錯過(すれちがい)
吾妻栄子
錯過(すれちがい)
「
バタバタと駆け込む音が遠く聞こえてきたかと思うと、ひっくり返った声が響いた。
普段の重々しさとは懸け離れた語調だったが、声のしわがれた調子から、家令のじいやだと何とか察せられた。
「何だと?」
居間でお父様が長椅子から飛び上がる音に、お母様の甲高い声が続く。
「どういうこと? あの子に一体どんな落ち度があるというの?」
誰一人、その問いに答えを出すことはなく、それきり、居間は静まり返った。
庭の池に白い菱の花がポツポツ咲き始めた、あの夏の日。
十五の誕生日を迎えたばかりの私は、お父様旧知の羅家から婚約を破棄された。
お祖父様の代までは、皇女や王女が降嫁されるばかりでなく、后妃も輩出した家柄だったというのに。
ただ、それは、相手の羅家にしても、恐らく事情は同様だったのだろう。
そこに私を嫁として迎えても共倒れになると判断された。
今、思い返すと、理由は色々考えられる。
だが、経緯はどうであれ、私は
「どうして……」
目の前に広がる池の
答えの代わりに、庭の木の枝に止まっていた鳥の飛び立つ音がした。
空は雲一つない。
――いつか、緋色の花嫁衣裳を着て、籠に乗って、三つ年上だという、羅家の跡取りの旦那様へ嫁ぐ。
そんな夢の景色に広がっている通りの青空だ。
十五歳の私は、「離縁」という仕打ちが世間に間々あることを知っていた。
でも、それは嫁いだ後に何か落ち度や不心得があった場合に下される罰なのだと思っていた。
嫁ぐ前から過ちを犯した覚えもないのに縁切りされる事態が有り得ようとは、まして、自分がそんな扱いをされる日が来ようとは全く思いも寄らなかった。
鄭家の当主であるお父様の一人娘。
今日まで、ずっと、その生まれを誇りにし、また、その生まれに恥じない人間であろうと考えてきた。
だが、その出自こそが、正に、相手に縁切りされる事由となったのだ。
私より生まれ育ちが卑しく、また、姿かたちや才覚の劣る娘であっても、順当に嫁いで、添い遂げる例がほとんどなのに。
庭池の水面に咲く菱は、雪の欠片の様に白く透き通って見える。
むしろ、そのまま日差しに溶けて形を失わないのが不思議だった。
夏の陽を静かに照り返す澄んだ水の中を、二匹の鯉が緩やかに横切っていく。
いずれも白に朱色の
五歳の時、婚約の印として羅家から送られてきた夫婦の鯉。
それから、十年も、この二匹は我が家の庭で睦まじく連れ添ってきた。
もしかすると、この番も、羅家から返せと言ってくるかもしれない。
もう、婚約は破棄されたのだから。
私と先方が連れ添う約束はなくなったのだから。
眺めている内に、二匹の鯉は水の中で交錯して、それぞれ別の方向に進んでいく。
濃緑の苔を底に
急に、白も、朱も、そして深緑も混ざり合って、目の前が熱く滲んだ。
私が心配するまでもなく、羅家からの使いは、二度と来なかった。
その年は、異様に冬が早く来たのを覚えている。
そして、
お父様とお母様が相次いで逝った後、使用人たちの中でただ一人残ってくれたじいやも死んだ。
薪にも事欠くようになった屋敷の中で、もともと悪くしていた肺をこじらせたのだ。
――それでは、お若いお二方のご多幸と両家の輝かしい前途をお祈りして……。
家に残った最後の薪を持って、じいやの部屋に入った時に耳にしたその呟きが最後の言葉になった。
穏やかに微笑んだ死に顔からすれば、憂悶の内に逝ったお父様とお母様よりも、じいやはそれでも幸せな最期だったと言えるのだろうか。
皆が
誰に見送られることもなく、たった一人で。
灰色の空から舞い降りてくる真っ白な雪の
それなら、なぜ、最初から、雨として降ってくれないんだろう。
いっそ、大雨になって、街も私も洗い流してくれればいいのに。
道ですれ違うのは、皆、帰っていく家があって急ぐ人たちばかりなのだと思いながら、駅へと足を早める私が願ったのはそんなことだ。
*****
「
質屋から買い戻した耳飾りを確かめると、後輩二人は頭を下げた。
「いいのよ、このくらい」
あまりにも畏まった二人の姿に、昔、家に居た女中たちを思い出し、何とはなしに苦笑いする。
沈みかけた船から逃げ出す鼠さながら、鄭家を次々去って行ったあの女中たちも、今頃はまた別の女主人に平伏しているのかもしれない。
「そんな安物、私にはどうってことないわ」
お母様やお祖母様が髪や耳に着けていらした翡翠や白玉の奥ゆかしさなど、こんな石ころに求むべくもない。
だが、欧米かぶれしたこの街で最ももてはやされるのは、そんな卑俗な飾りなのだ。
全てを失って上海に流れ着いた私は、元は女中や百姓をしていた様な娘たちに混ざって、
北平の妓院に行って「鄭家の娘が妓女にまで身を落とした」と笑い者になるより、縁もゆかりもない土地で素性を隠して身過ぎ世過ぎした方がまだましだ。
鄭という姓自体は珍しくもないから、私さえ黙っていれば、上海ではありふれた商売女ということでいちいち身の上を詮索する人もいない。
そう自分に言い訳してはいるが、妓女も舞女も稼業としては五十歩百歩だろう。
というより、一応は昔ながらの芸を売るのが建前の北京の芸妓より、人前でこんなスリットの大きく入った
――誇り高い鄭家の娘が!
冥府のお父様お母様はそう嘆くかもしれない。
最期まで仕えてくれたじいやにしても、こんな姿を見たらやり切れないだろう。
だが、男でない私には、もう自分の「女」を武器にするよりほかに、生きる術がない。
あの雪の日、鄭家の旗は、お父様の書斎に残して出てきた。
私には継ぐ資格がないからだ。
風の便りでは、あの旗は北平に入城し、屋敷に移り住んだ軍閥の将軍に焼き払われたそうだ。
名実共に、鄭家は滅びた。
次々と新しい勢力が生まれて争う時世では、別に珍しくもない話だ。
庭池に置いてきたあの番の鯉も、あるいは生け作りにでもされて、馬賊上がりの将軍の食膳に上せられてしまったのかもしれない。
*****
「失礼します」
痛い目に遭わされたことは一度もないが、この部屋に入る時にはいつも緊張する。
「忙しい中、ありがとう」
いつもこういう邪気の無い顔つきをしてくれていればいいのに。
「これが新しい曲の楽譜だ」
差し出された数枚の紙を受け取る。
タイトルは「花様年華(花のような時代)」。
少し前に
――美麗的生活(麗しい暮らし)。
周璇の高らかに歌い上げる甘い声が耳の中に蘇る。
「三日後に北平から客が来るまでに仕上げて欲しい」
「はい」
私は楽譜から目を上げて頷いた。
総経理は普段の三白眼の面持ちに戻っている。
この人がこんな風に話題にする「客」は、舞女と踊るのが目的で来る男ではない。
「これが、今度、北平から迎える客だ」
総経理が一葉の写真を差し出す。
どこから入手したのか知らないが、この人は必要な情報はいつも掌握している。
「
枯葉色の写真には、背広を着て、額を出して黒髪を撫で付け、縁の細い眼鏡を掛けた若い男が写っている。
白い面長の顔に、濃く長い眉、切れの長い目。
お父様の書斎に飾られていた写真で、若い頃のお父様と並んで一緒に映っていた、羅家のおじ様にそっくりだ。
違うとすれば、この男が辮髪に長衣を纏った姿ではなく、西洋人を真似た装いをしていることくらいだろう。
「今度の客は、
だとすると、写真の男は、ずいぶん、偉くなったものだ。
総経理はカチャリとライターで煙草に火を点けると、ゆっくり紫煙を吐き出した。
「まだ三十前だから、若い男だな」
私より三歳上なら、二十九歳のはずだ。
「知り合いか?」
流れてくる煙に混じって、いぶかしげな声がこちらに届く。
「いえ」
写真に目を注いだまま、笑いがこみ上げるのを感じた。
胸の奥で、置き忘れてきた我が家の旗が燃え上がる。
雲一つない青空の下、朱色の炎に包まれながら。
「初めてお会いする方ですわ」(了)
筆者注
*「
*
錯過(すれちがい) 吾妻栄子 @gaoqiao412
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