8-2 マリア
それから数か月後、新らたな暦の誕生とともに、あの子は産まれた。
私はジドにその存在を告げずにいた。彼はきっと興味も示さないだろうが、何よりも足手まといには感じられたくなかったからだ。けれど、堕胎は選択肢になかった。後先なんて考えていなかったと思う。ただ、彼の子どもを下腹部に感じているだけで、何かが満たされるような感じがしていた。
ジドに気づかれないために、遠く離れた土地での仕事を選び、そこに長く留まって子どもを産んだ。女の子だった。声を張り上げて泣いて、まだ目が見えないながらも、必死で母親を求めていた。しばらくして産婆に促されるまま、母乳を与えてみようと試みる。だけど、お互い初めてで慣れなくて。探り合いながら、下手くそに、でも、精一杯生きようと、生かそうとしていた。
愛らしいと感じた。愛おしいと感じた。初めて愛情というものを知った気がした。それと同時に、ジドのことを恐ろしく感じ始めた。自分とわが子の行く末を悟って。
私はそれまで、ジドの存在に恐怖を感じたことはなかった。それは、いつ死んでも良いと、ジドにならいつ殺されても構わないと思っていたからだ。
けど、もう違っていた。この子とともに生きたい。この子を私と同じ運命にはしたくない。私は、母親になりたい。そう心から願うようになっていた。
そして、その強い願いとともに押し寄せたのは、激しい後悔だった。私は血で汚れている。今までは、それでいいと思っていた。そういう人生だと受け入れているつもりだった。だが、その大きさを知らなかったとはいえ、仕方がなかったとはいえ、娘を産んだとき、私はそのことを初めて悔み、そして自らを怨んだ。
わが子と巡り合うまでの人生を。
夥しいほどの命を奪い続けてきたことを。
汚濁しきった己を。
その穢れた姿を。
産まれたばかりのこの子には見せられない。見せたくない。
そして誓った。今からやり直そう。せめて今からでも、清く生きよう。これからは、この子のために生きていこう。
そう決心して、私は殺し屋を辞めた。ジドの元には帰らず、娘にはかつての
その後の「世界」は、暦とともに大きく姿を変えていった。
しばらく土地を転々としていたが、ジドが追ってくる様子はなかった。私がいなくなっても、彼は私を探さない。そんな気はしていた。きっとどこかで野垂れ死んでいると、その程度にしか思っていないのだろう。私は、新しく人生をやり直せると息巻いた。方々を訪ねては頭を下げて、職を探し続けて。
幸運にも一組の老夫婦に見初められて、使われていない小屋と、農作業の仕事を与えられることになった。近所付き合いから医者まで紹介してもらって、周りの人たちも娘の面倒を見てくれるようになった。貧しく苦労も多かったけれど、今までにないくらいに幸せな日々だった。暦が変わった後の世の中は勢いがあり、娘にも希望を持って生きることのできる時代がきたと、その変化を私も嬉しく感じていた。
そうして新たな暦が二年目を迎え、世界警察が本格的に活動を始めた頃。彼らは、一新された
決して拭うことのできない過去がある。それを象徴するかのごとく、「世界」は私を敵とみなしたのだ。それを見たときの絶望は、きっと他の誰にもわからない。
この子が「世界」に受け入れられるためには、この「世界」で幸せに暮らしていくためには、私が足枷になってしまう。私の存在が、この子を苦しめてしまう。私は何だ。私は何なんだ。母親失格じゃないか。母親になんてなれないじゃないか。そんな資格はとっくに失っていたんだ。今更気づいたのか、この人殺しが。
そして私は、わが子を手放すことを決めた。それが正しい選択だと思った。私は母親にはなれない。そう思い込んで、私はまだ二歳になったばかりの娘を、老夫婦の家に置き去りにして、そして、逃げた。
今まで多くを騙し裏切り、誰も信じず信じられず、殺して、殺して、なるがままなすがままに殺し続けてきた。狂って、狂って、そして紛れもなく私は元々から狂いきっていたのだ。その事実は、私の過去は、世間の見方は、変わることはなかった。今更改心しても遅いのだ。気づくのが遅かった。遅すぎた。私は結局、私でしかなく、狂って正常、まともは異常だということに。
私は、あのジド・コールドに育てられたのだ。生きるためではなく、殺すための術を教わった。彼の思いのままに殺し続け、殺すために生き延び続けてきた。かつて私にとって、彼の存在は全てだった。私に死が訪れるとするなら、それは彼に殺されるときだと、勝手にそう思い込んでいた。そして、そんな最期を心から望んでいた。だから娘を捨て、彼を探し、再会したとき、私は「殺してほしい」と、彼に頼んだ。それは、私が彼に告げた初めての意思だった。
「お前はとっくに死んでいる。殺すまでもなく。出会ったときから、お前は死んでいた」と、いつもと変わらぬシニカルな笑みで返されたときの失望は、それなりに大きかったように思う。
「だから、俺はお前を買ったんだ」今まで自分が生きていると思っていたことさえ可笑しなことだと、彼は声を張り上げ笑った。
「驕るなよ。お前は朽ちるまで俺の道具であれば、それで良いんだからな」
かつてはそれで良かった。それで良いと思っていた。けれど、私はもう違っていた。金を渡しても投げ捨てられ、襲い掛かっても軽くあしらわれて、最後は意識を朦朧とさせながらも、別れを拒む生娘のように、足にしがみ付いて懇願したことを覚えている。侮蔑の眼差しで見下ろす彼に、私は助けを求めるように見上げて、叫び続けたのだ。
「シニタイ」と。
「シナセテ」と。
しかし、彼は私を払い除け、鼻歌を奏でながらその場を去っていった。
駄目だと自覚した。自己主張は許されない。意思は持ってはいけない。持ったところで黙殺されるのだと、思い知らされた。
私はまたジドを探した。けれど今度はどれだけ探しても見つからない。そのとき、私は彼に「本当に」捨てられたのだと気づく。そして、自分が同じように、娘を捨てたことに気づいた。それはかつて無いほどの重圧で、私の心を押し潰したのだった。
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