ナイトメアワールド
久遠了
第1話
夕焼けにしては奇妙に赤い空だった。「夕焼け小焼け」と歌われるような心を暖かくする茜色ではなかった。
ちらつき始めた星々の息の根を止めて落とそうとするかのような禍々しい、赤黒い空だった。ところどころに漂う雲も、獲物を求めてさまよう異界の生き物に見えた。
すでに天頂は黒く、夢魔が跋扈する世界を広げつつあった。
金曜の下校時間は、すでに過ぎていた。
黒口一心(くろくち いっしん)は校舎を出て、呆れたような表情で空を見上げた。防具袋を手にDパックを背負い、竹刀袋を斜めがけしていた。
同じように竹刀袋と防具袋を持った飯田砂洲(はんだ さす)がつられたように空を見ながら言った。
「なんだ? あの雲の色は?」
「固まった血の色だな」
一心がぼんやりと答えた。砂洲が眉をひそめた。
「おまえが剣道場の跡取りだとしてもイヤな例えだ。人斬りかよ。ワインレッドとかマルーンとか言え」
砂洲に言われて、一心は苦笑した。
「酒屋の息子じゃないんでね」
「ワインショップと言ってくれたまえ」
砂洲が一心の分厚い胸を軽く叩いた。いかにも頑丈そうな体格の一心と比べ、砂洲は一見すると痩せてヒョロヒョロに見えた。
一心より頭一つ背が高い砂洲の長い髪をねっとりとした風が揺らした。白のカットソーに藤色のパーカーを着た砂洲が、うるさそうに前髪を掻き上げた。
「それに、いやにあったかいね。ゴールデンウィーク前っていうか、まだ四月になったばかりだぜ?」
一心は白のTシャツにグレーのフード付きスェットを着ていた。スウェットを肘の手前までめくり、防具を持つ太い腕を見せていた。
一心が肩をすくめた。
「私服の学校で良かったよ…… おまえ、髪切れって言われてただろう?」
「おまえみたいな軍人刈りに? ヤダね。権蔵とっつあんの言うことなんて、いちいち聞いてられるかよ」
「GIカットと言ってくれ。さっぱりしていいぞ」
「やだね。そういう髪はオレの美観に合わねぇ」
「牧志コーチが聞いたら千本素振りをくらうぞ」
砂洲がため息をついた。
「土日の警察の道場稽古がなきゃ、こんなお荷物を持って帰らなくてもいいんだけど。借りると、とっつあんがウルサイからな」
一心は答えなかったが、同意するようにうなずいた。
ひと気のない校庭を横切っていると、園芸部が管理している敷地から小さな悲鳴が聞こえた。
「瑠花だ!
一心は防具を放り出し、竹刀だけ持って走り出した。
「おい、ちょっと! アレでモルって分かるのか? 犬みたいな耳してやがる…… これ、オレが持っていくのかよ」
ぼやきながら砂洲は右手に自分の防具、左手に一心の防具を持ってあとを追った。
湖泉高校の「西洋庭園」と呼ばれている場所に数人の生徒が集まっていた。
「どうしたんだ?」
一心は座り込んでいる森田瑠花(もりた るか)と瑠花を抱くようにして膝をついている遠藤小枝(えんどう さえ)に声をかけた。その横に二人と同じブルーに白いラインが入ったジャージを着た園芸部の部員たちが集まっていた。
「モルちゃんが…… チューリップの中を見て……」
小枝が淡い黄色や白が群れているチューリップを指差した。
「チューリップの中?」
瑠花がうなずいた。
「花の下……」
瑠花は緊張しすぎて、かすれた声しか出ないようだった。
小走りに近づいてきた砂洲が一心とほかの者たちの表情を見て眉をひそめた。
「どうした?」
「花の下に何かいるらしい」
「何かって?」
「これから調べる。持っててくれ」
一心は梵字の「オン」が一文字ついた竹刀袋から竹刀を取り出し、砂洲に渡した。それから、防具袋から小手を取り出して急いではめた。
砂洲は含み笑いを漏らした。
「おまえはいつでも慎重だな」
「噛まれたらイヤだから」
「噛む?」
「もしものことさ」
竹刀を受け取りながら一心が応えた。
「援護しよう」
竹刀を渡してから、砂洲も鷹の絵柄が入った竹刀袋から竹刀を出して、一心の左横についた。
一心が瑠花を見た。
「もう少し離れて」
「腰が抜けた」
一心の口元が緩んだ。笑いをこらえながら部員たちに言った。
「瑠花と小枝を下がらせてくれ」
園芸部の仲間が引きずるようにして二人を一心たちから離した。
「いつでもどうぞ」
砂洲が軽く素振りをした、そして、すぐに振り下ろせるように右手に持った竹刀を振り上げた。
「よし」
一心は竹刀をチューリップの中に差し込んだ。
白と黄色の花が揺れた。
一心が左手をチューリップの中に入れ、左に押しやった。
艶やかに咲き誇るチューリップの下に、別の花が群生していた。
細い茎の先に黒い花を咲かせる、貧相な生き物だった。小さなチューリップに見えなくもなかったが、それよりもすぼめた手のように見えた。花の内側には血管のような赤い脈が浮き出ている。風が当たると指のような花弁がウネウネと動いた。
一心はすぐに手を離して、横にいた砂洲を見た。砂洲の顔が歪んでいた。
「見たか?」
「見たよ」
砂洲が気持ち悪そうに言った。
「なんだ、アレ?」
「俺が植物に詳しいと思うか」
一心と砂洲は部員たちの方を見た。砂洲が少し大きな声で尋ねた。
「園芸部じゃ、あんなものを育ててるのか?」
小枝が強い声で抗議した。
「あんなの作るわけないでしょ!」
砂洲は小枝の顔を見て、ニヤッと笑った。
「少しは元気が出たか、コエダ」
「コエダて言うな!」
一心の視線を感じたのか、瑠花が顔を上げた。まだ青い顔の瑠花が一心を見ながら首を振った。
「フランソワーズ…… その一角の白や黄色のチューリップだけど…… そんな黒い手みたいな花は知らないわ」
「だろうな」
一心は再びチューリップの中に手を突っ込んだ。
「下はこの黒いヤツでいっぱいだ。この一角は諦めた方がいいかもしれない」
「そうするよ」
園芸部部長の山下裕太(やました ゆうた)が力なく言った。
「除草剤を撒くにしても、引っこ抜くにしても、今日はもう遅くてダメだ。作業は来週にする。みんな、おつかれ。黒口と飯田もありがとう。助かった」
「同級生のピンチに役に立って嬉しいよ」
砂洲の軽口に、緊張していた山下の表情に笑みが浮かんだ。
一心は瑠花に声をかけた。
「一緒に帰ろう。送ってくよ」
「ありがと。着替えてくるから待ってて」
瑠花や小枝と共に部員たちが校舎に戻った。最後尾にいた坂本静花(さかもと しずか)が何かにつまづいて転びそうになった。静花がずり落ちそうになったメガネを右指先で持ち上げて、足元を見た。
「イヤァァァッ!」
絶叫に先頭にいた一心と砂洲が戻った。
「足、足……」
真っ青になった静花が二人に訴えた。
足首を小さな黒い手がつかんでいた。
一心が袋に入れていなかった竹刀で細い茎を打った。茎が切れ、焦げ茶色の液が吹き出した。一瞬であたりに青くさい臭いが立ち込めた。黒い手は痙攣しながらキィキィと悲鳴を上げ出した。
黙って見ていた静花の目が反転して、体が崩折れた。
「砂洲、そいつを保健室に運べ!」
「あれを見ろ! お前一人じゃ無理だ」
庭から茎を伸ばした無数の黒い手がにじり寄ってきていた。砂洲は静花を後ろに運び、すぐに一心と並んだ。
「僕たちで運ぶ!」
静花の悲鳴を聞いて戻ってきた山下が一心たちに声をかけた。二人の男性部員が静花を立たせて、両側から挟むようにして支えた。
「任せた」
後ろを見ずに一心が怒鳴った。
黒い手が二メートルに迫った時、いきなり跳ねた。
「シッ!」
鋭い声と共に一心の竹刀が左右に動いた。砂洲は飛びかかってくる黒い手を凄まじく速い突きで潰していた。
庭から這い出てくる手は減る様子を見せなかった。周囲が暗くなり、次第に手が見えにくくなっていく。
砂洲が怒鳴った。
「おい! 一心! キリがねぇぜ!」
「ああ」
「校舎の中に逃げよう!」
二人の前には山のように黒い手が落ちていた。キィキィと悲鳴を上げ、転げ回っている。切れた茎全てが薄汚い汁を吐き出しながら波打っていた。
逃げる潮時と一心が砂洲に声をかけようとした時、背後から誰かが走ってくる音がした。
「そこ、どく!」
鋭い声がした。園芸部を指導している堀本つかさ(ほりもと つかさ)の声だった。
一心と砂洲が左右に飛びのいた。
空いた空間に炎が広がった。
「火炎放射器?」
一心が近づいてくる堀本の手元を見た。
「アメリカ式の除草機だよ」
堀本が言った。
「つかさせんせ、どこで売ってんです、それ?」
砂洲が聞くと、堀本が肩をすくめた。
「ネットショップに決まってるだろ」
黒い手の進軍が止まった。炎が地面を舐めると、悲鳴が聞こえなくなった。
「山下! 消火器持ってついてこい」
「はい!」
一人一台ずつ消火器を持った山下たちが堀本のあとに続いた。
庭に着くと、堀本はチューリップごと一角を焼き払った。炎がメリハリのある堀本の身体に陰影をつけた。
「野菜炒めはしばらく食いたくねぇな」
鼻をひくつかせながら砂洲がぼやいた。
一心は暗がりに目を凝らした。焼けた地面に動くものは見えなかった。
一段落して、堀本がつぶやいた。
「なんでもいいって言ったけど、あんなものを植えるな」
「いや、先生。僕たち植えてないですよ」
山下が慌てて言った。堀本は山下たちを見た。
「そうだな…… 先生もあんなものは習ったことがない」
周囲はすっかり暗くなっていた。
「さぁ、今日は帰りなさい。火も消えたし。あとのことは来週にしよう。黒口と飯田もご苦労さん」
「どうも」
一心と砂州が小さい声で応えた。
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