第3話 STAY GOLD (向日葵)
これはどうやったら、正確に伝えられるだろうか。いや、正確にと言うのは、はじめから無理なことなのかもしれない。映る景色がそれぞれ違って見えるように、人の数だけ、その人間にとっての真実があるのだから。
そして、一人の人間も、さまざまな面を持つ。さながらゴッホの向日葵のように。
向日葵、そう「向日葵」だ。すべての鍵はそこにあった……少なくとも僕はそう考える。
西洋美術館のゴッホ展。そこがすべての始まりで、終わりだった。
夏は夜がいいと言っていた彼女は、その通り夜に、ただし似つかわしいとはとても言えない場所で死んでいた。
何故僕は気付かなかったのだろう。彼女が前日に電話をしてきたときに、どうして気付かなかったのか。彼女は僕に言ったのに、
「ひまわりの心境だわ。抜け出せるかわからない」
と。
僕が、彼女──仁科籐子の訃報を聞いたのは、その二日後のことだった。
「妹尾さんのお宅ですか」
「はいそうです。」
「昭和さんいらっしゃいますか。」
「僕です。失礼ですが…」
早朝の電話に、僕は飛び起きた。母は父の単身赴任先に、弟を連れて出かけている。半年後に受験を控えた僕だけが家に残っていた。
電話は警察からだった。
「二日前の晩に仁科籐子さんは君に電話をかけたね。それはどんな電話だったんだ?」
「どんなって、普通の電話でしたよ。部誌に載せる原稿が上がらないとか、部の研修旅行は今年はどうするのかとか」
人の良さそうな刑事さんが、指紋を取りながら僕に尋ねた。
スタンプ台のような箱の中には、グロスのような粉っぽい固形の油が詰まっている。爪以外のところを、その粉のような官職の個体につけて、薄いパラフィンのようなシートに押し付ける。一本一本そうして繰り返す。それから手のひら全体を取る。指紋というのはこうして取るのかと、妙に冷静な気分で僕は作業を見ていた。
「仁科さんはどういう子だったのか聞かせてもらえないか」
刑事さんは、後で手を洗うように言ってからそう言った。
「どうと言われても困りますが、変わっていると言えば変わっているし、普通と言えば普通の子でしたよ。」
「最近はどうだった?」
「よくは知りません。ただ…」
「ただ?」
身を乗り出して聞いてきたが、多分僕の答えは期待外れだったのだろう。彼は肩を落とし、僕にもう帰っていいと言った。
「ひまわりです。」
僕はそう言ったので。
そんなわけで、僕が彼女の死の詳細について知ったのは、その日の夕刊でのことだった。
《【女子高生怪死】
八月十九日(月)、西洋美術館の敷地内で、県内の公立高校に通うTさんが、死後二日を経て、警備員に発見された。Tさんは「ひまわり」と書かれた紙片を握っており、これの意味するものを巡り、当局は頭を悩ませている。》
僕はその続きを読まなかった。ひまわり、ひまわり、また「ひまわり」だ。何か「ひまわり」に特別な意味があるのだろうか。
左手に紙を握ってなんて、それこそよくある推理小説のダイイングメッセージだ。三文小説でもあるまいに、とはいえ彼女が文芸部で推理小説を書いていたとなれば、何か意味があるのだろうか。
《……なお、Tさんは自殺である可能性が高く、彼女について関係者は多くを語ろうとはしない。これも問題のひとつである。我々はTさんの死を通して、現代の若者の心を知ろうと思う。》
《Tさんの通っていた高校の校長ははTさんについて、取りたてて変わったところのない普通の生徒だったと語る。》
よくある話、そう、珍しくもない話かもしれない。でも、ほんとうにそうだろうか。
普通の子、これはどういう意味だろうか。静かでおとなしい子、目立たない手のかからない子、つまり注意して見たことはないということではないだろうか。
事件や事故が起こって、校長にその子のことを尋ねるのは間違っていると思う。校長が知っている生徒と言うのは、多く見積もっても、せいぜいが生徒会役員程度だろう。せめて、担任に尋ねるべきだろう。
たとえば校長に全校生徒の写真を渡したとして、果たして校長は、その中から、正しくただ一人を選び出すことができるだろうか。
普通の子。これには全く意味はない。どんな子かなんて、仕事や義務に追われている人にわかるわけはない。個人的に質問などをして印象に残っているなどの理由がない限り、すべての生徒を把握している人のほうが少ないのではないだろうか。
夏の暑さが目にしみる。見上げれば灼けるような日差しが目を射る。光の弾丸が視神経を撃ち貫こうとするかのようだ。道にとめられた自動車も、光を反射して、目が痛む。冬になれば、また別の事で文句を言いたくなるのはわかってはいるが、どうして夏の日差しはこんなにも暴力的なのか。
喫茶店のクーラーも、今となっては焼け石に水でしかない。外よりはましというだけで入り浸る。早朝も深夜も、外気温を上げる原因だとわかっていながら、つけずにはいられない。これのどこが残暑だろう。
自動車の白い色も、今となっては光をより多く反射するというただ一点で恨めしい。
今日は二十一日、夏休みももう終わる。そして僕は近づいてくる受験の二文字を考えていた。
「最近の若者は…」なんて大人達は言うけど、その昔自分達もそう言われていたことを忘れてしまったのだろうか。年配者に対しては「年よりはこれだから…」とも言う。つまり自分達の属する考え方以外は、異質なものとしては移籍しようとするのだ。
しかし、時が移れば多数を占める者達も変わる。自分達がそうだったように、年を経たものから少しずつ、時代という波に追いやられていくのだ。過度な抵抗は何も生まない。気付いてみればただ一人…、ということにもなりかねない。
だからと言って、個人の価値観や好悪の感情を捨てろと言っているわけではない。そのような個人を形作る上で不可欠なものは、十分に尊重されるべきである。
つまり僕が言いたいのは、ただ自分には理解できないからと言うだけの理由で、むやみに排斥非難をしないで欲しいという事だ。存在することを黙認してさえすれば、それでいいのだ。
光化学スモッグの中を、セミがけなげに鳴いている。やっと地上に出てみれば、汚れた空気とくすんだ空が周りを取り囲んでいる。あぁ、外はこんなものだったのかと失望し、自分を哀れむ。見上げる空は塵芥色に染まり、吸う空気も茶褐色だ。そこにはもう、あの済みきった青空も、冴え渡った空気も存在しない。ただ暑さだけが身を包む。
目を戻せば、空になったコップの中に溶けた氷とストロー。もう出なければいけない。一杯で二時間も粘ったので、ウェイトレスがこちらをにらんでいる。
「ありがとうございました」
クーラー病にかかったような声に追い出され、僕は外に出た。
ゆだるような空気の中を、泳ぐようにして家に着いた頃には、事件のことなどすっかり忘れ去っていた。人間と言うのは残酷だ。親しい人間がいなくなっても、しばらくすると思い出さなくなる。
思い出したのは、家の前の公園で、今を盛りと向日葵が咲き誇っていたから。自分こそが太陽だと言わんばかりに……
「ひまわりの心境だわ」
不意に鮮明な印象とともに、彼女の言葉がよみがえった。向日葵の心境。いつも王者然としている向日葵の心境で、どうしたら死ねるのだろう。彼女と最後に話したのが、電話とはいえ僕だったので、警察は何か言っていなかったかとしつこく聞いてきた。
午前一時なんてとんでもない時間だったので、よく覚えていないと言ったのに、何故今ごろ思い出したのだろう。多分この黄金色の大群の花のせいだろう。でも、少し気になった。
一度気にかかると、それが頭から離れなくなってしまう。このときの僕の状態はまさにそうだった。
僕は一応理系を選択している。だからと言って数学ができるのかと言うと、それは全くの誤解なのだが、夢のためには苦手だからどうだって言うんだ、人間のすることじゃないか、と言う感じである。
その日も僕は、必須の基礎解析、代数幾何、微分積分、確率統計の教科書を開いていたが、全くはかどらなかった。問題を解いている最中は夢中なので順調に進むのだが、ふと止まった時に、頭の隅にある「ひまわり」に気がつくのだ。
それを頭から追い出して問題を解くと言う作業を何度か繰り返した後、結局僕は統計を諦めた。こんな状態では身につかない。
ひまわり、ひまわり、夏の花。船の名前。太陽。日時計……
思いつくだけ考えてみても、大して出て来はしない。親が家にいないので、何をしているかと注意される心配もない。それがいいか悪いかはともかく、僕は辞書を手に取った。
1.菊科の一年草。北アメリカ原産。
2.日輪草。ひぐるま。
3.夏の季語
4.気象衛星の名前
5.花言葉は、あなたを見つめています。
探すものは見つからない。向日葵の心境と続くからわからなくなるのだ。向日葵のイメージは、太陽、夏。あとは光とか輝くとか、明るいものばかりだ。やはり、死という暗いイメージは出てこない。
推論に行き詰まった僕は、原点に戻ることにした。
彼女は文芸部員だった。意味のない文書を、死の現場に残すだろうか、と。
文章の技巧方法は何種類かある。一つは見たもの聞いたものをそのまま素直に表現する方法である。これは単純でありながら、実はとても難しい。雑多な表現をすべて取り払い、明確率直に自身の言いたいことを述べるこの方法は、一歩間違えればとても単調な文になる。
いま一つは、比喩倒置などを多用した方法である。これは前述のものとは違い、多くの修飾で自分の世界を構築するものであり、これもまた、逆の意味では難しい。何故なら過度の修飾はとてもくどい文になるし、あまりに修辞が過ぎると、意味不明になりかねないからである。
どちらにしても、書きやすさと読みやすさがイコールで繋がることは滅多にない。自身が世紀の傑作だと思っても、読み手にとってもそうであるとは限らない。自分の意図のとおりに解釈されるかどうかもわからない。本来読むという行為はその文章に自分を投影して初めて成り立つことなのであるから、万の人に万の解釈があって良いと思う。
話がそれてしまったが、つまり彼女が美術館で死んだこととひまわりには、何か関係がなければおかしいということだ。
彼女は比喩表現を好んで使っていた。そこから何かわからないだろうか。
ひまわり→花→黄色?
→植物?
→太陽→光
いや、違う。これでは前と変わらない。違う方向、たとえば美術館からならどうだろう…?
西洋美術館→ロマン主義→写実主義
→印象派→ゴッホ
→ひまわり
つながった。ひまわりだ。
でもこれでいいのだろうか。いいのだとしても、これにいったいどんな意味があるのだろうか………
僕は思考の限界に突き当たった。そしてそのまま眠ることにした。
時計は2時を回っていた。
夏季講習も大詰めになり、新学期に提出するものの整理に必死になっていたある日、僕は前の席の子が話しているのを耳にした。
「ゴッホの黄色の意味って知ってる?」
「ゴッホってあの黄色とオレンジばかり使ってる割に暗い絵書く、あの?」
「そう。そのゴッホ」
物理の問題に沈み込んでいた僕の意識は一気に現実世界へと引き戻された。何かとても重要なことが話されているような気がした。
「あのやけに多い黄色の洪水は、精神病だったって説が有名だったんだけど、色覚異常だったせいじゃないかって、最近わかったんだって」
「それに何か意味があるの」
「大有りなんだって。何でも、そのどちらかといえば暗くしか見えない世界にはっきりと映ったのは、黄色い、たとえばあのひまわりとか麦畑で、それが唯一の光に見えたとか…」
そのときに講師の先生が来てしまったので、その話の続きは聞けなかった。
僕は少しばかり残念な思いをした。もうすこしでひまわりが解けるかもしれなかったと。講義のあとにでも聞こうかと思ったけれど、結局、二人を捕まえることはできなかった。
次の日、その日はたまたま日曜日だったので、例の近代美術館に行ってみた。
印象派のコーナー。ゴッホ。「麦畑」、「橋」、…そして「ひまわり」。さまざまな、多種多様な絵の中で、それは異彩を放っていた。強烈な、黄色と橙の海。そこまで派手な色でありながら、見る人を暗く沈ませる。不安定な色調、どうも落ち着かない。
何か言いようのないものが心を縛りつける。名づけるなら不安としか言いようのない、形のないもの。
ゴッホはあまり好きではない。自己の本質を突きつけられるようで。まず色が、鮮やか過ぎる。目に映る風景とかけ離れた、それでいてそれとわかる色調に、心が揺れる。ピカソもあまり好きではないが、その思いとこれは違う。
一輪一輪形も色も違う向日葵を見てから、僕は図書館へ行き、ゴッホの伝記と美術年鑑のゴッホを借りた。
探偵するほど暇なはずはなかったが、ちょうど僕は逃げ出したい気分だったのかもしれない。あるはずのない圧迫感を感じていた。
降り注ぐ日差しも次第に柔らかく、日も短くなっていく。つい先日まで毎日太陽を追いかけていた向日葵も、今は実をつけようとしている。
過ぎ去りし日は確かにそうであったかなど、いまさら確認もできない。存在を支えるのは、時折訪れる鮮明なる記憶だけだ。それもまた時の流れに押されて、いつしか消えていくのかもしれない。
あの日が遥か昔と化した時、僕は彼女を思い出せるだろうか。彼女がそこにいたことを信じることができるだろうか。
過ぎた日は戻らない。わかりきっている。でも、思い返すことさえできないのか。
あの日、深夜だからといって突っぱねずに話を聞けば良かった。あの言葉の意味を聞けば良かった。ミヒャエル・エンデのような世界。時間が盗まれる、時間に追われる。
まさか何もしないで一日をつぶすわけにも行かず、家に帰って問題を解いた。
夜中に美術書を開くというのも、傍から見ると怖いかもしれない。
何気なく覗き込んだ絵画に引きずられる。内面を顕わした絵画は、人を惹きつける。
深夜の読書、夜更かし。ああ、でも何故僕はこんなことをしているのか。警察は彼女のことを、受験ノイローゼによる自殺としてあっさりと片付けてしまった。押し寄せる記者団も、もう姿すら見かけない。情報のあふれる時代、すべてのことはすぐに忘れられてしまう運命にあるのかもしれない。
時が忘れてしまったのなら、僕も諦めたほうが良いのだろうか、忘れてしまっても良いのだろうか。ひまわり畑が遠くなる。
九月の新学期が始まって、日々に追われていた僕は、次第に彼女のことを忘れた。過ぎたことにこだわらないという生来の気質も作用して、記憶の海に埋もれていきつつあった。
そして、僕は「ひまわり」に出会った。
**************************
ひまわりの夢
3年 仁科籐子
画人ゴッホの見た夢はどんなものだろうか。白黒の、それとも色鮮やかな夢だったのだろうか。
昨日、「夢」を見た。黒沢明監督の映画だ。ひな祭り、原爆、狐の嫁入り。その中で印象に残るのは、葬式と川、それから美術館だ。色鮮やかで、音や会話がほとんどないのは全編通じているが、この二つには目を奪われる。
「葬式」は日本人が撮ったのか、日本人が撮影したのかと疑いたくなるほどの異国感がある。しかしそれは古き良き日本だった。
美術館は全く対称的に撮られている。これが映像、「画」なのだと認識させる。現実ではそうは見えないだろう、金色の麦畑、川に架かるつり橋を、絵の中に入って見学する。ゴッホにも出会う。麦畑の中に立つ彼に、私は孤独と幸福を見た。
耐えきれなくなる前に夢は終わる。原色の後は無彩色という展開で話は進む。何気ない、短編の映像達に、目から涙がこぼれるほどのいとしさを感じた。
自然に、そのままで生きて行けたらどんなに素晴らしいだろう。自分を見失わずに進んで行けるのはどんなに美しいことだろう。私はそんな人にタンポポを渡したい。暗い冬も冷たい風も耐え忍ぶ、けなげなタンポポを渡したい。ずっとそのままでいてくれるように。
また、そうでない人にはひまわりを渡したい。現実を見ず、手に入らないものを見て暮らし、そして疲れて諦めがつかないのを隠すようにうなだれる、ひまわりのような人にはなって欲しくないから。
ひまわりの心、諦めきれない心を隠したまま進み、取り繕い、そして疲れて枯れてしまう。
だから私はタンポポでありたい。踏まれても暗くても、頭を上げて花を咲かせるタンポポに。
************************************
何を言いたいのかわからなかった。しかし現実に、これは彼女の遺稿だった。始まりと終わりに関係があったのか、それともなかったのか、今となってはわからない。
一度だけ部会の場として使わせてもらった彼女の部屋が思い出される。専門書ばかりの本棚が壁を埋め、整理された原稿用紙と書きあがった原稿が、所狭しと机からあふれる。神経質そうな文字が性格をあらわしていた。
時間はもう残されていない。僕はいま自分の持てる限りの力で、最善を尽くさなくてはならない。
そして今年が終わり、春になったら彼女にタンポポの花束を贈りたい。
そうしたらきっと、彼女を忘れずにいられるんじゃないか、そう思いたい。
百花展 @bibelion
★で称える
この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。
フォローしてこの作品の続きを読もう
ユーザー登録すれば作品や作者をフォローして、更新や新作情報を受け取れます。百花展の最新話を見逃さないよう今すぐカクヨムにユーザー登録しましょう。
新規ユーザー登録(無料)簡単に登録できます
この小説のタグ
近況ノート
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます