タマネギの形をした涙
#1 変態とのコネクション
◆1
旧都ナィレンの朝は穏やかである。無数の鳥が象牙色の摩天楼を飛び渡る。そこに住人はいない。
古代科学文明が崩壊し、膨大な知識と共に巨大建築物群は封印され、周辺を取り囲むあばら家に人は住む。エンジェもそうだ。彼女はボロアパートでシャワーを浴びていた。
水道があるだけでもかなり高級だが、質は粗悪なものだ。時折お湯が途切れ、ついには水になり、止まった。
「むむっ、寒い……どうしてなの」
エンジェは止まったシャワーのバルブをガチャガチャと動かす。濡れた長い髪が冷えていき、背中が冷たい。
「ミェルヒ!」
同居人の男の名前を呼ぶ。水が止まるのは危険だ。ボイラーが破損してしまう。ナィレンの水道は非常に劣悪で、よほど金を積まないと安定した水の供給は無理だ。
そして若い冒険者コンビのミェルヒとエンジェには、そんな金など無い。
「ふざけないで!」
反応が無いミェルヒへの怒りをバルブにぶつける。バルブはうんともすんとも言わない。エンジェは風呂場から飛び出し……そこで、丁度脱衣所にやってきたミェルヒと鉢合わせした。
「あっ、お湯、出てない?」
赤錆の浮いた鎧を着た青年は、気まずそうに視線を逸らす。
「ヒィィ!」
風呂場に素早いバックステップで戻るエンジェ。ミェルヒはタオルを近くに置いて、慌ただしく脱衣所を後にする。
「水でないし、ボイラー止めたし、もう上がった方がいいよ」
「裸見たでしょ! 後でなんかおごってもらうからね!」
風呂場の扉を僅かに開けて外の様子を見るエンジェ。ミェルヒはどこかに行ったようだ。恐らくボイラーのメンテに行ったのだろう。
びしょぬれの身体がやけに寒い。軽く髪を拭き、身体にタオルを巻く。
「あーもう、シャワー浴び直しするからね、絶対」
ナィレンの住宅の宿命。それは、インフラ設備の不安定さである。水道が通っているだけまだましだ、下水すら整備されていない物件も少なくはない。
ミェルヒとエンジェは二人とも精一杯働いているが、なかなか収入は増えず、このような物件に甘んじるほかなかった。
(何年こんな家に住まなくちゃいけないんだろう)
エンジェは着替えながらため息をつく。先の見えない不安が彼女にはあった。エンジェの本業は画家だ。だが、彼女の絵は全く売れない。出展しても酷評ばかり。
そもそも絵を描き続けて儲かったことなど一度もない。
いまや彼女の収入は、完全に副業の冒険者稼業で占められていた。フリーランスの騎士であるミェルヒと組み、幾度となく危険を踏み越えてきた。
その暮らしが嫌というわけではない。ただ、エンジェはどうしても、自分の絵を売り込みたかった。
(これからも絵を描き続けることはできるのかなぁ)
ぼんやりと考えながら部屋着に着替え、ふと窓の外を見る。夜の闇の中にぼんやりと浮かぶ誰かの顔。いわゆる覗き魔。2階の壁にへばりついている。硬直した顔と目が合った。
エンジェは真顔で、洗面台の剃刀を手に取った。
◆2
変態が土下座している。すぐさま追いかけたエンジェとミェルヒに捕まったのだ。一般人が冒険者の身体能力にかなうはずもない。
ミェルヒが木刀をもって睨みつけると、変態は加齢の呪文でも使ったのか急によぼよぼのおじいさんになり咳き込む。
「このようなジジイをいたぶるとは、人の心が……」
ミェルヒは目の前で、こぶし大の石を甲冑の小手で握りつぶして見せる。
「とりあえず、お前はどこの誰だ」
「へへぇ、魔法札写本業の者です」
変態はすらすらと自分の名前、身分を話す。身体は青年に戻っている。
魔法札とは、紙に魔力をこめて書くことで、特定の効能を持った魔法商品を生み出すものである。身体にインプラントしたり鎧に組み込んだりしたシリンダーに魔法札を消費して魔法を封入すれば、魔法使いでなくとも魔法を使える。これを売る魔法店が街中に存在していた。
魔法商品は消耗品であり、需要も高いため、様々な客に対して、それぞれのニーズを叶える多種多様な魔法商品が日々生み出されている。
魔法札は長期保存も可能で、紙幣と変わらない大きさのため、巨大な市場となって世界中に普及していた。
「魔法札写本師ってことは、何かいま魔法持っているの?」
「へへぇ、加齢の呪文のほかは、日用魔法を少々……」
「お湯の魔法はある?」
変態は鞄からしわだらけの魔法札を差し出す。お湯の魔法だ。
「これでご勘弁を……」
エンジェはむっとした顔で正座する変態を見下ろす。
「言っておくけどね、自警団に差し出さないのは、慈善じゃないの。私も魔法をよく使うから、ちょっと便宜図ってもらおうってだけ。示談ってやつ。裁かれたときの罰金分は、しっかり魔法札で払ってもらうからね」
こういう所は、エンジェは抜け目がない。魔法は消耗品のため、経費が意外とかさむのだ。お湯の魔法は安いので、叩けばまだ絞れそうだ……そこまで考えたとき、リビングの電信がカチカチと受信音を発した。パンチカードをするすると吐き出す。
「あっ、仕事だ」
「今日は帰っていいよ。また覗いたらどうなるか分かってるでしょうね」
「へへっ……ありがてぇ……失礼いたしやす……」
へりくだるあまり口調が変になっている変態を家の外に放り出し、エンジェは電信のパンチカードを見る。
「緊急……いいお金になりそう」
エンジェはお湯の魔法を、身体に埋め込んだシリンダーに封入する。これなら水道が止まっていても、暖かいお湯を全身に浴びて楽しむことができる。
「ミェルヒ、私お湯浴びてくる!」
さっきまでの不機嫌はどこへやら、エンジェはぴょんぴょん跳ねながら風呂場へと向かっていった。
「水道が詰まっている……か。こりゃ大ごとだな」
ミェルヒはパンチカードを見ながら、錆びた鎧をギシギシ軋ませて準備を始めたのだった。
◆3
ナィレンの南には灰土地域を横断する大河……聖河が横たわっており、水資源に乏しいナィレンは、古代より聖河から水道を渡して水を確保していた。
古代エシエドール帝国の時代から石造りの水道や水道橋は大切に維持されていたが、今回そこが詰まったという。
ただ詰まっただけではない。謎の巨大植物が水道を埋め尽くしているという。こういった問題は、自警団の手に負えない。アーティファクトを所持した冒険者の役目である。アーティファクトは高価であるため、自治体が管理運営するのは費用的に難しい。特にナィレンのような弱い都市は。
アーティファクトを安定して生産出来れば話は違うだろうが、アーティファクトは偶発的に出現するものだ。力とは権力であり、ある日突然ただの人間が権力を手にする。
権力を奪うためにはかなりの労力を必要とする。だから、仕事を提示して、安価でレンタルする。その方が楽だ。
ミェルヒもアーティファクトを所持した冒険者だ。エンジェはアーティファクトを持っていないが、ミェルヒをサポートして彼の死角を埋める。
ミェルヒが持つ赤錆の鎧は様々な性能を秘めている。火炎放射はよく使うだろう。半面、めったに脱ぐことはできないという呪いが課せられている。
エンジェとミェルヒは現場に来ていた。目の前には巨大な植物。青いタマネギ。水道を太い根で埋め尽くし、セラミックの蓋をこじ開けて天高く伸びている。
「これは自警団には無理だね」
水道の幅は5メートル程度。水路といってもいい。それが完全に塞がれている。
あふれ出た水が田畑に浸水して農民が困った顔で座っている。辺りは田舎町で、広い畑が広がり小屋のような農民の家が点在していた。
「気を付けてくれ。水道だから農薬は使えないし、斧で切ろうとしたら根を伸ばしてきて反撃する。危険だ」
自警団が説明する。
「ま、植物だからね。軽く燃やしてみるかな」
見るからに水分量の多そうなタマネギだったが、ミェルヒの持つ赤錆の鎧の火力も負けてはいないだろう。虚空に火を噴く。ミェルヒの身長の倍ほどもある火柱がバシネットの兜から噴出した。
エンジェは出る幕もないと暇そうにしている。
ふと、水道脇の街道を見る。一人の男……いや、おっさんが息を切らして走ってくる。薄汚れた白衣を着ている。
「やめてくれー!」
必死に叫んでいる。エンジェは、絵の具で汚れた自分のネズミ色・ボロボロ・ワンピースと汚れた白衣が似ているような気がした。
ミェルヒはタマネギに向かうのをやめて立ち止まる。何が事情がありそうだ。おっさんは転がり込むようにミェルヒの前に立ちふさがり、彼の両足に縋りついた。
「頼む、タマネギを焼かないでくれ、頼む!」
おっさんの目の下にはクマがあった。伸ばし放題の無精ひげ。涙を流しながら懇願する。
「俺のせいだとは分かっているが、あのタマネギは俺の全てなんだ! 頼む、時間をくれ……なんとかさせてくれ!」
#2 今まで何をしていたんですか?
◆1
街道沿いの、水道が長く伸びる脇道。元はここに研究室があったという。といっても、納屋とそう変わらない粗末なものだったが。
それを粉砕し、タマネギは水を取っていた水道に伸びていき、そこで急成長した。そして研究室は押しつぶされ、水道は塞がった。
おっさんが説明したのは、そのような状況だった。
「あの青いタマネギは、俺の研究している作物なんだ……研究データは瓦礫の下。苗もあれしかない。あれが死んだら、俺の研究が……頼む!」
涙ながらにミェルヒの脚に縋りつき、懇願するおっさん。
「25年……25年かかった。酸性の灰土地域の土壌……どうにかして作物を育てたかった。火山灰の養分を利用し、聖河の豊富な水を確保することで、可能になる巨大植物の研究……25年かかったんだ! もうすぐ苗が完成するんだ。なのに……苗が暴走して……」
おっさんの研究している植物は気温か何かの条件で暴走し、研究所を破壊したという。すぐさま役場に駆け込んで陳情したが、役場はナィレン都市部の要請で冒険者を派遣した。さっきまでおっさんは役場で説得を続けていたという。話を聞いてもらえず、現場に駆け込んだ次第だ。
地面に手を付き、深く頭を下げるおっさん。
「25年……25年かけたんだ。俺にはこれしかないんだ。頼む……もうすぐ、夢の食料が……計画的な、大量生産……水耕栽培……」
そう言われても、インフラを破壊している以上対処せねばならない。ミェルヒもエンジェも困り顔だ。
「あのう、もっと安全に研究を行うことはできなかったのですか? 見たところ一人のようですが、スポンサーにバックアップしてもらうとか……」
おっさんの土気色の肌が悔しさで歪む。
「奴らは何も理解をしてくれない! 資料を見て、今まで何をしていたのですか? 実績は?」
自嘲めいた笑いをひとつ。
「今まで何をしていたかって? ……あのな、本気で生きていたんだよ! 紙切れ眺めただけで人の苦労を勝手に見透かした気になりやがって! 問題点ばかり指摘して、これじゃあ無理ですね、だ。俺は……誰にも理解されなかった」
「夢さえ追っていれば幸せだった。金にも女にも興味はなかった……それで、このザマだよ。俺の全ては……25年の研究は、これだけなんだ。これだけが、俺の全てなんだ……他には何もない、空っぽの、空虚な人生だよ……」
おっさんは感情が爆発してもうどうしていいか分からないようだ。
ミェルヒは青い巨大タマネギを見上げる。恐ろしい成長速度で、球根を膨らませ続けている。早くしないと火炎放射で対処できなくなるかもしれない。
ちらりとエンジェを見る。エンジェも判断に困っているようだった。野次馬の見物人が集まり、がやがやし始めた。
とうとう、白衣のおっさんは号泣をし始めてしまった。見物人は何が起こったのだろうとひそひそ話している。
居心地が悪い。とても悪い。エンジェはおっさんの気持ちが分かる気がした。彼女もまた、理解されない夢見る者だったからだ。
◆2
急成長を続ける青い巨大タマネギ。エンジェも、ミェルヒも、おっさんも。それを解決するベストな案を持ってはいない。
エンジェはおっさんの汚れた白衣に、自分の絵の具で汚れたワンピースと同じ思いを重ね合わせる。
「おじさん……わたしも、おじさんの力になりたい」
そのとき、大きな音を立てて水道の壁が破損した。大きなひびが入り、水が漏れだす。役場の者が慌てて塞ごうとするが、うねうねと動く根に阻まれてどうすることもできない。
「壊れちまう! 早く何とかしてくれぇ!」
作業員の悲鳴。
エンジェは慌ただしくなる現場を背に、力強く語る。
「おじさんは、ひとの役に立てるんだよ。そして、認められるべきなんだ。こんな……誰かに迷惑をかけて、ひとに害を与えるような形じゃなくて」
「そんな簡単に役に立てるもんか」
おっさんは目を回しながら言う。
「無理だよ。俺は25年かかったんだ。役に立つために、ずっと石の下でもがいていたんだ。それでもダメだったのに、いまさら『役に立とう』なんて思ったところで、何の成果もあげられるわけないじゃないか。俺はこの暴れるタマネギを処理するか、どうかの瀬戸際なんだ」
それを聞いても、エンジェという人間はおっさんに誇りを取り戻してほしかった。
「石の下にいたんじゃない、本気で生きてきたんだよ」
絵が売れないからと言って筆を折るような性格はしていないし、どんな絶望的な状況でも諦めたりはしない。
「本気で生きてきたと胸を張って言えるなら、いまから25年後だっておじさんは本気で生きているはずよ」
その言葉は、おっさんに投げかけたものだろうか。それとも自分自身に言い聞かせたものだろうか。エンジェは、自分の言葉に茫然としてしまった。
(25年後……わたしは絵を描いているだろうか)
決心を促したつもりが、自分の決心を試す言葉になっていた。エンジェは戸惑っていたが、おっさんの方はそれで決心が固まったようだ。
「……駆除を頼む。欠片からでも培養を試せばいい。正直、何年もかかるだろう」
おっさんの目には涙が浮かんでいたが、誇り高い表情だった。
「そんなのって……」
「いいんだ。結局25年間何もできなかった。それでいいんだ。俺にはお似合いだよ。大丈夫だ、方法は分かっているんだ。次はもっと……早くできるはずだ。さぁ、タマネギを焼いてくれ」
ミェルヒはおっさんの決心を受け取った。作業員に指示し、野次馬を遠ざけるよう言う。バシネットを開く。バイザーが持ち上がり、火炎を吹き出す管が露になる。バシネットの兜に内蔵されたシリンダーが唸る。ミェルヒが受け取ったおっさんの決心が揺らぐ。
準備は終わっている、いつでも、巨大な火柱をタマネギに浴びせることができる。しかし、ミェルヒは最後の最後で躊躇した。そして、苦しそうに言葉をこぼす。
「ダメだ……こんなんじゃダメだ。自分が犠牲になって誰かの役に立つなんて、生贄じゃないか!」
◆3
どうやらエンジェとミェルヒ、そしておっさんの気持ちが通ってしまったらしい。何とかしたい。でも、いい案が浮かばない。
エンジェは水道を塞いで急成長する青いタマネギを、何とかしたかった。
(何も実を付けずに、おじさんの頑張りが消えるなんて……ダメだ)
そのとき、エンジェの脳内に稲妻が閃く。
「何も実を付けずに……だったら、実を結べばいいんだよ!」
思わず大声を上げる。
「タマネギを急成長させてさ、花を咲かせて、種を作ればいいんだよ! できる……きっとできるよ!」
「そんな都合のいい魔法あったっけ」
「今朝見たじゃない。加齢の呪文よ」
確かに、加齢の呪文は急成長を促し、結実を促進する作用がある。一般の作物に使われていない理由はいくつもある。魔法が高価であり、発育が不十分のまま急成長させても貧弱な実がつくだけだ。
ミェルヒの悩まし気な声。
「しかし、加齢の呪文は不人気で需要もないし、扱っている店も少ないからなぁ。かといって若返りの呪文はもっと高価だし……」
「イヒヒ! 見たじゃない、今朝丁度、加齢の呪文を扱っているひと!」
エンジェの相変わらずな気持ち悪い笑い。
「なるほど、変態とのコネクションがあったか。そうと決まれば早く行動しなくちゃ。タマネギをこれ以上成長させるわけにはいかないよ」
日は高く上り、ちょうど正午といった時刻。街まで馬に乗って往復しても1時間といったところだ。二人は現場を作業員に任せる。
そして急いで街に向かい、変態が白状した店を突き止める。店はすぐに見つかった。孤児院の裏にひっそりと佇む個人魔法店だ。窓ガラスが曇っており、繁盛しているようには見えない。
「邪魔するよ!」
勢いよく入店する二人。
「ヒッ、お許しを……自警団に突き出すのは……どうか……」
店のカウンターの向こうに隠れた変態の元へ、どかどかと床を踏んで近寄るエンジェとミェルヒ。
「大丈夫、協力してほしいだけ。値切らせてもらうけど、報酬も払うよ」
「へへぇ、ありがてぇ話ですぜ……」
ミェルヒは店内を見渡す。薄暗い店内に、売れ残っている黄ばんだ魔法札。あまり繁盛しているようには見えない。
エンジェは簡単に事情を説明した。
「こんな俺でも、必要としてくれるなら、これ以上の嬉しい話はないですぜ」
変態はちらりと店の奥を見る。
「俺にもやりたいことがありますさ。どうか、俺の願いを聞いてくれやせんか……? 簡単な、簡単な願いなんですさ」
卑屈に笑う変態。しかし、その目は本気だった。エンジェは、この変態にもタマネギのおっさんのような暗い思いが渦巻いていることを知る。
変態は店の奥、壁掛けのスイッチを押す。すると、遠くでベルの鳴る音が聞こえる。陽気な声、騒がしい足音。裏が孤児院だったことを、エンジェは思い出した。
「おじちゃん! お客さん!?」
子供たちが店の奥から次々と出てくる。そういう顔もあったのだと、エンジェは少し驚いた。
#3 25年後の君に
◆1
変態は子供たちにおやつを与えて、再び店の奥へひっこめた。
「ご覧の通り、あっしのもう一つの顔ですぜ。慈善事業家……貧乏ですがね、へへ……まぁ、楽しい暮らしですさ」
「変態だけどね」
変態は静かに自らの境遇を語りだす。
「あっしは孤児でさ、必死に働いて、のし上がって、若くして事業で成功して、貯蓄も増えたでさぁ。へへっ、でも……虚しさを覚えてさ、何かひとのためにできることは無いか、思い立ったんですさ。魔法札写本は大学の時に覚えてさ、独立して、孤児院を開いて……」
「立派ね……変態だけど」
美しい、成功の経歴だったが、変態の目はどこか悲しげだった。
「あっしは、立派な人間になれたか分からないんですさ。成り上がるために、汚い世間を這いずって、他人を蹴落として……そこから目を背けるように偽善者ぶった活動を始めてさ……いつも、求めているものがあるんですさ」
「あっしは生きていてもいい……あっしに、価値があることを。それをこの身に感じたいんですさ」
「なるほど。で、変態さんの提案は何かしら?」
「あっしの仕事を……チビたちに見せてやりたいんですさ」
変態らしからぬ、純粋な願いだった。
そして、孤児院にサプライズで遠足が始まった。エンジェとミェルヒは、もちろん変態の提案を受け入れたのだ。変態は馬車をチャーターして孤児院の子供14人を現場まで連れて行った。
にぎやかな旅だった。孤児たちは幸せであることが笑顔から分かる。
エンジェはタマネギの成長スピードが気にはなっていたが、幸い大事には至っていなかった。いや、水道のあちこちが完全に破損し、一面が溢れた水で湖のようになっていたが大事には至っていなかった。そう信じた。
子供たちは大きいだけのタマネギと分かるとがっかりしてみせる。
「これからおねえちゃんがタマネギの花を咲かせてみせるからね」
「えー、ただの白い丸じゃん、タマネギの花なんて! つまんない」
「そうかもしれないね……」
せっかくの遠足でタマネギの花もないだろうと、エンジェも思わないでもない。
開発のおっさんは力なく水たまりに座ってタマネギを見上げていた。水浸しになるのも厭わずに。その汚れた白衣に、変態は自分のみすぼらしい魔法服を重ね合わせた。
「今じゃなくていいですさ」
変態はぽつりと呟いた。子供たちの声が止む。
「今じゃなくていい。タマネギの花を、いつか思い出してくれるだけでもいいですさ」
変態はおっさんの境遇を聞いていた。だからこそ、声を上げずにはいられなかった。
「きっと凄い花になるはずですさ。初見では分からなくても……一人の男が、本気で人生を費やした花なんですさ」
「だから、いつかきっと思い出すんですぜ。この、タマネギの花を。歳を取って、自分を振り返ったときに……自分の姿に、重ね合わせる花が、咲くはずなんですさ……」
その声は、子供たちに向けられていたが……確かに、おっさんにも届いていた。
◆2
タマネギの花が咲くことは分かっている。失敗も成功もなく、ただ花が咲く。エンジェは加齢の呪文を使い、タマネギを急成長させた。すぐにつぼみが伸び、やがて巨大なタマネギの花が咲いた。
ざわざわしていた子供たちが一瞬息をのむ。
それはまるで花火が弾けたような、白い爆発だった。バチバチと音を立てて炸裂するタマネギの花。
子供たちもまた、爆発したように湧いた。大きな花だった。空を埋めるほど大きく咲くとは、エンジェも思わなかった。
子供たちが喜びの声を上げる。その光景を、開発者のおっさんは呆然と見ていた。そして、一筋の涙を流した。
いままで、自分の何かがこれほどまでに他人を喜ばせたことがあっただろうか? 思い出すのは、援助を頼みに行った先の、つまらなそうな顔。
変態の足元に群がり、彼を称賛する子供たち。その栄光は、おっさんにはかすりもしていない。変態は嬉しそうに子供たちの頭を撫でる。
それでも、おっさんは満たされていた。
「俺はやった、やり遂げたんだ」
おっさんは一人、歓喜の輪から離れて種を拾う。すでにタマネギの花は自家受粉で実を結び、ぱらぱらと種を地面にこぼしていた。
このタマネギは、きっと再び芽吹くだろう。この種が熟したのは一瞬の間であったが、これを収穫するためには……。
「25年かかった」
おっさんは初めて分かった。今までの苦しみは……悲しみは、辛さは。すべてこの日のためにあったのだ。
諦めていた。25年が消え去ると、絶望した。それでも、種は実った。続いていく。今までの日々が、続いていく。
「無駄じゃなかった。無駄じゃなかったんだ……俺はいままで、本気で生きてこれていたんだ……」
大粒の種を手のひら一杯に集めて、おっさんは震えていた。それを確認し、ミェルヒは火炎を噴く。燃え上がるタマネギ。喜ぶ児童。
おっさんは自分自身に問いかける。
(俺はこれからも誰かの役に立てるだろうか……いや、役に立てるはずだ。これまでの25年は無駄じゃなかった。なら、これからの25年も無駄のはずないじゃないか)
隣にはエンジェ。迷いの消えたおっさんの顔を見れば、彼女にも察することはできた。
「あなたの本気、実りましたね」
「ああ、これから25年かけて、この実を芽吹かせてみせる……きっとだ」
エンジェは、焼き尽くされるタマネギを見ていう。
「残酷な世界は、あなたの夢を挫きます。それでも……」
おっさんは、笑い飛ばす。
「25年後、また25年後……何度でも繰り返せばいい。夢が叶わずに死んだら……」
おっさんの涙は、もう乾いている。
「地獄で夢の続きを追えばいいさ」
◆3
旧都ナィレンの高層建築物が朝日を浴びて輝き、無数の鳥は喜びの歌を騒がしく歌う。栄華を極めた科学文明の墓標。今ではそれに憧れるものもなく、人々は粗末な小屋に住み背丈にあった暮らしを楽しんでいる。
ナィレン外周部、木造のボロアパートに鼻歌が流れた。
エンジェは熱いシャワーを楽しんでいる。今日の水道は水量も安定しており、ボイラーの調子も良い。
熱を浴びながら、タマネギ開発者のおっさんのことを考えていた。彼の続報はニュースにもならない。社会的成功は無い。
(でも、傍に寄り添えた気がする)
彼は犠牲にはならなかった。世界の残酷さに傷つけられても、誇りを取り戻すことができた。その、手助けができた。
彼の薄汚れた白衣は、世界の悪意の中でも輝いていた。
エンジェはシャワーを終え、身体をタオルで拭き、いつもの服に着替えた。ちらりと窓を見る。変態と目が合うことは無かった。
鏡の前に立つと、いつもの作業着……ネズミ色・ボロボロ・ワンピースが酷く汚く見える。
キャンバスの前に立つ。売れるかどうかも分からない、描きかけの絵。パレットと筆をとる。自分の信じた色。売れやしない色彩。
それが現状だ。エンジェはそんな日々を、もう何年も続けている。それはいつまで続く? いつ終わる?
絶望と苦しみをパレットの上の絵の具にかき混ぜて、キャンバスにぶつける。栄光で塗り固めた絵ではない。エンジェの、黒い感情の塗り込まれた絵だ。
エンジェはそれが好きだった。自分らしいと思う。ありのままの、自分を表現した絵だと思う。そして、それは自分にしか描けない。
「エンジェ、調子はどうだい」
赤錆びた鎧をガチャガチャ言わせながらミェルヒが部屋に入ってきた。非常に邪魔臭いが、しょうがない。アーティファクトである鎧に呪われているのだ。
それは、エンジェが画家として大成するまで解けることは無い。
「調子はぼちぼち」
ミェルヒは、この呪いを疎ましく思ってはいないだろうか? エンジェは急に不安になる。
「25年たったらさ……きっと呪いも解けてるよね。その時も、一緒にいれるかな」
「呪いなんかなくたって、僕らは一緒にいれるさ」
エンジェの筆が揺れる。彼女は静かに作業途中の絵を見ながら言う。
「25年後も……絵を描いていられるかな」
「25年後も、50年後だって、僕が隣にいて、君は絵を描いているよ」
振り返り、涙を浮かべた目でミェルヒを見るエンジェ。
涙は零さなかった。彼女は目をつむり、涙を心に押し込め、かき混ぜた絵の具で青いタマネギをキャンバスに描く。
ミェルヒは笑った。ナィレンの朝は25年前から変わることなく、きっと25年後も変わらないであろう。
タマネギの形をした涙 (了)
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