第2話
湖泉市では少し名が知られている神社、内神社(ないじんじゃ)の神主夫婦が一心の両親だった。祭神は大国主大神だったが、神社の由来を記した案内板には別名の幽冥主掌大神(かくりごとしろしめすおおかみ)と書かれていた
敷地には住居だけではなく、本殿や社務所などがあった。境内から離れた一角には剣道場と弓道場もあり、学校や企業に貸し出していた。
土日の夜には祖父が師範、父が師範代を務める「流幻夢想流剣術」の練習があった。門弟のほとんどが顔見知りの氏子衆だった。
一心は朝食を食べ終えてから剣道場の掃除に向かった。境内の掃き掃除をしている氏子衆や巫女に挨拶しながら、道場に入った。
高窓と入り口を開けて床を掃いていると咳払いが聞こえた。一心は手を止めて入り口を見た。
デニムのショートパンツにライトグレーのパーカーを姿の瑠花が立っていた。瑠花はかぶっていたキャップのひさしをつまんで
わずかに持ち上げた。
「おはよう」
「おはよう。どうした?」
「父さんたち、土日に会社のゴルフ大会に行くって出かけて…… 家に誰もいないから…… 昨日のことが忘れられなくて」
そう言って、瑠花が照れたような笑みを浮かべた。一心は肩をすくめた。
「アレはひどかったからなぁ。いいさ。掃除が終わったら、どこか遊びに行こう」
瑠花が背負っていたDパックを下ろした。
「手伝うよ」
一心と瑠花が拭き掃除をしていると、母の靖子が顔を出した。
「イッちゃん、お客さんに何をやらせてるの!」
「あ、おはようございます」
「瑠花ちゃんも、こっちに来ないでウチの方にくればいいのに」
「いいんですよ。たまには」
瑠花が笑った。
「ちょっと待っててね。お父さんとお弟子さんに代わってもらうから。イッちゃん、あなた、着替えて瑠花ちゃんと出かけてきなさい」
「朝練は?」
「ほんとうにあなたもお父さんと同じで、気が利かないんだから。そんなこと明日の朝やればいいでしょ。さっさと用意しなさい」
母にまくし立てられ、一心は何も言い返せなかった。
ストーンウォッシュのジーンズと白のTシャツ、ワークシャツを着て玄関に行くと、母と瑠花が待っていた。
「愛想のない格好ね。そのウェストバッグは何? 洗浄にでも行くの?」
「すみませんね。センスがなくて。これはタクティクスバッグっていうの」
「なんでもいいけど…… お金あるの?」
「ない」
一心の即答に靖子は苦笑した。
「バイトもしないで剣道ばかりしてるから。ほら、これ、持っていきなさい。お釣りは返しなさいよ」
母の差し出した1万円札を一心が手刀を切って受け取った。
「剣術家の息子が相撲取りね」
「ごっつぁんです」
親子のやり取りを聞いていた瑠花が吹き出した。
「あら、やぁね」
靖子が赤くなった。瑠花がニコニコしながら言った。
「仲が良くていいですね」
「まぁ、飽きないわね。瑠花ちゃんもでしょう?」
「ええ」
「ひどい言われようだ」
茶のブーツを履いていた一心がぼやいた。
住居は本殿の裏手にあった。二人は本殿と榊の間小道を通り、拝殿に向かった。
拝殿の正面に出て、瑠花が聞いた。
「どうして、本殿より拝殿の方が大きいの?」
「本殿は神様が住んでいるところだからさ。ご神体を置いて、基本的には人は入らない」
瑠花は分かったような分からないような表情だった。
「いまさらだけどさ。この神社って変わってるよね」
「どこが? 普通の神社だよ」
「赤くない鳥居があるじゃない。参道の反対側の鳥居は黒くて、普通は見ないよ」
「少ないけどね。それほど珍しくないだ、あれは玄武っていうのを表していて黒いの。反対のこっち側は朱雀を表しているから赤。防腐効果がある黒は柿渋を使った渋墨、赤は水銀を塗ってるって聞いたことがある」
「昔ながらのやり方?」
「そう。今のも親父の受け売りで詳しいことはオレも分からない」
一心が笑った。
「狛犬も変よね。象みたいに鼻が長くて」
「アレは狛犬じゃなくて、獏」
「バク?」
「悪夢を食ってくれる」
「昨日みたいな変なことも忘れさせてくれるかな」
一心が首をかしげた。立ち止まると、タクティカルバッグのサスペンダーを外して中をあさった。
「何を探してるの?」
一心はバッグから出したものを瑠花に差し出した。
「これ、やるよ」
「お守り?」
「獏のお守り。安眠できる」
「いつも持ってるの?」
「爺ちゃんに言われてね」
「ありがとう」
瑠花はもらったお守りをDパックにしまった。
湖泉駅の周辺が市の繁華街だった。デパートや飲食店が集中して、休日には大勢が集まる。シネマコンプレックスも駅のそばにあった。
映画を見終わって一心と瑠花はフードコートで食事をした。
二人より先に少し離れた席にいた砂洲が二人に気づいた。
「まったく仲がいいことで」
ジーンズに藍染めの龍のアロハを着て、同じ色のハンチングをかぶった砂洲がつぶやいた。持っていたピザを皿に戻し、ハンチングをまぶかにかぶった。
「いや…… オレが隠れることはねぇか」
ボソボソと言って、砂洲はワイングラスを口にした。
二口目を飲もうとした砂洲の肩を誰か叩いた。
「未成年者が何を飲んでるんだ?」
砂洲はため息をついて、左うしろを見上げた。ニヤニヤ笑いながら、白のブラウスにライトグレーのスーツ姿の堀尾が見下ろしていた。
「休日の楽しみなもんで。デウミ・プティユくらい見逃してください」
「デウミ・プティユ?」
「ハーフボトルのことですよ」
「私の英語の成績は悪いくせに洒落た言葉を知っているじゃないか」
「ワインショップの息子なもんで。このくらいいいじゃないですか」
「良くない。わたしがもらう」
砂洲はうらめしそうにワイングラスを見つめた。
「せめて、このグラス分くらいは……」
「しょうがないな。それだけは許そう」
「オレの金で買ったのに……」
堀尾は砂洲の前に座った。少しすると、マルゲリータが運ばれてきた。
「二切れ食べていいぞ。ワインと交換だ」
「ども。いただきます」
ピザを一枚食べ、二杯目のワインを注ぎながら堀尾が聞いた。
「昨日のアレ、なんだと思う?」
「オレに聞かないでくださいよ。あんな気色の悪い生き物は見たことがない」
「だよな。あんな生き物がいるとは思わなかった。みんながケガをしなくてよかったよ」
「火炎放射器で退治できて助かりました」
「ああ、映画だったら、見えるのをやっつけた途端に地面から噴き出すからね」
「その手の生き物じゃないだけマシでしたよ」
「そう考えるしかないのかなぁ」
「そうした方がいいですよ。面倒くさいことには関わらない」
「そうできれば、いいんだけどね。副校長に報告書を出さなきゃならないからさ。頭が痛いよ」
砂洲は笑いながら二切れ目のピザを手にした。ふと一心たちがいた席を見ると、二人の姿はすでになかった。
シネマコンプレックスのフードコートを出て、一心と瑠花は湖泉公園に向かった。公園には子供を遊ばせることができるグラウンドとボート遊びができる池があった。周囲には舗装路があり、大勢がジョギングやウォーキングを楽しんでいた。
公園を横切るように小川があり、そこにかかる小さな橋の先にボート乗り場があった。
二人が橋に向かうと、欄干に背を預けて立っている少年がいた。髪をコーンロウにし、サングラスをかけていた。
瑠花は誰だか気づくと、一心の後ろに隠れた。気丈な瑠花にしては珍しかった。
不審に思って、一心は目を細めた。近くまで行き、ようやく相手が分かった。それでも、声にはいぶかしげな響きがあった。
「トオル、か?」
一心は足を止めた。
「ずいぶん変わったな」
「おかげさまで」
慣れた手つきでサングラスを外し、胸ポケットに入れた透があごを上げて瑠花を見た。
「そんなにイヤがらなくてもいいぜ。用心棒もいるじゃないか」
「用心棒じゃないさ」
黒のシャツに白のスーツを着た本間透(ほんま とおる)が口元を歪めて笑った。
中学時代は一心、砂洲と共に「三剣士」と言われていた。三人の中では一番穏やかな顔立ちをしていたが、勝負への執着は二人以上に強かった。
久しぶりに現れた透には、その頃の面影はなかった。
透が左の口元を歪めて微笑んだ。それだけで顔立ちが凶悪なものに変わった。
「相変わらず、仲がいいこった」
「それがお前にどう関係があるんだ」
一心の声がきつくなった。受験間際に透にストーキングされていたことは瑠花に聞いて、知っていた。
「また瑠花にまとわりつく気か」
透がせせら笑った。
「そんな気はねぇよ。女には不自由してねぇし。それに…… もっと面白いことがあるからな」
透が橋から離れ、おどけたように右手で橋を指し示した。
「どうぞ。お渡りくださいってとこかよ」
「通るぞ」
「だから、どうぞと言ってるだろうが」
一心が瑠花と透の間に入るようにして歩き出した。
二人が橋を渡り始めると、小川から「ウォウ…… ウォウ……」という不気味な低い吠え声が聞こえた。
「何の声? 犬?」
瑠花の怯えた声に一心が応えた。
「急いで向こう側に渡れ!」
橋の下で何かがバシャバシャと跳ねる音がした。何かを振り回し、水を叩くような音だった。怒り狂ったような吠え声が次第に大きくなっていった。
「走れ!」
一心の声に瑠花が走り出した。
一心は狭い橋の左右を警戒しながら、守るように瑠花の後ろに続いた。
一心が橋を渡り切る直前、吠え声が一段と大きくなった。
一心は足を止めて、半身になって身構えた。
右側から一斉に何かが飛び出した。
上半身が女の姿で両手と下半身がタコのような触手の生き物だった。触手は濃緑色の膿のような粘液におおわれいた。
それは口から吠え声をあげながら、一心の前で橋を飛び越えた。高さが足りないものの触手が橋や欄干を叩くと、粘液がべっとりとこびりついた。
次々と水に落ちていく音が雷鳴のように聞こえた。
一心が呆然として見ていると、最後の一匹と目が合った。
大きく見開かれた目には、ゾッとするような狂気の色が見えていた。黄色く薄汚れた鋭い歯を見せ、威嚇するように開けた口から最後の咆哮を吐き出した。
橋を飛び越えたそれが川に落ちた水音がした。
「なんだ、あれは……」
一心の声が聞こえたかのように、橋の向こうから透の笑い声が聞こえた。
一心は遠ざかる透の背を睨み続けた。
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