エコー
クィッチは深夜のダンジョンにいた。彼はごく普通の冒険者だ。右手には手斧、左手には革張りの丸盾。硬革の胴鎧を身につけている。頭には顔面まで覆う鉄兜。
彼のいる廃坑のようなダンジョンはもうほとんどのリソースを失っていた。ほとんど何も落ちていない。敵もいない。
それでもまだ最後の魔力の残滓を啜るように、ダンジョンに寄生している蟲などをたまに見ることができた。
このダンジョンは坑道のように木材で補強された地下道だ。壁面に、たまに巨大なダンゴムシのような蟲が張り付いていて魔力を吸っている。それを手斧で叩き割り、殻を集める。
晶虫と呼ばれるこのダンゴムシのような灰色の蟲は、比較的無害な生き物だ。アブラムシに生態が似ている。晶虫の多くの種類はダンジョンに寄生し、こうして壁面や空気から魔力を吸って生きている。ぴかぴか光る尻尾の触角がせわしなく動いていた。斧を振り下ろす。生臭い体液が噴き出す。
ここは非常に安全だ。魔力の濃いダンジョンは同業者や危険な生物などによる競争も激しいが、こういう廃棄寸前の場所はリターンも少なく競争相手はいない。クィッチは暇になって小銭稼ぎにやってきたのだ。
無抵抗の蟲を斧で叩き割る簡単な仕事。解体して村に持っていけば安く売れる。
クィッチの背中には晶虫の殻が積まれている。もう10匹は狩っただろうか? 小銭にしかならないが、手斧を素振りするよりは金になる。気分転換にも丁度いい。常に危険を感じるような緊張感が彼は嫌いだった。荷物が重くなり、そろそろ彼は帰ることにした。そのとき、かすかに声が聞こえた。
「どうしてたすけてくれなかったの……?」
少女のような美しく透き通った声。クィッチは振り返る。誰もいないダンジョンだ。静寂が続いた。クィッチの息の音だけが聞こえる。
“気のせいか……”
しかし、気になったので辺りを探索することにした。革のブーツの音が静かなダンジョンに響く。
ダンジョンは複雑に分岐し、時々小部屋がある。しばらく歩きまわったが、特に何も見当たらない。小部屋の中で、彼は首を傾げ思案した。答えは出るわけでもない。クィッチはやはり気のせいかと帰ることにする。しかし、そのとき少女の声。
「苦しい……苦しいよ……」
また声が聞こえたのだ。今度は先程より声が近い。彼のいる小部屋……その扉の向こうから聞こえた。少し考えるが、意を決して扉を開ける。扉の向こうは、長い一本道だった。視界の先は薄暗い闇に沈んでいる。不活性になっても、魔力は空気を不透明にぼやけさせる。注意を払いながら、一歩ずつ進む。
革ブーツの足音だけが薄暗い坑道に響く。腐った木材を踏みつぶすと、小指大のミミズが逃げていった。
「誰か……誰か……」
今度の声ははっきりと、坑道の向こうから聞こえた。
「誰かいるのか?」
声をかけてみる。だが、返事は無い。さらに道を進むクィッチ。響く足音。坑道は行き止まりになっていた。行き止まりには、小柄な白骨死体が転がっていた。
“やれやれ、死霊の声を聞いてしまったか?”
クィッチは神を信仰していなかったが、この白骨を弔ってやることにした。もちろん信仰があった方が確実だが、知識があれば可能だ。
「天の流れ、地の脈の中で、彼の魂が救われんことを」
無信仰でも、神にコンタクトすることはできる。恩恵は無いに等しいが、死者の魂は救われるだろう。死霊がいつまでも現世に留まると様々な厄介事が起こる。やがて白骨は燐光に包まれ、消えていった。
「無事浄化してくれたかな」
突然、背負った晶虫の殻がカタカタと動きだす!
「たすけにきてくれたんだね……!」
殻はドロドロに溶け、変異していく! 灰色の殻は青白く変色し、人型を形成していく。クィッチは振り落とそうとするが、細い腕が彼の首に絡む。生臭い晶虫の体液の匂いは消え、甘いような香りに変わる。
殻はもはや完全にひとの……少女の姿となった。裸のまま背後から力強くクィッチを抱きしめて放さない。体重は羽根のように軽いが力はまるで熊のように強い。
「うれしい……もう、置いてかないでね……」
クィッチは恐る恐る背後を振り返る。金髪の少女の眼窩は、深い暗黒に満たされていた。
あまりにも強く抱きしめて放してくれないので、クィッチは少女を背負ったまま帰ることにした。人間離れした体力を持つ亡霊相手に体力勝負は無茶な話だ。気分が変わって浄化してくれるのを待つ方がいい。彼女の未練を断ち切ることが必要だ。とりあえず世間話でも振る。
「なぁ、お嬢さん。名前は?」
「イーシ……わたし、はやく帰りたい」
イーシ……クィッチはその名を聞いたことがあった。街で有名だった富豪の娘だ。数年前彼女の両親が急死し、都合のいいようにイーシが行方不明に。遺産は親戚で山分けにされた……。よくあるドロドロした話。
「ああ、帰れるんだよ。お前は自由だ」
「ウフフ……」
ダンジョンから出たこの死霊が暴れようが知ったことじゃない。殺した奴が悪い。とりあえず解放してくれればいいが……。ダンジョンの外はもうすぐだ。クィッチはそう思ってダンジョンの入口の鉄扉を軋ませながら開けた。
扉を開けると、朝の光が差し込んできた。山の稜線を光らせて太陽が昇るのが見える。もう朝になっていたらしい。ダンジョンの外は澄んだ綺麗な空気だ。
「帰ってきた……帰ってきたんだ……」
イーシの身体が半透明になって薄れていく。肩の重量がどんどん軽くなっていく……。そして彼女は完全に消えた。
浄化されたのだろうか? 日の光を浴びただけで浄化されるのもよくある話だ。クィッチは深呼吸をして、とりあえず安堵する。とりあえず家に帰ることにした。手に入れた晶虫の殻は全部無くなってしまった。それでも、手斧を素振りしたくらいにはなった。
それから数ヶ月がたった。富豪の親戚たちは相変わらず元気だし、特に変わったことも起きなかった。例のダンジョンは完全に生産能力を失い、街の施設として再利用することになった。クィッチは相変わらずのらりくらりと暮らしており、危険を避けて、つまらない小銭稼ぎを続けている。
ただ、クィッチが家に帰ると……どこからともなく、
「おかえりなさい」
という少女の甘い声が聞こえるのだ。どうやら彼女はまだ“いる”らしい。クィッチのものぐさな性格を現したような、ごちゃごちゃした、つまらない部屋だ。そこに少女の華やかな声は美しく響いた。
少女のその声はどこか嬉しそうだった。最近は、クィッチも「ただいま」と声をかけている。すると、少女の嬉しそうな笑い声が聞こえてくる。窓際で風鈴が鳴るように、その声は生活に彩りをもたらした。そして、この奇妙な共同生活はしばらく続いた。彼女は新しい居場所を見つけたようだった。
そして何十年も過ぎ、クィッチは家庭を持ち、声もいつのまにか聞こえなくなった。だが、いつまでもその声は忘れることなく記憶に残り続けた。いまでも、“おかえり”の声が聞こえる気がするのだ。
エコー (了)
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