6-1 前夜

 なぜ、彼女は死んでいるのだろう。

 月明かりに照らされたその屍は、仰向けに寝かされていた。


 なぜ、彼女は泣いているのだろう。

 その屍のかたわらに座り込み、彼女は一人むせび泣いている。


 彼女の嗚咽が、辺りの静けさをあらわにして。

 彼女の無言が、泣き声を大きく響かせていた。


 泣いている彼女が、死んでいる彼女の名前を呼んだ。

 死んでいる彼女に、泣いている彼女は何度も謝った。

 血にまみれた短剣を片手に。


 それをジルダは、ただ静かに眺めていた。

 重い頭を奮い起こして。記憶を遡らせて。

 なぜ彼女が死んでしまい、なぜ彼女が泣いているのか。

 その答えを探していた。


   *  *  *


「肉が、無いのですね」

 会食の席で、オルガの前に並んだ個別メニューを見て、ジルダが尋ねた。料理を運んだメイ・サイファは当然のように誰に尋ねることもなく、その個別メニューを彼女の前に運んでいた。料理や食材は、小型の昇降機に乗って下層から決まった時間に送られてくる。それを運ぶのはジルダの仕事だったけれど、今回は主役であったため、他のメンバーが率先して対応してくれていた。

「あー、菜食主義者なんだ」オルガはズッキーニのステーキをシャリシャリと鳴らしながら答える。

「それでいてちゃんと筋肉がついているのは、すごいですね」

「鍛えてっからね」ジルダのコメントに、オルガは二の腕の力こぶを見せた。

「ゴリラだって、草しか食べないのにあの身体でしたから。何の不思議もございません」と、メイは冷たく言い放った。

「ゴリラって何?」

「西暦の頃に存在したムキムキの人型哺乳類のことよ」

 バーバラから問いかけに、隣に座るルイが答える。バーバラはオルガの身体に目を移し、そうなんだ、と目を輝かせていた。

「ねえ、それってオレがゴリラみたいだって言いたいわけ?」オルガがメイを睨む。

「例えですよ、例え」メイは目を合わせない。「そういえば、あなたはなぜお肉を食べないんだったかしら?」

 メイがオルガに尋ねると、オルガはルイのフォークに刺さったアスパラガスの豚肉巻きを指差して言った。

「あんたらが口にしているその豚ちゃんだってね、どうせ処理に困った死体とか屑肉をレンダリングして作った餌を食べていたのよ。そういうふうにして育てられた家畜の肉を、私は受け入れたくないだけよ」

「そうは言っても、野菜だってどんな肥料が使われているかわからないでしょう?」と、メイ。

「ねえ、レンダリングって何?」と、バーバラがルイを見る。

「んー、ルチャーノ・ベリオって知ってる?」

「ルチャー?」ルイの質問に、バーバラは首を傾けた。

「ルチャーノ・ベリオ。西暦後期の作曲家よ。シューベルトっていう人が途中まで作った曲があってね、それに手を加えて完成させたんだけど、そのときにできた曲が『レンダリング』」

「へー……なるほどねー……」バーバラの特技、わかったふりが炸裂する。難しい内容になると、彼女は理解することを諦める習性があった。どうやら上手く誤魔化せたようだと、ルイは心の中で呟く。

「全然違います」メイの鋭いつっこみが入る。「ところでバーバラ、あなた、シューベルトはわかるのですか?」バーバラに尋ねると彼女は、わかんない!と明るさ満点の笑顔で答えた。そう、とだけ言い、メイも笑顔で返す。

「オルガは確か、屠畜場で働いてたこともあるんだったわね」ルイがオルガに語りかけると、

「聞きたい?しばらく私と同じメニューを食べることになるよ」

「食事中の話題じゃないですね。やめましょう」とメイが制し、ルイは頷いた。

「そうね、失礼しました」

 会食は、レインを除く女性のみで行われた。彼女らの居住スペース、その空いている部屋の中でも、最も大きなテーブルが置かれた場所に集まった。しばらく食器のこすれる音が響く。バーバラとルイが料理に対する評価を行い、少しの沈黙を置いた後で、ジルダは口を開いた。

「あの……皆様は、どちらのご出身ですか?」ジルダの質問に誰もが誰かが答えることを待ったが、そのうち自然とルイが答える流れとなった。

「私はこの館で産まれたそうよ。バーバラもそう。ここには多いのよ、そういうの。だから、もともと自分がどこの系統の民族かさえもわからない。まあ、私は間違いなく雑種よね」

「そういう言い方は、批判を呼びますよ」とメイが口を挟む。

「いろんな人に育てられたけど、その人たちはもう誰も残っていなくてね。いつの間にかこの館の中で一番先輩になっちゃった」と、ルイは取り繕うような笑顔で言った。

 ジルダは、そうですか、とだけ答えるに留めた。いなくなった人たちのことを尋ねることはあえてしない。組織に利用された娼婦の末路を、ジルダも見てきたからだ。ジルダ自身も、別の国の娼館で育てられた稚児の一人であった。親は無く、遊女らの乳を飲み、多くの女郎に囲まれて、学び教わり語らって過ごしてきた。言うなれば、ジルダは娼婦以外の女を知らないに等しかった。

 だから、ジルダは「彼女」がこの部屋の住人の中で異質であることにすぐ気付いた。「彼女」の醸し出す匂い。雰囲気という意味ではなく、肌の、髪の、息の、汗の。鼻孔にて嗅ぎ取る彼女そのものの匂いが、娼婦たる娼婦の娼婦らしいものではなく、「彼女」の被る繕いともいうべき薄膜が際立って目立つほどに、その内側からは、臭く生臭い血生臭ささを漂わせていた。ジルダはその人物に眼を移した。元傭兵という肩書き以上に、ジルダは、オルガ・セサビナから血肉の匂いを感じ取っていた。

「あ?オレか?」と、オルガは自らを指差す。「オレはな、もともとの生まれは北欧のほうだよ。死体も腐らないような寒い土地で育ったんだ。屠殺の練習に幼いころから銃やナイフを持たされてね。それが将来生きていくための術になると教わった。今じゃその頃とは全く違った仕事をしているけどな」そう言うと、オルガは手のひらを広げてメイの方向へと差し出し「じゃあ、次」と促した。

「私は東洋出身のように見えるかもしれませんが、この国で生まれ育ちました」

 そう答え、メイはワインを口に運ぶ。飲み終わった後も、話を続ける素振りはない。

「え……それだけ?」オルガが尋ねると、メイは静かに息を吐く。

「紆余曲折はありましたが、今は祖国のために働けて嬉しく思っています。以上です」

「それは、何よりですね」とジルダが返すと、今度はメイがジルダに訊いた。

「そう言うあなたはどちらの出身なのですか?」メイの質問に、ジルダは少しだけ間を置いてから答える。

「私は東欧のあたりです。オルガさんと近いかもしれませんね」

「へえ、東欧には知り合いも多いよ。国と地域コードは?」オルガの声色が明るくなる。

「そのあたりで生まれたらしいというだけで、詳しいことはわかりません」

「でも、自分のコードのある場所ぐらい、少なからず親しみもあるんじゃないか?」

「私自身はコードレスなので、コードはございません」

 ジルダの答えに、場の空気が静まった。

「……はあ、そうかい。生まれつきはともかく、雇われメイドまでコードレスとは、アガズィアの野郎も相当いかれたんだな」オルガは背もたれに身体を沈めながら言った。

「オルガ、やめなさい」と、ルイは静かに注意する。

「そうですよ。この館には、もともとそういう者は多いでしょう?今更のことです」メイがそう言うと、オルガは舌打ちをして不機嫌そうにした。

「……すみません」と、ジルダが頭を下げる。

「いいのよ。気にしないで」

「何でお姉ちゃんが謝ってるの?」

「悪いのは、オルガです」

「そうだよ。お姉ちゃんは悪くないよ」

「私もそう思うわ」

「当然です」

 皆が口々にオルガの批判をし始めると、当の本人はバツが悪そうな顔をした。

「あーもー、悪かったよ!」と、オルガは嫌々ながら、ジルダに謝る。「ところでさ、そろそろぶっちゃけた話を聞きたいんだけど」

 そう言われ、ジルダは心の中で身構えた。

「なんでしょう」

「レインは生きてるの?」オルガの鋭い目つきが、ジルダに向けられた。

 まるで時が止まったかのような静寂。ジルダはオルガから目を逸らさない。他のメンバーも皆、ジルダの発言に耳を傾けていた。

「はい」ジルダは一呼吸置き、覚悟を決めたように言った。

「じゃあ、なぜ閉じこもっているんだ?」

「それは、言えません」

「閉じこもっているのは、レインの意思か?」

「……言えません」

「それは『いいえ』ってことだな?」

「違います」

「じゃあ『はい』ってことか?」

「違います」

 オルガの畳み掛けるような質問攻め。ジルダの表情に少し陰りが見え始めた。

「レイン女史のことについては、言ってはいけないのよね?」ルイからフォローが入り、ジルダは頷く。

「わかった。じゃあ一つだけ教えてくれ」食い下がるオルガ。「レインは、元気か?」

「……言えません」

「なんだよそれ。元気じゃないってことじゃねーか」

「いいえ、そういうわけではありません。ただ……」と言い、ジルダは俯いた。

「ただ……?」その顔を覗きこむように、オルガは顎を引く。

「……すみません。やはり言えません」

「もどかしいなー」オルガの大きな舌打ちが部屋に鳴り響いた。

「二人のやり取りは、少しだけ『海亀のスープ』に似ていますね」と、二人の間に入るように、メイが言う。

「海亀のスープって、もどかしい感じの味なの?」と、ルイ。

「どんな味だよ、それ」というオルガのつっこみの横では、バーバラがルイに「ウミガメってなに?」と訊いている。

「昔はね、亀は海でも泳いでいたのよ。それが海亀」ルイの答えにバーバラは、へぇー!と驚いてみせた。

「私の祖母の国に、そういう名前の謎解きゲームがあるのです」メイが全員の顔を見回しながら説明を始める。「イェスノークイズとも言います。出題者は解答者からの質問にはイェスかノーかだけを答えることができ、どちらとも言えない場合は、『どちらとも言えない』と答えることもありますし、ヒントを出すこともあります。例えば、『ある男が、レストランで海亀のスープを口にしたところ、その翌日に自殺をしました。なぜでしょう』といった感じです。解答者は答えを導くために、出題者に質問をします。『レストランと男の間には、深い関係がありますか?』『ノー』といった要領です」

「さっきのやり取りのどこが似てるんだよ、イェスもノーも答えてねーじゃねーか」オルガの眉間に皺がよる。

「はいはーい!」バーバラが片手を挙げてメイに質問をした。「なんでですか?」

「なにが?」オルガがバーバラに訊く。

「ウミガメの人が自殺したの。なんで?」

「さあ、なぜでしょうね」とメイが困ったような顔で答えると、バーバラは頬を膨らませた。

「答えを直接聞いちゃだめだろう」とオルガがつっこむ。「質問はイェスかノーかで答えられるような聞き方じゃなきゃ、駄目なんだろう?」

「ええ、そうです」とメイが頷いて答える。

「ほら、今みたいな感じさ」とオルガは、メイと自身を交互に指差して言った。


   *  *  *


 ジルダは、思い出していた。部屋を出る直前にレインから伝えられた言葉を。ジルダはレインとの挨拶が済むと、その日は早々に部屋から出された。それは、ジルダがまだ館に来たばかりであることと、その日の夜に歓迎会が控えていることを知ったレインからの配慮でもあった。

「もし、彼女たちから私のことを尋ねられたら、こう答えてほしいの」


   *  *  *


「はい!」バーバラが勢いよく手を挙げる。

「はい、どうぞ」メイが彼女に手のひらを差し出した。

「そのスープがものすごく不味かった!」

「違います」

「じゃあ、はいはい!」バーバラが再び手を挙げる。

「どうぞ」

「スープは関係ないってこと?」

「いいえ、関係あります」

「え~!」

「はい」今度はオルガが手を挙げた。「男がウミガメのスープを口にしたのは、そのときが初めて?」

「鋭いですね。イェスともノーとも、どちらとも言えません」

「なにそれ、ずるい!」バーバラが声をあげる。

「なんでだよ、今の重要だぞ」オルガはそう言って腕を組む。「んー、そうかー……」

「では、ヒントを出しましょう。自殺した理由は、その男の過去に関係があります」

「もうっ、わかんない!」バーバラは既にお手上げのようだ。

「んー。男は過去にウミガメのスープを飲んだことがあったんだけど、それは偽物だった。とか?」

「……いきなり近づきましたね。そうです」

「やった!な?ほらほら、さすがオレだな」

「かなり真相に近づきましたよ。あとは男の過去さえ掘り返せば、答えは出ます」

 メイがヒントを小出しにし、バーバラとオルガの二人が奮闘する構図がしばらく続いた。ルイはその様子を楽しそうに眺めている。ジルダもしばらく静観していた。

「あの……すみません」やがて、そのやり取りを遮るように、ジルダが声をかける。

「なんだよ、メイド」オルガが荒々しく尋ねた。

「お姉ちゃんも参加する?」バーバラは笑顔で尋ねる。

「いえ、お楽しみのところ、申し訳ございません。その……レイン様のことについて、考えたのですが……」ジルダはそう言った後、一呼吸してから話を続けた。「今後、一切の質問を受け付けないことにさせてください。もう何も答えられませんので、どうか……気を悪くしないでいただければと思います」

「いいのよ、それもあなたの仕事の一つだから。オルガももう訊いちゃ駄目よ」と、ルイがオルガを諭すように言った。

「わーったよ」オルガは肘をつきながら、不機嫌そうに答える。

「ですが一つだけ、レイン様から伝言を預かっております」

 ジルダの言葉に、全員の視線が集まった。

「それを、先に言えよな」オルガがそう言うと、ルイは視線を向けて静かに制した。

「なになに?」バーバラが身を乗り出す。

「『私は無事です』」ジルダは、ゆっくり丁寧に言葉を伝えた。

「それだけですか?」メイの質問に、ジルダは頷いて見せる。

「ははっ、レインらしいや」オルガは少しだけ頬を緩ませて言った。


   *  *  *


 このときはまだ、あの人も本当に楽しそうにしていて。


   *  *  *


 歓迎会の後。灯りを消し、ろうそくを取り囲み、五人の淑女は秘事を語るかの如く、しめやかに座談を行っていた。

「……そのとき、ね。棺桶の中から、何かが落ちる音がしたんだって」ルイは切々と語っている。誰かが生唾を飲み込んだ。

「ボトン!」

 大声に反応し、跳ね上がるオルガの身体。

「……ってね」ルイは悪戯な笑顔を浮かべている。

「おいっ、ルイ!急に大きな声を出すなよ、バーバラが驚くだろうが」オルガが鋭い目つきで言い放った。

「えー?私は別に平気だよー。なんで?」バーバラは首を傾げている。

「オルガ、あなたが怖がっているのではありませんか?」静かな口調で指摘するメイをオルガはぎろりと睨みつけた。

「んなわけないだろうが」明らかに強がりをしているオルガをよそに、ルイは話を続ける。

「それでね、その音を不審に思った葬儀屋が、棺桶に近づいて蓋を開けたの。そうしたら、思わず鼻を塞いでしまうほどの臭いがしたんだって。ちゃんときれいにして、香水もふりかけているはずなのに……よく見ると、死体が着ている真っ白なワンピースの裾の辺りがね、すこぉしずつ赤黒くなっていたそうよ……そしてそこで、何かが動くのを目にした!」

 びくっ、とオルガは身体を反応させるも、口を一文字に結んで押し黙っていた。

「ことこと、ことこと、って音が立って。葬儀屋が、そおっと……そおっと……手を伸ばして、そのワンピースの裾をゆっくりめくるとぉぉぉぉおおおおおぎぃいいやあああああああ!!!」

「ぎぃいいいやああああああああああああ!!!!!!!」

 話をしていたルイ以上に大きな叫び声を上げて、ひっくり返るオルガ。驚かせた張本人はケタケタと笑っている。

「そのときの赤子が、あなただというのですか?」

 冷静なジルダの問いに「そうそう。そういう噂なの」と笑いながらルイが答えた。


   *  *  *


 そう、あの翌朝にオルガとメイが仕事に出かけるまでは、全員がこの最上階にいた。

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