第20話 残り3話
翌朝、目覚めてすぐ、携帯を見ると、珍しく明美からメールが届いていた。
「作業完了報告 富樫明伸氏の現在の口座残高
『9,999,999,999,999,999,999,999,999,999,999,999,999,999,999,999,999,999,999,999,999,999,999,999,999,999,999,999,999,999,999,999,999,999円』 死ぬまでに使いきってね!」
というメッセージと、証拠として作業画面の写真が添付してある。
改めて見ると、恐ろしい数字の並びだ。なんだろう、この気持ちは。特に喜びも感じない。たいていの人間は、六億程度の宝くじが当たった程度で、大喜びするではないか。私も五億円を手に入れたときは、世界が一変するほど喜んだ。
しかし、なぜ私は、史上最大の金持ちになったのに、これといった実感がないのだろう。それは、金額そのものにリアリティがないせいなのか。だが、これは紛れもない現実の出来事だ。この途轍もない財産で、私は何をすればいいのだろう。特に欲しいものはなかったが、人生には限りがある。早く使わないと、巨額の遺産を遺して死ぬだけだ。
よく一万円札を何枚積んだら、富士山と同じ高さになるかというクイズがあるが、私の資産を一万円札で積み上げると、大雑把にいって、宇宙の端から端までの十の61乗倍に相当する。十の61乗は十那由他という単位で表現できる。まとめると、私の金融資産は、一万円札を、宇宙が十那由他個並んだ距離に積み上げただけある…………何て、何て、何て、大金持ちなんだ!!!
人生は二十億秒程度しかない。私の残りの人生を五十年と仮定するなら、およそ十五億秒。明美のいうように残りの人生で全額使い切るには、一秒当たりおよそ7×十の90乗円ずつ使う必要がある。
世界中のすべての国のGDP(国内総生産)の合計が、十の16乗円以下なので、毎秒、世界経済を十の75乗個ずつ購入すればいい。
簡単にいうと、私は人生が終わるまで、一秒当たり、地球上のすべての経済活動を十の75乗個ずつ買い続けていけば、資産を使い切れるということだ…………何て、何て、何て、大金持ちなんだ!!!
いけない。頭がおかしくなりそうだ。
どうにかして頭を冷やす必要がある。とりあえず街へ出るか。私は玉井を誘って、車で西之表までドライブに行くことにした。
入社してすぐローンで購入した三百万の四輪駆動では、今の私に似合わない。だが、私にふさわしい車はこの世に存在しないから仕方がない。車体が全て天然ダイアモンドでできていたとしても、私に較ぶべくもない。なにしろ宇宙の全資源はこのグーゴル富樫のものだから。
市街地に着くと、政府銀行種子島支店に出かけ、白線を無視してわざと三台分のスペースを占めるように車を駐めた。威風堂々と入店すると、カウンターまでわざわざ自分の足で歩き、そこにいた女子行員に、
「支店長を呼んでいただけますかな?」と、丁重かつ威厳を持ってお願いした。
彼女は上司を呼ぶかわりに、
「どんなご用件ですか?」と聞いてきた。
「ATMの増設をお願いしたいんですが」
無尽蔵の資産を手にいれたので、今後はいちいちATMまで出かけるのが面倒になるはずだ。
「今、どちらにお住まいですか?」
「坂井のはずれ、熊野海水浴場の近くです」
「あそこにはたしか二台設置されてますので、これ以上は必要ないと思いますが」
彼女のいうとおり、あの付近は人も少なくて二台で充分だ。
「そうではなくて、私の家の中にATMを設置していただきたいのです」
「すいません。ご要望にお応えすることはできかねます」
彼女はあきれたようにいった。
「設置費用はこちらで負担します」
「申し訳ございませんが、ATMの設置は当行の負担になりますので、お客様から費用をいただくわけにはいきません」
彼女は困ったようにそういった。
隣にいた玉井は、「すいません。もういいです。ほら、帰るぞ」といって、私を外に連れ出した。そして、
「何考えてるんだ。ATMなら三百メートルも歩けばいいじゃないか」と怒った。
「その三百メートルが今の私には遙かな万里に思えるんだ。できればリビングでソファに座ってATMを操作したい」
「昨日からなんかおかしいぞ」
誰だって百桁の資産を手に入れればおかしくはなる。そうだ、せっかく銀行まで来たのだ。新カードにチャージしよう。
「IDに入金してくる」といって、私達は銀行の中に戻った。
現金をほとんど扱わない種子島支店は、地方銀行時代と比べて大幅に改装され、ATMは十台もある。高さの低い子供用や、老人や病人用に椅子に座って操作できる台もあり、私はそこに腰を下ろした。
健康な若者が使用しているのを見た他の利用者達からは、不良に思われていることだろう。しかし、私はすでに立ったままATMを使うような階級の人間ではない。死ぬまで立ち食いそばやに立ち寄ることもない。できれば専任コンシェルジュ付きで、金銀財宝で装飾をした専用ATMを用意していただきたい。
さて、超富豪IDカードのほうだが、スロットに差し込むと、次のように表示された。
月間支出総額 0
IDカード残高 0
現在の口座残高 482,500
月次調整額 0
このような場合、IDカードには482,500円までしか入金できないが、私は入金上限一千万でトライしてみた。すると、
月間支出総額 0
IDカード残高 10,000,000
現在の口座残高 482,500
月次調整額 0
と、ATMに表示される口座残高のほうは前と変わっていないのに、まるで虚空より富が舞い降りてきたかのように、IDに一千万円がチャージされているではないか。一グーゴル円はおとぎ話の世界だが、一千万円はリアルな感覚を呼び起こす。百桁の数字に反応しなかった私は、たかが八桁にすぎない一千万円のIDカード残高の数字を見て、喜びで口元をゆるめてしまった。
心に余裕ができたせいか、頭も冴え渡ってきて、おもしろい遊びを思いついた。私は玉井の口座に一千万円振り込むと、
「いま君の口座に一千万振り込んだから、カードにそれだけ入金して」
といって、彼をATMに向かわせた。
「はあ?」
彼は、私が何をいっているのかわからないようだった。
「簡単にいうと、君にこれから一千万円の買い物をしてもらうため、君のカードに入金したいんだけど、それにはどうしても君の生体情報が必要だから、自分でやってということ」
現金のないこの島では、金を使うのが手間だ。
「一千万ってどういうこと?」
一千万は、今の私にとってはミクロの数値だが、これまでに彼の稼いだ総額を超えるかもしれない。
「もしかしておまえ……」ついに気づかれてしまったか。「宝くじでも当たったのか」
私の聞き違いでなければ、彼はそういった。宝くじ……たしかにこの世の中にはそういうものも存在しているが、万が一の確率で当選したとしても、今の私にとっては夕食のスープにもやしが入っていたかいなかったか程度のどうでもいいことだった。しかし、説明が面倒だから、彼に話を合わせた。
「ああ、そうだよ」
「え!!!」
彼は、ただでさえ大きな目を一杯に見開き、後ずさった。
「すげえな」
何がすごいのか、今の私にはちっともわからない。
「いくら?」
「六億ほど」
私は、微々たる金額を淡々と答えた。
「六億円???」
彼は、驚きのあまりその場に立っていられなくなり、椅子装備ATMの椅子に崩れるように腰掛けた。
「嘘だろ」
「それで、島おこしボランティアとしては、島内経済活性化のため、総額二千万円を市街地に流すことにした。先に一千万円使ったほうが勝ち」
この島で暮らすようになってから、玉井も金銭感覚が多少はおかしくなっているようで、
「まあ、それも悪くはないな。いいよ、俺も参加する。けど、余った金は俺のものだからな」
と、私の突拍子もない提案を淡々と受け入れた。
「金を残すため、わざと負けないでくれよ」
「俺が金で汚いことしたことあるか?」
少し怒らせたようだ。
ゲームは、西之表市内で先にIDカードの一千万円を使い切ったほうが勝ち。商品を購入する場合は予約は不可、その場に在庫があるものに限る。本土企業の系列店は除外。レシートなど証拠はとっておくこと。正午開始。どちらか片方でも一千万円に到達すればその時点で終了。そうでない場合、夕方六時をタイムリミットとし、その時点での使用総額で勝敗をつける。
一千万円くらい一瞬で無くなるという、都会育ちのあなた。一度、種子島に来てみるといい。平日の昼間にここで一千万円使うということが、どれだけ骨の折れることか思い知ることになる。参考までに、平成十四年度の西之表の一般商店の店舗数およそ三百、商品手持ち額合計がおよそ二十億。二十億の1%の二千万を二人で使い切り、商店街を活性化させるのだ。
スタート地点は、政銀種子島支店前。正午ジャスト、ゲームは始まった。
開始早々、玉井は隣の書店に入っていった。ゲームを無視して、立ち読みでもするつもりか。かくいう私も身だしなみを整えようと、前の理髪店に入ってしまい、たかだか数千円の出費のために貴重な時間を無駄にした。しかし、髪をカットしてもらっている間に攻略法を思いついた。このゲームは物量が鍵となる。荷物を大量に運ぶ大きな器が必要だと気づいた。
そこでまず、国道五八号線を南に走り、スーパーに入った。そこでは他の商店にさきがけて新型端末を導入していた。これまでは、販売店のレジで集計した結果をさらにTEN端末に入力するので二度手間だったが、新型は、店側でカスタマイズするレジ部分と、ブラックボックスであるTEN端末部分を接合したもので、レジの集計結果が必需品、贅沢品の区別をつけて端末に転送される。私は新型端末に興味があったが、急いでいるので、何も買わずにカートを店外に持ち出した。
次に近くの薬局に入り、必要のない薬を大量購入。かなり怪しまれた。もちろん栄養ドリンクはその場で飲む。自動車部品店では、規格を無視し、アクセサリーでカートは一杯に。
電器店では自分で取りつけると言って、エアコン二台を持ち帰り。もうカートに乗せるのは無理だが、電器店を出るとすぐに、レンタカーの看板が目に飛び込んだ。自分の車を使うのはルール違反でも、借りるのは問題ないと解釈。
ワンボックスカーの契約をすませ、すぐ目の前の時計店で闇雲に買いあさる。もう一軒、時計店があったのを思い出し、車で五八号を北上。男女問わず腕時計。メガネ屋で度の合わないメガネ。母親にプレゼントするといって化粧品店に飛び込む。
途中、両手に書店の紙袋を抱えている玉井と遭遇した。声をかけると、
「俺、買っちまった」と自慢げに応えた。それから数軒の酒屋を回って、できるだけ高いものを選ぶ。
ギフトショップで箱は不要と中身だけ。土産物屋では名産品の種子鋏、種子包丁、鉄砲といった凶器類。家電店では薄型テレビの本体だけ在庫全て。衣料品店では、サイズを無視して高額なものを何着も買い、そのままクリーニング店に持ち込んだ。
クリーニング店の代金はその場でサービスが終わらないのでゲーム対象外だが、服を持ち帰らずにすむ。スポーツ用品店では、高級シューズの他にゴム製のボールを買っておいた。ゴムボールの金額は小さいが、打ち上げで使う予定がある。
郷土料理店で休憩。そのあと、少し遠出をし、念願のマイカヤックを購入、車の上に積む。釣り道具一式も。花屋ではたくさんの花を、ダンボール箱にぎゅうぎゅう詰めにして、顰蹙をかった。
もう、ボックスカーは一杯だ。時刻は四時過ぎ。金額の方は、概算で五百万はいっている。目標の一千万は難しいが、玉井に勝ったのは確実だ。それからは喫茶店や菓子店などを回り、のんびりとすごした。このときには、不要な商品を無意味に大量に購入することが、心理的にどう影響するかなどということは思いもよらなかったが、すでに消費という行動に嫌気がさしていたのだろう。
終了時刻の六時が近づき、私はスタート地点に向かった。
途中、玉井がパチンコ屋から出てくるのを目撃した。荷物はさっきと変わらず。勝負をとうにあきらめているようだ。勝利確実な私は車を彼に近づけ、腕を窓から出して手を振った。
「調子はどう?」 と、私は声をかけた。
「よお、富樫。買ったぞ」
彼はそう言っている。何を買ったというのだろうか。
「荷物が少ないけど、何を買ったんだい?」
「違う。勝ったんだよ」
「君がパチンコで勝つとは珍しい」
「そうじゃなくて、俺がおまえとの勝負に勝ったんだよ。もう一千万使っちまった」
途中、彼と遭遇したとき、買っちまったと聞こえたのは、勝っちまったの聞き違いだったのだ。私は車から降り、彼のところまで歩いた。
「何を買ったんだ」
「これ」
彼は、両手を持ち上げて紙袋を誇示した。
私は袋の中をあらためた。両方合わせても雑誌や文庫本が六冊入っているだけだ。
「どうやったら、これが一千万になるんだ」
一冊千円としても六千円程度だ。
「これが領収書だ」
彼は、私に書店の領収書をさしだした。一千万円の領収金額で、宛名は上様、但し書きは品代。
「これはどういうことだ?」
「本屋の人にわけ話したら、一千万もらえるなら、協力してくれるって。店の本、好きなだけ持っていっていいって言われたけど、俺、ほとんど読まないから、適当に選んだ」
再販制度のある書籍は、定価で販売しなければならないはずである。但し書きが品代なのはそういうわけか。
「収入印紙が貼ってないじゃないか」
一千万円なら四千円の印紙を貼るべきだ。
「この島では、お金はデータだけでやりとりします。そのためのTTPです」
「だけど、そもそもこれ、反則だろう」
私は無気になって抗議した。
「反則? モノに決まった値段があるなんて思うほうがおかしいぜ。売る側と買う側が納得したんだから、なんの問題もない」
私は負けを認めた。苦労して油断した私は、うさぎと亀のうさぎだろうか、亀だろうか。
そのあとは、勝敗のことは忘れて、例の居酒屋で打ち上げだ。無駄に買った商品を景品にして、その場にいた他の客達とボール当てゲームで盛り上がった。
ゲームの勝利の余韻からか、玉井は陽気に歌っている。
『 この島には、金がないのか。いや、違う。この島では金を使う場所がない
おいらは島おこしボランティア 本当は島のやっかい者
稼ぎがないけど大金持ち やることないから金早く使うゲーム
こけろ、TTP 買うぜ、商店街 くたばれ、種子島 』
その場は全て私のおごりということで、誰もが楽しそうだった。しかし、私は一緒に楽しめなかった。一千六百万円使った結果、残ったのは虚しさだけだった。
早いもので、この島に来てから三度目の夏になる。一昨年は海の家でアンケート。去年はゴミ拾いボランティア。今年は宇宙一の金持ちという、想像を絶する境遇の変化がわずかの間に起こったのだ。
宇宙一の金持ちといえど、派手な支出は、政銀や税務署の調査が入る可能性があるのでまずい。しばらくは何事もなかったかのようにおとなしくする必要がある。それに自分からやりたいと志望したアナコンダ芸を中途半端な形でやめるわけにはいかない。
それで、以前と同じようにイベントがあるときは出かけ、そうでないときは練習にあけくれていた。
あらかじめ予想していたとはいえ、酷暑の中着ぐるみを着て踊るのは地獄だ。
なぜ宇宙一の金持ちがこんな苦しい思いをしなければならないのかという疑問はつきまとっていたが、これも本当の姿を隠す必要性から生まれたことだ。どんなに想像力豊かな人間といえども、この安っぽい着ぐるみの中に、総資産一グーゴル円もの超絶大富豪が隠れているとは思わないだろう。物語のヒーローは普段、ぱっとしないほうがおもしろいのだ。
実際、西之表商店街で一千万円先に使うゲーム以降は、浪費をせず、以前と同じ暮らしぶりだ。というより、物欲が失せて、特に欲しいモノがなく、惰性で以前と同じ暮らしをしている。あまりに大きすぎる資産を持ったせいで、この世にあふれている商品やサービスに対して、興味を失ってしまったのだろう。欲しいモノやサービスと購入資金の需給バランスが崩壊したともいえる。努力の報酬として、資産が増えていくのは楽しいことだ。それが、私の場合、RPGゲームで最初からHP最大値で始めるようなものだ。
どんな高級品も私にとっては、激安アウトレットバーゲンセールの売れ残り程度の金額に思えてしまう。十億円の豪邸が十円の駄菓子のように感じるといえば、大抵の人はそんな馬鹿なと思われるだろう。しかし、よく考えてください。私と世界第二位の富豪との資産格差すら、地球とアメーバーの差なのだ。この心境は、実際にグーゴラーになった者しかわからない。
私はグーゴラーになって、金の力の限界を悟ったのだ。金で時間を買うことも、若さを買うこともできない。提供されている商品やサービスしか購入できない。それで、物欲のために苦労することが、いかに貴重な人生を消耗しているか気づき、淡泊を心がけ、無為自然の境地に達するようになった。
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