11-2 アトリウム

「包帯は取れてきたみたいだね」

 ゼノ・シルバーと名乗った国際捜査官は、あまり似合っていない麦わら帽子のつばを上げて、空を見上げている。西暦図書博物館の屋上に出た私たちは、そこにあるベンチに腰掛けて話すことになった。太陽が高く、日差しも強い。背後ではセスが聞き耳を立てながら、エリーとコルクを芝生の上で遊ばせている。

「シア、って呼んだらいいかな?」

 ゼノの問いかけに、私は躊躇うこともなく首肯した。そして、手元のボードに「レインは元気?」と書いて見せる。

 私がまだろくに身体も動かせないうちに、まともな挨拶もできないまま、レインは世界警察に引き取られてしまった。私達があの館から救出されてから治療施設に運ばれるまで、彼女はずっと、私の手を握り続けていたそうだ。私の受けた傷を自らの責任に感じてしまったのか、しばらく落ち込んだ様子だったとトゥレが話してくれた。「私は平気だから、どうか気にしないでほしい」と、最後に伝えられなかったのが、心残りだった。

「ああ、そうだ。そのことも伝えに来たんだった」そう言うとゼノは電子機器スティックを取り出して、私に一枚の写真を見せた。「3800グラムの超健康児さ」

 そこには、赤ん坊に微笑みかけているレインの姿が映っていた。あの館で見せていた強張った顔ではなく、緊張から解き放たれたような、安心しきった表情をして。

「僕が面会しに行ったとき、彼女も君のことを心配していたよ。君の様子はジョーから聞いていたから、快復に向かっていると伝えたら、喜んでた」ゼノは少し考える素振りをして「うーん……世界警察の立場から、君をこの建物から出すわけにはいかないんだけど……いずれ君が声を出せるようになったときに、ビデオチャットくらいなら許可をとれるよう、根回ししておくよ」

 笑顔でウィンクをした彼に、私も笑いかけてウィンクで返す。

 ゼノは少し照れたような顔から首を振って、真面目な話を切り出すように「あー……実は、今日は君に話しておきたいことがあって、ここに来たんだ」と、私に告げた。

 なかなか言い出さない彼を促すように、私は「なに?」とボードに書いて見せる。

「君の知っている『ルイ・オジェ』は、死んでいない」そう言ってゼノは「今もどこかで生きている」と続けた。


   *  *  *


 中庭で『ルイ・オジェ』の死んでいく姿を目にしたとき、私の中に違和感が無かったと言えば、嘘になる。なぜなら、眼前の女性がほんの数十分前に時間を共にしたルイとは、別人に思えたからだ。

 それは、生き死にの違いだけではない。ただ何となく、感覚的に。けれど、私は死にゆく彼女にその名を語りかけてしまった。ついその名前をこぼしてしまうほど、彼女が死に際に放った、おそらく気魄きはくに似た何かが、私を魅了した。オリジナルの『ルイ・オジェ』を知らない私にも、、と思わせてしまうほどに。

 死んでいく──そう、あの時、彼女には幽かに意識が残っていたと思う。彼女の身体は微動だもしなかったが、月明かりに照らされた瞳がまだ、濁りきっていないように見えたからだ。

 子どもを産み落としたときの下腹部を裂いた痛みは、まだ私の記憶の中に残っている。痛みだけでこのまま死んでしまえると、そう思えるほどの。けれど私は生きていた。腹を裂いてもそう簡単には死ねないのだ。おそらく彼女は、長い時間のた打ち回り、苦しんだに違いない。

 だから、オルガは泣いていたのだろうか。逝けずに苦しみ続ける彼女を、早く楽にさせてあげたくて。けれど、彼女の最期を台無しにしてはいけないともわかっていて。そんな想いに挟まれて、オルガ自身も苦しんでいたのかもしれない。


『ルイ・オジェ』は苦しみ続け、そしてそのまま意識が遠のいて死んでいった。私のこぼした言葉は、彼女の耳に届いたのだろうか。

 私がその名を呼んだ直後、彼女の瞳は潤んだように光を瞬かせては、程なく生気を失い、果てていった。


   *  *  *


 あの中庭の彼女は、確かに目の前で死んでいった。腹部からは血にまみれた内臓が垂れ出て、独特な香りを放っていた。今まで多くの死にゆく人々を目にしてきたからわかる。あれは間違いなく、完全なまでに遺体だった。生き返ることなど、あり得ない。


 私が戸惑っていると、彼は「あの遺体は、別の人間のものであった可能性が高い」と説明した。「もっと言ってしまえば、あれは、外部から侵入した者の遺体だよ。それも『ルイ・オジェ』の恰好をしたまま、あの場所で死ぬためだけに忍び込んでいたみたいなんだ」

 じゃあ、ルイは今どこに?私がそう尋ねようとしたのを察したのか、ゼノは「もともと館にいた彼女の居場所はわからない。けれど、もしかしたら君にコンタクトがあるかもしれないから、君が驚かないように、そしてその事実を信じられるように、先に伝えておこうと思ったんだ」

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る