第18話 残り5話

 これまで政銀ATM端末には、いろいろ驚かされてきたが、この日の衝撃に較べれば単なる序章にすぎなかった。

 その日、五月一日も、ATMにはタネガシマンショーで疲れた体を癒すべく、保養センターで入浴したついでに立ち寄ったまでだ。このころには私は、富裕層の自覚が芽生え、月次調整で残高が減らされるのにも慣れて、腹が立たなくなっていた。またいつもと同じような内容だろうと、特に関心はなかった。しかし、画面が表示されると、すぐに異変に気づいた。


 現在の口座残高  500,000,000


 と、口座残高が増えているのだ。といっても、四億九千数百万から、五億円ちょうどになっただけなのでさほどうれしくはない。それよりも、この得体の知れない現象に、気味の悪さを感じた。


 私は画面に顔を近づけて、よく見た。すると、よほど気が動転していたのか、重要なことを見逃していたことに気づいた。数字の前に「-」の符号があったのだ。


 何の冗談だろう。口座残高がマイナスとは。総合口座貸越といって、定期預金と組み合わせることで、普通預金の残高よりも多くの金額を、定期預金を担保に自動融資したり、銀行の口座の種類によっては、通帳そのものに、担保がなくても融資ができるものがあり、その場合マイナス残高がありえるが、私はそんな契約をした憶えはない。


 なにかの間違いかと思い、試しにIDカードにチャージしようとするとはじかれてしまう。どうやら、残高が本当にマイナスになっているようだ。

 政銀は顧客からの問い合わせに二十四時間対応している。私はすぐに連絡した。


「あの、すいません。山形駅に一番近い政銀さんの支店って、どういけばいいんですかね」

「山形駅からの説明でよろしいでしょうか」 

 手慣れたもので、オペレーターはわかりやすく説明してくれた。

「ついでにおうかがいしますけど、口座残高がマイナスになることはあるんですかね」

「少々、お待ちください」


 しばらくして、オペレーターから返事があった。政銀の口座は、政銀から融資を受けている場合でも、融資額は別枠のデータとして管理していて、ATMで表示される口座の値がマイナスになることはありえない。もし、そのような現象が起きたら、プログラムバグなどのシステム障害の恐れがあるので、お客様のお名前とID番号を教えてほしいという。

「いえ、興味があったので聞いたまででして、私のは問題ないです」といって電話をきった。


 さらに、私の口座の金の出入りの詳細リストを表示してみた。前回見たときは四月の初旬で、そのときは五億円近いプラスであったから、およそひと月の間に十億円近い支出があればわかるが、全部合わせても三十万以下で辻褄が合わない。

 では、どうして五億円もマイナスになっているのだ。まず、どこからその数字が出てきたかということだが、ちょうど明美に不正に口座の残高を修正してもらったときの金額だ。ということは、この件が原因で、今マイナスというおかしな状態になっていると考えるのが正解だろう。原因が不正なので、結果もそれにふさわしい不条理なものだ。因果応報とはよくいったものだ。


 政銀のシステム開発部隊の中で、明美がどのような立場だったのか知らないが、おそらく末端のSEかプログラマーに違いない。将来的に計画している政銀の融資機能が、すでにシステムに組み込まれていて、その仕様を知らない彼女の浅知恵で、私の口座の値を不正に操作した結果、それをシステム上は融資と判断され、その返済額が私の口座に登場した。

 そのようにプログラムされていると考えれば、理解できる。どうしてこの時期なのか、私が得たのはそれ以前の残高との差額で五億円ちょうどではない、など疑問点もあるが、もともとシステムの規約にない不正な行為をした結果のことだから、説明できない動きをしても不思議はない。


 その明美とは全く連絡がつかない。どうにかして、この状況に対応しなくてはならない。

 今、マイナス五億ということは、五億以上の収入がないと、残高はプラスにならず、私は振り込みやIDカードにチャージができない。五億といえば、生涯収入を優に越える。要するに、働いても働いても、口座の金が使えないということだ。これは大変なことだ。


 そうだ、この島では最低資産保障というありがたい制度があった。今いくら貧しかろうが、月末の資産調整で、最低保障額に自動的に戻るのだ。現在、IDカードに残っている金額は問題なく使用できる。後一ヶ月くらいは充分に暮らせるだけチャージされている。なんとか、助かりそうだ。

 だが、私の心には一抹の不安がつきまとい消えなかった。制度上は私の残高は、翌月には十万円になっているはずだが、政銀の決まりによると口座のマイナス残高という状況はありえないので、月次処理プログラムでは、私の口座残高をプラスと判断し、むしろ金融資産一億以上の富裕層として処理される可能性もある。


 それから一ヶ月間、ボランティアのアナコンダ舞ではほとんど収入にならないので、建築現場と飲食店のバイトを掛け持ちした。公共料金と家賃に関しては、口座からではなく、IDカードの残高から振り込み、政府亭ネットも使用をやめ、ひたすら節約に努めた。


 六月一日。月次の結果を一刻でも早く知りたくて、バイトで疲れた体を無理に起こして、朝早くATMに向かった。車を使うのがもったいないので、自分の足で走って行った。

 表示された結果を前にすると、すぐに補填額に目がいった。


 補填金額はゼロ。


 資産不足で資産を補填されることも、富裕層として資産を減らされることもなかった。残高は先月よりほんのわずかマイナス額が減ったマイナス四億九千九百八十二万円。この一ヶ月の労働の成果分だけ、マイナスの値が減っている。毎日朝早くから夜遅くまで休みなしで稼いだ金額がわずか十八万円。


 プログラム上、残高は絶対値ではなく、マイナスの値として判断され、補填の対象者の選択は、ゼロから最低資産補償額までを対象としているということだ。制度上ありえないマイナスで金額の絶対値が多いという私の口座は、資産補填の死角となってしまった。


 この難局をどうすれば乗り越えられるのだろうか?


 本来ならば、政府銀行に問い合わせするのが筋だが、それには当然調査が入るため、私の口座残高が不正に増額された事実が知られてしまうことになる。共犯の明美はすでに異動し、まだ会社にいるのかさえわからない。解雇のうえ、告訴されていたとしてもおかしくはない。


 バイトを続ける意味はない。マイナス額が少しずつ減るだけで、一生かかっても使える状態にならないからだ。もう、こうなったら好きなことをしようと思い、一ヶ月ぶりに、アナコンダのキャンペーンに出かけた。


 その夜、玉井が寝たのを見計らって、私は井畑に相談した。彼ならなんでも話せる。

「この島を出ようと思うんだ」と私は切り出した。

「どうして?」

「以前明美に頼んだことが、今になって自分にマイナスになって返ってきた。この島にいる限り、いくら働いても使える金にならない。本土なら政銀以外の銀行も残ってるし、現金も使える」

「どういうこと?」

 私は、詳しい事情を彼に話した。

「僕でなんとかできるなら、できるだけのことはするよ」

「相手はコンピュータだ。いくら君が無敵でも操作はできない」

「そう簡単にあきらめるものじゃない」

「何かいい手段でもある?」

「明美さんという女性がもういないのなら、僕が政銀の総裁に直接かけあってみてもいい」

「総裁のところに直接出向くのか?」

「君だって大変なんだから、仕方ないよ」

「君に迷惑はかけられない。僕が島を出ればすむことだ」

「三年以内に島から出れば、口座を調べられて、まずいことになるよ」


 そうだった。それも出来ない。このまま眼前の太平洋に身を投げて、一切合切を終わらせるしかないようだ。そうした私の危機感が彼に伝わったようで、


「だから、僕が総裁にかけあってみる。ちゃんと事情を話せばきっとわかってもらえるよ」

「こっちにだって非があるんだから、そう簡単にはいかないよ」

私がそう言うと、井畑は口元に笑みを浮かべた。

「そのときは脅せばいい。いざとなったら、どんな要求だってのませる自信はあるよ」


 そう言い残し、内に狂気を秘める芸術家は政銀本部に向かった。事情を知らない玉井には、東京で個展を開くので留守にしていると説明しておいた。


 井畑が戻るのを待つ間、気が気でなかった。いくらもう死ぬことはない彼でも、相手は並の相手ではない。

 そして二週間後、画家はやつれた様子で戻ってきた。私は失望から、

「やっぱり、やめたほうがよかったよな」といったが、彼が無事戻ってきてほっとしていた。

 しかし、彼は急に笑顔になり、大成功と叫んだ。大成功とは具体的にどういうことなのか?


「残高ゼロに。いや、前の金額まで戻してくれるってこと?」

「それどころじゃない」

「というと?」

「君の黒幕には、総裁以外のポストなら用意してもいいと言われた」

「すごいじゃないか。何したの?」

「総裁のちょっとした秘密を握って。聞かれちゃまずい会話だけど、映像に残しておいた。ちょっとしたといっても、メディアにばれれば、辞任は免れない」

「大暴れしたのかと思ったよ」

「多少はあばれたよ。壁に頭をぶつけたり、関節を決めたりね。意識が戻っても、言うこときかないから、何度も繰り返した。それでついにギブアップ。それで一度、総裁に君と会って欲しいという話で決着」


 私の前では温厚な彼も、芸術家特有の狂気を秘めている。まともに相手にしようとしない総裁の前で、それが爆発したのだろう。


「いままで何度も取材を試みて、全部門前払いだったけど、僕もついに政府銀行の本部に出向くのか」

 私は覚悟を決めた。

「いや、総裁のほうからこの島に来るから、そこで話をつける。週末にこっちに来る用事があるので、そのときに島のどこかで会う。場所はこちらが決めていいそうだ」

「もちろん、相手は総裁一人だよな。向こうの言うとおりにしたら、多勢に無勢で殺されかねないからね」

「そうさせるよ。で、どこで会う?」

「この島なら密会場所にはことかかない」


 密会場所は犬城海岸の洞窟の中。そこへはシーカヤックで乗り込むこと。お付きは一名まで。約束を破ったら、面会中止。万が一、私の身に何か起きたら、世界中のメディアとジャーナリスト宛に不都合な動画が配信されるよう手配してあると伝えておいた。

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