第5話

 砂洲はゆっくりと目を覚ました。パトカーと救急車のサイレンの音が聞こえた。その音が重なりあい、次第に大きくなっていく。

「近いな?」

 ぼんやりと聞いていた砂洲は顔をしかめた。

「何事だよ? うるせぇな…… 一台や二台じゃないな?」

 さまざまなサイレンの大きい音や小さい音が重なって聞こえていた。何を言っているのか分からなかったが、声から緊迫している状況が分かった。

 砂洲はジーンズとTシャツに着替えた。部屋を出ようとドアを開けて立ち止まった。少し考えてから部屋の片隅に目をやった。

 亡き祖父から譲り受けた八角の金剛杖が立てかけてあった。杖は黒々とした硬そうな木でできていた。蛍光灯の光を受けるとわずかに紫がかって見えることもある。持ち手の方に「六根清浄」の焼き印が押されていた。

「木刀よりは怪しまれない、かな?」

 両親の部屋とリビングを見たが、二人はまだ帰ってきていなかった。

 砂洲は茶のエンジニアブーツを履いて外に出た。

 家の回りにはパトカーや救急車は止まっていなかった。ただどこからか流れてくる焦げた臭いが漂い、小さかったが狂気に満ちた悲鳴が聞こえていた。

 道路の左右を交互に見て、砂洲は苦悶の表情を浮かべた。

「オヤジ、オフクロ…… 悪い、なんとかしのいでくれ」

 砂洲はつぶやくと、左に向かって走り出した。

 商店街のある通りを抜け、大通りに出る。深夜でも交通量が多い通りに一台も通り過ぎる車がなかった。砂州が左右を見ると、どちらにもパトカーや救急車の赤色灯が見えた。

 通りを渡って右に行くと、細い路地があった。路地に入って二軒目の家の前で、砂洲は立ち止まった。インターホンを押した。

 返事がない。

「おい。なんだよ。こんな時にぐっすり寝てるのかよ」

 砂洲は悪態をついて、もう一度インターホンを押した。

「はい? どちら様ですか?」

 遠藤小枝の声に、砂洲は安堵の溜息をついた。

「オレだ。砂洲だよ」

「どうしたの? こんな時間に?」

「パトカーや救急車のサイレンが聞こえなかったのか」

「少しうるさいと思ってたけど」

「大物だよな。ここも危ない。逃げるぞ」

「ちょっと待ってて。着替えるから」

「スカートなんてはくなよ。ラフな格好がいいぞ」

「分かった」

 少しして小枝がジーンズにTシャツ、パーカー姿で現れた。

「親父さんは?」

「今日は夜勤だから」

「荷物はそれだけでいいのか」

 小枝は小さな茶のショルダーバッグを斜めがけしていた。

「ん…… 貴重品は持ったから大丈夫」

 小枝が心配そうに聞いた。

「逃げるって、どこに? うちの中にいた方がよくない?」

「どうかな…… オレは一心の家に行こうと思ったんだけど…… どうかな?」

「黒口君の家って、内神社でしょう。確か、広域避難場所になってるわ」

「ああ。そうだったな」

 どこかから尋常ではない悲鳴が聞こえた。

 小枝が声の方をこわごわと見た。

「あの声…… 何があったんんだろうね」

「あんまり知りたくないね。行こう。離れるなよ」

「分かった」

 小枝は砂洲の左側を歩き出した。

 大通りに出て、左に向かった。遠くに数か所、火の手が上がっていた。火に集まる蛾のようにさまざまな緊急車両が集まっているようだった。

 歩道を歩いていると、近くの街灯が点滅して消えた。少し遅れて前方の街灯が近い場所から遠くに向かって消えていった。

 砂州が背後を見ると、同じように街灯は消えて闇が濃くなっていた。小枝が砂洲の左腕をつかんだ。

 砂洲は安心させようと、声に力を入れた。

「大丈夫だ。行こう」

「うん……」

 二人は足元に注意しながら歩いた。

 街路樹の葉の中でカサカサという音がした。隠れている鳥のものらしい「ギュエ、ギュエ」という聞き慣れない奇怪な鳴き声が聞こえる。時折鳥は何かを見つけたように闇の中に飛び立っていく。そして、見えない獲物を捕まえては愉悦に満ちた笑い声に似た声で鳴いた。

 魂の不幸を嘲笑うような鳴き声が聴こえるたびに砂洲の手を握る小枝の力が強くなった。

 内神社に向かう参道に続く道に出た。民家が少ない商店街だったが、シャッターが降りているせいで闇がひときわ濃くなった。

 二人はソロソロと参道に向かって歩き出した。

「シャッターの中から何か聞こえる……」

 小枝が小さな声で言った。

 シャッターの向こうから苦悶の声や悲鳴、何かを食べる咀嚼音が聞こえてきた。シャッターを叩く「ガサッ」という音がするたびに、二人は足を止めた。そのたびにシャッターの奥から呪わしいうめき声が聞こえてきた。

『くそッ! 見えない分、神経にこたえるぜ……』

 砂洲は声に出さずに毒づいた。チラッと小枝を見ると、異様に白い顔をしていた。

 シャッター通りの一角に防犯灯がついた五階建てのマンションがあった。そこだけがわずかに明るかった。砂州が見上げると、明かりのついた窓が幾つかあり、不気味な影絵が蠢いていた。

「下を見てろ」

 砂州の声に、小枝は無言でうなづいた。

 街灯に向かって歩いて行くと、マンションの入口から出てくる者たちがいた。それぞれが異様な形の白い帽子をかぶっていた。

「神聖夢醸会の連中か」

 ユラユラと歩いていた二又に分かれたエナン帽をかぶった者の頭が何かを探すように左右に振れた。いらだたしげな声を上げると、ゆっくりと顔の下半分のマスクを持ち上げた。毒々しいほど赤い唇が開き、長い舌を出した。

 舌の先端が裂け、血走った目が二人を見た。

 砂洲は後ろを確認してから、小枝を背後に押しやった。

「少し離れてろ。シャッターに地がづきすぎるな。そして…… 気絶するなよ」

「分かってる」

 気丈に小枝が応えた。

 砂州が金剛杖を構えた。

「おまえらとやりあう気はない。マンションの中に引っ込んでろ」

 砂州が声を荒げた。

先に出てきた三人が横に並んで道をふさいだ。

「もう一度言う。そこをどけ」

 砂州の声に反応するように、マンションからさらに二人が現れて、三人の後ろに立った。

「聞いちゃいないか」

 砂洲は苦笑いを浮かべた。

「浅間夢心流、飯田砂州。参る」

 砂洲の表情から笑みが消えた。金剛杖を構えると、先頭の一人が右腕をゆっくりと上げた。

 ゆるりと腕が伸びた。指の先端に金属質の爪が見えた。

 砂洲は気合を込めて、上段から金剛杖を振り下ろした。

「エイッ!」

 手首の骨が折れる感触があった。折れたところから腕が外れ、ヌルヌルとぬめった蛇が溢れ出てきた。

「それが中身か。もう人間じゃなさそうだな」

 二人が手を上げた。異様に尖った長い鉄色の爪が街灯の明かりを反射した。

 駆け寄る二人の腹を砂洲は金剛杖で突いた。

「ホォッ!」

 二人がうずくまった。倒れた三人の服から無数の蛇が湧き出した。

「くそ! 次から次へと」

 蛇と二人が砂洲に近づいてきた。

ーー君、体を貸してくれないか。思念体のままでは力が出なくてね。

 砂州はギョッとした表情で近づく二人を見た。

ーー違う、違う。そいつらはもう話せないよ。

 砂州は周囲を見た。人の気配はまったくなかった。

「誰だ」

ーー夢の支配者の一人さ。パンタソスという。

「体を貸せだと」

ーーそうだ。君とは波長が合う。人にしては夢に抵抗力があるようだし。

 砂洲は顔をしかめた。

「夢の支配者だって?」

ーーそうだ。悪夢を止めるにはボクの力がいる。体を貸せ。

「信じる理由がないね」

 頭の中で、含み笑いが聞こえた。

ーー少し力を借りるぞ。

 砂洲の両手がしびれた。

 アスファルトを突き抜けて無数の釘が飛び出した。砂洲の前に這い進んでいた蛇が串刺しになった。体中から釘をつきだした蛇は、胴体をねじれならせながらもだえた。

 人の形を残していた二人の足からも釘が突き出ていた。服とマスク、エナン帽から様々な大きさの釘が突き出た。体がしぼむと、金属が落ちる音がした。

 神聖夢醸会の奇怪な服を着た五人は服とエナン帽を残して消えた。のたうち回っていた蛇も、突風を受けると細かい破片に変わって散り散りになった。

 両腕の痺れが取れた。

ーー君たちを助けてやったぞ。体を借りている間でも、君は出来事を見ていられる。必要があればボクに言えばいい。

 砂州が考えていると、声が催促した。

ーー君は平気だろうけどね。その娘は限界のようだよ。ボクだったら助けられるけど。

 見ると、小枝が目を見開いて虚空を見つめている。

「おい! しっかりしろ!」

 半分開いた小枝の口からヨダレが一筋流れ落ちた。

 砂洲がうなった。

「分かった。体を貸してやる。その代わり、この子は絶対守れよ。そして、オレの指示には従え」

ーー承知した。

 暗闇の中に落ちていく感覚があった。落ちていく途中で、砂洲は立体図形を組み合わせたような不気味な姿のパンタソスとすれ違ったような気がした。

 砂州が首を鳴らした。軽く足踏みし、金剛杖を回した。

「この棒はいいな。大した霊木だ」

 砂州が小枝の正面に立った。腰を落とし、小枝の目を見つめた。

「戻っておいで。何も怖くはない」

 そう言ってから聞いたことのない言葉を続けた。

 小枝の顔に赤みが戻った。大きく息を吐き出して、砂州の顔を見上げた。

「大丈夫かい?」

 砂洲に聞かれ、小枝の瞳が揺れた。

「誰?」

 ぼんやりしていた小枝があとずさった。

「逃げなくていい。ボクはパンタソスというが…… 砂洲と呼んで構わない。時が来たら、この体から出て行く」

「何もしない?」

「君を助けるように言われている」

「助ける?」

「そう…… 例えば……」

 砂州が小枝の額に向かって左手を伸ばした。

 恐怖心が急速に消えていく。

 小枝は目を丸くした。

「怖くなくなった」

「だろう? じゃあ、行こうか」

「どこへ?」

「一心とかいう男のところへ、さ。行こう」

 砂洲は小枝の手を取って歩き出した。

 砂洲たちが向かっている内神社の境内は、静かだった。

 一心と瑠花、娚阿弥は鳥居に続く階段の上から街の様子を見ていた。ところどころに火の手が上がり、そこここからサイレンの音が聞こえた。

「とんでもないことになってるな」

 一心が眉をひそめて、娚阿弥に尋ねた。

「学校から悪夢が広がっていったのか」

 娚阿弥が頭をかしげた。一心と瑠花は学校で体験した出来事を話した。

「いい経験をしたね」

 娚阿弥が二人に言った。瑠花が顔をしかめた。

「悪い経験じゃなくて?」

「そうさ。そういう経験をしているから、気絶しないで済んでいるんだよ」

「そうか…… そうかもしれないけど…… いい経験じゃなかったよ」

 瑠花が納得できない、というようにつぶやいた。

 三人は階段をゆっくり降りていった。半分ほど降りたところで、空が光り、雷鳴が轟いた。

「雨か」

 一心は分厚い雲を見た。雲の中が再び光り、轟音が鳴った。

「雨ならいいけどね。ここは足場が悪い。降りるよ」

 娚阿弥が階段を駆け下りた。一心と瑠花も続いた。

 稲光が数本走った。その一本が鳥居近くの電柱を直撃した。

 電線が切れ、垂れ下がった。地面に当たった先が狂ったように跳ねた。電線はスパークしながらアスファルトにありえないほどの鋭角な模様を描いていた。

「まずいよ。あれは」

 娚阿弥が目を細めた。

 電線が踊るように動き、アスファルトに鋭い角度が絡みあった奇怪な文様を描いていく。

 アスファルトの焼ける臭いとは別の突き刺さる悪臭が大地から湧き上がってきた。

「来る……」

「何が?」

「悪夢が!」

 図形の線に沿ってドロリと黒いものが溢れた。ジワジワと染み出したそれが、次第に線になって宙に延びていく。黒い線の表面を、泡立つような青い粘液が垂れていた。

 突き刺さる酸の悪臭が強くなった。

「あの図に意味があるのか?」

 一心が娚阿弥に聞いた。

「あれが出入り口。完全に出られたら太刀打ちできない」

 あまり物事に動じない娚阿弥の声に、わずかな焦りがあるように一心には思えた。

「瑠花、娚阿弥、少し離れてろ」

 瑠花と娚阿弥が一心のそばから数歩下がった。一心は大上段に冴月を構えた。

「つき・ほし・ひと・かみ・かぜ…… もろもろのまがごとつみけがれをあらんをばはらへたまひきよめたまへめっしたまえともうすことをきこしめせとかしこみかしこみももうす」

 一心のゆっくりした言上に呼応するように天の黒雲が動き始めた。雲の上にあるものを通さないというように、雲が膨み、引っ込んだ。雲の上のものは出口を探すように、黒雲のそここを突いていた。

 一心が冴月を振り下ろしたが、何か分厚いものにあたったかのように動きが止まった。一心の額にうっすらと汗が浮かんだ。

「邪魔を、するなッ! きがんえんまんかんおうじょうじゅしんどうかじ!」

 冴月が振り下ろされた。同時に天空の黒雲に幾つもの裂け目ができた。

 上空から甲高い音が聞こえた。音は次第に高さを増していく。聞こえなくなった瞬間、道路に幾筋者裂け目ができ、爆発するように弾けた。

 大地から湧き出ようとしていたものは、空から落ちてきた疾風に瞬時に切り刻まれた。

 一心が膝をついた。瑠花と娚阿弥が一心に駆け寄った。

「大丈夫?」

 瑠花が心配そうに聞いた。

「腹が、減った……」

 一心は冴月を鞘に戻した。

「これでいいか」

「いいも何も…… 何も残ってないじゃない」

 一心に聞かれ、娚阿弥がつぶやいた。アスファルトはめくれるように寸断され、道路に面した建物にも深い傷がつけられていた。

 娚阿弥が差し伸べた手を取って、一心は立ち上がった。

「これほど威力があるとは思わなかった」

「使ったことがなかった?」

「ああ、木刀で型だけやらされてた」

「呆れたヤツだね」

「体の中の力が全部出つくしたみたいな感じだ」

「そうだろうさ」

 聞いていた瑠花がDパックを肩から外してポケットを開いた。

「チョコ、食べる?」

 一心が笑った。

「一粒くれ」

「一箱食べてもいいよ。二箱あるから」

 瑠花からビターチョコレートを貰い、一心は口の中に入れた。

 ほろ苦い味が口の中に広がっていった。

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ナイトメアワールド 久遠了 @kuonryo

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