第8話 残り15話
東京に戻るとすぐ、私の送別会が開かれた。これは私にすぐ島に行けというシグナルだが、こちらにもいろいろすることがある。たしかに、四月一日から実施されるTTPは、準備段階から取材する必要はある。結局、私は三月に入ってすぐに移住した。
会社の金で借りた一軒家は、以前井畑健という無名な画家がアトリエとして利用していたものだ。資産家の息子で、サーフィンを愛する彼は、十年ほど前にそこに移り住み、五年前に失踪した。しばらくして家族が、ある実業家に売り払ったが、実業家が住んだのは最初のうちだけだ。それからサーファーなどに貸し出されたが、悪い噂が広まり、ここ一、二年は借り手がつかない状況だった。
実際に引っ越ししてみると、採光がいいので中は明るく、そんな噂も嘘にしか聞こえない。部屋数は少ないが、一部屋辺りが広く、とてもくつろげる。建物自体は簡素な造りなのに、実業家が家具を買いそろえていて高級感が漂う。いたるところに種子島の雄大な大自然を描いた井畑の作品が飾ってある。ひとつ気になったのは、二階にあるイーゼルの油絵が、前回見たときと、どこか違うような感じがしたことだ。
その夜、一階の寝室で寝ていると、二階から物音がするのに気づいた。明かりも点いている。私は恐る恐る階段を上った。アトリエの端のほうで、三十歳くらいで彫りが深く顎のしゃくれた男性が、イーゼルに向かい画を描いている。白装束ではなく、緑のトレーナーに茶色のスラックスと、生身の人間のようだ。
「新しく越して来た人ですか?」彼は私のほうを見ると、優しい声でいった。
「ここのオーナーの井畑健さんですよね」私は表情を変えずにいった。
「私のことを知ってるんですか!」
彼のほうが驚いた表情をした。そして、椅子から立ち上がると、私のほうへ歩いてきた。 長身で筋肉質。不思議と怖くなかった。
「あなたはまだ生きているんですか?」
私は聞いた。
「自分でもよくわからないんだ。モノをつかんだり、食事もとれるし、絵筆だって握れるけど、壁を通り抜けるし、食べなくても平気。その気になれば君を殺せるよ。その逆は無理だけど」
彼のほうから他の物体に物理的に働きかけができるが、その逆は不可。私は幽霊を信じないが、そんな幽霊聞いたこともない。近いのは、新約聖書のイエスくらいだ。
「井畑さん、最期の記憶はありますか?」
「近くにサーフィンしに行って、それから憶えがない」
「とにかく、お友達になりましょう」
私は、自分から手をさしだして彼と握手した。力強い感触があった。
それから私たちは語り合った。亡くなった時の年齢は私より五歳ほど上だが、私は親しみをもってもらおうと同い年だと偽った。それで彼はますます饒舌になり、サーフィンと芸術について情熱を持って語ってくれた。死んだ後でもサーフィンを続けたい。その想いが重力の影響を受ける不思議な幽体を作り出したのだ。しかし、そんなサーフィン好きの彼も、今は海が怖くて近づくことができないという。
「今でもボードに乗ることはできると思う。でも、海に近づこうとすると、足がすくんでしまうんだ」
それでいらいらが募り、ここを借りてきた人たちへの乱暴につながった。それも、化け物扱いされたことで自尊心を傷つけられたからであって、彼自身は自分を乱暴者だとは思っていない。かくいう私だって予備知識なしで彼に会っていたら、不法侵入者と思い、撃退しようとしたかもしれない。体格がよく、格闘技の経験もあるので、つい手が出てしまったのだが、こうして落ち着いて話してみれば紳士だ。これまで孤独だったところに、私という理解者ができて本当に喜んでくれた。
私は彼に提案した。
「もう君はひとりじゃないんだ。明日、一緒に海に行こう。サーフィン好きの海嫌いなんて矛盾した状態を続けるのはよくない」
物理的特性を備える幽霊も矛盾しているが。
「君の言うとおりにしてみるよ」
彼は微笑んで、そう約束してくれた。
翌朝、二人で家を出て、すぐ近くの熊野海岸に向かった。夏の間は海水浴場になるが、今は肌寒い。井畑はウェットスーツに着替えていた。着替えまでできるとなると、もうほとんど生身の人間だ。彼は特に変わった様子はなく、砂浜を海に向かって進む。
「ボード持ってくればよかったかな」彼はいった。今のところ大丈夫なようだ。
だが、波打ち際まで五メートルというところで、突然、彼は立ち止まった。大きく目を見開き、うわごとのように、「無理、無理……」とつぶやいている。
「君は一度死んでるから今は不死身のはずだ。なんのダメージも受けないから、思い切って走るんだ」と私は叫んだ。
彼は目を閉じると、全力で海に向かって走り出した。砂の上に足跡が残る。重力に支配される普通の人間のように、足、腰、背中、肩と順に、体は水に隠れていく。遠浅の海をそのまま沖に向かって進んでいき、やがて頭の先まで見えなくなった。
知らない人間が見れば、ただの入水自殺に見えるだろう。私もこのまま戻ってこないのではと心配した。しかし、彼は不死身だ。しばらくすると、海中から顔を出して、沖合の岩場に登って、立ち上がり、こちらに手を振っている。
それからまた海に飛び込んだ。今度はクロールでこちらに泳いでくる。浅くなると、立ち上がり、私のところまで駆けてきた。
「君が勇気をくれたから、もう、海は怖くなくなった。これでまた好きなサーフィンができる」
そういって、彼は本当の笑顔を見せた。それからしばらくして、二階の油絵は、空白だった海の部分にも筆が入るようになった。
三月末日が来た。
明日から一週間に渡り、西之表市街地一円で盛大なイベントが催される。なにしろこの種子島は、人類史上初となる貨幣革命の記念すべき最初の舞台となるのだ。イベントは正式には、「種子島新電子貨幣博」と堅苦しい名前だが、カネガシマ祭りと呼ばれて、顔が金色で種子島の形をした「カネガシマン」なるキャラクターまで用意されている。予算は全て政府銀行と国が出すので、地元は大歓迎だ。こうなると、ぷんぷん利権とカネのにおいがしてくる。
首相をはじめ大物政治家や、マスコミ関係者、芸能人などの他に野次馬的観光客などが大挙しておしかけるため、しばらく前から島はものものしい警備体制が敷かれていた。海外からの来賓には、政治家や財界人だけではなく、大物スターや経済学者までが招待されている。そのためどこの宿泊施設も満員だ。私の幽霊屋敷にもIさんだけでなく、宿泊代がただなので、物見遊山が目的の編集長まで来てしまった。
私は、二人を種子島空港まで車で迎えに行き、そのまま観光ガイドをまかせられた。疲れ切って帰ると、知り合いの画家といって井畑を紹介した。井畑には事情を説明し、二人を驚かせないよう頼んでおいた。
翌朝、目覚めてすぐテレビをつけると、ニュースでTTPのカウントダウンシーンを放送していた。特設ステージ前では、カウントに合わせて、ペットボトルロケット「TTP一号」が宇宙に向けて発射され、すぐに落下した。これが宇宙センターのある島のすることか。JAXAは一切協力していないのだろう。それでも会場の盛り上がりが、画面を通して伝わってきた。
私たち三人は、早めに会場に出かけたが、予想以上の人出と警備が厳重で、メイン会場に着いたのは、開会時刻直前だった。特設ステージ前は、大勢の観客でごったがえしていたので、私たちは巨大スクリーンを観ながら、オープニングイベントを体感した。
首相の長々とした挨拶から始まり、鹿児島県知事、西之表市長と続き、そしていよいよ政銀総裁の登場だ。中肉中背で、髪をオールバックに固め、浅黒い肌に白い歯が印象的。英語と日本語を交え、TTPを鉄砲伝来やロケット打ち上げにたとえていた。
別に彼らのスピーチは私にとってどうでもよく、あるVIPの登場をいまかいまかと待ちわびた。総裁や首相は大新聞にまかせて、弊誌では米国から来日した男性ラッパーにTTPについてインタビューを試みるのだ。
開会から二時間。ようやく歌と踊りのショーが始まった。彼の出番は三番目。国民的アイドル、地元歌手の次だ。私は彼の歌が始まるや、人混みをかきわけステージに近づこうと試みた。歌が二番に入ると、立ち見の観客達が一斉に歓声を上げた。私もつられてステージを見た。なんと政銀の和田総裁が一緒に踊っているではないか。アメリカですごしただけあって、堅苦しい日本の財界人とはやはりどこか違う。私はそのまま曲が終わるまで、ステージ上のパフォーマンスを夢中で眺めていた。
歌が終わると、私は退場していくその歌手を追いかけて、接近を試みた。だがSPに守られていて近づけない。代わりに、バックダンサーのひとりをつかまえて、
「How about TTP?」という簡単な英語で聞いたところ、
「チップを払わなくていいから、レストランも安くてすむね。でも、日本では最初からサービス料込みだから無意味だね」というアメリカ人らしい答えが返ってきた。
そこで、「このインタビューにチップはいるのかい?」と聞いたところ、
「オフコース」と言われた。
「ソーリー。残念だが、この島ではコインが使えない」と、私が言うと喜んでくれた。
メイン会場を離れるとき思った。現金を無くし、マネーをデータにする実験対象に日本が選ばれたのは、チップの習慣がないからではないだろうか。
時刻は正午を過ぎ、昼食をすませようと屋台を回ったが、すでにどこも混雑していた。知らないうちに、Iさんは酒を購入し、ひとりで飲んでいる。酔った勢いで、「もう帰ろうぜ」と彼がいったので、私達は帰途についた。
「もう帰ろうぜ」とは、現在私の借りている家に帰るという意味ではなく、東京に戻るということだった。Iさんと編集長を空港に送っていく途中、ここ二日間、自分の車を社用で使ったという事実に気づき、ガソリン代を会社で負担して欲しいと編集長に要求した。
空港は目と鼻の先だったが、後で経費として請求するのが面倒なので、わざわざUターンして、近くのガソリンスタンドに寄り、編集長のIDカードで支払いをすることになった。本人認証を必要としているTEN端末では、どうしても支払い時には本人がいる必要がある。
「たしかに金使うのが手間だね」と編集長もいった。
ガソリンスタンドに着き、満タンで頼むと、店員から「現金、じゃなくて、カードはお持ちですよね」ときかれた。従来の癖が抜けず、現金ですか? と客に尋ねてしまうようだ。
「IDカードで」と言って、そのまま車の中で充填がすむのを待っていたら、
「6,327円です。すいませんが、IDカードの方は休憩室までお願いします」
と、車から出ることを要請された。
三人で休憩室に行き、編集長がTEN端末で支払いをすませた。休憩室には自販機があり、喉が渇いていたので何か飲もうと近づいたら、「使用禁止」の張り紙がしてあった。置いておくのもスペースの無駄なので、間もなくこの自販機は撤去されるのだろう。
店舗を構えるガソリンスタンドでさえこんな有様だから、家庭に出張して現金で支払いを受けるサービス全体は、根本からビジネスモデルをくつがえされる懸念がある。宅配での代引きも、町内会の費用も現金はダメ。タクシーやバスなども大変だ。プリペイドカードやチケットを事前に購入するか、乗客に請求書を渡し、振り込みを依頼することになる。
この問題に対し、政府銀行は簡易端末なる小型のTEN端末を用意していると声明を出している。TEN端末は外部電源が必要で、精密機器なのでむやみに動かさず、できるだけ決まった場所に設置するように指導されているが、――本当は個人の位置情報把握のためらしい――この簡易端末は持ち運びが便利なように小型化され、バッテリーを内蔵している。小さくて運びやすいなら簡易端末のほうがいいのだが、ひとつ大きな問題がある。
小型化とコスト削減のため生体認証を省略して、本人確認はIDカードの写真に頼ることになり、よく似た他人のカードを盗んだり、強引に本人だと主張された場合など、不正利用されてしまう。
ガソリンを入れ、再び空港に向かっていると、私の携帯がなった。私は運転していたので、助手席のIさんが、
「携帯かせ。俺がおまえの耳に当ててやる」といってくれたので、私は左手で携帯をとりだし、彼に渡した。私に画面を見せることなく、いきなり耳にあててきたので、誰からかかってきたのかわからない。
「はい」
「あのさ」
女の声だ。
「明美……さん?」
「そうだけど、それが何か?」
「おい、明美って昨日行ったキャバクラの姉ちゃんだろう」Iさんが隣で大声を出すので、
「誰かいるの?」と彼女にきかれた。
「会社の人」
「なんだ、つまんない」
Iさんにもきこえたようで、
「つまんないとはなんだよ」と携帯を自分の耳にあて文句を言う。
「あ、聞こえたんだ?」
「おまえ、誰なんだよ?」
「そっちこそ誰?」とやりとりが続いた。
私はたまらず、
「Iさん、彼女のこと怒らせないでください」といった。
「いいじゃねえか。こんなバカ女なんか」
「彼女、政府銀行のプログラム関係の仕事してるんです」
「それがどうした?」
私が小声で、
「僕の口座の残高の数字、増やしてくれるかもしれないから、機嫌を損ねないでください」 といったら、Iさんは仰天して、
「なんだって。このお姉さまが、わたくしめの口座残高を好きなだけ増やしてくださるって」 と、車外にも聞こえるほど大きな声で叫んだ。
後部座席の編集長は、本気にせず、「そんなわけないよ」とつぶやいた。
酔っぱらいのIさんは、
「明美さん、いえ、明美様。是非ともわたくしめの口座を一億円にしてくださいませ」と彼女に請願した。
「あんた島の人?」
「いえ、違います」
「じゃあ、だめ」
「どうして?」
「島の住民データしかいじれないもの」
Iさんはがっかりしたが、
「そうだ、富樫。おまえ、今、この島の人間だったよな」と持ち直した。
「ええ、住民票は移しました」
「じゃあ、富樫の口座を増やしてもらって、富樫が俺におごれば同じことだな」
「僕が素直に奢ればの話ですが」
Iさんに嫌みは通じず、早速彼女に頼み込んでいる。
「あの、明美さま。そういうことですので、うちの富樫、いいやつなんですよ。小さい頃から貧乏で苦労して、わたくしが親代わりに面倒みて」と作り話をはじめた。
彼女はIさんの長話を最後まで聞かず、「うん、いいよ」とあっさり引き受けた。
「え、本当ですか」
Iさんは驚いたが、私の驚きはそれ以上だった。
「その代わり、私とつきあってくれる?」
「はい、はい、是非ともおつきあいさせてくださいませ」とIさんは自分のことと勘違いした。
「あんたじゃなくて、富樫」
「もちろん、OKです。もういくらでもつきあっちゃいますと本人は申してます」
「で、いくらにする?」
「そうですねえ、彼は病気の家族を抱えてますし、まずは十億といったところでしょうか」
「金額が多いとばれやすいよ。できたら一億未満で」
「じゃあ、9999万で」
「じゃあ、そうしとくね。あと、忙しいから切るね」
こうしてTTP初日、私の口座残高はどこからかの入金があったわけでもないのに、三百万程度からいきなり9999万円に跳ね上がったのだ。まさに無から大金が発生したことになる。これは明らかな違法だが、誰も被害を被ったわけではない。しいていえば円の価値がほんのわずか下がる要因になったかもしれないが、気にすることはない。
Iさんは、「おい、富樫、そのへんのスーパーに行って店ごと買おうぜ」と騒いだ。
「彼女、まだデータ修正してないですよ」と、私ははやる心を抑えた。
さっきから後部座席でやりとりをうかがっていた編集長が、
「一億もあって、田舎のスーパはないよ。空港から鹿児島経由で博多だな」といった。都合のいいことは信じるようだ。
空港内のATMで現在の口座残高全て、およそ三百万円をIDカードに入金し、種子島を出た。編集長の指示で博多の繁華街に繰り出し、四日間もの間、豪遊を続けた。四月五日の午前、ホテルでチェックアウトするとき、私のIDカードで支払いをしようとしたが、TEN端末の液晶画面には残高不足と表示された。
「もう、三百万使っちまったのか」と編集長がいった。私も驚いたが、高級酒を何本をオーダーしたので、そのくらい浪費したとしてもおかしくはない。
フロント係に「残高知りたいんですが」と頼むと、20,360円と表示された。我ながら使いっぷりの激しさに驚いた。その場は編集長のカードで立て替えた。
私の口座からカードに入金しようと、近くにある政銀の支店に行った。ATMにカードを挿し、片手をセンサーの上にかざすと、画面に現在の残高が表示される。
ゼロ円だった。
外で待っていた二人に今中で起きたことを説明すると、TENシステムの仕組みをよく理解していないIさんは、
「いくらなんでも9999万も使ってないよな」と不安そうだった。
編集長は冷静に、「あの女にだまされたんだよ」といった。
「ちょっと待ってください」私はある重大なことに気づいた。「彼女が増額を約束してくれたのは、たしかTTP初日ですよね」
「それがどうかしたか?」とIさん。
「四月一日なんです」
「だからどういう意味?」
あまりにIさんが鈍いので、編集長が「エイプリルフールだよ」といった。それであの日久しぶりに電話がかかってきたのだ。最初から残高を増やすことなどできず、私たちはまんまと明美に騙されたのだ。
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