猫の管理人



#1 猫たちの集う街



◆1


 ナィレンの衛星都市であるギウン市は、ナィレン崩壊後もその繁栄をしばらく続けた旧都で、街のあちこちでかつての栄華の面影を見ることができる。

 街中に色とりどりの紐が渡され、万国旗のように赤や黄色の三角布で紐を飾りつけていた。


「今日はゴミが少ない……いいことだ!」


 ギウン市の清掃ギルドの組員であるレウンは、その日も街の清掃に勤しんでいた。ギウン市は有名な観光地であり、観光客を歓迎するため街はギルドの手によって綺麗に清掃されているのだ。

 レウンは水色の清掃服に白いエプロンをつけて蒸気式掃除機で歩道を清掃していた。

 するとレウンの目前を猫が二匹横切った。どういうことだか最近猫をよく見る。野良猫は駆除対象だ。しかし規律はそれほど厳しくなく、レウンや他のギルド員も野良猫は苦情が来るまで放置することが多かった。しかし最近の猫の数は異常だ。


「こりゃ臨時会議あるかな……」


 レウンは若い青年であり、恋人がいた。今日は仕事の後に会う約束だったのだ。街のランドマークである巨大遺跡の公園でのデートの約束。しかし悪い予感は的中した。

 カチカチと緊急電信が鳴り響く。そのリズムは緊急招集を告げるものだった。ああ……レウンはため息をつくと、街の郵便局へ立ち寄り恋人に向けて電信を打った。


『きょうは いけない ごめん うめあわせ かならず』


 その後急いでギルド支部へ向かった。支部の前にはすでに同僚がたむろしている。


「おお、レウン。やっと来たか。これから会議だぞ」


 同僚は玄関近くの喫煙スペースで煙草を吸って会議までの時間を潰しているようだった。レウンは裏手に回り掃除機を収納する。

 それから同僚と共に会議室へと入った。中には上司がすでに待っていた。生真面目な独身の男だ。黒板に議題を描いている。それを見てやはりとレウンは思った。猫が……爆発的に増えているのだ。


「来たか、お前ら。これから会議を始める。カンのいい奴はもう気づいているだろう」


 黒板には色々なデータが描かれていた。ギウン市の野良猫が推定で千匹に増えているという。それほどだとはレウンも思わなかった。人目につかない所に大量に群れている所が確認されたのだ。上司はゆゆしき事態だという。

 清掃は行き届いており、猫が増えた所で観光客が喜ぶだけだろう。だが問題は、この増えた猫たちが他の地域から大量に流入している点だという。何故かギウン市に様々な場所から猫が結集しているのだ。これは伝染病などの伝播の危険性があるという。


「何故かはわからない……ただ、これ以上猫の流入を許すわけにはいかない。我々ノールトリア衛生局ギルドのギウン支部一丸となって公衆衛生を死守せねばならないのだ。猫を大量駆除せねばなるまい……」



◆2



 レウンはその日は帰宅を命じられた。終業時間も近いので、実施は明日からということになったのだ。会議が長引いてすっかり遅くなってしまった。恋人には悪いことをしてしまったがしょうがない。家に帰ると電信が届いていた。恋人からだ。


『ざんねん つぎは たのしみにしてる』


 そんなに怒ってはいないようで安心した。ひとまず今日は寝よう。しかしレウンはその日奇妙な夢を見た。

 レウンは夢の中で宇宙に浮かんでいた。手足をばたばたさせるが、宙を泳げるわけではない。星の代わりに宇宙に浮かぶのはたくさんの猫だ。四方八方から猫の声がニャーニャーと響いてくる。流星のように尾を引いて猫が猛スピードで駆け廻っている。

 しまった、猫の駆除なんて話をしてきたから、猫に呪われたか……レウンは焦る。しかし危害が加えられているわけではない。やがて誰かがスーッとこちらに近づいてくる。マントに身を包んだ直立不動の紳士だ。しかしやはりその顔は猫だ。


「こんにちにゃー、レウン様」


 その猫の紳士はレウンの直前で止まると、挨拶をした。マントから覗く服は詰襟のようだった。五芒星派の魔法使いの装いだ。レウンは猫の紳士に挨拶を返す。


「猫にも魔法使いはいるのか……?」


「さようでございますにゃー。僕のことは管理人と読んでほしいにゃー」


 猫が語尾にやたらとにゃーにゃーとつけるのはいささか滑稽だったが、口には出さず話を合わせる。

 魔法使いは絶対的な力を持つ。通常の人間など相手にならないだろう。この夢もきっと魔法の作用なのだ。自分の身柄は完全に掌握されていると言っていいだろう。まさか、駆除を前にして逆に駆除しにきたか? レウンは震えあがった。


「そう怯えなくていいにゃー。僕はあなたたちにお願いをしにきたのだにゃー」


 管理人はそう言って笑った。彼の言うことには、猫たちは一時的にこの街に集結しているが、やがて目的とする場所に一斉に旅立つというのだ。

 だから駆除の心配は必要ない。もう少しだけ駆除を後回しにしてほしい……そう言ってきたのだ。1週間たって猫の数が減らなかったら、駆除してもいい。でもその前に街の猫をみんな連れていくと。

 気づいたら、朝になっていた。管理人とはいったい何者なのだろうか。レウンは疑問に思う。しかし、これはいい話であった。駆除には大変な労力と費用がかかる。その猫がみんな去っていくというのだ。しかし猫の魔法使いとはいえ、そんなことが出来るのであろうか。レウンの疑問は深まるばかりであった。

 とりあえずその日は出勤して上司に夢のことを話すことにした。すると、驚くべきことを上司は口にしたのだ!



◆3



 レウンは上司に猫の管理人が出てきた夢のことを話した。すると、上司は思いがけないことを口にした。なんと、上司も同じような夢を見たというのだ! これは偶然ではないだろう。管理人は確かに存在するのだ。


「どうしましょうね、駆除のこと……」


「延期するしかないだろう。彼らが自分から去るというのだ。彼らの好きにさせてやろう」


 そういうことに纏まった。上司は集まった部下たちに駆除の延期を通達した。

 会議がひとつ無駄になってしまったがしょうがない。そして恋人との約束も……。しかし、猫は何のためにこの街に集結しているのだろうか。ギウン市は交通の要所ではなく、交易路などから少し離れている。集合場所にしてはすこし遠い。

 この街で何かを手に入れるつもりなのだろうか。結局その日はいつも通りの街の清掃業務を行うことにした。会議室から外に出て、建物の裏にしまってある清掃用具を取りに行こうとする。

 そうしようとして建物を出た時である。ギルドの清掃員たちはあっと驚いて立ち止まった。建物の外に……大量の猫がいたのだ! それも通り道にそって列を作っている。色はさまざま、大きさもさまざまな猫が大量に清掃ギルドの玄関に集結していた。

 上司が猫をどかそうとすると、猫たちはニャーニャー言いながら散っていった。どうしたのだろうか。もしかしたら会議の行く末を見守っていたのだろうか? それとも自分たちと戦おうと……?

 レウンははっとしてギルドの門を見た。そこにはマントを着たひとりの魔法使いが立っていた。顔はよく見えないが猫のようではなかった。彼はシルクハットを取り挨拶をするとゆっくりと立ち去っていった。

 猫たち……そして管理人が何をしようとしているのか、分かるのはこの日の夕方だった。



#2 猫の人間


◆1



 ギルド前にたむろしていた猫はやがて次々と去っていった。レウンは驚きつつも、その日の仕事があったので裏の納屋から蒸気式掃除機を取り出して街に向かった。街は相変わらず猫だらけだ。観光客が猫と遊んだり追いかけたりしている。

 しかもこの猫たちは大分行儀がいいのだ。露店の店先から食べ物をくすねたりしないし、フンを道端でしたりしない。喧嘩や無駄吠えで騒音をあげたりしなかった。これも例の管理人がうまく制御しているからなのだろうか、苦情もなかった。

 その日の仕事もいつも通り終わり、レウンはギルドに装備を返却して帰路についた。今日は外食しよう、カフェで何か食べようかな……気紛れにそう思った。夜になって街は明かりが灯り、街中に渡された色とりどりの紐やそれについた赤や黄色の布を照らす。

 よく行くギルド近くのカフェにレウンは寄ることにした。食事のメニューが豊富でボリュームもあるカフェだ。レウンはそこでキノコの辛味麺を注文した。赤いスパゲッティのような料理だ。これはレウンのお気に入りメニューだった。

 夜景のよく見える窓際の席について、レウンは麺を食べ始めた。その背後でまた一人客がカフェに入店する。マントを着た魔法使いだ。周りの人はその魔法使いの風貌に何一つ驚くことは無かった。魔法使いは紅茶を注文し、レウンの背後にゆっくりと近寄る。


「レウン様、隣よろしいですかにゃー?」


 彼は丁度麺を食べ終わり振り向く。そしてぎょっとした。夢で見た猫の管理人が背後に立っていたのだ。その頭は完全に猫のそれだ。周りの客も店員も全く気にしていないようだ。これはいかなる魔法か!

 レウンは慌てて口元を紙ナプキンで拭き、管理人に向かって囁いた。


「何だって急にやってきたもんだ、夢で会うんじゃいけなかったのかよ」


 管理人はニコニコ笑っている。何でも、直接会って話したかったという。

 2杯の紅茶を管理人は持っていた。そのひとつをレウンに差し出す。街を行き交う蒸気式自動車のヘッドライトが二人を時々照らした。


「これは僕のおごりだにゃー。このたびは大変迷惑をかけたにゃー」


 レウンは黙って紅茶を受け取った。

 わざわざ直接会って話をしに来るということは、何か重要なことを言いに来たに違いない。レウンは紅茶を飲みながら管理人の出方を窺った。管理人は紅茶に手をつけぬままゆっくりと話を始める。


「この街に来たのは大切な目的があったからにゃー」



◆2



 管理人は紅茶を一口飲むと言った。


「この街も紅茶がおいしいにゃー。我々は各地で猫を集めて回っているにゃー。北の街から南の街まで、東の街から西の街まで。灰土地域中の野良猫を集めて理想郷へと導くのだにゃー」


「理想郷……?」


「そうだにゃー。我々はいつの日か猫の楽園を作るのだにゃー。それはまだ計画段階にゃんだが……猫の手がたくさん集まれば計画は早まるにゃー」


 猫の楽園……確かに、厳しい野生で生きて人間に駆除されるよりはずっといい世界だろう。


「この街に集まっている猫たちは、そういう居場所を失った猫たちばかりだにゃー。皆快く楽園への旅を了承してくれたにゃー。もう1万匹も集まったにゃー。気付いていないかもしれないが、表にいるのはわずかで、土台の裏とか屋根裏にいっぱい潜んでいるにゃー」


 そんなに! レウンは口が開いたままになってしまった。しかし、この管理人、それほどの猫を御するとはただの魔法使いではないだろう。ただの猫がこれほどの魔力を使えるわけが無い。その辺のことを聞いてみるレウン。


「ふふ、僕も昔は人間だったにゃー。でも悲しい出来事があって、それから人間をやめて猫になったにゃー。これでも人間だった頃はかなりの力を持つ魔法使いだったにゃー。でも、いまはそのすべてを猫に使うことにしたにゃー」


 人間をやめるほどの悲しい出来事とはいったいなんなのだろうか。詳しく聞くことをためらわせた。きっと何か猫に関連がある出来事だったのだろう。猫の顔をした魔法使いは少し遠い目をして再び紅茶を口にした。そしてしばらく沈黙が続く。

 先に沈黙を破ったのは管理人の方だった。


「僕の理由なんて大したことじゃないにゃー。それよりレウン様、あなたに伝えたいことがあるにゃー。大事な話にゃー」


 自分に!? レウンはどきりとした。猫が自分に何の用なのだろうか。

 レウンは猫が特別好きというわけではない。かといって嫌いでもない。今まで生きてきた中でおおよそ猫に深くかかわったことなど一度もなかった。そんなレウンにこの猫の魔法使いは何を頼もうと言うのか。

 管理人は少し間をおいてから話を切り出した。


「レウン様、猫になる気はないかにゃー。僕の魔法の力があれば、あなたは猫になれるにゃー」


 猫にだって? 自分が! レウンは目を見開き驚愕した。

 猫になるなんて、生まれてこのかた一度も想像したことはなかった。それを今、この管理人は言ってきたのだ!



◆3



 猫の管理人は、街を巡り歩いている理由は猫を集めるためだけではないという。


「街で出会った人……その中に、猫と親和性の高そうなひとに夢で接触しているにゃー。それは猫と縁が無くても、猫のように、自由に生きたいというひとだにゃー」


 なるほど、確かに仕事に振り回され、恋人ともなかなか会えないこの生活が好きというわけではない。嫌いではないが、どこか自分に合っているかどうかが分からないのは確かだった。しかし急に猫になれと言われても……レウンは困惑した。


「待ってください。私はいままで人間として生きてきました。これから急に猫になれと言われても、自分の人生をここで急に無に帰すのは心苦しいのです。私はいままで人間の中で生きてきて、様々なしがらみに縛られています」


「そのしがらみが不幸の元だにゃー。思ったことは無いのかにゃ、このまま不本意な流れに身を任せて、本当の自由を知らないまま動けなくなっていくのは虚しいと……。レウン様にはチャンスがあるにゃ。猫の世界で自由に生きるチャンスが」


 管理人は紅茶を飲み干すと、レウンの目を真っ直ぐ見て語りかけた。


「レウン様はきっと優秀な猫になれるにゃー。生まれつきの猫というのは、やはりどこか自由すぎるにゃー。自由に縛られ過ぎて、自由を見失っているにゃ……」


「けれど、人間の魂と猫の身体を持つ選ばれし者には、全てを手に入れるチャンスがあるにゃ。いずれ猫を導き、猫の王国を築くためには、猫の人間の力が絶対必要になるにゃー。レウン様にはやはりその素質があるにゃ」


「頼みますにゃ、レウン様。あなたの力で猫を導いてほしいにゃー」


 レウンは視線を逸らし、首を振った。


「しばらく考えさせてくれ。時間が欲しい。これはすぐには決めてはいけないと思う。重要な、そう、重要な問題だ……」


「わかったにゃー」


 管理人はまだ諦めていないようだった。後日、自分の仮屋に来てほしいという。そこは無人の廃屋だったが、中は魔法で綺麗にしてあるという。そこが猫たちのこの街の拠点なのだ。


「ゆっくり考えてほしいにゃー。後日、家で待ってるにゃ。そこでレウン様の決断を聞くにゃ。無理を言ってすまなかったにゃー。ではまた」


 そう言って静かに管理人は店を出て行った。客たちは変わりなく談笑したり食事をしたりしている。

 レウンは黙ったまま食器を片づけて帰路についたのだった。



#3 猫の国へ



◆1



 家に着くと電信が一つ届いていた。恋人からだ。少し考え事をしすぎたせいか、その知らせは大きな心の癒しになった。


『こんどの しゅうまつ しょくじでも しましょう へんじ まってます』


 電信はそう記されていた。電信機がバチンバチンと紙のテープに文面をタイプし、スリットから吐きだす。忙しいレウンだったが、恋人は何度もデートに誘ってくれた。レウンはそれが嬉しかった。

 だからこそレウンは彼女にとても感謝しているし、会う時には何かプレゼントを包んでいった。しかしそう簡単に会えるわけではない。自由が欲しい。もっと自由になれば恋人ととも気兼ねなく愛を語れるのに……。


 そうだ、猫になれば全てが自由だ。猫のように、自由に歩き回り日差しの下木陰でくつろぐことだって出来る。一日に必要なだけ餌を取ったら、後は昼寝をするだけでいい。そうなれば、どれほど幸せなことか……一瞬彼は猫への願望に倒れかけた。

 しかし、そこではっと我に返った。そうだ、自分が猫になったら恋人はどうなる? 彼女は人間のままレウンを失うことになる。それはいやだ。自分にいままでこれほど尽くしてきた彼女を裏切れない……。レウンは猫への期待を打ち消しソファーに横になった。


 ネクタイも取らずに、レウンはそのまま眠りに落ちた。恋人と一緒に猫になることは可能なのだろうか。しかし、彼女の意思もあるだろう。彼女は猫になんかなりたくないかもしれない。夢の中で彼は猫を見ていた。

 レウンはペットショップの中にいた。ケースの向こうには仔猫が眠っている。レウンとケースの間は硝子の壁があった。そうだ、どんなに渇望しても自分は猫にはなれない。あまりにも多くのしがらみを抱えすぎて猫になることができないのだ。


 管理人はこのしがらみは害悪だと言った。だが、自分にとって愛おしいものも少なくはないのだ。全てを無にするつもりはない。全てを抱えて、レウンは生きている。それでいい、それで十分だとレウンは思った。

 もし何か悲しいことがあって愛しい全てを失ったのなら、全てを捨てて猫になることも出来るだろう。もしかしたら管理人が猫になったのも、そういった悲しいことがあったからなのかもしれない。だが、幸いにも自分はまだ大丈夫だ。

 そのことを、明日管理人に伝えてこよう。そうしよう……そしてそのままレウンは深い眠りに落ちていったのだった。



◆2



 その次の日仕事を終えた後、レウンはカフェで夕食をとり目的の家へ向かった。場所は昨日聞いておいた。街外れの廃屋だ。たしかにあそこにはボロ屋があった。だが、向かってみるとどうだろう、そこには立派な屋敷が立っていたのだ!

 色とりどりのネオンで装飾された軒下はまるでパーティー会場のようだ。キラキラと電球で飾られた入口のドアが眩しい。コインを入れて動く自販機が光って幾つも並べられていた。建物は4階建てで、2階から上は闇に沈んでいる。

 狭い土地に押し込められるように立っている屋敷。その前にはやはり大量の猫がたむろしていた。瞳孔の開いた目で一斉にこちらを見てくる。気押されつつも、猫の尻尾を踏まないように注意深く歩み寄る。


「こんばんにゃー!」


 突然ドアが開き、タキシード姿の猫の管理人が顔を覗かせた。レウンは驚きつつも、なんとかして昨日考えたことを管理人に伝えようとした。だが、それより先に管理人が話を始める。


「いま先客が来てるにゃー。ちょっとおもてなしに忙しいにゃー。呼んでおいて失礼して申し訳ないにゃー」


 そう言って彼は奥へ引っ込んでしまった。ドアの向こうからはさわやかな紅茶の香りがする。笑い声や歓談する声もささやかながら聞こえた。

 一瞬レウンは全てを捨ててこの歓喜の輪に入りたかった。足元の猫たちがニャーニャーとすり寄っては身体を足にこすりつけてくる。だがレウンはそこで踏みとどまった。ネオンがチカチカと点滅し、羽虫が飛び交う。

 光の溢れる軒下には一つのベンチがあった。フレームが錆びた金属で出来た、木製の落ちついたベンチだ。自販機で缶コーヒーを買うと、レウンはベンチに座った。風は暖かく、疲れた身体がリラックスする。缶コーヒーの熱がじんわりと手に伝わった。

 屋敷の中からは楽しそうな声が聞こえてきた。猫の生活も楽しそうだなと思いつつも、自分は外にいるという状況がどこか人間として生きる自分の主張に思えた。缶コーヒーの蓋を開けて、ゆっくりと香りを楽しむ。

 そのまま缶コーヒーを飲んでしばらく待っていると、再びドアが開いて管理人が姿を現した。


「いやはや、申し訳ないですにゃー。早めに切り上げるはずがなかなか盛り上がってしまって……どうです、猫になる気はないかにゃー。よければ一緒にパーティーを楽しもうにゃー」


 レウンは、それに笑って答えたのだった。



◆3



「猫になるお誘いですが……すみません、遠慮させてください」


 レウンは笑って、管理人に断りを告げた。管理人は少し驚いたものの、すぐその猫の顔を笑顔に変えた。残念そうではないようだった。


「やはりあなたは人間の道を選んだにゃー。残念だけど、それはいい選択だにゃー。きっとそうにゃー」


「申し訳ない。せっかく誘っていただいたのに……」


「いいにゃー」


「レウン様はきっと人間を捨てるのに躊躇する素晴らしい物を持ってるにゃー。それは幸せなことにゃー。それを捨てさせることは自分にはできないにゃー」


「そう、私には待っている人がいるんです。私の帰りを待っている人が……」


「それは恋人かにゃー?」


 管理人は微笑んでいった。どこか、昔を懐かしむような、そんな目をしていた。


「ええ、私には愛するひとがいます。もし恋破れるようなことがあれば、あなたの国を探しに行きますよ」


「そのときは!」


 びしっと背筋を伸ばし、恭しく礼をする管理人。


「そのときは快く受け入れるにゃー。我らが猫の国、もうすぐ実現するにゃー。もうすぐ、もうすぐなんだにゃー!」


 管理人はどこからかステッキを取り出し、コンコンと地面を叩いた。すると、ネオンがバチバチと火花を散らし、自販機がでたらめに点滅する。玄関にたむろしていた猫たちはみな2本足で立ちあがり、手をつないで輪になった。

 そこから猫の大合唱が始まった。レウンはベンチに座ったまま身動きが取れなくなっていた。館はガタガタと振動し、バラバラに散らばって夜空に舞いあがっていく。管理人は猫の輪の中心で、ステッキをタクトのように振っていた。


「猫の国はすぐそこさ、猫の国はすぐそこさ、急げ! 猫の国へ!そこは猫の楽園、猫の全てがある国――」


 猫の歌はやがて人間の言葉になり、大合唱はいつまでも続いた。ネオンは飴のようにぐにゃぐにゃと曲がり、光の軌跡になった。

 そして全てが大合唱と光の渦に巻き込まれた。レウンはベンチから振り落とされて、地面にぽっかりと空いた暗黒の渦の中へ落ちていく。猫は次々と飛び立ち、空中を舞った。館の残骸と共に、彼らはどんどん空高く舞い上がっていく……。

 レウンはそこで目を覚ました。彼はベッドに横になって寝ていたのだ。あれは夢だったのだろうか。しかし、机の上には冷めた飲みかけの缶コーヒーが置いてあった。レウンは一息をつくと、もう一度ベッドに沈んだ。



#4 猫の向かう場所



◆1



 レウンははっとして目が覚めた。つい二度寝をしてしまった! 昨日の光景は夢だったのだろうか、だが今日も仕事がある。時計はすでに出発時間を差していた。急いで着替えて、髭をそる。そして朝食も取らぬまま家を出た。

 急いで走り、バスに乗り込む。そして大きく息を吐き、時計を見た。ギリギリ間にあうようだ。レウンは一息ついて昨日のことを思い出した。結局アレは何だったのだろうか。自分はあの場所に行ったのだろうか。どこから夢だったのだろうか。

 バスの中に書いてある日付のプレートは確かに翌日の日付になっていた。猫はどこに行ってしまったのだろうか。バスの窓から街を見ても、あれほどいたはずの猫の姿は見当たらなかった。

 街はいつものように張り渡された色とりどりの紐で飾られ、赤や黄色の布が揺れている。セラミックプレートで出来た巨大な街並みは古代文明の面影を残していた。今日もこの街を綺麗に清掃するのだろう。

 そうだ、今日は早めに仕事を切り上げて恋人に贈るプレゼントでも買ってこよう、そうしよう。急いで走ったあとの心臓の鼓動はようやく落ち着き、レウンはそんないつもの思考に戻りつつあった。

 猫は消えた。全てはいつものままだ。いつものように街を清掃し、いつものように恋人と会う。それもいいだろう。猫の暮らしは自分にはまだ早すぎる……。そうしてバスは目的の清掃ギルド前へと辿りついた。


 ギルド前では、玄関の喫煙所でいつものように同僚が煙草を吸っていた。驚いたようにレウンを見て、にこやかに挨拶をする。


「よう、レウン。遅いじゃないか。今日は珍しいな」


 レウンはいつもは誰よりも早く出勤する。今日はギリギリだったのでかなり珍しいだろう。しかし同僚は奇妙なことを言った。


「そういえばまだボスが来ていないんだ。珍しいことは重なるものだな」


 上司が来ていない? レウンは奇妙に思った。上司もまた、レウンと同じく毎朝はやく出勤するのだ。非常にまじめで仕事熱心な上司。彼が、遅刻するなどありえなかった。だが、もう始業時間が迫っているのだ。


「どうしようかね、ボスがいなけりゃ仕事がめちゃくちゃだよ。無断欠勤なんて初めてじゃないか?」


 同僚たちはやれやれと煙草を消して仕事を開始した。今日は部長が指揮することになるらしい。部長も困っていた。

 だが、その日はとうとう上司は出勤することはなかった。



◆2



 後から聞いた話では上司は一晩のうちに行方不明になっていたという。上司は急に失踪するほど思い悩んでいたこともないし、借金や人間関係といったいざこざもなかった。それは不思議な事件だった。

 それから何年過ぎようと、上司は再び現れることも、その痕跡が見つかることもなかった。いわゆる完全な神隠し状態で消えてしまったのだ。清掃ギルドとしては新しい人事が行われて、代わりの上司が来ることになった。

 レウンはあのときのことをたまに思い出す。そういえば、上司も猫の管理人の夢を見ていた。あの夢を見たのは上司と自分だけだ。もしかしたら上司は猫になってしまったのではないか? そう思えてならないのだ。

 もちろん確証も手がかりも何もなかった。全ては想像に過ぎない。しかし、管理人の家を訪ねたとき思い起こすことと全てが合致するのだ。あのとき……レウンの他に先客がいたではないか。それが上司だったのでは?

 あのとき館の中に入っていれば猫になろうとする上司を止めることが出来たのかもしれない。レウンはそこまで考えて、いや、やはりと自分の考えを否定した。館に入った時、それは自分が猫になる時だ。

 今となっては上司の心の中はわからない。だが、もしかしたら上司はこの人間の世界に一種の壁を感じていたのかもしれない。そしてそれを猫の管理人はかぎつけ、誘ってきたのだ。同僚たちはみな楽しそうに生きている。猫の誘いには乗らなかっただろう。

 恋人との交際は続いている。今の仕事が落ちついたら結婚する話まで出てきていた。あのとき猫にならなくてよかったとレウンは思う。無味乾燥としているかに見えた人間の生き方も、悪くないものだ。

 あのときよりは少ないが、いまでも街中で猫を見る機会がある。そのとき、いつも上司の面影を探してしまっていた。もしかしたらいま彷徨っている猫は自分の分岐した未来の先かもしれない。しかしそのたびに思うのだ。

 管理人は猫の国を実現できたのだろうか。それはとうとう、分からないままだった。



エピローグ



 上司の家は事件調査のため封鎖されていたが、ある日官憲の調査の立ち会いの一環で彼の家に上がったことがある。レウンはそのときのことを思い出していた。あの日は晴れた夕方だった。

 上司の家は殺風景なアパートメントで、独り暮らしに丁度いいサイズのこじんまりとした家だった。ドアを開けると、あっと驚いた。普段の暮らしの様子がうかがえる独身男性特有のごちゃっとした住まいだったが……。

 あちこちに、真っ赤な猫の足跡がついているのだ! まるでスタンプのように猫の肉球がそのまま貼りついている。それは床中を埋め尽くすほどびっしりとつけられていた。いや、床だけではないのだ!

 天井や壁、家具に至るまで、猫の足跡はびっしりと貼りついていた。官憲たちもこれにはどうしたものか声も出ないようだった。行方不明の連絡があり家に押し入った所、この惨状だったというのだ。


「いったいこれはどうしたことでしょうね……何か心当たりはありますか? 何か魔術的なものに傾倒していたとか……」


「はぁ、彼自身そういった様子は無かったのですが……」


 レウンは猫の管理人のことを言おうか迷った。そもそも確証も持てない話であるし、魔法使いの起こした犯罪は黙認されるのがこの世界の法だ。これが魔法犯罪だと確定したら確実に迷宮入りだろう。


「そうですね……わたしには何も分かりません。すみません」


 官憲たちは少しレウンの話を聞き取り、彼を解放してくれた。もう上司と会うことも無いだろう。夕暮れから宵の口に入り、辺りは真っ暗になっていた。



 猫たちは、どこへ行くのだろうか。




猫の管理人 (了)



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