしまう破壊力を秘めたこの神霊は、現代に置いて最も強力なファントムの一体だ。


 世界魔導協定ワールド・マギア・アグリメント――通称WMA。霊子戦争中に設立された世界中の魔法技術を束ねる組織。

 そこには、セプタ・チュトラリーと呼ばれる、最高ランクであるハイエストランクのファントムが七体所属している。


 そのうちの一体。

 名を、蚩尤しゆう


 中国神話において、神の時代の終わりに立ちはだかった、最後の怪物の名である。



 ※ ※ ※



キョウ緋槭ヒシュク

 原始『蚩尤』

 因子『戦争』『武具』『反乱』『天候』『軍神』『霧』『炎』『牛』『悪霊』『異人』

 因子10 ハイエストランク

 霊具『蚩尤旗しゆうき

 ステータス

 筋力値A 耐久値A 敏捷値B 精神力B 魔法力C 顕在性C 神秘性B



 蚩尤。

 戦争のために様々な武具を作り出した兵主神。魑魅魍魎を駆使し、黄帝をあと一歩のところまで追い詰めた大魔神。神農の子孫にして、九黎の首領にして、史上初の反乱者にして――神代の怪物。

 それは、神話の一角を担う神霊である。


 その蚩尤を原始としたファントムが姜緋槭であり、WMAが保有する世界を守護する七体のファントム、セプタ・チュトラリーの一体である。


(さて。どうしたものか)


 そんな緋槭ヒシュクは、現在迷いを抱えていた。


 その迷いの元は、砂浜に倒れた二人の子供である。

 下手をするとまだ一桁くらいの年齢の児童二人は、傷だらけになりながらも、敵意を隠そうとせずにこちらに視線を向けている。


 牛面に顔を隠した緋槭は、仮面越しにしかめっ面をしながら淡々と自問する。


(私がここに来たのは、双葉列島の守衛戦艦からの救難信号と、火雷天神以外の強大な魔力反応を感知したからだ。だが、それはこの子どもたちではない)


 確かに目の前の児童たちは、年齢に似合わぬ実力を秘めているらしい。それは緋槭の一撃を受けきった時点で問わずとも分かる。本気ではなかったとはいえ、緋槭は確かに殺すつもりだったし、それに少年たちは本気で抗ったのを見ていた。立場が違えば、その技量に惜しみない賞賛を贈りたいほどだ。


 だが、緋槭が危機を覚えた存在は彼らではない。


(守衛艦がマークしたのはこの二人だろう。だが、他にも得体のしれない存在がいる。まさか異界人アウトフォーマーか? ゲートが開いたという情報は無いが)


 霊子戦争が終結してから二十五年、異界との通路は厳重に封印されている。一部では秘密裏に交流が持たれているが、仮に侵略出来るレベルの通路ができたときには、セプタ・チュトラリーがすぐに破壊する決まりになっている。


 となれば――この次元で発生したレイス、もしくは侵入したファントムであるというのが考えられる。この子どもたちの背後に見えない脅威が居る可能性は高い。


 そんな思索にふけっていると、不意に怒鳴るような念話が緋槭の脳内に響いた。


『おい緋槭! 黙り込んでどうした! 何か問題でも起きたのか?』


 念話の主は、数キロ離れた陸の基地にいるバディからだった。


 比良坂ひらさかシドウという名のそのバディは、WMAに所属する職員である。若干二十三歳という若さでセプタ・チュトラリーのバディに任命されたこの男は、短気なところもあるが有能な人間で、緋槭にとっては信頼に足るバディであった。


 シドウの急かすような声に、緋槭は素直に謝罪を口にした。


『済まない。今視界を共有する』


 緋槭は無駄口をたたくことなく、淡々と仮面越しに見えている視点をシドウにつなげる。


 シドウは目の前の児童二名を見て、怪訝そうな声を上げた。


『おい、なんでそいつらがこんな所にいるんだ?』

『……知り合いか?』

『面識はないが、最近よく名前を聞く神童って奴らだ。ガキとは思えないくらい魔法に精通してるって話だ』


 苦々しそうな感情を隠そうともせず、シドウは言う。どうやらこの神童と呼ばれる子どもたちに思うところがあるらしい。


『ちょっと前に霊学協会と派手にトラブったって聞いてからは、しばらく音沙汰がなかったんだが、それがなんでここに居るんだ』


 シドウの疑問を聞きながら、緋槭は冷ややかに子どもたちを見下ろす。

 これで目の前の児童の身元は分かったわけだが、しかし目的はまだ不透明なままだ。


『魔法界で名が通っているのであれば、一廉の実力があるということか。ならば、加減をするべきではないな』

『おいバカ。あんたが加減しなくなったら地形が変わるっての』

『ではどうする? この島に入った以上、捨て置くわけにはいかんぞ。連れ帰るにはかなり面倒な手続きがいる。それより、不法侵入ということで始末した方が早いと私は思うが』

『……あんた、口調は思慮深そうだけど実際は結構な脳筋だよな。でも今回に関しちゃ異論はねぇわ。守衛艦の方には怪我人も出てるようだし、現時点で内乱罪か共謀罪辺りの適用範囲だ。こいつらが何企んでるかわからないけど、長引かせるのはまずい』

『ではそうする』


 バディからの許可が出たので、緋槭はすぐに攻撃行動に移った。


 手に握った戦斧はいつしか大戟たいげきに変わっていた。多数の武具の生みの親とされる蚩尤は、あらゆる武器を生成し、使いこなすことが出来る。

 今度こそは殺し損なわないよう、的確に力を込め、一撃で命を破壊する。


(シドウは『神童』と言ったが、この年齢だ。おそらく誰かに操られているというのが妥当だろう。だが――それは、酌量する理由にはならん)


 子供を殺すのは気分が良くないが、それでためらうような感性は緋槭の中にはない。


 霊子戦争後半に召喚され、現代までこの次元を守護する役目を与えられた彼は、いくつもの命を切り捨て、その何倍もの命を救ってきた。


 それこそが、セプタ・チュトラリーの第三席『蚩尤』。

 自身の元となった怪物がかつて反乱を起こした時のように、彼は組織を守るために戦う。


「一度は防げたかもしれないが、二度目はない」


 まずは片足を失った少年から。

 感傷も感慨もなく、ただ目的を遂行するためだけに、緋槭は大戟を突き刺した。


 その時だった。



。『蚩尤』」



 突如、上空からとんでもない質量のメイスが振り下ろされた。


 巨大な棍棒を振り下ろしたのは、筋骨隆々の偉丈夫だった。

 彼はまるで虚空から湧き出たかのように真上に現れると、緋槭の攻撃に割って入った。その男が振り下ろしたメイスは緋槭の大戟を叩き折り、そのまま海岸に巨大なクレーターを作った。


 不意打ちに目を丸くした緋槭は、慌ててその男に目をやり、そして――目を見開いた。


「な、お前は――」


 息を呑んだ緋槭に対して、男は間髪入れずにメイスを振り回す。

 胴体を叩き割られそうになった緋槭は、慌てて大戟を生成するが、作る端から破壊されていく。


 五合ほど打ち合い、緋槭が大きく距離を取ったところで、乱入者は攻撃の手を止めてその場に仁王立ちする。

 その様子は、まるで神童たちを守ろうとしているかのようだ。


『な、なんだ! どうした、何があったんだ緋槭!』


 視界を共有していたシドウが、目まぐるしい戦闘に視点を追いつかせることが出来ず、目を回しながら必死で尋ねる。しかし、緋槭にはそれに答える余裕がなかった。


 目の前の男を正面から見据える。

 緋槭ほどではないが、かなりの上背がある巨漢だ。乱雑に整えられた髪とヒゲはつながっており、野生の獣そのものの雄々しさを感じる。ボロボロの白衣を身にまとったその出で立ちはあまりに自然で、だからこそ緋槭にとっては意外だった。


 知っている。

 この男を緋槭は知っていた。それ故に、記憶との差異に戸惑いを隠せなかった。


「き、貴様は……レイウォン、なのか」

「おうよ。久しぶりだな、緋槭」


 レイウォンと呼ばれたその男は、身の丈ほどもあるメイスを軽々と振り回して肩に担ぎながら答えた。衝撃を受けている緋槭と対象的に、その様子には余裕がある。


 彼は油断なく緋槭と対峙しながらも、ちらりと背後を見やる。

 そこには、右足を無くした少年と、熱に浮かされる少女の姿がある。


「おい、坊主に嬢ちゃん。とっとと逃げな」

「……ッ!」


 その言葉に弾かれるように、熱で顔を赤くした少女が行動を起こした。


 彼女は足をなくした少年を抱えあげると、全身の魔力を励起させる。尋常でない魔力を出し惜しみなく使い切り、彼女はまるで大砲にでも打ち出されたかのように地面を蹴ると、百メートル以上先の林へと飛んでいった。


 それを見送りながら、謎の男、レイウォンは満足そうに口角を上げる。


「間一髪、ってとこか。悪いな、緋槭。手前勝手の事情だがよ、今あの二人に死なれると、ちと困るんだ。横槍させてもらった」

「……死んだと聞いて半信半疑だったが。やはり生きていたのか、レイウォン」


 悪びれずに言うレイウォンを前に、緋槭はにらみながら苦々しそうに言った。


 すでに緋槭の意識は、神童二人から目の前の乱入者へと移っている。

 緋槭は手に戦斧を生成してまっすぐに構えると、剣呑とした空気を隠そうともせずに言う。


「やはりファントム化していたのか。あきほと違って、貴様は成功したのだな」

「成功かって言われると微妙だけどな。緋槭の方は、随分と出世したらしいじゃねぇか。トキノエ計画の関係者はほとんどが戦犯として処分されたって聞いたぜ。それからしたらうまくやったもんだな」

「私は召喚されただけだからな。だが、計画の中心だった貴様は、無事だったら今頃塀の中だ」

「は! そりゃ良いご身分だこった」


 旧知の仲ゆえの気安さと、敵対しているがゆえの緊張感が入り混じった奇妙な空気が流れる。探るような会話の中には、互いにかつての相手を確認するような気配があった。


『無視すんな、緋槭! そいつはなんだ!? お前の知り合いなのか!?』

『シドウ、すまない。説明は後でする』


 今はバディに説明している余裕はなかった。


 なにせ、目の前にいるのは二十五年前に終結した霊子戦争の生き残りだ。それだけではない。彼はこの双葉列島にあった軍事施設の研究員だった男だ。それが今、目の前に現れた。その事実だけでも警戒に値する。


「今更何をしに来た。この島の機能は、あきほのレイス化とともに停止している」

「古巣に里帰りする以上に説明することがあるかい? 蚩尤の旦那よ」

「トキノエ計画の関係者がこの災厄の島に来たのだ。説明義務はある。それに、今逃した子どもたちの件もある。あれはお前の関係者か?」

「いや。知らねぇ赤の他人だぜ」


 肩をすくめながら、レイウォンはヘラヘラと笑いながら言う。


「事情があってね。見つけたのはたまたまだが、こんな千載一遇のチャンスを逃すわけには行かねぇんだよ。なんせ、こちとら二十五年待ったんだからな」

「二十五年、か」


 緋槭は戦斧を握る手に力を入れる。

 いつでも振るえるように準備されたその武器からは、おびただしいほどの情報圧が漏れている。


「貴様が何を企んでいるかは知らんが、二十五年間待ち続けたのはこちらも同じだ。この災厄が広がらぬことを祈って、いつか根絶できる日を待ち続けた。それが、まだ人間だった頃のあきほとの約束だったからだ」

「それを俺が出来ると言ったら、信用するか?」

「出来るわけがない。お前は元凶だ。それを放置することがどれほど危険か身にしみている」

「だろうな」


 わかりきっていた答えに、レイウォンはあっさりとうなずく。そして、肩に担いでいたメイスを構えると、正面から向かい合った。


「なら、あとは力づくだ。押し通らせてもらうぜ、蚩尤の旦那」

「話が早い。如何に人間をやめようと、たやすく超えられると思うなよ、レイウォン!」


 啖呵を切りあって、二人は激突した。


 手に持った大型の武器は一撃を振るうたびに衝撃波を撒き散らす。地響きを鳴らしながら、二人の化け物は互いの命を削りあった。


 それは、かつて同じ目的を見ていた者同士が、過去を取り戻すかのような殺し合いだった。



 ※ ※ ※



 謎の男に助けられて、アヤネとシオンは命からがら逃げ出した。


 数キロ離れた海岸では、今なお戦闘音が響いている。

 空気が震え、大地が割れ、海水が空へ舞い上がる。地形が変わるほどの荒々しい戦闘は、それが人外同士の殺し合いであることの証左でもあった。


 その戦闘を背に、アヤネは右ノ島の西側に広がる小さな森へと逃げ込んだ。そこは木々が鬱蒼と茂っていて、身を隠すにはちょうどよかった。


 森の半ばまで来て魔力が尽きたアヤネは、抱えていたシオンを放り出すようにしてその場に倒れ込んだ。


「が、は、はぁ、はぁ、はぁ……!」


 逃げなければ死ぬと思って必死だったが、もとより熱で体力が落ちていて限界だった。うまく呼吸が出来ずに吐きそうになりながら、アヤネは身を捩らせて苦しむ。


 そんな彼女のもとに、地面に投げ出されたシオンが駆け寄る。

 右足は止血が済み、これ以上の出血はなくなった。彼は魔力で義足を編むと、すぐにアヤネの容態を見る。


「お前、これ……」


 アヤネの皮膚に、禍々しい発疹が浮かび上がっていた。

 それはぐじゅぐじゅと膿んだように腫れ上がっており、全身に広がっている。明らかに何らかのウイルスに感染しているのが分かる。


 ぜぇ、ぜぇと荒い息を繰り返しながら、アヤネはかすれるような声で言う。


「たぶん、カラミティ・ジェイルに、接触したから、ね。はぁ、はぁ……何の伝染病か、わからないけど……潜伏期間なしなんて、さすがレイス。とんでもない」


 簡単な病気ならば魔力で免疫を上げれば回復出来るが、これはレイスの魔力がこもった伝染病だ。元となる伝染病さえ特定できれば、魔法式を組んで治癒することも出来るが、発疹が出来る病気などいくつもある。それらを一つ一つ検証していく間に、アヤネの体力が尽きてしまうだろう。


 それに、如何に神童と呼ばれる二人でも、何でも知っているわけではない。とりわけ医療関係は勉強中であり、的確な対処ができるとは言えなかった。


(くそ、考えることが多すぎる)


 どうする。と考えながら、シオンはアヤネに魔力を送り続ける。今は少しでもアヤネの体力を回復させなければならない。どんな病気でも、体力がなければ完治しない。


(カラミティ・ジェイルにテオ。戦艦からの狙撃に、牛面のファントム。そして、割って入ってきた謎の男。わけがわからない。この島で何が起きてるんだ)


 一つだけ確かなのは、シオンとアヤネは、知らぬうちに面倒事に巻き込まれて居ながら、未だ蚊帳の外であるということだ。


 シオンが必死にアヤネへと魔力を送っていると、不意に周囲が震撼するのを感じた。

 直後、後ろから声をかけられる。


「そいつは天然痘てんねんとうだぜ、坊主」


 ハッとして振り返ると、そこにはついさっき助けに割って入ってきた大男が立っていた。


 海岸で響いていた戦闘音はいつの間にか聞こえなくなっていた。どういった決着がついたのかは不明だが、彼がここにいるということは、戦いは終わったのだろう。


「よう。なんとか無事だったみたいで良かったぜ」


 口元を覆うヒゲをさすりながら、男は面白いものでも見るような目を向けてくる。


 それに対して、シオンは励起させていた魔力の方向性を瞬時に変えて、攻撃に転じられるよう魔法式を組む。そんな彼の様子を見て、男は苦笑いをしながら両手を上げてみせた。


「よせよせ。俺に敵対の意思はねぇ。ただお前らを助けたいだけだ」

「……少し前にも、同じことを言って僕らを騙そうとしたファントムが居た」

「へぇ、そりゃふてぇ野郎が居たもんだ。どこのどいつか教えてみ? 俺が敵討ちしてやるぜ」


 とぼけたような口調で軽口を叩く大男。


 誰の目から見ても怪しさ満点だったが、しかしテオの時に比べると胡散臭さはそれほどなかった。どちらかと言えば、この男なりの場を和ます冗談のようである。それがうまいかどうかは別として、彼の言う通り敵対の意思は感じられない。


 シオンはアヤネをかばうように前に立ちながら、交渉のために口を開く。


「あんた、何者だ」

「俺か? 俺は、『風神』だ」


 その名を誇るように、男は名乗った。


「本名で言うなら、昔はフォウ・レイウォンと名乗ってた。ちと出自は複雑だが、ファントムと思ってもらえばいい。ああ、お前らの自己紹介はいらないぜ。アヤネ・フィジィにシオン・コンセプト。最近、あちこちで神童の話は聞いてるよ」

「……そりゃどうも」


 疲労で思考力が落ち始めているが、頭をフル回転させて目の前のファントムに立ち向かう。


 相手が何を考えているのか。そして、アヤネが生き残るために何を聞くべきなのか。

 擦り切れそうになる意識を懸命につなぎとめながら、シオンは尋ねる。


「今、『天然痘』って言ったな。それは本当か?」

「嘘を言う理由がない。そこの嬢ちゃんが患っているのは、正真正銘、天然痘だ。潜伏期間もなく発症したのは、カラミティ・ジェイルの情報密度の高さ故だろう。まだ発症して間もないが、体力次第ではすぐに死ぬぞ、その子」


 よほどの根拠があるのか、レイウォンは断言するようにそう言った。


 天然痘。

 疱瘡ほうそう痘瘡とうそうとも呼ばれるこの病気は、有史以来、数え切れぬほど幾度となく人類を脅威に陥れた伝染病である。

 非常に強い感染力を持ち、感染した者は全身の皮膚に膿んだような発疹が現れる。致死率も非常に高く、仮に死なずに済んでも、皮膚にはアバタと呼ばれる傷跡が残ることになる。


 そんな天然痘であるが、この病気にはもっと有名な事実がある。

 まだ医療関係は勉強中のシオンでも、それは知識として知っている。


「そんなはずはない。だって、天然痘は百五十年も前に撲滅されたはずだ。なんでアヤがそんな病気にかかってるんだ」


 それは、少しでも伝染病について調べたことがあれば誰もが知っている事実。

 天然痘は、人類が史上初めて撲滅に成功した感染症なのだ。


 1977年にソマリアで発症者が出たのを最後に、天然痘の患者は観測されていない。自然界からも天然痘ウイルスは根絶されたとして、一部の研究機関以外ではウイルスの観測すら不可能となっているはずだった。


「仮に天然痘を操るのがレイスの能力だったとしても、現実で根絶されている以上、神秘性が足りなくて大した影響力は持てないはずだ。解呪するまでもなく、より大きな情報密度をぶつけるだけで簡単に相殺できる。それくらいならもう試した」

「ほう。噂には聞いていたが、年の割によく頭が回るな」


 シオンの疑問に、レイウォンは感心したように目を丸くする。


 実際シオンの言う通り、現実で影響力を持てなくなった事象は、神秘としての強度もたかが知れている。神秘性と顕在性にはある程度の因果関係があり、どちらかが極端に低いと、情報密度は薄くなり、魔法現象は簡単に破壊される。


 だが――それはあくまで前提の話だ。


「結構なことだ。それだけ自力で疑問点が思い浮かぶなら、こう言えば理解できるだろう。――撲滅され、感染の可能性がなくなったからこそ神秘性が薄れた。なら、感染の可能性がわずかでもあれば、神秘としての強度は十分にならないか?」

「……それ、は」


 瞬時には理解できなかった。


 固定観念が思考を邪魔する。撲滅された病原菌がどうやって復活するのか。人類が知らない病原菌の発生方法があるのか。そんな、遠回りな考えを進めてしまう。


 それに対して即座に答えたのは、シオンの後ろで苦しんでいるアヤネだった。


「――病原菌の保菌者」


 的はずれな思考を進めていたシオンに対して、アヤネの考察はシンプルだった。


 どんなに不可思議な出来事であっても、そこに理屈が通るのであれば、アヤネはすぐさまそれを追求できる。事実として天然痘の感染が起きるのであれば、そこには病原菌をばらまく存在があるはずだった。


「天然痘に感染した人物がレイスとなった。病原菌を保菌していて、周囲に伝染させる可能性のある人物。それが答えでしょ」

「ああ、正解だ」


 レイウォンは右手を広げてみせると、そこにはアンプルが握られていた。


 注射針と一緒にアンプルを投げてよこす。それは操作された風にのって、ゆっくりとアヤネの目の前に落ちた。


「天然痘のワクチンだ。そいつさえ打てば、あとはお前らの実力なら魔力操作だけで自然治癒できるはずだ。おっと、坊主も一応打っとけ。抗体さえあればそうそう感染もしない。どんなに神秘的に強力になっていたとしても、一度撲滅されたという事実に変わりはないからな」

「……これが本当にワクチンだって信じると思うか?」

「なんだよ疑り深ぇな」


 警戒心に満ちたシオンの目つきに、レイウォンは苦笑する。


「なら、これならどうだ?」


 仕方ないなぁとぼやきながらレイウォンはゆっくりと近づくとシオンの前でしゃがみ込む。


 そして、シオンの右足へと手を触れた。

 蚩尤にやられて切断され、今は魔力で義足を作っている右足。


 それが、レイウォンが触れた途端、


「な……」


 突然のことに驚いて、シオンはバランスを崩して尻餅をつく。そんな彼を見ながら、レイウォンはしゃがみこんだまま愉快そうに笑った。


「今のは俺の中の『医神』の力だ。慣れないから、こんだけでもう魔力はスッカラカンだけどな。おかげで、野良ファントムの俺は、もう少しで実体化が解けそうだ」

「……さっきは、風神って名乗ってなかったか?」

「ははは! ああ、その通りだぜ。他にも、『軍神』だとか『法律神』とも言われるけどな。ま、風神が一番相性はいいから、俺としちゃそっちの呼び方をおすすめするぜ」


 どこまで本気で言っているのか。


 適当なことを言っているようで、彼の目は真剣そのものだ。読心の魔法を軽く働かせても、弾かれることなくあっさりと心の内をさらけ出してくる。テオと違って、まるで隠し事をする様子がない。


 嘘は言っていない。

 それが逆に怪しい、などと言い始めるときりがない。どうしたものかとシオンが迷いを抱えた時、やはり決定を下したのはアヤネだった。


「それで? アンタの目的は何?」


 彼女は渡されたアンプルをためらいなく腕に刺すと、レイウォンを見返しながら言った。


「これだけのことをしてくれて、交換条件が無いなんて言わないわよね? 怪しくないと言うなら、さっさと見返りを要求しなさい」

「おうおう。こりゃとんだ跳ねっ返りだな。ま、それくらい真っ直ぐな方が、俺としてもやりやすいがね」


 気分良さそうにそう言って、レイウォンは立ち上がりながら言った。


「俺は見ての通り野良ファントムでね。連続活動時間に限界がある。だから、バディが欲しい」

「協力しろっての? 従属しろって話ならお断りだけど」

「魔力電池にしようだなんてつもりはねぇさ。もちろん、お前らにも利があるように要望があれば聞いてやる。その代わり、俺の目的に付き合ってくれ」


 目的。

 レイウォンはそう口にして、不意に背後を見やった。


 後ろには森の木々が生い茂っていたが、彼が目を向けたのはきっとその向こうにある左橋島だろう。そこにいるであろうレイスを見ながら、彼は言った。



「カラミティ・ジェイルの火雷天神を倒したい。そのために協力をしてくれ」



 風神を名乗るファントムからのその依頼によって、神童たちの目的は振り出しに戻った。



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