第4話

 風呂から出た一心は自室に戻った。

 窓から外を見ると、漆黒の空に細い三日月ときらめく星々が見えた。

 先に風呂に入った瑠花と娚阿弥が居間で話をしていた。

「おまえにしちゃ珍しいな」

 一心が娚阿弥に話しかけた。

「人付き合いの悪さは天下一品なのに」

「そうなの?」

 瑠花の不思議そうな声に、娚阿弥は薄く笑った。

「あたしの話を真剣に聞く人が少ないものでね。黒口の人たちはいつだってちゃんと話を聞いてくれたから。一心もね」

「おまえが勝手にしゃべってただけじゃないか」

「それさえイヤがるんだよ。たいていの人は…… そう考えると、瑠花ちゃんも珍しい」

「そうですか。話、面白いですよ」

 瑠花が屈託なく笑った。

 十時を過ぎて、一心は瑠花と娚阿弥を客室に案内した。

「くたびれたな。いつもより早いけど寝るよ」

 娚阿弥は部屋に入っていった。

 一心は瑠花に言った。

「俺の部屋は、廊下を挟んで向かい側の奥だから」

「行かないよ」

「来なくていい」

「行こうかな」

 瑠花が笑った。

「何かあったら、俺の部屋か、娚阿弥の部屋か、どっちかの部屋に飛び込めばいい」

「娚阿弥さんは強いの?」

「自己流の邪道な剣道だけど、かなり強い。なんていうか…… 忍者的な強さかな」

「野武士に忍者に守られている姫?」

「誰が野武士だ」

 瑠花は笑いながら右手を振って、部屋に入った。

 一心が部屋に入って、しばらくすると娚阿弥が部屋に入ってきた。

「どうした?」

「瑠花ちゃんは大丈夫?」

 娚阿弥の問いの意味が一心には分からなかった。

「大丈夫って?」

「おじいさんや父さんから何も聞いていないのかい?」

 さらに問われて一心は無言で頭を振った。

「あたしがここに来たのは悪夢がこちらに流出し始めていることに気づいたからさ」

「駐車場で舞扇を使ってたな」

「小物が探っていたからさ」

「何を?

「ここの出入り口を、さ。さすが闇に聞こえた内神社。つけいる隙がないようだね」

 一心は中学一年の時の寒稽古で娚阿弥に会っていた。技の修行ではなく心の修行と称して、毎日道場の端で月の絵を見つめさせられた。

 年が近かったせいもあり、大人に懐かない娚阿弥が一心には懐いた。同室だった娚阿弥から、娚阿弥が見ている世界を聞かされていた。

 その後、鉄心から内神社が祀る神、幽冥主掌大神(かくりごとしろしめすおおかみ)についてや、流幻夢想流の来歴を聞かされた。その時に「幻夢界」の説明を受けていたが、それは娚阿弥が見ている世界と酷似していた。

「おまえが言っていた、夢の世界が現実世界に混ざり出す、というのか?」

「違うよ」

 娚阿弥があっさり否定した。

「もう混ざってる。一心も見たんじゃないの?」

 一心はチューリップの下に咲いていた手のような花や池にいた奇怪な生き物を思い出した。

「見た。あれがそうか」

「時々ね…… 帰り残ったヤツはいるんだ。それが人に悪夢を見せる。それを防ぐのが、あたしたちやあんたのじい様たちなのさ」

「聞いてないな」

 一心は不満そうに言った。

「知らなくても霊刀は使えるからね」

 そう言って、娚阿弥は机の時計を見た。

「今夜二時十三分の前後二分に夢幻界と現実が繋がる。それを過ぎれば星の並びが変わる。何事もなければ七百年は何も起きない」

「何を心配してるんだ?」

「普通だって、少しの間は夢幻界と繋がることはあるんだ。数秒から数十秒くらいは、ね。ただ、その時間で抜けてこれるのは小物だけだから、あたしたちでもなんとかやっていけるのさ。今夜みたいに数分だと大物が来ちまう。そうすると厄介だ」

 一心は眉をひそめ、諦めたようにため息をついた。

「子供の頃に聞かされた時も分からなかったが、今も分からないよ」

「それでいいのさ。知る必要がない知識というものもあるんだよ」

 一心は最近あったことを話した。

「おかしいね。まだ、それほどの影響を出せるヤツらがこちら側に入ってこれるはずがないんだが」

 娚阿弥が目を細めた。

「その本間透って子が穴のようだね」

「多少悪ぶってるけど普通の人間だぞ」

「夢は複雑でね。少しの欲望と体質で向こう側につながっちまうヤツもいるのさ」

 二時を過ぎ、刻々と娚阿弥の言った時間に長針が近づいていった。

 二時十三分を秒針が回った。

 娚阿弥の顔色が変わった。

「夢殿が開いた」

「なんだ。それは?」

「無意識が集積された場所だ。そこが現実につながった」

「分からないよ」

 娚阿弥はため息をついた。

「夢の世界と現実がつながるトンネルが開いた、で、分かるか」

「その方がイメージしやすい。

「瑠花ちゃんを連れてくるよ。刀を用意しておきな」

「分かった」

 一心は鉄心の部屋に行き、押し入れを開けた。押し入れの下段には十五センチほどのロッカーの口が十個あった。一心は二ヶ所のキーを回し、扉を開けた。

 そこには大刀と小刀が入っていた。

 自室に戻ると、ジーンズにTシャツを着こみ、Dパックを背負った瑠花と娚阿弥が待っていた。

 一心は娚阿弥に短い方の刀を差し出した。

「『氷雨』を任せる」

 一心が小刀を娚阿弥に渡そうとした。

「『冴月』と『氷雨』の夫婦剣か。あんたと夫婦というのも悪かないけど、要らないよ。『氷雨』はその子の守り刀にしておきな」

「扇でやりあえるのか」

「心配は無用さ。自分の身くらいは守れる」

 一心は刀剣を固定するためのホルスターを腰につけ、大刀を差しながら瑠花に話しかけた。

「俺たちは外に出る。瑠花はここにいればいい」

 瑠花が激しく頭を左右に振った。

「いや、一心たちと一緒にいた方がいい。なんだか分かんないけど、一人になりたくないよ」

 娚阿弥が二人を見た。

「痴話喧嘩をしている暇はないね」

 一心は娚阿弥を睨んだが、すぐに瑠花に目をやった。

「分かった。『氷雨』を持ってて」

 一心は短い方の刀を瑠花に差し出した。

「使い方なんか分からないよ」

「持っているだけでいいから。お守り代わりだ。オレと娚阿弥で守るよ」

 大事そうに刀を持って、瑠花がうなずいた。

 天井がギィと鳴った。

 一心が柄を握った。

「神聖な神社内で、なんてこった」

「世の中、絶対なんてないってことさ」

 娚阿弥が窓を見た。

「また趣味の悪い……」

 窓の網戸に虫がたかっていた。蜘蛛のようだが、赤黒い胴体に無数の足を生やしていた。動くたびに歯ブラシのような足がザワザワと動いた。

 娚阿弥が扇を取り出して、窓に向かってあおいだ。窓が閉まっているにもかかわらず、爆風を受けたように虫が吹っ飛んだ。

 娚阿弥が瑠花を見た。

「青い光に包まれているね。気をしっかり持っていれば大丈夫だよ」

 瑠花は娚阿弥の言葉にうなずいて見せた。

「とりあえず、外に出てみよう。ここにいても状況が分からん」

 三人は玄関に向かった。

 娚阿弥がドア越しに扇をあおいだ。ドアの向こうから甲高い悲鳴が聞こえた。

「あとは頼むよ」

 娚阿弥が薄笑いを浮かべた。

「できるだけのことはする」

「上等だね」

 娚阿弥がドアを開けて、外に出た。そのあとに一心と瑠花が続いた。

 空の色が変わっていた。

 中天が赤黒く光っていた。その光が周囲に広がり、薄汚いピンク色のグラデーションを作っている。赤黒い光の中からいろいろなモノが出てきているように見えた。

「あれが夢幻界の口ってヤツか。なんかこっちに来ているぞ」

「気持ちが悪いモノが見えるわ」

 二人の声に娚阿弥がため息をついた。

「感覚がない素人衆にも見えるなんて、とんでもないことだよ」

 一心は三日月を探した。部屋から見た位置より少し上がったところに変わりなくあった。星々の光が怯えて消えても、月だけは冴えた光で狂気の色を和らげているようだった。

「月を見ているだけで、ほっとする」

「およし!」

 娚阿弥が叱責した。

「月の裏側も狂気につながっているんだよ。見るんだったら、心の中の月を見な」

「月輪観か」

 一心は満月を思い浮かべた。その光が体を満たし、さらに体の外に溢れていく様子を心の中に描いた。

 一心が大きく息を吸い込み、ゆっくりと吐き出した。

「落ち着いた…… 瑠花は大丈夫か?」

「なんともないよ」

 からかうように娚阿弥が言った。

「月輪観が間に合って良かったね。修練の賜物かい?」

「娚阿弥…… お前は瞑想法は使わないのか?」

「からっぽな心を何で満たすのさ」

 陰鬱な声で娚阿弥は答えた。

 赤黒い部分から、様々なモノが周囲に落ちていく。それらは内神社を避けているようにも見えた。

 中天の色が薄れていった。次第に暗さを増し、それと共に暗闇と星の光が戻ってきた。

「生きている間にかたをつけられるかね」

 娚阿弥が陰鬱な声でつぶやいた。

 一心は娚阿弥に聞いた。

「修練所に行くか」

「いや…… このあたりじゃ、まずはあそこが狙われるだろうからね。今、一番危ない場所だよ」

 娚阿弥が鎮守の森を指差した。森の向こう側が薄赤く光っていた。

「鎮守の森は神域だけど神社の外だからね。見えるだろう。いっせいに清浄を嫌うモノが押し寄せて来ているんだ」

「オヤジたちにまかせておくか」

「心配ないだろう? そうした方がいいよ」

 鉄心と一郎は達人の腕前であり、黒口衆と呼ばれる十人も皆伝や目録以上の精鋭だった。

 一心は娚阿弥に尋ねた。

「神社の周辺がこうだと、外はもっとヤバイわけか」

「そうでもないんだね」

 不審そうな二人に娚阿弥が説明した。

「見えなければ知りようがないからさ。悪夢を見る人が増え、悪夢を見る回数が増える人が多くなるくらいだね」

「不眠症が増えるくらいですむのか?」

「ま、そうはいかないよ。多少感受性の強い連中は発狂するし、心が弱ければ夢に喰われる」

 一心は顔をしかめた。その表情に、娚阿弥が肩をすくめた。

「一心は見える。瑠花ちゃんは見えなくても感じられる。ま、不運と諦めるんだね」

「瑠花は大丈夫かな」

「大丈夫そうだよ。『氷雨』は守る気でいるようだから」

 それを聞き、瑠花が『氷雨』を強く握った。

「外の様子が知りたいね」

 娚阿弥が南の赤い鳥居の方を見た。

「ああ、とりあえず鳥居のところまで行って、そこで考えるとしようか」

 三人が鳥居に向かった。瑠花を挟んで、娚阿弥が先頭、一心が後ろについた。

 途中からパトカーや救急車のサイレンが聞こえるように鳴った。

「おい! 娚阿弥!」

 一心が娚阿弥に声をかけた。振り向きもしないで、娚阿弥が返事をした。

「なんだい?」

「外は大事になってるみたいじゃないか」

「まぁ、何事も無く、とはいかないさ」

 手水場近くの街灯が人影を照らしていた。

「外から逃げてきたのか」

 一心が近づこうとした。

「待ちな!」

 娚阿弥が鋭い声で静止した。

「あれは人じゃないよ」

 一心と瑠花が目を凝らした。

「手水場とはね。地下から水を使って入って来るとは思わなかったよ」

 光を受けてヌメヌメとした体の表面がきらめいている。目を凝らすと、手のひらほどのナメクジのようなものの塊だった。背丈は一心ほどあった。内部から盛り上がったナメクジに押された表面のナメクジがポトポトと地面に落ちた。それが足先に集まり、また内部に潜り込んでいく。

 先頭の一体が右腕を上げた。手の先から指のように大きなナメクジが出て、ウネウネと動いた。

 一心が『冴月』を抜いた。

「娚阿弥、瑠花を連れて下がれ」

「一人で大丈夫かい。向こうは五体いるよ」

「任せろ。これでも目録だ」

 一心が刀を左肩にかつぐように構えた。刀身が青みがかった光を放っているように見えた。

 一心の目が細くなった。一心の体の中からも青白い光が漏れ出していた。

「つき・ほし・ひと・かみ」

 つぶやきいてから、一心の口から必殺の気合が吐き出された。刀が左から右、瞬時に右から左へと動いた。

 切っ先から光が流れ、異形を切った。切り口から光が広がっていく。二筋の光の帯が五体を包んだと思うと、すぐに消えた。

 あとには何も残っていなかった。

「お見事」

「どうも…… 手水場を封じないと」

「しばらくは大丈夫にしておくよ」

 娚阿弥が踊るような足取りで、手水場の回りを一周した。

「さ、行こうか」

「先に行くぞ」

「こんどはあたしが、しんがりになるよ」

 一心が先頭になり、再び歩き出した。

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