第2話 残り21話

 K氏はすでに奥の座敷にひとりで待っていた。予想していた通りの堅物といった風貌で、Iさんとは対照的だった。集合時刻まではまだ十五分ほど余裕があったが、私はこちらが後になったことを謝った。


「おくれてすいません。正直出版の富樫といいます。Iが急病でこられなくなったので、僕ひとりで来ました」

「いやいや、いいよ。そっちも忙しいだろうから」

 K氏は腕時計を見てそういった。それからテーブルのおしぼりをとると、両手でしごく仕草をし、手の甲を片方ずつていねいに拭いた。きれい好きなのだろうか。五十を少し越えたくらいで痩せぎす。白髪染めを使ってるのだろうが、きちんと後ろになでつけられた黒髪は、年の割に豊かで、私はカツラの可能性を検討した。


「そちらこそ、お忙しいでしょうに」

「なに、実はここのところ、時間が余り気味でね。事業縮小に加え、倒産、合併で企業の絶対数が減ってるから、記事にすることといえば、下方修正、不景気、暗いものばっかり。昔は終電はざらで……」


 しばらく雑談が続いた。そのあいだ、私は店員を呼び、数品の料理とビールを注文した。ビールはすぐに来て、それから酒の席になった。こちらが質問するまでもなく、K氏は自らが調べてわかってきたことをわかりやすく話してくれた。まとめると、次のような内容だ。


 政府が直接市中銀行を経営するなど、民業圧迫もはなはだしいが、そうしなければ立ちゆかなくなるほど今の国の財政は行き詰まっており、やむをえず推進せざるをえない。誰もが感じているように、これまでのやり方ではこの経済恐慌を乗り切ることはできない。どんなカンフル剤も効果がない。そこで向かうさきは強権的統制経済となる。資本主義の体制の中でいかにして、経済を安定化かつ活性化していくか、答えは経済の血液であるマネーの動向を正確に把握し、細部にいたるまで適切な対策を施すことにある。政府銀行の設立はそのための一歩であり、これが成功できなければ今後の日本はない。

 

 金融業界を始めとした反対の声は大きいが、政府側はどんな卑劣な手を使っても、反対勢力を抑えつけ、このプロジェクトを成功させるつもりだ。それが最近わかってきて反対意見はトーンダウンしはじめた。K氏の会社も露骨な批判は避けるようになった。反対派の急先鋒だった金融関係者が不可解な交通事故に遭ったり、不当に逮捕されたとおもわれる事件が数件起きており、すでに国策と化した政府銀行に異議を唱えることは国家に反逆することと同じだという空気が金融業界、マスコミ業界、政界、官庁に形成されつつある。


 無理な増税で家計の負担は大きい。国債の消化率が下がり続けても、経営が悪化している民間銀行に強制的に国債を購入させるわけにもいかず、預金をそのまま国家の財源に回すのは既定路線らしい。しかし、TEN利用者に対し消費税を1%も下げたら、税収が減って、預金の増額分を相殺してしまう。これは、政府銀行の設立目的が財政危機の解決にあるのではないことを示している。税収を下げてまでTENを普及させる本当の狙い。それは、現在の通貨である円を廃止して、新電子貨幣TENを、日本の通貨にすることである。


 私は言葉を失ったが、「円をやめるってことですか」と、すぐに言葉を取り戻した。

「いきなりやめるわけではない。流通量でTENの比率を徐々に上げていき、最終的にはTENのみにする」

「でも、TENって円預金を電子マネーにしただけですよね」


 K氏は曲者が近くに潜んでいないか確かめるような仕草をし、ささやくようにいった。


「ここからは狂人の妄想として聞いて欲しい」と前置きをして、

「君に今からとっておきの情報を教えるんだけど、それを御社の雑誌に掲載するかどうかはそちらで判断してくれ。いかにゴシップ誌といえどもまずい内容も含まれていて、うちみたいな堅い雑誌ではとても掲載できない。もちろん、情報元が僕だということは内緒にするんだぞ」


 だからK氏の本名はふせておく。ついでに同僚のIさんも。

「噂のトンネルみたいな三流ゴシップ誌に載せて、世間の反応を見てみたいということですか?」

「三流とは言っていないよ。裏情報として広めてみたいのは事実だ。で、政府銀行の最終的な目標というのは、日本から、現物としての貨幣である現金をなくし、政府が一元管理する電子データTENのみにすること。つまり全てのマネーをサーバー上の数字に置き換える。そしてその数字、つまり個人や法人の資産を適正化することで、経済を運営していく」


「どういうことです?」


「貨幣、つまりマネーは石油や大豆のようにそのものが直接何かの役に立っているわけじゃないことくらいわかるよね。それに価値があるモノとして取り決め、世間に流通させて、はじめて今の貨幣経済が成り立っている。マネーの誕生はメソポタミアで麦を交換手段として使ったことから。それがギリシャ時代に銀を使ったコイン、ローマ時代では信用を落とさず銀の比率を下げていった。近代になると紙で済むようになった。貨幣価値の信用さえ落ちなければ、よりありふれた素材で加工が容易なほうがいい。つきつめれば存在しないモノである情報、つまりデータのやりとりでも、価値の信用が落ちなければ、貨幣としての役割をはたせるわけだ」


「たしかに電子マネーは、現金を預けてはいますが、取り扱いは情報ですね」

「モノと情報で決定的な違いがあるんだけど、何かわかるかな?」


「モノは紛失したり、偽物が出たりしますが、情報は管理さえしっかりすればそんなことはないです」


「そういうメリットもあるが、もっとも重要なことは、情報はその性質から集中管理と加工が容易になることだ。どこにいくら金があってどう流れていくか、正確に把握できる。景気対策だってやりやすい。預金額の少ない貧乏人の口座に数字のゼロひとつ加えるだけで、間違いなく消費は増える。君だって貯金が十倍になったら、派手に使うだろう?」


「加工って、口座の数字を勝手に変えてしまうんですか。それも、政府の当座預金以外の一般の口座まで」


 そんなの誰が考えたってルール違反だ。いくら政府が追いつめられていても、そこまでできるわけがない。単なる狂人の妄想だ。私もその時点ではそう思った。


「政銀のしようとしてることは、財政危機の先送り程度の話じゃないよ。彼らは、経済の仕組みを根本から変えてしまおうと企んでいるんだ。

 通貨(通用している貨幣)を発行するのは簡単だ。お札をすればいいからね。それをどう世の中に回していくかが問題となる。通貨の番人である日銀がその役割をになうが、日銀は民間部門と取引はない。公定歩合や売りオペ買いオペ、準備預金制度でできるのは、金利と市中銀行の資金量の調整だけだ。それで世に出回るマネーを調整していくのだが、貸し借りの世界で限界がある。

 カネが借りやすくなっても、事業に見込みがなければ、誰も借りたりしない。国内市場が小さくなっていくのに、既存産業が新規に国内工場を作ったりしない。経済が常に成長していくことを前提としたビジョンは捨てなければいけない。

 日銀は準備預金制度の準備率で市中銀行が日銀に預けないといけない預金額を変え、売りオペ買いオペで銀行の所有する債券の量を変える。そうやって銀行が市中に貸し出しに回せる資金量を調整する。それは、銀行の資産内容を変更するだけで、資産総額そのものを変えるわけではない。


 政銀の狙うのは、民間の手持ちのカネを全て自分のところに預けさせ、その口座残高を直接変えていくことだ。国内の全法人全個人の資産額調整をやろうとしているんだ。日銀とは次元が違う。

 政銀のできることは配分調整にとどまらない。マネーストック(通貨残高。マネーサプライともいう。政府と金融機関を除いた民間部門の通貨総量)自体を変えることだってできる。全ての口座に等しく95%を掛ければ、世の中に出回るマネーが5%減ることになる。ディスク上の数字を変更するだけだから容易なことだが、紙幣と硬貨では実現不可能だ。


 TENという呼び名も、点、つまりポイントからその名がつけられたと聞いている。それも、ポイントの所有権は政府銀行にあり、口座主にはその使用権が与えられているにすぎない。あなたは60万点のポイントを使う権利が現在ありますが、ポイントである限りは、有効期限があったり、ポイント二分の一デーがあっても、文句は言うなということだ。政府銀行が意のままに操るポイント、それがTENだ」


 現在日本国の中央銀行である日銀が発行した通貨である円は、市中銀行に貸し出され、その市中銀行が法人や個人に貸し付けて流通していく。政府は自ら必要とする分を出回ったマネーから一部を税金として回収し、それでも足りない分は国債を発行して借りる。国債の借り手は主に国内銀行だが、個人向けや海外にも売り込んでいる。


 中央銀行はどんどん通貨を発行するが、回収が難しいので国の借金がふくらむ。国の借金はふくらむが、流通しているマネーストックが増えれば、国の借金はその分だけ目減りするはずだ。これまでの資本主義経済は、そのバランスのうえで成り立っていた。しかし、新興国の台頭で雇用が減り、安いモノが出回り、世の中を回るカネが増えないのに、借金が増え続け、バランスが崩れた。日本の失われた三十年はそういうことだったのだろう。


 こういった融資という形で供給し続け、一部を税として回収していくというやり方自体が無理があるのかもしれない。K氏の予想では、そういった中央銀行から通貨が発生し、減税や増税、金融引き締めや緩和、公共事業など様々な施策を打って社会各所に滞りなく流通させようとするやり方をやめ、もう十分なマネーストックがあるのだから、新規貸し出しに力を入れるよりも、全ての口座を一括に扱う政府銀行が、各口座の残高の配分調整をしていくことで経済運営をしていく。その前提としてすべての円資産が政府銀行の手元に電子化された状態で存在し、計算しやすいよう、各個人はひとつの口座しかもてず、法人も集計可能な状態にし、日銀を含めた他のすべての銀行に消滅してもらう必要がある。国全体のマネーストックさえも自由に調整できるなんて、なんと恐ろしくわがままなシステムなのであろう。


 しかし、いくら相手が政府といえど、いきなり自分の口座額を減らされたらたまらない。


「もちろん、最初のうちはあまり無茶なことはしないよ。反対が少ないのは、富裕層の数字を下げて、その分を少ない口座に振り分けることだな。最低資産保障額とか決めて、月末に自動的に調整してもらえれば生活保護制度を廃止できる。最低保障資産を十万円に決めたとして、月末の段階で八万円しか口座に残っていないとする。差額の二万円が加算されますので、またひと月つつがなく暮らせます。たまたまある月に二万円足りないくらいで、生活保護の申請に行くのはないよな。サラ金にでも借りるだろう。資産保障額を下回った額だけ自動的に補填してもらえれば、ずいぶん生活は楽になる。

 ただし、単純に残高額だけでやると怠け者や贅沢な連中が得をするので、過去の収入や支出、仕事の有無も考慮にいれた計算式を用いなければならない。支出データに贅沢品かどうかわかるフラグを用意して、贅沢品支出額を資産に加算した額と保障額を比較する。長期に渡って収入のない場合は、強制的に仕事を割り振るなどの措置も必要だ。この場合の仕事は怠け防止が目的だから、雇用情勢に関係ない。社会にとって何の役に立たなくてもいい」

「でも、実際やるとなると難しいんじゃないでしょうか?」

「簡単じゃないか。サーバー上の数字が資産なんだから」


 私は彼の言っていることは理解できたが、なんだかぴんとこなかった。サーバー上の数字。つまり、表計算ソフトで入力してあるような数字が、お金そのもの? 本当にそんなことでいいのか?


 本来マネーというものは、金銀など高価なモノでその価値を裏付けられていたはずである。いや、金銀そのものがマネーだった。紙幣(銀行券。会計上は銀行の負債)は、もともと貴金属の預かり証、本来のマネーの借り入れ証に過ぎなかった。それがいつの間にかマネーそのものになった。今でも硬貨は政府が発行するのに、紙幣は日銀が発行するのはその名残である。貴金属と無関係に紙幣が発行されるのだから、何らの価値の裏付けもない数字データがマネーだっていいではないか。強いて言うなら、経済体としての国そのものがその裏付けである。


 他にも問題はある。

「国内で発生したすべての取引、子供が駄菓子屋で十円のチョコを買ったことまで、いちいちリアルタイムで通信するんですか?」


「買い物はIDカードを使うから、その場での通信は不要だ。一日分まとめて通信でサーバーに送ればいい。そのためのTENシステムだよ」


「でも、いろんなところで買い物しますから、国全体だとデータ量的に難しいんじゃないですか」


「支出、つまり支払いデータは件数は多いが、一件当たりの情報量は少ない。それにくらべ、ネットの動画なんてものすごい容量だよ。一日の終わりとかに時間を決めて、TEN端末から通信で送ればいい。ただし、中央サーバーひとつでは全国にある膨大な数のTEN端末情報は負荷が重い。そこで広域分散処理を行う」


 専門用語がでてきてわかりにくいが、K氏のいう中央サーバーは口座データを管理する政府銀行のコンピュータ。TEN端末とは、販売店などにおかれるIDカード専用のレジのような機械。各TEN端末の買い物データは各地にあるデータセンターで、口座番号ごとに集計する。

 わかりやすくいうと、各県にひとつずつデータセンターがあり、Aという人物がある日埼玉県で五件買い物し、東京都で十件買い物した場合、のべ十五台のTEN端末はそれぞれ地域のデータセンターに口座番号と購入金額を転送する。東京と埼玉の二つのデータセンターはそれぞれA氏の購入額の集計をして、東京都は一件、埼玉県も一件にまとめる。二つのデータセンターは集計処理終了後にそのデータを国内に一カ所しかない中央データセンターに送る。中央データセンターはA氏の東京購入分と埼玉購入分を集計し、その日のA氏の購入額合計を算出する。そのA氏の購入額合計からA氏の口座データの残高を変更し、A氏の資産は最新のものに更新されるという仕組みだ。もちろん、支払いを受けた販売店側の集計も必要になる。


 ただし、資産を最新にするだけならそれでいいが、資産調整を適正にやるとなると、贅沢品と必需品別支出額などが必要になり、計算量はもっと多くなる。しかし、それは今後の課題。CPUやメモリの性能も年々上がっているし、ディスク容量の増加はそれ以上だ。昔20MBのハードディスクが何万円もしたが、最近じゃその一億倍の容量が手軽に買える。


「なるほど。それなら資産の把握はできそうですね」


「日次処理で一日ごとに全口座の資産を最新の値に修正していき、ひと月に一度、月次処理で資産を調整する。一部の金持ちだけ異常に残高が多く、貧しい人の数は膨大だから、資産グラフは右肩上がりの曲線になるだろう。どういった計算式で調整するのか興味津々だね。まずは最低保障限度未満の差額累計を算出して、それを上位者の分からとっていく。年次処理では、マネーストック調整。毎年やる必要はないが、全口座の残高が変更されるから、予告が必要だ。前後の期間、売り掛け買い掛けはできるだけ控えること」


「数字をいじることで、お金が操作できるなんて、考えてみると怖いですね」


「数字を勝手に変更することは総理でも禁止されるはずだ。大災害のときは仕方ないけどね。とにかく、ルールさえきちんと決めてしまえば、口座の数字が変わることに、文句をはさむべきではない。そうやって、マネーを全て電子化し、政府銀行が調整権を持てば、インフレだろうとデフレだろうと自由に対応できる。

 こういったやり方が定着していくと、そのうち税金がなくなるかもしれない。たとえば、政府の資産は常に最適な数値に維持されるようルールを決めてしまえばいい。使っても減らなければ、税をとる必要はないからね。もちろん財政規律は守らなければいけないが、全体のバランスさえ失なわなければ、政府がいくらカネを使おうと、誰も困らないだろう。外国は文句を言うだろうが。税のかわりに資産調整制度があるから、格差が広がりすぎることもない」


「そうなると、マネーの総量が増える一方だから、どこかから減らす必要があるのでは?」

「さっきから言っているように、全ての口座を等しく98%などと減らせばいいだろう。ただし、為替動向にも影響を与えるから、やりすぎは禁物だ」


 そんなことが許されるなら、究極的には政府の資産も不要になるかもしれない。政府からの支払いはその都度新規にマネーが発生する。それで円の総量が増えても、ときどき全口座を数%だけ減少させて、マネーストックを維持し、貨幣価値が下がるのを防ぐ。なんて制度だ!


「税金がなくなるかどうかわかりませんが、Kさんの言われる通り全ての円が政府銀行の電子データになれば、納税は楽になりますよね」


「それに企業の経理会計業務も簡素化できる。政銀の会計アシストサービスでは、入出金データが自動仕訳される」


「話を伺うといいことばかりみたいですけど、デメリットはないんですか?」

「システムエラーが致命的になる心配がある。当然、ハッカー対策は必要だ。一旦システムが機能不全に陥ると経済活動が混乱する。TENシステムのサーバーとATMなどのクライアント機器には、ハッカー対策用に特別なセキュリティプロセッサーを搭載して、一般のパソコンなどからアクセスできないように工夫されている」


 このプロセッサーは模倣を防ぐため、わざわざ古いプロセスルール(28nmや45nmなど半導体製造の規格)に独自の改良を加えて生産され、周波数は処理の負荷によって変動する。製造後もきちんと連番管理され、どのATMや端末に使ったのか記録される。   TENの通信はまずこのプロセッサーが搭載されているかチェックされる。ランダムに生成される複数の計算をサーバー側でマルチ処理して、同じ問題をクライアント側に通信で転送。通信先でも同計算をして、計算スピードや処理の優先順位など途中の過程まで一致するかどうかをチェック。さらに、サーバー側の処理では、クライアントから送信されるプロセッサ番号と端末番号が、データベースに登録されている組み合わせと一致しているかチェックする。


「データを磁気だけで保存するのは危険なのでフィルムに記録する必要もある。経済の基幹となるし、金が動くたびに処理が行われるから、ハードウェアには相当金をかけなければいけない。端末のプログラムはRAM(書き込み可能)ではなくROM(読み込みのみ)に焼かないといけない。冗長化と負荷の問題からデータセンターは複数箇所用意し、分散処理を行う。もちろんミラーリングで同期はとる。まあ、そんなことはシステムインテグレーターに任せておけばいいんだろうが」


 ミラーリングとは、複数のディスクに同じデータを書き込むことだ。


「国内から現金をなくし、すべての円が政府銀行の電子通貨TENとなった場合、一番の問題は海外との関係だ。外国の企業や政府がTENを所有しても、政府銀行の口座にしか存在できないわけだから、必ず政府銀行との取引が発生することになる。常に日本政府が監視しているようなものだから、為替投機のためにTENを所有するなどといった使われ方は減り、日本と関係した現実のビジネスシーン以外で利用されることはほとんどなくなるだろう。どの組織がいくらTENを所有し、どう利用しているか丸裸になるから、投機には向かないということだ。TENを忌避する動きがでて、日本に対する投資が減るかもしれない」


「それで外国は納得しますか?」


「二十年前なら無理だが、日本経済の位置づけは大きく変わった。主要な企業は海外に拠点を移し、世界経済は日本なしで機能する。いまや経済ガラパゴスなんだよ。もちろん、輸入代金は支払うよ。それも基本ドル建てだから、これまで稼いだドルが無くならない間は大丈夫だ。TENを外国企業が受け取っても、日本国内でしか利用できないからね」


 輸出が大きく減って貿易赤字が定着しているのは知っている。輸入も減っているが、それ以上に輸出が激減してきている。かつて日本企業が得意としてきたすりあわせ型製品の産業は、モジュール化が進み、海外の新興企業にその座を奪われていった。今では日本企業が競争力のある分野は一部の部品産業ぐらいだ。それに加え国内市場の縮小からここ十年で外資の撤退も続き、日本経済と海外とのつながりは弱くなっている。


「社会を人体にたとえると、カネは血液のような役割を果たしている。ただ、人体と違うのは、各器官である企業や細胞である個人は、自分のところにカネが多く流れて来るようにつとめ、一旦自分のところに来たカネを手放さそうとしない。合成の誤謬という言葉があるが、個人法人ともに資産の最大化をはかると、社会全体にとって大きなマイナスとなる。だから、マネーがどこで停滞しているのか見極める必要がある。現在では、大雑派に把握するだけだから、どこで滞っているのかよく見えない。なかには脱税したり、宗教法人みたいに非課税だったりするからね。それで社会全体にうまく流れない。最悪、末端から壊死していく。


 景気対策を打つのは心臓の動きを活発にするようなものだが、毛細血管が詰まっていてはだめなんだ。これまでの制度はポンプが心臓ひとつだったのに対し、TENシステムは、全細胞に超小型ポンプを設置して最適な流れを生み出そうという試みだ。しかも、器官や細胞の情報を収集してやるんだからミスすることはない。


 カネがモノである限り、富の偏在、脱税、インフレ、不景気などの問題は避けて通れない。それが人類の不幸の大きな原因になっている。カネを紙幣や硬貨などのモノから電子情報に置き換え、人類の知性の結晶である最新コンピュータで分析して、余ったところから足りないところに資本を移動するなど、人工的なマネーフローを起こし、経済全体を最適化していくべきだ。私はこれを、これまでの商業資本主義に対し、電子制御資本主義と呼ぶことにした。


 貨幣経済と商業資本主義の発展で徳川幕府などの封建体制は滅び去った。近代を支配した商業資本主義だが、今ではそれ自体が暴走し、人間の手でコントロールできなくなっている。自動車でたとえると、スピード性能が上がり自動車の数が激増し、その一方で道路はカーブや障害物が増えた状態かな。道路は混雑して事故は増える。あちこちで渋滞し、車の燃費も悪い。


 電子制御資本主義は、商業資本主義のもとで多発する渋滞や交通事故を減少させるため、自動車と交通網に電子制御システムを導入するようなものだ。GPS、自動アシストブレーキ、アイドリングストップなどなど。といっても完全自動運転まではいかない。それでは自由主義を完全に否定するようなものだからな。ドライバーはいるが事故を起こしにくくし、混雑をふせぐよう最適なルートに誘導する。


 資本主義を自動車とするなら、共産主義は電車のようなものだ。目的地が駅から近ければ自動車より電車のほうが効率がいいが、駅から遠ければ自動車を選んだほうがいい。共産主義がうまくいっていた時代は、家が駅周辺に偏っていたようなもの。鉄や石炭などの大量生産にはむいているからな。家が郊外に散っていくと、自動車のほうが効率がいい。世の中が複雑になると、共産主義では、ニーズの多様化に対応できなくなった。


 だが、自動車では渋滞や交通事故に遭うかもしれない。電子制御資本主義は資本主義のやり方を継承するが、自動車本体と交通システムの改良で事故を減らそうという試みだ。もちろん、ドライバーの協力は不可欠だ。電子制御経済においては、大資本家や大企業に、強欲を少し抑えてもらう必要はあるかもしれないね。


 資本主義と共産主義の二択は絶対零度と摂氏二千度のどちらがいいか選べと言っているようなもの。最適解はその間にあって、常に変動している。それはあまりに複雑すぎて、人間の感覚ではもうとらえきることができない。だから、コンピュータでマネーの流れを細部まで分析し、社会全体の資本配分を最適化していく。そうすればいまある経済の問題の大半は消えていくことだろう。そう君も思わないかな?」


 K氏の言葉は、最後には世の中のマネーの流れ自体をコンピュータで電子制御していくといった新経済思想に対する賛美で終わった。少し酔っているとはいえ、今政府が押し進めていることをここまで褒めちぎるのは奇異な感じがした。そこが、ときには御用記事も書かなくてはいけない経済誌と、批判精神にあふれた三流紙の違いなのだろう。


 翌日。松浦恵の件はIさんにまかせ、政銀特集をひとりでまとめあげた。編集長に見せると、すぐにOKが出た。うちの編集室では、雑誌刊行の他に、ネット上で芸能ネタなどを発信している。「詳しくは弊誌次号にて」などと雑誌の宣伝もかねている。今回の政府銀行特集も、「二〇XX年 全てのマネーは政府銀行が没収する」という見出しで、ネットで派手に宣伝した。


 弊誌記者Tは、命の危険も省みず決死の取材を敢行し、関係者から政府銀行に関する極秘情報を入手。弊誌次号では総力特集を組み、征服銀行と揶揄される超巨大金融機関が企む恐るべき陰謀を解き明かす。


 (記事内容)

 あなたの全財産は吸血政府銀行に吸い上げられる。

 お札も硬貨も完全になくなり、マネーはただの数字になる。

 貧乏人から一夜で大富豪。資産調整で勝手に増減する金融資産。

 稼いだ金が全部消える。カジノより凄い。資産調整の天国と地獄!

 すべての銀行は淘汰される。征服銀行の独占シナリオ。

 金融関係者の不審死続出! 反対派に対する粛正が始まった。

 食物連鎖の最下層、一般大衆の行く末は?

 

 これを見た編集長から「富樫君、君、誇大広告の才能あるね。記事書くより、こっちのほうがむいてるわ」と、お褒めの言葉なのか、記者失格なのかわからないが、そう言われた。それから、

「手のひら認証は手相が悪いと、読み取り機器が故障する可能性大、と付け加えといて。運の悪い人間は機械にまで疎まれる、とか補足して」と、無茶苦茶な指示まで出た。

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