6-2 ルイ・オジェ

 会食の翌朝、ジルダはアガズィアの事務室を訪れた。仕事の前にそこへ立ち寄り、レインの部屋の鍵を受け取ることになっていたためだ。レインの部屋の扉はオートロック式で、内側に鍵穴、外側にサムターンの付いた構造になっていた。つまり、扉を閉めると内側からは鍵が無ければ出ることができない。アガズィアから受け取る鍵は、レインの部屋から出るときに使うことになる。


「時間通りだね」

 館主の部屋の壁に飾られた銃のコレクション。彼はその中の一つの手入れをしているようだ。

「おはようございます」ジルダは頭を下げて言った。

「昨晩は楽しめたかい?」

「はい。とても」

「そうか、それは良かった」

 そう言って、アガズィアは胸ポケットから鍵を取り出してジルダに渡した。

「それでは、行って参ります」レインの着替えを手に、部屋を出ようとするジルダ。

「ああ、そうだ」アガズィアに呼び止められて、足を止める。「今日から一人、レインの部屋の前に警備員を配置しておいたから、何かあったら彼を頼るといい」

「承知しました」

「相撲レスラーみたいに大きな身体をしているから怖いかもしれないけど、君のことはちゃんと伝えてあるから、安心して」アガズィアは最後まで、ジルダと目を合わせなかった。


 警備員をフロア内に配置したことは、アガズィアの自らに対する不信感を表しているのだと、ジルダは感じた。ジルダ自身、身長と体重、掌紋に静脈、虹彩、声紋など、あらゆる生体認証を受けるための検査を経て、フロアへの立ち入りが許された。その警備員も同様の検査を受けて、配置されたのだろう。館では、通用口、エレベーター前、エレベーターから降りて一つ目の扉と、各所で生体認証が行われる。ジルダは最上階直通のエレベーターのみ、使用登録がされているようだった。しかし、彼女に外出許可は与えられていない。フロアから勝手に出ることも許されていないのだ。


 部屋の前まで行くと、聞いていた通り大柄でアンバランスなほどに腹の出た男が立っていた。相撲取りというよりもただの超肥満体だ。名札には「カルゴ」と記されている。彼はゴーグル越しにジルダを一瞥しただけで、すぐに視線を戻した。姿勢を崩すことなく直立しているその横を通り、ジルダはサムターンを捻って、レインの部屋へと入っていった。


「おはよう」

 レインは昨日見た格好のまま、キャンバスへと向かっていた。

「おはようございます」

 ジルダは立ち止まり、頭を下げて挨拶をする。

 机と椅子とキャンバスにベッドだけのレインの部屋。着替えもレインがその日着るものを、ジルダが持ってくることになっている。洗面台つきの御手洗いはあるが、風呂場はない。洗面台にも必要最低限のものが備えられているだけだ。小さな換気扇の回る音が、微かに響いている。窓に至ってははめ殺し構造になっていて、わずかな隙間もない。防刃加工の施された強化ガラスで、耐衝撃フィルムも貼られているそうで、決して割れないのだと聞いている。

 ジルダは袋に入った衣類を渡し、脱いだものを引き取った。朝と晩にはレインの身体を拭き、日中は部屋の掃除を行う。窓枠まで、しっかりと磨く。レインにとって図画以外で唯一と言える嗜みは、身体を拭く際に粗塩で揉んでもらうことだそうで、それが運動不足な身体の代謝を高めるのだとレインは言った。そのため粗塩だけは、室内に常備されている。時間になると、廊下の壁に備わる小型昇降機により、下層フロアから料理が届けられるので、ジルダはそれを運び入れた。朝昼はレインとともに食事をとり、午後にはバンデウム医師が訪れるので、その診察に付き添う。挨拶をするもバンデウムは相変わらず、ジルダの首から下にしか興味がないようだ。彼が部屋を出るときは、ジルダが鍵を使って扉を開けてやる。一通りの仕事が片付いた後で、晩飯を運び入れると、鍵を使い部屋を出た。そして最後に、日誌と鍵をアガズィアに提出し、彼女の一日の仕事が終わった。


「お疲れ様。もうすぐ出かけて、明日の朝は居ない予定だから、鍵は警備員の彼から受け取ってくれないか。明日の夕方までには戻るつもりだ」と、アガズィアが日誌を受け取る際に、ジルダに言った。

「かしこまりました」

「あとルイからの伝言で、仕事が終わって一息ついたら、部屋まで来てほしいそうだ。バーバラとお菓子を作ったから、手渡したいと言っていたよ」

 そう言ってアガズィアは、自らの机の上に置かれたパンケーキのようなものを指差した。どうやら彼はすでにそれを受け取っているようだ。

「バーバラのことは、メイから聞いたんだろう?彼女から注意されたよ。『メイドとはいえ、こういう大事なことはちゃんと伝えておくべきだ』ってね」日誌を退屈そうに読みながら、彼は言った。「彼女の脳のトレーニングに、ルイは料理を教えていてね。こうやってときどき作ったものをフロアの皆に配るんだよ。悪いけど、付き合ってやってくれるかな」

「承知しました。それでは、このままルイ様の部屋へ向かいます」

「ああ、宜しく」アガズィアは片手をあげて、ジルダを送り出した。


   *  *  *


 レインとは、いろんな話をした。彼女も時間を持て余していたのだろう。彼女の喋り方はさばさばとしていて、気の強い人という印象を持たせる。ただ、ジルダには彼女が寂しさと不安を抱えているようにも見えた。密閉された空間で暮らす日々を、彼女は一体どういった心境で過ごしているのだろうか。レインは気丈に振舞い、決して弱音を吐くことは無かったが、ジルダは気づいていた。ドアノブの動く音がしたとき、レインの肩が僅かに震えていたことを。


   *  *  *


「失礼します」

 ジルダがそう告げてから部屋へ入ると、寝巻きのルイが出迎えた。上下ともにゆったりとした、肌触りの良さそうな綿糸生地の寝衣。昼間の華やかなドレス姿とはあまりにも懸隔けんかくした装いに、眼を魅かれた。

「バーバラはもう寝ているから、静かにね」

 そう言って人差し指を立てるルイの姿は、やはり妖艶に映る。左右いくつかの扉の間を通り過ぎ、そして奥にある広めのリビングルームへと案内されて、中央に置かれたくの字形のソファに腰掛ける。部屋の壁の一面には、バーバラのものと思われる玩具や人形と、ルイのものと思われる大小様々な書籍が並べられており、もう一面には美しい夜景の疑似映像が流れていた。

「晩御飯は食べた?」ルイの質問にジルダは、いいえ、と小さく首を振る。「じゃあ、ちょっと待ってて。簡単なものを作るから」慌てて断ろうとするジルダの様子を察してか、ルイは「ダメ。食べて」と付け加えた。ジルダは観念したように、ありがとうございます、と頭を下げる。

 ソファの前に置かれたテーブルの上には、例のパウンドケーキの他にも、赤ワインとパンが置かれていた。やがてジルダの目の前に、サラダとスープ、そしてパスタ料理がみるみるうちに並べられていく。それを並べ終えるとルイは、ソファの空いたスペースに腰を下ろした。

「私もいただくわ」と彼女は言い、グラスに赤ワインを注いでジルダに手渡す。

「すみません、気を遣っていただいて」

「いいのよ、私のわがままだから。じゃあ、乾杯」と、グラスを掲げるルイを見て、ジルダも自分のグラスを控えめに持ち上げた。

 ルイはワインを、舌の上で掬える程度の量だけを口に含んで、ゆっくりと飲み込んだ。そして、鼻から静かな溜息を漏らし、自らの頬に片手を添える。

「幸せ❤」

 微笑みを向けられたジルダは、その少女のような仕草に思わず頬を赤らめた。怪談の如き出生話で悪戯をしていたときもそうだったが、ルイは部屋の内と外とでは、まるで人柄が違う。ここまで雰囲気が変わるものなのかと驚くほどに。ひょっとしたら、フロアリーダーとしての重責から、普段はキャラクターを取り繕っているのかもしれない。そう、ジルダは考えた。

「どう?料理はお口に合うかしら」

「とてもおいしいです……特にこのスープが初めてで、あの、どうやって作るのですか?」それは、ジルダの純粋な問いかけだった。

「そちらはですね、お客様」と、ルイはまるで給仕人のような口ぶりで「調理で余ったお野菜と、朝食で余ったパンに、ワインビネガーとオリーブオイルを適量混ぜて、ミキサーにかければ、とても簡単にできあがりますのよ」

「ミキサーですか……それであれば、私にも作れそうです」

「あら、誰か料理を作ってあげたい相手でもいるのかしら?」

「……はい」ジルダは少し躊躇ようにしながら、答えた。

「素敵。それだったら、もっとちゃんと教えてあげなくちゃね」

 ルイの柔らかな表情に照れたのか、ジルダは思わず目を逸らす。心の中を覗かれたような、僅かな恥じらいもあった。浮遊した視線は、壁に並べられた書籍に着地する。

「すごい数の本の量ですね。全て読まれたのですか?」

 ブロッコリーの花蕾を練り込んだポテトサラダを口にしながら、ジルダが尋ねる。

「まあね。それでもここにあるのは、ほんの一部よ。別の部屋にはもっとあるわ。読みたければどうぞご自由に」

 そう言われて、本の背表紙に目を移す。


『線維芽細胞の導入によるiN細胞生成のメカニズム』

『ハイドロキシアパタイトを用いた細胞置換の実例』

『シナプス結合・歯状回篇』

『脳移植‐不可能の証明‐』

『NR2Bサブユニット過剰発現による効果』

『スタージウエーバー症候群における症状の分類』

『異種移植片から見た腫瘍溶解性ウイルス療法について』

『欠けたアンモン角の補修と代用の理論』

『補助記憶装置は人体に適応するか』

『クローン体による生体材料摘出の議論』云々。


 何かの研究論文を集めているのだろうか。到底理解はできないであろう内容のものばかりだった。

「自分の部屋に持っていっても構わないわよ。きっとここでの楽しみは、食事と読書だけになるわ」

「囚人のようですね」とジルダは、ルイの発言を冗談ととって述べた。

「囚人のほうがマシよ。彼らにはカリキュラムと労働があるもの」

 つまりここにはそのどちらも無いのだと、言っているようなものだ。あまり言及してはいけないと深読みして、ジルダは極端に無口になる。ひたすら食事を進めるのだが、その行為が場の気まずさを更に加速させていた。

「あの……パスタの茹で加減が、ちょうど良いですね」と無理に新しい話題を作ろうとするジルダの様子を見て、ルイは噴き出し、陰鬱な空気を笑い飛ばした。

「まさかあなたがそんなにも動揺するとは思わなくて、つい観察しちゃった。意地悪したわね。ごめんなさい」ルイは、目尻に涙を浮かべている。「でも、本当のことなの。最近、私仕事がなくてね。バーバラの世話ばかりで、あなたと同じと言ったら失礼かもしれないけれど、メイドになったような気分だったの。別にそれが悪いわけじゃないのよ。だけど、本来するべきことが何もできないことと、他の何かを探す自由が私には無いことが、少ししんどいだけ」

 ジルダはリプライを考えたが、すぐに答えは出なかった。

「ただの愚痴だから気にしないでね」

 相手を謝らせるに至ってしまい、ジルダは対話を不得手とする自分自身を、恨めしく感じていた。

「私には」ジルダは思い切って声を出す。「私にはルイ様が──」

「ル、イ」じとりと睨まれる。「様」を付けるなと言いたいそうだ。「次はデザート抜きよ」ルイは口元を緩ませて言う。

「私にはルイ……が」ルイの好意に応えようと、ジルダは敬称で呼んでしまいたくなる衝動を抑えた。「バーバラのことを、本当に深く想っているのだと、感じました」

「どうしたの?急に」ルイは驚きと笑みとの両方を顔に表した。

 本棚に並ぶ難読難義な表題を眺めていたとき、ジルダの意識は何事もなかったかのように、食事へと回帰しかけた。だがその直後、すぐに思い至ったのだ。

「あの書物は、全てバーバラのために読んだのですね」バーバラの頭の手術痕が、ジルダの目に浮かんだ。

「……なんだ、知っていたのね」そう言うルイは、美しくもどこか影を落とした、哀艶な顔をしていた。

「すみません」

「なんで謝るの?」

「いえ……すみません」

「本当に可笑しな人」

 ルイは本の一つを抜き出し、手元に置く。開かれたページには脳の断面図が描かれていた。手書きで細かな字が至る所に書き込まれていたが、ジルダの座る位置から判読は難しい。

「あなたはあの子のこと、何て聞いているの?」

「三年ほど前に窓から落ちて、頭を強く打ったと……」

「そう……」そう言ってルイは一度落とした視線を、再びジルダの目元まで上げた。慮ったような表情から発せられる言葉を、ジルダは聞き漏らさないように注意する。彼女は「誰から聞いたのか」という問いを恐れたが、そのことについて追及されることはなかった。ただ、代わりに尋ねられたのは、意外なことだった。

「あなた、ただのメイドじゃないのでしょう?」

 思いがけない、そして急な話題転換に、胸の鼓動が高鳴る。ジルダはその動揺を悟られまいと、意識を集中させた。まるで何を言っているのか理解できない、といった顔を作って。

「隠さなくて良いのよ」そう言ってルイは再び視線を落とし、ワイングラスを傾けた。「今のあなたの反応で、私は既に確信しているわ」


   *  *  *


 このときはまだ、ルイ・オジェは生きていた。


   *  *  *


 この館において真に娼婦なのは、ルイ・オジェだけであると、ジルダは聞いていた。残る人員の多くは、国家に属する諜報員だと。表向きの装いとは全く異なった実態。それは、新たな暦の始まる以前から存在していた体制システムなのだという。シャラン王国には国営の孤児院が各地に置かれていて、その中から選別されて集められたのが、彼女らだった。人身売買で仕入れられた稚児が含まれることもあると聞くが、現在ではコードレスであることが前提とされているそうだ。彼女らは、幼い頃から閉鎖的な空間で教育を受け、そして競い合わされてきた。塀の中の世界における最高権力者は国王であり、自らの存在意義は国王のためにあると教え込まれる。頭脳明晰かつ愛国心の強い者が勝ち残り、やがて、フォウ・オクロックに連れてこられるのだ。そのときでさえ選ばれるのは、まだ初潮間際の子どもばかりだという。フォウ・オクロックで諜報員としての教育が始まり、やがて任務も課せられるようになる。何十年と同じ場所で諜報活動を続けることもざらな世界。諜報員もそれを管理する人間も、全てフォウ・オクロックの出身者で固めてられているのが実情だそうだ。

 では、そのシステムから外れた『ルイ・オジェ』とは一体何者なのか。その問いに対しての答えを、ジルダは知っていた。けれど、眼前の『ルイ・オジェ』は、彼女に教示する。ジルダの存在が『招かれざる客』であることを指摘しながら、問い詰めることもなく、自らのことについて口を開いたのだった。


「私はルワン国王の、至極、個人的な欲求を満たすためだけの奴隷。正確に言うなら、国王の寵愛したかつての愛人であり、今は亡きルイ・オジェオリジナルの精巧な模造品レプリカ。この館ではね、五年に一度、そのオリジナルと体格や肌色の似通った者が、その候補生としてこの一つ下のフロアに集められるわ。そして、一年をかけて適性試験を行うの。どれだけ精確に彼女を演じることができるか。当然、皆が一生懸命彼女になりきろうとする。だってそれは、この館で育った者にとって最高の名誉だから。最後は国王に選ばれた一人だけが、『ルイ・オジェ』の名を継承することができるのよ。顔も身体もオリジナルと同じに変えられてね。私は、その六代目。つまり、六体目のレプリカ」

 ジルダは息を呑んだ。話の内容が壮絶に感じたからではない。なぜ、彼女がこのタイミングでその話をするのかが、判然としなかったからだ。

「『ルイ・オジェ』の末路を、あなたは知っている?」

 ルイの質問に、ジルダは静かに首を振った。彼女の言う『ルイ・オジェ』が、オリジナルとレプリカのどちらを指すのかわからなかったが、どちらにせよ、その答えを彼女は持っていない。ルイは空いたグラスを見つめながら唇の端を舐めると、二人のグラスにワインを注いだ。減りの少ないジルダのグラスは、すぐに満たされる。その縁から、赤い雫が垂れた。

「まだ夜は長いわ。あなたの本当の目的はわからないけれど、時間はあるのでしょ?じゃあ、付き合ってよ」

 笑顔で語りかけるルイに、ジルダは視線を落としながら頷いた。ルイは、ありがとう、と言って話を続ける。

「オリジナルの彼女もね、この館で育ったのよ。国王に見初められるまでは、ここでメンバーの一人として働いていたの。国王も当時はまだ五十代で若かったから、積極的に国政へ参与していたそうよ。そういった意味でも、この館と国王との関わりも当時はまだ多かったのかもしれないわね。……もちろん知っているのでしょう?この館がそういうところだってこと」

 そういうところ、とはつまり、国政に関わる組織である、ということを指すのだろう。ジルダは観念したように、はい、と答えた。それを聞いたルイは嬉しそうにして、ワインを喉に流し込む。

「彼女と国王は恋に落ちたわ。けれど王族は、彼女の存在を表沙汰にはしなかった。国王に妻がいたからじゃない。彼には妾だってたくさんいたわ。それよりも、他国に彼女のことを調べ上げられたら、この館の本性が知られてしまうと考えたのでしょうね。今じゃあこの館も有名になったものだけど、当時はまだ国内でも限られた者にしか知られていなかったから。そしてもう一つ、王族が気にかけたことがあったわ。彼女と国王の関係を隠し通せたとして、革命軍との争いの中で国民の支持がキーとなっていた当時、万が一にもスキャンダラスな出来事が起きたなら、それは王族にとって弱みになりかねない。娼婦との隠し子なんて、もっての他だってね。だから王族たちは、国王に内緒で一つ手を打ったの」

 そう言ってルイは立ち上がると、おもむろに着衣をたくし上げ、自らの腹部をジルダに晒して見せた。

「彼女を、妊娠できない身体にしたのよ」

 そこには一筋の大きな傷跡が残っていた。

「私も彼女と同じように、子宮を摘出されたわ。だけど彼女は、それを国のためだと思い、受け入れた。何も知らない国王に彼女は、疾患による摘出だと説明したそうよ」

「そんなの、おかしい。まるで去勢じゃないですか」

 ジルダの眼光が鋭くなったように、ルイは感じた。

「気持ちはわかるけど、私を睨まないで?」

 そう優しくルイに諭されて、ジルダは恥じるように俯く。ルイは服の裾を元に戻すと、再びソファに腰かけた。ジルダとの距離が僅かに縮まる。

「だけど、そうね。たぶん、彼女の身体をこうした本当の理由は、別にあったんだと思う。んー、仮に、彼女が国王の子どもを孕んだとして、王族は何を恐れると、あなたは思う?」

 ジルダは少し考えて答える。

「脅迫、でしょうか。隠し子を跡取りにすることは難しいでしょうけれど、金銭を要求することはできるかもしれません」

「それも可能性の一つよね。私の考えもあなたと似ているわ。漠然とはしているけど、王族は彼女が弱みにつけ込んでくることや、彼女自身が力を持つことを恐れたんじゃないかしら。彼女はプロのスパイで娼婦だから。国王を取り込んで操ることだって、他国に自分を売り込むことだってできた。まあ、結論から言うと、彼女はそんなことしなかったけどね。むしろこんな身体になるほど、この国のことを想っていた。だけど、そう仕向けたはずの王族たちには、それが理解できなかった。彼女の愛国心を利用したのに、彼女を信じてはいなかったの。きっとわからないから、信じられないから、彼女が怖かったのかもしれないわね」

「それでも、そんなのはおかしいです」

「ミステリアスな女には、魅惑と不思議はつきものよ。例えば、あなたみたいにね」

 そう言って、ルイはジルダの頬を撫でるようにつついた。ジルダは居たたまれない気持になりながらも口を開く。

「その後、彼女はどうなったのですか?」

「手術から三年経って、彼女はこの館の中庭で自ら命を絶ったわ。お腹の傷跡をなぞるように、短剣を当ててね。それは国王が彼女と出会って四年が過ぎた頃のことだった」

 ルイの瞳は、どこか影っているように見えた。

「それ以来、国王は表舞台から姿を消し、彼女との思い出に溺れるようになったわ。今の国王の望みは、ただ彼女との体験を繰り返すこと。そのためだけに私がいるの。だけどね、いや、だから、と言ったほうがいいかしら。国王にとって、オリジナルと過ごした期間を、レプリカたちが上回ることは許せなくて……」ルイは独り言のように、違うわね、と呟いてから「国王の繰り返したい記憶の中には、のよ。だから、レプリカも彼女の名を継いで四年が過ぎた頃を目処に、オリジナルと同じ運命を辿り、その役目を終えることになる。腹を裂いて死ななければならないの。みんな、そうやって役目を継いできた」

 ルイは明るい声色をしていた。そう努めているようにも感じた。ジルダは相変わらず何も言えなかった。だが、その沈黙の意味も話の経過とともに変わってきている。動揺から始まり、やがて彼女の話に聞き入って、怒り戸惑い、今は何と声をかけて良いのかわからない。もしかしたら自決さえも、彼女にとっては名誉なのかもしれないのだから。ジルダは彼女の気持ちを感じ取ろうと注意していた。

「私も、もう四年目なの」ルイは再びグラスにワインを注ぎながら言う。「だから、私ももう長くない。四年目に入ったらね、いつ死んでもおかしくないのよ。その日は突然やってくる。オリジナルの彼女のときも、何の前触れもなかったそうよ。その演出もあるのかもしれないわね。王家の紋章の刻まれた短剣が、机の上に置かれていること、それが合図。その合図を受けて、私はその日のうちに腹を裂くの。親切に痛み止めも添えられるんですって。そんなもの、ただの気休めなのにね」と、ルイは笑う。

「死ぬことが、怖くないのですか?」

 ジルダはようやく口を開くことができた。あまりにも明るく話す彼女に、違和感を覚えたからだった。

「どう思う?」

 微笑むルイに、ジルダは答えられなかった。名誉のために死ぬ運命を背負うということが、彼女には想像できない。けれど、ルイの言動をどこか妙にも感じていた。

「あなたは、死ぬことが怖い?」ルイは続けて問う。

「私は……」ジルダは少し間を置いてから答えた。「私は、怖いです。死んでしまうことよりも、大切なものから離されることが」

「大切なもの?」

 ジルダは話を続ける。

「私は無宗教だから、死んだらただの肉塊になって、意識なんて生まれる前のように、失われるだけだと思っています。だから、大切なもののあるこの世界から、そう意識しているこの世界から、切り離されてしまう。そう思うと、私はまだ死にたくありません」

「そう思えるほど大切なものがあって、よくこの館に危険を冒してまで潜り込んだわね」ルイは苦笑しながら言った。「その大切なものって何?」

 ルイの問いかけに、ジルダは言葉を濁す。

「答えがはっきりしないのは、ここに来た理由と何か関係があるのかしら?」

 続く問いかけにも、ジルダは口をつぐんだままだ。

「いいのよ」そう言って、ルイはグラスを傾ける。「私はね、死ぬのが怖いと感じたことはないわ。そう造られているから。むしろ、役目通りに死ねるかどうかを不安に思うの。もし、あなたが私を殺しに来たのなら、とても簡単よ。私の見ていないところで、王家の紋章の刻まれた短剣を、机の上に置けばいい。そうすれば嬉々として、私は自らのお腹を裂くでしょうね」


「バーバラと会えなくなりますよ?」

 ジルダはルイを見据えて言った。ルイが口元に運ぼうとしたワイングラスが止まり、中の液体が揺れる。


「構わないわ」ルイも見つめ返した。

「あなたは良くても、バーバラはきっと悲しみます」

「あの子は大丈夫よ」

「どうして大丈夫だと言えるのですか?」

「あの子は大丈夫なのよ。もう、大丈夫」

「それは記憶障害があるからですか?」ジルダは、ルイの含みを持たせる言い方が気になった。「そんなの──」

「あなたにはわからないわ。わかりえないことよ」ルイは、ジルダの言葉を遮る。「……ごめんなさい。とにかく、私が言いたかったのは、私をちゃんと死なせてくれさえくれれば、あなたが何をしようと構わないってことよ。ただ、それが言いたかっただけ」ルイは、こめかみをつまみながら言った。

「私は、あなたの背負っているものの大きさがわからないけれど、あなたは死ぬべき人ではないと感じています」ジルダは慎重に言葉を選びながら述べた。

「何よあなた、私を説得しにこの館に来たの?」ルイは笑ってあしらうような素振りをしている。

「いいえ、違います。ですが、私は今の話について、どうしても納得できないことがあります」

「別にいいじゃない。あなたはあなたの仕事をすれば。それを黙っていてあげようっていう話よ?」

「私が納得していないのは、そこではありません。バーバラのことです」

「だからそれは」

「だって、あなたはこんなにもバーバラを想っている」

 ジルダは本棚を指差す。彼女がそこにルイの本心を感じていたからだ。その指差す方向を、ルイも目で追う。

「あなたの生きる意味は、国から与えられた役割などではなく、バーバラにあるのではないですか?」

 ルイはそのまましばらく沈黙を作った。ジルダはその様子を静かに観察した。彼女の心変わりを期待して。

「ええ……」しばらくして、ルイは口を開いた。「あの子は私にとって大切な存在よ。確かに今の私は、この国の未来よりもあの子のことが大事だと、そう思うようになってしまっているわ」

「でしたら、バーバラとともに生きていく方法を、今から二人で考えてみませんか」

 ジルダは今までに無いほど、力強い目をしていた。ルイはそれを見て、ジルダの本当の姿を垣間見たように思えた。

「もう一度聞かせて、あなたの死ねない理由……大切なものって、何?」

 ルイがそう尋ねると、ジルダは思案げに目を瞑った。そして、深呼吸をして、ゆっくりと瞼を開いた。

「私の、大切なものは──」

 そのとき、ジルダは既にただのメイドではなくなっていた。そして、彼女はルイ・オジェに全てを話したのだった。



「待って」

 やがて話し合いが終わり、夜も更けたので部屋に戻ろうとジルダが立ち上がったとき、ルイに呼び止められた。振り向いたジルダに向かって、ルイは静かに語り出す。

「高名な物理学者が言ったわ。『神は賽を振らない』と」

 ジルダは立ち止まったまま、静かに耳を澄ます。

「つまり、世の中には偶然というものはなく、すべてが物理法則に則った必然的事象で世の中は成り立っている。そういう考え方よ」

 ジルダは何も言わずにただ、じっとルイを見つめている。ルイは呼吸を一つ置く。

「その更に昔、ある数学者が、あらゆる物理法則を知ることができたのなら未来も予測できると提唱していたわ。もちろん、そんなことは机上の空論でしかない。その考え方は、後に否定されることになった」

 ジルダは小さく相槌を返すも、表情は変わらない。

「その、未来が予測可能であるという概念。それができる超越的存在。人々がそれを何て呼んだかわかる?」

「……『神』ですか?」

 ジルダの答えに、ルイは首を振る。

「『悪魔』よ」そう言い、彼女は大きく深呼吸をしてから、再び口を開いた。「無理だ、と未来を決めつけるほど、つまらないものは無いわね」ルイは微笑んでいた。「わかったわ。協力する」

 ジルダは何の話かわかりかねていた。

「あなたの『さがしもの』。もし、このまま私が生きていることができて、館から出られる日がきたら、手伝ってあげる。これは友人としての約束よ」ルイはにこりと笑った。「その代わり、私が困ったときは、助けてね」

「ありがとう」ジルダも笑顔を見せた。

 それは、ジルダとルイにとってとても大事な約束だった。「互いに大切なもののために生きる」と誓い合った。

 やがてルイは何かを思い出したような仕草をして、バーバラの作ったパンケーキをジルダに手渡す。それを受け取るために部屋へ訪れていたことを二人ともすっかり忘れていた。

「良かったら、感想を聞かせて」

 そうルイに言われたこともあって、その場でさっそく味見をした。リンゴの香りと触感。少しシナモンの香りが強いけれど、とてもおいしい。そう伝えると、明日バーバラにも伝えてあげて、とルイは嬉しそうに言っていた。


 そのまま、またしばらく話し込んでいると、ワインを飲みすぎたせいか、やけに眠たくなってきて。ルイからリビングで休んでいくように、引き留められたのを、ジルダは微かに覚えている。ソファの背にもたれて少しだけ休むだけのつもりが、どうやらそのまま眠りについてしまったようだ。


 そして真夜中、目が覚める。

 口の中が苦い。その感覚は、昔に感じたことがあった。若かりし日、身体に耐性を持たせるためにと、様々な薬を常用させられていた頃の記憶。睡眠薬だ。ああ、頭が重い。この独特な苦味を感じたことであの頃を思い出して、身体が危険信号を発しているのだろうか。けれど、誰が、何のために薬を盛ったのだろう。致死性ではない、ただ眠らせるためだけのもの。服薬から効果までの時間を考えると、混入されていたのは、最後に口にしたあのパンケーキ以外には考えられなかった。


 では、ルイが?

 そんな、なぜ?

 頭が重い。

 混乱している。

 胸騒ぎがする。


 ジルダは立ち上がり、辺りを見回す。リビングの食器は、綺麗に片づけられていた。足元をふらつかせながら、すべての部屋を開けてルイを捜す。バーバラは一人で、ベッドに横たわり寝息をたてていた。けれど、ルイの姿はない。


 胸騒ぎがする。


『ルイ・オジェ』は、中庭で腹を裂いて死ぬ。


 胸騒ぎがする。


 ジルダは駆け足になる。

 頭が重い。

 中庭への、扉を開く。

 中庭への、扉が開く。

 そして、映る光景。


「ルイ・オジェ……」

 つい、私の口からその名前がこぼれ出た。


 赤い短剣を握って嗚咽するオルガと、

 腹を裂かれて横たわるルイ・オジェと。

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