君と、八月のみんなボイジャー


夏の気配のする雨を聞いていた

その向こうから、八月は帰ってきた

もう何年経ったのかもわからない、

八月、その夜のスキー場の斜面


林間学校の宿舎を抜け出して、

星を見に行こう、そう言ったのは

すこし悪戯な微笑みを湛えて

僕のベッドに潜り込んできた君


僕たちはあの夜、共犯者だった

足もとの夜つゆと草のにおいと

おそろしい静けさのうそ寒い夜を

僕たちは二人して声を張り上げて

恐怖を掻き消して、斜面を目指した

君が持ってきた懐中電灯ひとつが

僕たちの頼りない道しるべだった


もう何年も前に潰れた、

スキー場の跡地の斜面には

リフトの残骸が傾いて立っていた

君が斜面に向かって照らすと

鉄塔は頂上へ向かって続いていて、

まるで人類滅亡後の世界みたいな

錆びた塔の列は、闇に消えていた


僕たちは斜面を少し登ると

背中が濡れるのも気にしないで

傾いた草原にごろんと寝ころんだ

僕たちはそれから、何も言わなかった

高原の星は嘘のように輝いて

僕はあの空に落ちていくんだと思った



僕は体の感覚が消えていって

つま先からあの空へ融け出していくように

だんだんと浮遊していくのを感じた

隣にいるはずの君の呼吸が

少しずつ聞こえなくなっていくような気がした


僕はいつか読んだ本に出てきた

銀河鉄道に乗って夜の底の真っ黒い穴へ

ジョバンニの届かない銀河の向こうへ

君が行ってしまったんじゃないかと、

不安とおそろしさが背中からやってきて

隣に、君の気配を探していた


すると、君は突然声を上げて、

あれが木星、と言ったんだったね

いちめんの星空の僕の視界には

伸ばした君の右腕があらわれて

僕は君がそこにいるとわかって

そんなこと、当たり前なんだけど、

ひどく安心したのを覚えている


僕たちはそれから、ぽつぽつと話をして

あの星はなんだっけ、アンドロメダはあれだっけ

そんな風にして天体を指差した

だけど、僕も君もまだあの時には

白鳥座とオリオン座くらいしか知らなかったから

指し示す明るい星はすべて、

みんな木星だということになったんだ


あれは赤木星、あれが青木星、

あの少し暗いのが金木星、それから

あっちがきっと本物の木星

僕たちが指を空に向けるたび

夜空には木星が増えていった


そして明るい星がみんな木星になったころ

僕たちはまた二人、無言に戻った


君の右側に寝ころんだ僕は

君が草の上にそっと置いた右手を

左手の少し先に感じていた

そのたった数センチの小指の距離を

僕は天文学的な秒数をかけながら

少しずつ近づけようと努力してみた

触れるか、触れないかの微妙な距離は

その先に、たしかに感じる気配は

余りにも遠くて、触れてしまっては

いけないような気さえしていた

でも僕は、君が消えてしまわないように

君に少しだけ、触れていたかった


僕が少しずつ小指を伸ばすたび

空には木星がどんどん増えた

明るい星はもうみんな、木星になったはずなのに

どうしてか目に映る天体はつぎつぎに

まだ名前のない木星になっていった


そして空の星のすべてが木星になって

その光に感覚を失いそうになったとき

僕は遠い外惑星への航行を果たした

僕は君の指先を感じて、

でもそれだけで、何もできなくて、

君の方さえ見ることも出来ずに、

ただ木星だらけの空を見ていた


すると、触れていた君の指先が消えて

あ、やっぱり嫌だったかな、ごめんね。

そう思って、切なさがこみ上げてきたとき

君はそっと、僕の小指を握った

僕は、君の方を見なかったけれど

君はきっと、悪戯に微笑んでいただろう



それからまた、僕たちは星を眺めていて

もうどのくらい時間が経ったのかも忘れて

何も言わないまま、ただ空を見上げて

木星だらけの空にひたっていた

僕の体の感覚はもうなくて、

それでも指先の鼓動だけは感じて、

小さく脈打っている僕の指先と、

少し冷たくなった君の指先だけが、

この宇宙に、感覚として残されていた





その夜の、二人だけの木星の空は

僕たちしか知らない秘密の空だった

脱出と冒険のあの夜の出来事を

僕たちは互いに、誰にも秘密で

次の日も、それからずっとその後も

そんな夜なんてなかったかのように

ただの友人であるように振る舞った



そして時が経ち、僕たちは別々の道を選び

君は小さな画面越しの文字になった

ケータイを見る癖のない君からの返信は

いつも往復二十四時間の

惑星間通信のような距離だった


僕は君がいつも木星のあたりにいて

あの夜の悪戯な微笑みを浮かべながら

木星の衛星に基地を作ってみたり

土星の輪の上を滑り降りてみたり

時々、気まぐれに通信を返してみる

そんな気がして、待つ時のもどかしさは

どうしてか少し、楽しくもあった


だが君は、木星にさえ飽きてしまったのか

どんどん外惑星の方へ漂って行って

今日は天王星、明日は海王星と

遠くとおくへ離れていった


そうして、受験生になった年のある日

ケータイを解約します。ごめんね。

でもときどきは、パソコンから打つからね。

その日、君は系外惑星へと

長い航行を開始したのだった

それは、ちょうどあのボイジャーが

太陽圏外へと到達した、夏の終わり

小さなニュースを知った夜のことだった


ボイジャーは、最後に太陽系を振り返って

無数の星々のひとつになった太陽や地球やを

カメラに記録して、地球へと送信したあとで

もう二度と振り返ることはしなかった





僕はこの雨に、五月の夜の雲に紛れて

乱反射した宇宙からの電波が

ひとつの美しい波長に収束して

再び声を届けるのを待っている


きっと僕はまた、八月が訪れたら

高原に木星の星空を求めて

ひとりあの夜を探して歩くだろう

旅立ったボイジャーの航跡を探して

夜空の底の真っ黒い穴の

彼方へと到達した、君の微笑みを探して

ひとりまた、草原に寝ころんでみるだろう

その指には、もうあの小さな鼓動はなく

指先を濡らす夜つゆのつめたさと

つん、と鼻をつく青草のにおいに

もう木星じゃなくなった天体を指差して

覚えてしまった星の名を呟くだろう


君と、八月のみんな木星は

宇宙の果てを目指すボイジャーの航跡を

追いかけて、僕の届かない彼方へと

此処ではない、遠いとおい何処かへと

どこまでもどこまでも、飛んでいくだろう

もう振り返ることのないボイジャーは

いつか地球への電波が届かなくなった後も

真っ暗な、おそろしい静寂の空間を

どこまでもどこまでも、旅をするだろう


僕はまだ、地球さえ出られずに

あの遠い空間の何処かに

まだ君がいることだけを信じて

いつまでも空を眺めるだろう


そして白んできた夜明けの空に

もう君がいないことを知るだろう


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