コイに落ちる音
葱間
コイに落ちる音
教室は夕陽に染められていた。
放課後の教室に人影ひとつ。僕だけが、誰も居ない夕暮れに取り残されていた。
確かそのときは、課題の提出が遅れたせいで居残りをしていたはずだ。かれこれ二時間ほど、教室で、独り課題にとり組んでいた。
二時間も独りで作業をしていると、そろそろ帰りたいという気持ちが強くなってくる。この時間の教室には、基本的には誰も来ない。たまに教師か警備員が見回りにくるくらいで、あとは基本的には孤独だった。
とても退屈で、そしてとても静かである。完全なる静寂に包まれながら、課題とともに二人きりでいるのは、ただただ苦痛であった。
かりかりかりかり。ペンの音だけが教室を満たした。
そうしてペンを動かして、ようやく課題が終わった頃には、夕焼けはその色を濃くしていた。グラウンドを見れば、野球部が片付けに勤しんでいる。もう今日は終わりだ。そして、明日が近づいてくる。はてさて、明日はどんな一日になるのだろうか。そんなことを思った。
夕焼けを見つめていると、ふと物思いに耽りたくなる。
今日はあんなことがあった。アイツが面白かった、コイツにムカついた。この授業は退屈で、あの授業は楽しい。
明日は何があるのか。明日は何をしようか。明日こそはあの子と話せるだろうか。そんな下らないあれこれが僕の頭の中を満たしていく。
ふぅ。とため息をついて、夕焼けから視線をはずすと、窓側最後方の席に目が止まった。そこは白百合さんの席だった。
その席の主――白百合哀花という少女は、とても『静』な人であった。下らないことに溢れ変える教室のなかで、唯一の静寂。いつも静かに本を読んでいた。その、静かさを湛えた彼女に僕は惹かれてしまっていた。たまにだが、彼女のその、長い黒髪から覗くとび色を、覗きこみたくなることすらあった。
はっきりいって、僕は彼女が好きだった。
しかしである。しかしながらどうにも僕は、白百合さんとの距離を縮められないでいた。新学年も、もう始まって3ヶ月ほどになろうが、未だに二言と交わしたこともない。それは、気恥ずかしさが原因であることもあったが、それよりもなによりも、僕という存在が、彼女の纏う雰囲気を壊してしまうことを恐れてのことであった。やぁ、と一言声を書けてしまえば、たちまち彼女の周りを囲んでいた空気は霧散し、そこには僕の求めた理想などは残らないのではないだろうか。そう思うと、一声かけることすら躊躇われる。こうして放課後の教室であれこれと考え、明日こそはと意気込もうと、いざその時になれば、決意が霞んで声が出なくなってしまうのだった。
自分という存在が、とても情けなかった。
慰めてくれよ、とばかりに夕陽を見た。
その時だった。
とび色と目があったのは。
僕の視線の先で、人影がフェードアウトしていく。そこまで理解して始めて、僕は、目の前でなにかが起きていることを悟った。
脳が興奮して、全速で回る。そのせいか、時間がゆっくりになったような感覚になる。スローモー。
ぼくの前でヒトが消えていく。なんでだ? なんで窓の外に。一体なにが? わからない。分からない。
鈍くなる頭で必死に考える。しかし、はっきりと分かったのは、とび色の瞳が白百合さんのものであることと、白百合さんが何故か逆さまであること。
そして、これが僕と白百合さんの視線が初めて絡んだ瞬間だった、ということだけだった。
ぐしゃり。
ああ。
落
下
音
が
。
コイに落ちる音 葱間 @n4o
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