政府銀行
@kkb
第1話 残り22話
「政府系なんとか銀行ならともかく、政府銀行って名前おかしくないか?」
目的のそば屋に向かう途中、横断歩道を渡ろうとした直前に信号が赤に変わった。信号待ちの間にベテラン記者兼カメラマンのIさんが私にそう聞いた。
蒸し暑い夏の日のことだった。私も彼も、「正直出版」という中堅出版社で同じ雑誌の仕事をしている。世間の人間の大半は誌名すら聞いたことはないだろうが、「噂のトンネル」という自分でも恥ずかしくなるような、ギャンブル、芸能ゴシップなどがメインの三流紙だ。そんな泡沫誌でも、このたびの政府銀行の件についてはいろいろと言いたいことがある。もちろん編集長の方針により固い内容は避け、読者の期待と不安を煽りに煽った大げさなものにする予定である。私とIさんはその担当に決まり、これから取材に向かうところだ。
「日銀のような中央銀行、つまり銀行の銀行みたいな特殊なものでなくて、市中銀行、どこの街にもある普通の銀行に政府が全額出資する。それだけでもずいぶん変なのに、名前が政府銀行って、政府の機関銀行ですよって、開き直ったような単純な名前じゃないですか。なにか裏がありそうですね」
一応、有名大学経済学部出身で、社内ではインテリで通っている私はそういった。
国内最大級メガバンク大行銀行の経営危機に、以前のような公金注入という措置はとられず、預金の保証をしたうえで、一旦破綻させ、そのうえで政府自らが百パーセント出資する形で、店舗と顧客を引き継ぎ、新銀行を設立することになった。政府系金融機関は、日本政策金融公庫や国際協力銀行のように一般の銀行を補完する特殊なものなら存在するが、それでも民業圧迫の声はある。その政府系金融機関にメガバンクが加わるのだから、誰が考えても異常事態だろう。
それに政府銀行という漠然とした名前では、目的が曖昧で、何をしようとしているのか、見当がつかない。まさか、政府紙幣発行のための銀行ではないだろうか。いや、いくら政府の名を冠していても、独立した銀行では政府紙幣にならない。一般の紙幣は政府から独立した中央銀行が発行するが、政府紙幣は政府が直接発行し、法定通貨としての価値を持つ紙幣である。戦争など非常時の措置として活用されることが多い。国の借金である国債とは異なり、金利が付かず債務にならない。借金にならないからと、無尽蔵に発行するとインフレになるので注意は必要だ。
加えて、それまで日本銀行にあった政府自らの口座を政府銀行に移したため、――とはいえ、申し訳程度に少額は残してある。それに、銀行間の取引のため政府銀行の口座が日銀にある――公務員給与の支払いが便利になるという理由で、すべての国家公務員は、この得体の知れない新銀行に強制的に口座を作らされることが決まった。
「経済誌の仕事みたいだな。いつもとわけが違う。正直、規模がでかすぎてどこから手をつけていいかわからない。で、どう取材するかな」と、Iさんは団子鼻のてっぺんに脂汗を浮かべていった。
「税金いくらつぎ込んでも無駄だからつぶしたほうがいい。つぶれたら世間が困る。つぶすけど、預金は保護して、代わりの銀行を用意する。今度はつぶれないように、政府直営にした」
私は人ごとのようにそういったが、胸の内では、この政府直営銀行が政府紙幣発行に匹敵するほどきわどいことをするような予感がしていた。Iさんも同じように感じているようで、
「それなら、大行の経営陣入れ替えて、行員の給料下げたほうがいいじゃないか。やっぱり、何か裏があるな」と疑っている。
「預金、そのまま政府が使うためって、噂もありますよ」
日本国の借金は、天文学的数値にまでふくれあがっていた。しかし、いつ破綻してもおかしくないと言われながらも、なんとか持ちこたえている。今までのように、手間をかけ、利子付きの国債を販売するより、政府銀行が預金の一部を無利子で国に貸すのではと噂されていた。
「企業に融資するためじゃなく、自分たちが預金を使うための銀行か。泥棒みたいだな」
Iさんの言いたいこともわかるが、非常時にこれまでの常識は通じない。
そば屋に入ると、テレビで正午前のニュースが流れていた。男性アナウンサーが、「TENシステムで支払いをした場合、消費税を1%分下げる方針が発表されました」といったのを私は聞いた。聞き違いかと思ったが、Iさんが「そんなことしたら、預金者殺到で他の銀行はますます反対するな」と、感想をいったので間違いはない。
TEN(TOTAL ECONOMIC NETWORK)とは、政府銀行が運営する予定の電子マネーシステムだ。自分の口座から専用の電子マネーカード(IDカードと呼ぶ。INFORMATION DEVICE CARDの略。日本語にすると情報機器カードとなる。セキュリティ用のマイクロプロセッサーが搭載されていて、キャッシュカードも兼用する)に入金し、それを財布のように使うのは他の電子マネーと同じだ。TENでは、IDカードとサーバーコンピュータに、最新のキャンセラブル・バイオメトリクス(偽造防止技術)に対応した手のひらの静脈パターンを記録し、使用時には利用者の手のひらとIDカードのデータを照合し、他人に悪用されるのを防ぐ。
ここまではどうといったことはない。政府銀行では、管理を容易にするため、口座は一人につき一口座しか開設できず、カードの表面には顔写真、裏面には住所氏名生年月日が印刷される。TENシステムのIDカードは、その名の通り、単なる電子マネーのカードというより、政府が発行する個人の身分証明書にもとらえることができる。
TENシステムは、業者の申告を経ずして、販売時点で直接消費税を徴収できる。それゆえ、利用者のみを選択して、税率を下げることも容易だ。
「1%も下げてまで利用者を増やしたいのは、少しでも預金を集めたいということで、この不況時に貸し出しが増えると思われないから、預金がそのまま国家の財源に使われるのは確実ですね。あるいは無利子国債を発行して政府銀行に大量購入させ、他の金融機関はしぶしぶ購入とか」
私は例の噂が本当だと確信した。消費税を1%下げてまで、預金をかき集めたいのだ。
「使うのはいいけど、返すときどうすんだ?」
「基本は税金ですけど、増える見込みないから、また新たに預金を集めるんですよ」
「それじゃネズミ講だな。富樫、おまえいい学校出てるから、政府関係者にこの件知ってそうな知り合いいるか?」
「そんな知り合いいないですし、僕くらいの年じゃまだぺいぺいですし」
「じゃあ、しょうがない。Kさんにでも聞いてみるか」
Iさんによると、K氏は大手出版社が発行する経済誌の記者で、Iさんとは飲み屋で知り合った仲だそうだ。政府関係者や海外要人など多様な情報源を持ち、一般では知り得ない裏の裏まで知り抜いているという凄腕のジャーナリストだ。Iさんは彼のことを秘密結社の会員だと睨んでいる。
しかし、いくら飲み仲間とはいえ、同業他社の助けを借りるとはなさけない。それでも、他に伝手がなく、Iさんが連絡をとり、K氏は退社後に会ってくれることになった。
勘定のときおばちゃんがいった。
「そのうち、うちみたいな小さい店でもテン入れることになるんでしょうかね」
こんな場末の飲食店にまでTENのことは知れ渡っている。
「おつりとか計算しなくていいし、便利なんじゃないの」と、私がいうと、
「そりゃそうですけど、機械が壊れたりしたら困りゃしないかと。私、あんまり得意じゃないんで」
TENでは、システムが停止した場合、勘定ができないということになるのか。
「そのへんは国も考えてると思うよ」とIさんは適当にいった。
私とIさんが、政府銀行特集の担当になったのは、うちの編集部でもっとも適任だと思われたからである。つまり編集長あたりから、他の記者達より頭がいいと思われているらしいのだが、私はともかくIさんはそうはみえないので、そのK氏という人物と直接の知り合いということが決めてとなったのではないだろうか。
夕方にK氏と会うまで特にすることはなかったが、取材に行くと豪語しておきながら、昼食をすませてすぐに社に戻るのも体裁が悪いので、私たちはここ二、三年で急速に悪化した景気の動向をさぐるべく、これといった宛もなく町中へ繰り出した。
ここ数年というもの、日本経済は、雇用、GDP、国際競争力などすべてが悪化。国力の低下は目を覆うばかりだ。一部の部品産業を除けば、もはや日本は世界に必要とされていないとまで言われるありさまだ。しかし、すさまじい不況は日本に限ったことではない。すべての先進国が返済不可能な借金と膨大な失業者を抱え、身動きがとれずにいる。どこかがくしゃみをすると、総倒れになる危険性がささやかれている。加えて日本は、少子高齢化と人口減少の本格化にさらされている。地方の疲弊はすでに限界を超え、たまらず都会に脱出した若者達も、自分達を受け入れるだけの余裕が都市にもないことを早々に知るのだった。
「取材、取材、誰から取材しようか」
Iさんは呪文のように唱えた。
駅前で年輩のタクシーの運転手が暇そうにしていたので、話を聞くことにした。近づくと、後部座席のドアを開けてくれた。
「すいません。経済誌で取材をしてるんですが、お話聞かせてもらえませんか」と私がいうと、
「なんだ、客じゃないのか」と不満そうだ。Iさんは恰幅のいい体を車内に滑りこませ、「初乗り料金分払うから、世間話でもしましょうや」といって千円札を差し出した。
「初乗りは二キロまでだけど、どこ行きます?」
運転手が聞いた。
「ここから動かなくていいよ」
「代金だけいただくわけにはいきません」
「じゃあ、ロータリー十周で」
それから我々を乗せたタクシーは、狭いロータリーで、無意味な円を描いたのだった。
「なんか楽しいな」
Iさんは子供のようにうれしそうだった。私は少しあきれていた。傍目から見ればあのタクシー狂ってると思えるだろう。
注文どおり十周すると、タクシーは元の位置で停まった。精算をすませ、レシートを受け取ると、Iさんは、私に「これ経費で落とせるかな」といって笑った。「細かくチェックしないでしょ」と、私は適当に答えておいた。運転手は「じゃあ、なんなりと質問してください」と、バックミラー越しに私たちを見ていった。
Iさんは「そうだな。最近どうです?」と曖昧な質問をした。
「最近というより、かなり前からなんだけど、お客さん、いないね。特に今日みたいな平日の昼は」
その日は特に暇なようで、他の客が来る様子もなく、運転手は不満と不安を語り出した。
彼は今年で二十年目のベテランで、以前つとめていた印刷会社が倒産したのでやむなく運転手になった。最近タクシーを廃業した同業者も多いようで、
「一体、世の中どうなってるんですかね」という言葉が印象的だった。
他に二、三件取材をしたあと、公園に向かった。二人でベンチで一休みしているとき、Iさんがつぶやいた。
「金なんかいくらでも刷りゃいいんだけど、結局はうまく流れていかないんだな。金を人間さまが思い通りに動かせたら、全部解決することなのに」
「現実は逆ですね。金が人間を動かしている」
「何のために人間は金を造ったのかな」
この人はときどき見かけによらず哲学的なことを言う。
「物々交換の呪縛から逃れるためですよ」と、私は学者面して答えた。
マネー誕生以前、人類は平等だった。小さな共同体で狩りの収穫を等しく分け合っていた。マネーの登場で都市と職業ができた。生産性が向上し、人口も増えたが、同時に格差も生まれた。あり余る富を持つ者達はさらに欲望をふくらませ、貧しき者達は金持ちを憎み、時折反乱を起こした。誕生から六千年以上経つが、未だに人類はマネーをうまく扱えず、常に経済問題に悩まされている。
二人でそんな意義深い会話をしていた最中、「おい、富樫。あれ、見てみろ」と、Iさんがいきなり叫んだ。公園の向かいのマンションの入り口付近で若い女と中年の男がキスをして、右と左に別れた。男のほうは見知らぬ顔だ。女のほうは帽子とサングラスで顔を隠しているが、口元をあらわにしていた。その程度の変装では、芸能担当の私の眼をごまかすことはできない。
「ここ、たぶん松浦恵のマンションですよ」
Iさんもパパラッチの血が騒いでいるようだ。
「こりゃ、大スクープだ。俺は男のほうを追うから、おまえは松浦を尾けろ」
それから二時間後、人気若手女優はマネージャーと思われる人物と合流し、撮影現場に向かった。その頃すでにK氏との約束の時刻が近づいていたが、Iさんのほうはまだ男を偵察中で、私ひとりで待ち合わせ場所の居酒屋に向かうことになった。
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